ダンジョンから帰ったら五十年経ってたんだが。~え?昔の仲間が今や大手ギルドの代表?なにそれ知らん……こわ……~ 作:蝉時雨
怒号が飛び交っていた空間は、異様な静けさに包まれている。
時折、布の擦れる音は聞こえるが、それですらも誰かが注意することはない。
「……わ、私は……体調が……」
「キミは橋岡長官の傍に控えていた役員のひとりだったか」
最壇上の青い光は細められることなく、声を上げた男を真っ直ぐに見下ろしている。
そこに――。
「残念ながら、すでに退室は認められない」
――人間――否、『ヒト』に対する情は感じられない。
「どれだけ腐り落ちていても、キミの座る椅子は上にある」
――赦し、あるいは逃げることを肯定する響きはない。
「最後まで、その椅子に座っていたまえ。それが、上に立つ者の役目だよ」
「はぁ……は、はは……」
佐枝の坊主の言葉は、やはり感情が欠落している。
それはどこまでも冷たい刃であり、絶対零度の氷のようでもある。
「大臣閣下は怖いなぁ。お前らもそうは思わないか?」
椅子に座って足を組みながら、両脇で声を発することもなく立つ警備服の男たちへと声をかける。
しかし、返ってくる言葉はない。
代わりに聞こえたのは、生唾を飲み込んだような音。
「それで、長官。充分な時間は与えたつもりなのだが、なにか弁はないのかい?」
水を向けられた橋岡は、その肩を震わせる。
「……そ、そうです、ね……」
「声が震えているね。弁があるというなら、堂々としていたまえよ。キミは長官なのだろう」
その顔には脂汗が浮かび、しきりに手元のハンカチで拭っているのがよく視える。
こういう時、己が探索者をやっていてよかったと、心から思う。
「……あ、あの資料、は……」
震えた声が途切れ、次に聞こえたのは固く歯を合わせる音。
それと、勢いよく椅子が引かれる音であった。
「……ね、捏造だ! わ、私が、そんなことに関わって、いるなど! あるはずが――有り得るはずがない!」
震えは残っていながらも、精一杯の虚勢を詰め込んだであろう言葉。
はじめの勢いはないが残念なところだ。
「ほーう、よく吠えたな」
「……とのことだが――先生はなにか反論はあるかい?」
「お前、ほんっとうに気持ち悪いヤツだよな」
俺へと向かう佐枝の坊主は、どこまでも軽薄そうな、人当たりの良さそうな顔と声をしている。
一見すれば、先程までの絶対零度の彼と、今の彼とでは完全に別人のようだ。
「えー、酷いなぁ。これも先生に教わったことなんだけど」
「はぁ……まぁいい。お前の秘書はいるんだろ?」
「もちろんさ。ね、秘書くん」
すっと、音もなく。
気配もなく、まるで初めからそこにいたように。
俺のすぐ隣に現れた秘書と呼ばれたメガネ姿の女性。
「うおっ、相変わらずだな。どんな訓練したらこうなるんだよ」
「ふふっ、彼女もまた特別だからね」
「はーあ、お前らが探索者にならなかったのが残念で仕方ねえわな」
「彼女はともかく、僕にあるのはこの眼だけだよ。先生のような探索者なんてとてもとても」
両手を上げ、降参するかのようなポーズを取る佐枝の坊主にため息を零しつつ、隣で予定表のようなものを片手に佇む秘書を見る。
整えられた髪に、シワひとつないレディースのスーツ。
第一印象で受けるのは、典型的で一般的な女性の社会人といったところか。
「旦那――うちの田中次郎のソロ配信の、『埼玉・第四扉』の時のアーカイブはすぐ出せるか?」
「こちらです」
声をかければ、待っていたかのように俺の背後――その壁際に用意された巨大なモニターに映像が映る。
『――『Snow』所属? の田中次郎だ。探索者をしている』
アーカイブは少し進んだ途中から始まっており、聞き覚えしかない声が聞こえてくる。
