機動戦士ガンダム 不死鳥戦記   作:だいたい大丈夫

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地球を離れた不死鳥隊は、ついにジオン本国・サイド3へ帰還する。

故郷の空気と、待ちわびた人々との再会に喜ぶカリスたち。

だが、フラナガン機関で訓練を受けるマリアには、以前にはなかった異変が現れていた。



帰還と、赤い錠剤

宇宙世紀〇〇七九年、十一月十四日。

地球を発ってから三日。

 

俺たち不死鳥隊は、ようやくジオン本国があるサイド3へ帰ってきた。

 

正確に言えば、オデッサから打ち上げられたHLVで地球の衛星軌道まで上がり、本国行きの連絡船へ乗り換えて月の裏側にあるサイド3まで運ばれてきたわけである。

 

地球から最も遠いコロニー群。

 

歴史の教科書なら、この地理的な隔絶がジオン・ズム・ダイクンによる独立思想を生み、やがてジオン共和国、そしてジオン公国へ繋がったと長々説明するところだろう。

今の俺にとっては、どうでもいい。

 

ここには泥がない。砂もない。一歩外へ出るたび、靴の裏に正体不明の虫や植物がくっつくこともない。頭上から連邦軍の砲弾が降ってくる心配もなく、食事の皿へ土煙が入ることもない。

 

そして何より、ハマーンがいる。

それだけでサイド3は宇宙で最も素晴らしい場所だと断言できる。

 

人工重力が靴底をしっかり捉えた。地球の一Gより少し軽い。たったそれだけの違いなのに、体が羽のように軽く感じる。空気からは泥も血も、焼けた肉もオイルも臭わない。濾過装置を通った空気が肺へ入る。

 

「帰ってきました、ズム・シティ!」

 

天井まで伸びる窓の向こうには、コロニー内部の市街地が広がっている。空を挟んだ反対側にも建物と道路が並び、その間を輸送車両の小さな光が動いていた。

 

ああ、懐かしい。地面の上に空があり、その向こう側にまた地面がある。この景色こそ、俺にとっては故郷の空だ。

 

「空気が美味い! やっぱり地球の泥沼に長くいると駄目だな! 体の隅々まで重力に汚染される!」

 

思いきり息を吸い込む。

 

「ただの空調設備を通した空気だろう」

 

隣から、ひどく冷めた声が飛んでくる。

マークが、呆れたようにため息をついていた。

 

「まあ、お前にとっては文字どおりの故郷だからな。はしゃぐのも分かるが、あまり中佐がみっともない真似をするな。周囲が見てるぞ」

 

言われて振り返ると、ほかの乗客や宇宙港の職員たちがこちらを見ている。

紫と黒を基調にした軍服でまとまっている上、俺の胸には中佐の階級章がある。不死鳥隊と気づいた者もいるらしく、こちらを指さしている子供までいた。

俺は両腕を下ろし、何事もなかったように襟を正した。

 

「何を言ってやがる。お前だって同じサイド3の出身だろうが。連絡船からコロニーが見えた瞬間、窓へ顔を近づけてただろ。ホームシックになってたくせに」

 

「外壁の入港標識を確認していただけだ」

 

「嘘をつけ。口元がちょっと笑ってたぞ」

 

「そう見えただけだろう」

 

「俺の目は誤魔化せん。あれは故郷を見た男の顔だった」

 

「仮にそうだとしても、お前ほど大げさに騒いでいない」

 

「それに、俺はフロートニック家の兵舎育ちだ。お前のように、高級絨毯や柔らかい寝台が恋しくてホームシックになるほどじゃない」

 

「誰が絨毯シックだ!」

 

「地球にいた時、屋敷の浴室と寝具が恋しいと百回は言っていただろう」

 

「百回は言ってない! せいぜい五十回だ!」

 

「そもそも人間が清潔で柔らかい生活を望むことの何が悪い。文明はそのために発達したんだぞ」

 

「はいはい。分かったから、通路の真ん中で文明論を始めるな」

 

背中を押してくる。

 

「押すな! 自分で歩ける!」

 

「歩かないから押してるんだ」

 

地球から帰った感動を分かち合おうという気はないのか、こいつには。

 

いつものように言い合いながら入国手続きの列へ向かうと、少し離れた窓際でシェルドが足を止めていた。窓の外にある宇宙と、遠くへ並ぶコロニーの光を見つめている。嬉しそうにも、寂しそうにも見える顔だ。

 

「どうした、シェルド」

 

少し驚いたように振り返った。

 

「あ、いえ。何でもありません」

 

「何でもない顔じゃないぞ」

 

「本当に大丈夫です。ただ、故郷に帰れるって最高なんだろうなと思って」

 

「シェルドの故郷は、サイド1だったか」

 

「はい。シャングリラです。もう随分と帰ってないなあ……」

 

遠くを見る目へ戻る。

胸の奥が少し重くなる。

 

サイド1。宣戦布告の直後、ジオン軍が毒ガス攻撃を行った場所の一つだ。シャングリラそのものがどうなっているかとは別に、サイド1全体が開戦初期の戦場となり、多くのコロニーと住民が失われている。

 

「……済まなかった」

 

「えっ?」

 

「いや。その……俺が気軽に故郷だなんだと騒いでいる横で、嫌なことを思い出させた」

 

「ち、違います! 隊長が謝ることじゃありません!」

 

シェルドが慌てて両手を振る。

 

「僕がサイド1を離れたのも隊長のせいじゃないです。それに今は、帰る場所がないわけじゃありませんから」

 

「そうなのか?」

 

「はい。不死鳥隊が僕の帰る場所です」

 

少し照れくさそうに笑う。気を遣わせてどうするんだ、俺は。

 

「そうだな」

 

「お前は不死鳥隊の一員だ。所属がどこへ移ろうが、誰と一緒になろうが、それは変わらん」

 

「誰と一緒になろうが、というのはマリア姉さんのことですか?」

 

「そこまで限定したつもりはないけど、お前の場合はほぼマリアのことだな」

 

「えへへ……」

 

露骨に嬉しそうな顔をする。若いなあ。いや、俺も一歳しか違わないけど。

 

「そういえば、皆さんはどこの出身なんですか?」

 

「隊長とマーク少佐がサイド3なのは知っていますけど、ほかの皆さんのことはあまり聞いたことがありません」

 

「言われてみれば、そんな話をする機会はなかったな」

 

俺とマークはサイド3だ。マークは幼い頃からフロートニック家の兵舎に身を置き、俺とは家族より長い時間を一緒に過ごしている。生まれや立場は違っても、見てきた町並みはほとんど同じだ。

 

「私は当然、カリス様と同じ誇り高きサイド3の生まれですよ」

 

エリスが胸を張る。

 

「生粋のジオン国民です。幼い頃からジオンの独立と、フロートニック家への忠義を教え込まれて育ちました」

 

「後半は国民全体へ教える内容じゃないからな」

 

「我が家では一般教養です」

 

「クロード家の教育、少し偏ってない?」

 

「何を仰います。おかげで私は、こうしてカリス様へ忠実な騎士としてお仕えできております」

 

確かに忠実ではある。その忠義の方向が時々とんでもなくバグっているだけで。

 

「私はサイド6よ」

 

エターナが赤いルージュの唇を歪める。

帰還に合わせ、化粧も服装もすっかり整えている。つい数日前まで苦しんでいた人間とは思えないほど、表向きはいつもの余裕を取り戻していた。

 

「戦争が始まってから慌てて中立を宣言して、安全な場所から両陣営を眺めているコロニーね」

 

「サイド6か。中立なら故郷の家族は安全なんじゃないのか?」

 

「どうかしら。戦争中の中立なんて、金と力がある間だけ成立する看板よ。連邦にもジオンにも良い顔をして、金を持っている連中が安全圏で取引を続ける。その裏で金のない人間は何も選べない。馬鹿みたいな街よ」

 

冷めた言葉だ。

彼女がどういう経緯で故郷を離れ、親父の愛人となり、うちの部隊へ入ることになったのか。俺は詳しく知らない。聞いても笑って誤魔化される気がする。

 

「でも、当主様と出会えたことだけは感謝しているわ」

 

「せっかく真面目に聞いてたのに!」

 

「事実でしょう?」

 

「俺に確認を求めるな!」

 

楽しそうに笑うエターナ。

 

「僕は地球生まれのサイド3育ちさ」

 

今度はジュナスが口を開く。

 

「地球にいたのは幼い頃だけだけどね。あの重力と空気の重さは、体のどこかに残っていたのかもしれない。だからホバー移動や重力下での機体の崩し方には、少しだけ勘が働いたのかな」