「この人が田中次郎さんね。先生の同期って話だっけ?」
「んだよ、珍しく覚えてたのか。まあ、同期ってわけじゃないけどな」
そう、旦那と俺は別に同期というわけではない。
恐らく、探索――冒険者になったのは旦那の方が先だろう。
俺は『扉』が現れた頃は近づこうとしなかった――というよりも、他のことで手一杯でそちらに興味を示せなかったからだ。
色々と落ち着いて――だいたい『扉』が出現してから一年やそこらから入り始めたんじゃなかったか。
今はなんとも思わないが、当時は内部の異形共が気持ち悪くて弓を使い始めたはずだ。
「すごいね、ポイズンスライムを盾の風圧で倒すなんて見た事ないよ」
「旦那は面でコアを狙って倒してるからな。このくらいはお茶の子さいさいだろう」
「ひゃー、先生もそうだけどやっぱり探索者はすごいんだねぇ」
どこまでも、楽しそうに。
どこまでも、愉快そうに。
しかし、その根底にはなにも思っていないのだろう――というのは言い過ぎだが、すごい以外の感情はないのだろう坊主の呟き。
素直に関心しているのではなく、映像の中にいる旦那の強さに惹かれているわけでもない。
はっきりと言葉にするのが難しいが、言うなれば興味はないスポーツの一流選手を見ているような感覚が近いように思う。
「それで、この映像を映してる理由は?」
「焦るな焦るな。もうちょいしたら面白いものが――当時の俺は冷や汗かいたが、そういうもんが見れる」
「へぇ、楽しみだね。そういえば――」
言葉を切った坊主の方を見れば、その瞳はまた青く染まり、橋岡を射抜いている。
「――僕は忙しくて見てなかったんだけど、キミはこの配信、あるいは今流れてるアーカイブは見たのかい?」
「…………い、いえ……私も、多忙で――」
「――へぇ、旅行してたんだね。そりゃ忙しいか。家族じゃない人と一緒に行くの、楽しかった?」
ヒュッと息を飲んだのは、果たして誰か。
「………………」
「沈黙、ね。まあ、嘘をつくのは勝手だけど、僕の前じゃ意味無いよ。上の方に座ってるなら、当然知ってることだよね」
口は弧を描いているが、眼はなにも変わらずに射抜き続ける。
言葉は軽薄で人懐っこいが、そこには感情の機微が欠落している。
「ああ、それとね――」
人を正面から射抜き、無情に、徹底的に、反論を許すことなく、事実のみをその手に握る。
「――もう、全部視えてるよ。キミの椅子は探索者全員に対する責任がのしかかってるはずなんだけどね」
こういう奴が日本のてっぺんのひとつに座っているのが、頼もしいと同時に危うさを感じる。
俺も人のことをとやかく言えないが、もう少し人間味を身につけたら――今の二面、ではなく多面性が坊主の人間味というのであれば、たしかに探索者なんかよりも政治畑が似合っている。
「規模縮小だなんだと宣うのも勝手だし、僕の目が黒いうちはそんなこと起こらないけどさ」
本当に、どうしてこんなヤツとの関わりが出来てしまったのか。
まったく心当たりがない――初対面は三、四年前のダンジョン庁だったはずだが、その時はまだ好青年の印象が強かった。
「ほら、映像を見なよ。長官――キミは探索者のことを随分と下に見ているようだけれど、少なくとも単純な力ではキミが下だよね」
「あ、あのような野蛮な――っ!」
「――野蛮? ははっ、これは傑作だね。大喜利大会にでも出たら優勝を狙えるんじゃないかな?」
表面上では心底楽しそうに、人を食ったかのような言葉の数々。
しかし、本質的にはそこにはなにも宿っていないが、それもまた正しくはない。
「いいかい? 長官も、他のみんなも、大きな勘違いをしているよ。キミたち、本当に黎明期の頃から生きているのかな?」