 

「なるほどな」

 

地球生まれだからあんなに粘着質な重力を持っているのか。

いつも俺の背後へ回り込み、首筋へしがみつき、こちらが振り払おうとしても全体重を預けて離れない。

コロニー育ちの人間にはない、魂を地面へ引き寄せる執念がある。

 

……偏見だな。地球生まれの人間全員をジュナスと一緒にしたら、全人類から抗議される。

 

「カリス。今、とても失礼なことを考えただろう?」

 

「考えてない」

 

「僕の生まれと、君の背中へ張りつく癖の関係について考えていた気がする」

 

「なぜそこまで正確に分かるんだよ!」

 

「長い付き合いだからね」

 

「近づくな! お前との付き合いはまだ一年もないだろ!」

 

「触らなければいいのかい?」

 

「まとわりつくのもやめろ!」

 

マークが俺たちから距離を取る。助けろよ、副長。

 

「私も地球生まれだな」

 

エルフリーデはジュナスと俺の攻防を気にせず、腕を組んでうなずいた。

 

「十五歳まではヨーロッパ方面で育った」

 

「それで宇宙へ上がったということは、エルフさんは地球でもエリート層の生まれなんですね」

 

「うむ! 私は高貴なる騎士だからな!」

 

「家が騎士の家系なんですか?」

 

「出自や血筋など、剣の腕で切り開いてみせる! 生まれながらの身分に頼るようでは真の騎士とは呼べん!」

 

「えっと……高貴な生まれなのか、腕で成り上がったのか、どちらなんですか?」

 

「私の魂が高貴なのだ!」

 

「会話の脈絡を剣でぶった斬るな」

 

何も答えていないじゃないか。

 

ルナが口元を押さえて笑っている。ニキさんは俺たちの荷物がすべて運ばれているか端末で確認しながら、少し後ろを歩いている。

 

「そういうルナとニキさんは――」

 

シェルドが二人へ尋ねようとしたところで、入国審査の完了を告げる音が鳴った。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

「あっ!」

 

左右に開いていくゲートの向こう。待ちわびた三人の少女が並んでいる。

ジオン軍の制服に身を包んだ茶褐色の髪の少女。緑色の瞳を持つ褐色の少女。

そしてその中央で、宇宙で一番愛らしい桃色の髪を揺らしている少女。

 

「マリア姉さん!」

 

「ハマァァァァァァン!」

 

俺とシェルドは、弾かれたように駆け出していた。背後でマークの制止が飛ぶが、もう耳には入らない。

 

俺の網膜には、ハマーン・カーンの姿しか焼き付いていない。

 

八か月。匂い袋と手紙だけを命綱に、砲弾が飛び交う泥濘の戦場を這いずり回ってきたのだ。何度死にかけても、この子の元へ帰るという執念だけで生き延びてきた。

 

今、その本人が目の前にいる。

少し背が伸びた気がする。髪型も、俺を見る時の虫けらでも見るような面倒くさそうな眼差しも記憶のままだ。

 

それでも、確かに違う。

幻でも写真でもない。生きて、ここにいる。

 

網膜にこびりついていた連邦兵たちの恐怖や怨念のスパムノイズが、ハマーンの姿を視界に収めた瞬間に嘘のように薄れていく。

 

心に幾重にも張り巡らせた防壁の緊張が、音を立てて解けていった。

 

「ハマーン!」

 

感極まり、両腕を大きく広げてその小さな体へ飛び込む。

 

「止まりなさい」

 

絶対零度の声。同時に、華奢な右手が俺の顔面へ容赦なく突き出された。額に手のひらがめり込み、突進の運動エネルギーが強制的に相殺される。

 

「ぐぬぬぬ……! あと一歩! あと一歩だけ進ませてくれ!」

 

「嫌よ。暑苦しい。近い。気持ち悪い」

 

「三つも罵倒を! 帰ってきた実感が一気に湧いてきたぞ!」

 

「どうして喜ぶのよ……」

 

ああ、その目だ。その氷のような眼差しで蔑まれるために帰ってきたと言っても過言ではない。

 

「ちょっとカリス様。ハマーンだけではありませんよ」

 

追いついたエリスに襟首を乱暴に掴まれた。

 

「ララァもいるではありませんか。きちんと挨拶なさい」

 

「分かってる! だから首を引っ張るな!」

 