では、そこにあるのは怒りか。
答えは否であり、佐枝という男を形容する言葉として使うならば――人の気持ちを本質的には理解していても、それを思考の隅にすら置こうとしない、社会不適合者あたりだろうか。
「今の時代、正解は野蛮性であり、暴力であり、単純な力だ。そこにいる先生がキミらの遊びに付き合わず、無作為に暴れたらどうしたのかな?」
「ねぇ、先生?」と振られ、期待に満ちたような視線を向けられる。
ため息をひとつ吐き出し、それに乗るように瞬時に魔力で作った矢を飛ばせば、音もなく長官の頬を掠めて壁に突き刺さる。
「わぁ、危ないじゃないか先生。僕、そういうのよくないと思うなぁ」
「どの口がほざいてんだ、白々しいにも程があるなぁおい」
「あはっ。まあ、茶番はいいとしてさ。僕もキミらも生きてるのは、先生が獣じゃなくて人間だからだって理解するんだね。さすがにもう遅すぎるけど」
「さ、最大限……理解、を……」
瞬間、響き渡るのは映像で流れる旦那の探索音をもかき消す笑い声。
「理解! 理解ぃ!? あっはっはっ、最高じゃないか! 理解しているのに、出てくる言葉は野蛮と来ている! もはや傑作以上のなにかだねぇ!」
随分と楽しそうでなによりだ。
こう思う時点で、やはり俺も終わっている。
「それならばキミにもわかりやすく肌で体感しようじゃないか! ふふふふ、まさかこんなに楽しい茶番になるなんてねぇ、先生!」
「はぁ……まったく。ここに連れてこられた時にゃ考えてもいなかったよ」
「ふぅ……さてさて、長官。キミは理解という言葉を口にしたけど、本当かな? 先生、お願いしてもいい?」
一々応えてやるのは癪に障るが、坊主の言うやり方が一番簡単で手っ取り早いことには賛同する。
俺の――全盛期にはほど遠ければ、アリアの補助すらない状態の、なけなしの魔力を指向性もへったくれもなくただ垂れ流す。
溢れんばかりに特級審判場を満たし、魔力というものを少なからず感じられる現代人――それも後先短い老人には劇薬だろう。
「そう、これ! これだよ! いくら目が腐り落ちて、自分たちの現状が欠片も理解できていないキミたちでもわかるだろう!? これが探索者――その中でもトップクラスのひとりの力さ!」
「俺ぁもう嫌ってほど衰えてるけどな」
両手を広げ、満たされた俺の魔力に恍惚とした佐枝の坊主には届かない呟き。
「この魔力が全て自分たちに向けられたらと想像してみたまえよ! ああ、ああっ! 最高じゃないか、まさに至高の瞬間だよ! 出来ることなら、僕のことを押し潰してもらいたいくらいだ!」
「ほんと、こいつを防衛大臣の椅子に座らせた首相の気がしれないわな」
冷酷な面は果たしてどこにいったのやら、俺の垂れ流した魔力を全身で抱きしめようともがく坊主。
大方いつも通りだが、いつにも増して悦に浸っているあたりに彼の人に見せず、おそらく己でも気づいていないストレスが伺える。
「あいつの下は大変じゃねえか? 秘書ちゃんなら凄腕の探索者になれると思うんだがなぁ」
「以前にもお話した通りです」
「はーあ、そらそうか。あいつが好きってのは理解できねえが、その忠誠心にゃお手上げだ」
たとえどのような状況においても乱れることなく、プログラミングされた機械かのように振る舞う。
彼女の詳しい過去を知る由も、知る気もないが、あの坊主の右腕――再側近はそれくらいでなければ務まらないのだろう。
魔力を通して坊主や他の奴らの動きを感じつつ、大画面に映し出された旦那の映像を肩越しに見やる。
ちょうど、教団の隠し研究所に繋がる通路に入ったところだ。
「とっ、秘書ちゃん、ちょいとここで止めてくれ」
「はい」
「おい坊主、トリップしてるとこ悪いが帰ってこい」
「ああ……先生はいけずだなぁ……」