咳き込みながら振り返ると、褐色の少女が静かな湖面のような瞳でこちらを見つめていた。

 

ララァ・スン。

シャアが地球で金塊を積み、名前を聞くより先に身請けを決めた少女だ。その後、短い間だが同じガウの中で過ごした。

 

彼女の胸には少尉の階級章が輝いている。正規の士官教育を終えた軍人ではない。フラナガン機関における研究協力者兼候補生として、少尉待遇を与えられているのだろう。

 

ララァが背筋を伸ばし、淀みのない敬礼を見せた。

 

「ララァ・スン少尉待遇です。フロートニック中佐、ご無沙汰しております」

 

「ああ。久しぶりだな、ララァ」

 

「ご無事で何よりです」

 

穏やかに微笑む。

 

以前なら、その笑顔の奥底から広がる巨大な精神の波に触れただけで、頭蓋を内側から叩き割られるような圧迫感があった。

 

今は違う。

波の大きさ自体は変わらない。それどころか以前よりずっと強大な力だ。だが、広がり方が恐ろしく静かで、精密に制御されている。表面張力ギリギリまで注がれた水を、一滴もこぼさずに保っているような危ういまでの静謐さ。

 

フラナガン機関の訓練で、自分の力を手なずけたのか。

こいつは本物だ。俺がどれだけニュータイプの存在を否定しようと、ララァを前にすれば詭弁に成り下がる。

 

そして、この無垢な少女がシャアの運命を破滅の淵へ引きずり込むという嫌な予感も、未だに拭い去れない。

 

本人に罪はない。純粋で、優しく、善良な娘だ。

だからこそ、俺は。

 

「みんなー!」

 

「マリア・オーエンス少尉、お出迎えに参上しました!」

 

軍靴の踵を鳴らし、快活に敬礼する。

以前より軍服の着こなしが板についている。髪も整えられ、立ち姿から迷いが消えていた。

 

正式には不死鳥隊からフラナガン機関へ出向しているが、本人も俺たちも、あいつが部隊の一員でなくなったなどと微塵も思っていない。

 

「マリア姉さん!」

 

シェルドが彼女の両手をぎゅっと握りしめる。

 

「元気そうで良かったです。体の調子は? もう痛むところはないんですか?」

 

「大丈夫よ、シェルド。ほら、こんなに元気!」

 

「傷もすっかり塞がったし、訓練にも復帰してるわ」

 

「本当に? 無理してませんか? ちゃんと食べてます? 眠れてますか?」

 

「もう、心配しすぎよ」

 

「だって、姉さんはすぐ無理するから……」

 

「ふふっ。ありがとう」

 

マリアがシェルドの頬へそっと手を添える。

シェルドは一瞬で耳の先まで朱に染まったが、その温もりを振り払おうとはしない。

 

分かっている。転属する前に二人が互いの気持ちを確かめ合い、シェルドが単なる彼氏面ではなく本物の彼氏に昇格していることは承知済みだ。

 

承知はしているのだが。

若い男女が、再会した途端に周囲を置き去りにして二人だけの甘い空気を作っている場面を見せつけられると、隊長としては頭の芯が痛くなってくる。

 

「シェルド」

 

「はい、隊長」

 

「公共の場所だぞ」

 

「手を握っているだけです」

 

「再会の続きはフロートニック家へ着いてからにしろ」

 

「再会の続きって何ですか?」

 

「俺の口から言わせるな」

 

「カリス中佐、何を想像しているんですか。いやらしい」

 

マリアにまで汚物を見るような目を向けられる。

 

「お前が言うな! 俺はお前たちの将来を心配してるんだ!」

 

「心配しなくても、私たちは真剣ですよ」

 

ハマーンが俺とシェルドを交互に見比べる。

 

「あなたの部隊、少年を女が捕まえるのが流行っているの?」

 

「待て。俺とお前はまだそこまで明確な関係じゃない」

 

「自覚はあったのね」

 

「違う! 俺たちは年齢を超えた魂の結びつきで――」

 

「気持ち悪いから説明しなくていいわ」

 

今日も絶好調だな、はにゃーん様。

 

「ハマーンちゃん、こんなに可愛いんですもの。一人で来させたら危ないじゃないですか」

 

マリアがハマーンの肩へ親しげに腕を回そうとする。ハマーンは素早く半歩横へずれ、その腕を綺麗に躱した。

 

「私は一人で大丈夫よ。なぜあなたたちまでついて来るの」

 