魔力を操って頭を小突いてやれば、冷静さを取り戻したように俺を見る。
「ほら、このマーク見な」
「……んー? ああ、これってダンジョン庁にも保管されてるイアヌス教団のものだね」
「そういうこったな。秘書ちゃん、先に進めてくれ」
そこから映し出されたものは、通路を抜けた先に広がる怪しげな機械――培養器が並ぶ異質な空間。
『扉』の内部だというのに、近現代的なものが広がっている。
「これを見て大急ぎで飛び出したわな。旦那は相変わらず持っていやがるよ」
「僕にも教えてくれたらよかったじゃないか、こんなに面白いこと」
「お前さん、その頃日本にいなかったじゃねえか」
佐枝の坊主と軽口を叩きながらも、映像は進む。
階段を降り、培養器の怪しげな液体で浮いている継ぎ接ぎの異形――姫野の嬢ちゃんに言わせれば、彼女の子供たち。
「わぁ、すごいね。長官、これに対して出資していたのかい? んー、いや幹部と会って……ああ、キミは信者なのか」
「……ね、ねつ、ぞうの……わた、わたし、は……」
「あはっ、まだ言い逃れができると思ってるその頭を解剖したいね。ふーん、『扉』の先にある最果て――一種の理想郷かな? そこに行きたいっていうのは理解出来ないけど、現実逃避でもしてたのかな?」
坊主の青い瞳は橋岡長官のほうを向いているが、彼が見ている――視ているのは、その先にいる長官の疑似人格のようなもの。
眼の仕組みを聞いた時に聞いた限りでは、その疑似人格が全てを告白してくれているようだ。
俺としては、その本人の魂を直接覗き込んでいるんじゃないかと思っているが、本人としても便利だから使っている程度の認識だ。
佐枝の坊主らしいと言えばらしいが、そんなものを引っ提げてる現代の若者たちはどうなっていやがるんだ。
「それにしても最果ての理想郷ね。ウルティマ・ツーレ……それだと確か最果ての地とかって意味だったかな? うーん、なんで理想郷がそこにあるって思ったのかがわからないなぁ。そもそもどこにあるんだろうね」
「お前、そっち方面にも詳しいんだったか? 俺ぁからっきしだからなに言ってんのかわからんがよ」
「趣味で少しだけね。人間って面白いよね、いるかもわからない神様を崇拝して、あるかもわからない理想郷――あるいは救いを見出そうとする」
坊主の声は冷えきっており、しかし愉快そうに語る印象を受ける。
「そんな――あるはずのないモノに対して、盲目的に欲を抱いて縋り付くんだ。ないからこそ面白い、この悦楽的な現実から目を背けてね」
その瞳は長官のみならず、その場にいる他の幹部連中や側近へと向いている。
「別に個人の主義主張、信仰心やらなにやらを否定するつもりも、貶すつもりも、ましてや改心させるつもりもなくてね。なにせ、人間が見出した『自由』や『権利』やらに含まれる目に見えないもののひとつだ」
しかし、そこに映しているのは果たして目の前にいる人物か、はたまた別のナニかなのか。
それを知るのは――。
「僕はね、そんな人間という生物が大好きで仕方ないんだよ。矛盾を抱えて、自己否定と肯定を繰り返し、獣性と理性、正義と悪の狭間で揺れ動く」
通常であれば熱を帯びるそれは、どこまでも平坦で、違う視座から降り注ぐように耳へと落ちてくる。
「時に強く、時に頑健で、だがその本質はどこまでも脆弱で。なんでも一人で出来ると嘯くが、ただ独りでは無力の塊。寄り集まって意見を統一したかと思えば、再会を果たしたら対立する」
熱量というには、冷えきっている。
人間賛歌というにも、歪んでいる。
「見ず知らずの誰かを称賛し、今度は見ず知らずの誰かを侮蔑する。なにかに突出した人間を持ち上げたかと思えば、その足元を見てからあらゆる罵詈雑言を浴びせた上で失墜させようと試みる」
哲学的であるように見せて、その本質は彼の観察記録のようなもの。
人間の深淵を覗いているように見えて、その実、そこにはなにもありはしない。
「獣ではないと法という秩序を作り、しかし破ったとしても賞賛されることもあれば、厳罰に処されることもある。自分たちを肯定するために信仰をはじめとした数多の偶像を利用し、相手を貶めるために自分たちを正当化する」
人間を個人ではなく、種として見ている、その視座。
真理や思想、そういったものを鋭く突いているようでいて、底無しの穴が広がるのみ。
「感情を排して判断しろと嘯くも、結局は私情を持ち込む。人間は感情をコントロールしていると思い込むが、結局はあらゆる『情』に支配されている。人間――ヒトが知性と呼ぶまやかしは所詮、ヒトが元来持つ本能という暴力には逆らえない」
到底真似できるものではなく、したいとも思えないそれ。
あえて言葉にするならば、彼の目から捉えた世界の――人間の羅列、といったところか。
「面白くて、可愛らしくて、愛らしくて、どこまでも醜い。そうだ、僕は大好きなんだよ。この混沌として、誰かを蹴落とすことでしか『生』という実感を得られない歪な種を愛しているんだ。ふふ、人間というものは実に素晴らしいよね」
「……一国の閣僚が言ってると思うと、背筋に嫌な水滴が出てくるなぁおい」
「あははっ、そうだね! みんなもう聞いてないだろうけど、オフレコでお願いするよ!」
――腹の奥底に抱える怪物を飼い慣らし、現実を楽しむ坊主だけなのだろう。
合理主義者に見えて、非合理的な考え方も許容する。
現実主義者に見えて、人の妄想を否定することはない。
強いていうなれば、虚無主義者に見せかけた快楽主義者――あるいは刹那主義者といったところか。
佐枝龍彦という人物は、一見すれば人当たりの良い好青年であり、誰にでも分け隔てなく接する政治畑にいるとは思えない男だ。
しかし、彼の中身はどこまでも歪んでいて、虚無と共に日々を過ごしていると言っても過言ではない。
彼が演説という形で羅列した人間という種の定義を、ある一点を除けば彼自身が誰よりも体現しているかのようだ。
その一点とは、人は群れるということ。
彼は今でこそ防衛大臣などという役職に就いているが、権力や立場などに欠片も興味を抱いていない。
最悪――というよりも、彼の言葉を借りるならば『愛するヒトを視られるなら』という前提の上で、独りで良いと思っているのだ。
彼の座っている今の椅子は――。
俺はすでに坊主に対してある種の慣れがある。
しかし、まだ慣れる前――一度だけ首相になりたいのか、と聞いたことがある。
政治畑に身を置いてる人間なのであれば、誰しもがそこを夢見ていると思ったからだ。
笑顔と共に返ってきた答えは――『面倒だからやりたい人に任せる。僕はもっと動きやすくて自由な椅子が好みだからね』。
そこにもまた、なにひとつとして感情がなかった。
――あくまでも、彼にとって都合が良いから座っているに過ぎない。
孤独という概念を愛し、あるいは愛さざるを得ず、孤独という概念に愛されてしまった――愛されすぎてしまった。
人間の演技をする人間、と思い込んでいる一種の寂しい男なのかもしれない。
「さて、ちょうどいいくらいかな」
「やっぱりお前気持ち悪いよな。多忙で見てなかったんじゃなかったのか?」
「『視て』なかったよ。嘘は嫌いだからね」
「その『眼』では見ずに、『目』では見てたか? それとも多忙なのは『眼』であって、『目』は余裕あるってか? はっ、屁理屈しか並べながらねえわなぁ」
にこりと、貼り付けたかのような笑みを浮かべて俺を見る坊主。
こいつに必要なのは理解者ではなく、同調者でもない。
秘書ちゃんのような、理解した上でそれでも静かに寄り添うことを選んだ者か――。
――俺のような、理解していると思っている上で軽口を叩く者なのかもしれない。
こんな老いぼれではなく、同年代の友人でも見つけろと強く思うが、坊主の眼の前ではそれもまた難しいのだろう。
こいつの過去になにがあったかなど、俺には知ったことではない、知りたくもない。
詮索する気持ちなどありはしないし、坊主もそれを望んでいないだろう。
ただひとつ、確実に言えることがあるとするのならば――。
――何事も視え過ぎてしまうと、人間は眼が曇ってしまう。
『――『扉』内生物の活用法と人工特別禁忌種の製造について……?』
「あれれー? 不思議なことが起こってるねぇ、先生?」
「ああ、本当に不思議だなぁ。なぁ、橋岡長官?」
映像の中で旦那が手に取り、画面にも映している紙束。
それが、俺の手の中にあるものそのものなのだ。
「え、映像自体、が――」
「ダンホーで撮影、配信された映像はいかな理由があっても、直接的に手を加える場合にはダンジョン庁の認可が必要である。他人がSNSとかに上げる切り抜きとかグロ対策のモザイクは別だけど、これは本人の映像だよね」
「……そ、そんな、もの……いくらでもっ」
「踏み倒せるって? たしか映像を担当してるとこは、総勢二百だか三百人だっけ。もっといるかな? まあなんにせよ、そこを欺けてるって相当だけど、証拠とかある?」
坊主の疑問に対する声は、無言のみ。
それが、この無駄な茶番が終わったと示すなによりの証拠であった。
「はぁ、気合い入れてたが肩透かし食らった気分だな。とはいえ、面倒な仕事がひとつ減ってなによりだぁな」
「もう先生、忙しくなるのはここからだよ」
「こんなことなら一度目の再編の時に全部やっときゃよかったぁな。で、いつから絵を描いた?」
ため息を吐きながら立ち上がり、件の書類を秘書ちゃんに手渡す。
受け取った彼女は、次の瞬間には坊主の隣に控えていた。
「描かないよ、こんな下手な絵。描くならもっと効率よく描くけど、思った以上に下手だよね。こんなので僕と先生を塗り潰せるって本気で思ってたみたいだからさ」
「ほんと、お前の眼は便利だな」
彼から漂ってくるのは、本気の呆れ。
感情が欠落しているとは思っているが、坊主は感情自体は持ち合わせている。
なぜなら――。
「……わ、私たちを、これからどうするつもり、だ……」
「どうもしないよ。ただ視させてもらうだけ、文字通り隅々までね。黙秘してもらってもいいし、否定してくれてもいいけど、もうひとりのキミたちは雄弁だよ」
「…………人としての心は、ないのか…………っ!」
「あはっはっ! 心! 心かい! 逃げ道が無くなれば、結局は感情に訴えかけようとするのかい!? なにより、キミがそれを言うなんておかしいよね! そもそもの話、キミの犯したことと僕に心があるかなんて、関連性すらないどうでもいいことじゃないか!」
感情の抜け落ちたその声から漂ってくる気持ち。
その正体は、誰しもが持つ新しいなにかを見つけた時――あるいは知った時の高揚感だ。
「それはそうと、先生。そこの燃えカスが座ってた椅子は、先生が座っちゃいなよ」
「言うとは思ったがよ、こんな爺をいつまで働かせるんだよ」
「先生もその気でしょ? 僕にもいろいろと都合いいし、なんなら先生も好き勝手やっちゃいなよ」
「そういう問題じゃねぇだろうが、たく……はーあ、絵里との旅行はいついけるかねぇ……」
吐き出すため息は、物言わぬ壁へと吸い込まれる。
俺の引退は、まだまだ先らしい。
感想、評価、お気に入りなど痛み入ります。
非常にモチベーションにつながっております。
次回更新は、11/1を予定しております。