「だって、一人だと変な人に誘拐されるかもしれないでしょう?」

 

マリアが俺を見る。ララァも俺を見る。エリスまで俺を見る。

 

「なぜ全員そろって俺を見る!」

 

「ほかに該当者がいないからだろう」

 

「俺は誘拐なんかしない! ちゃんと本人と保護者の同意を得て、正面からフロートニック家へ迎える!」

 

「手続きさえ整えば連れ帰る気満々だな」

 

「マークまで!」

 

ハマーンはしばらく俺の目をじっと見つめ、静かに顎を引いた。

 

「……否定はしないわ」

 

「ハマーンまで!?」

 

「実際、あなたならやりかねないもの」

 

ああ、その蔑みを含んだ眼差しすら無性に愛おしい。

 

「それにしても、マリア。本当に元気そうで安心した」

 

俺は少しだけ居住まいを正した。

 

「体の調子は大丈夫なんだな?」

 

「はい。ご覧のとおりです!」

 

両腕へ力を入れてみせる。

 

「フラナガン機関で、ばっちりニュータイプに目覚めるための訓練を受けています。これからは私もエースになって、不死鳥隊へ戻りますからね!」

 

「頼もしい話ではあるが……変な人体実験はされてないだろうな?」

 

未知の力を引き出す訓練など、どれほど美しい言葉で飾ろうと、人間の脳や精神を軍の都合で弄り回す行為に変わりはない。

 

マリア本人が決断し、シェルドがそれを受け入れ、最終的に俺が転属願へサインをした。それでも、あの選択が正解だったのかは今も結論が出ていない。

 

「人体実験なんて大げさですよ」

 

「私はまだまだ劣等生なので、研究員の人に少し怒られたり、追加の訓練を受けたりはしていますけど……大丈夫です!」

 

「怒られるって、何をされるんだ?」

 

「普通ですよ。集中が足りないとか、脳波が安定しないとか。座学の成績だってララァと比べたら全然ですし」

 

「マリアは、とても頑張り屋さんですから」

 

「訓練が終わった後も、一人で復習しています。私よりもずっと努力しています」

 

「もうっ! 天才の優等生にはこの凡人の気持ちが分からんのです!」

 

マリアが子供のように頬を膨らませた。

 

「すねないの。あなたはあなたよ」

 

「分からないことがあれば、一緒に考えると言ったでしょう?」

 

「そうやって簡単に正解へ辿り着くから悔しいのよ」

 

「ごめんなさい」

 

「謝られると余計に惨めになる!」

 

口では不平をこぼしながらも、マリアの顔に不快感はない。二人が機関で良好な関係を築いているのは事実のようだ。

 

安心するべき光景だ。

 

それでも、俺の意識は否応なしにララァへ引き寄せられる。

以前より巨大で、それでいて精密極まりない精神の波。無秩序に周囲へ撒き散らすのではなく、己の意思で形と領域をコントロールしている。

 

今のララァが本気でこちらの心を覗き込もうとすれば、俺が構築した防壁など薄紙のように破られるかもしれない。

 

 

「ララァ」

 

「はい」

 

「お前も、無理はしてないか?」

 

「私は大丈夫です」

 

「本当か?」

 

「はい。以前より、自分とほかの人の心を分けて考えられるようになりました。今は、聞いてはいけない声を遠ざけることもできます」

 

「そうか」

 

それなら良い。自分と他者の境界線を溶かしてしまうような力なら、強くなればなるほど本人がすり減っていくだけだ。

 

「あの……フロートニック中佐」

 

「なんだ?」

 

「シャア大佐のことを、ご存じですか?」

 

「昇進したことと、マッドアングラー隊を率いて木馬を追っていることは聞いた」

 

「そうですか」

 

「心配か?」

 

「……はい」

 

小さく頷く。

 

シャアの名を口にした瞬間、彼女の精神波の中に明確なさざ波が立った。心配、信頼、憧憬。そして本人でさえまだ整理しきれていない深く複雑な感情の渦。

 

「あいつなら大丈夫だ」

 

今は、そう言って安心させるしかなかった。

 

「無茶をするなとは俺からも連絡しておく。赤い彗星が簡単に沈むものか」

 

「ありがとうございます」

 

ララァの表情から緊張が抜け、安堵の笑みがこぼれる。

その傍らで、エリスが我が事のように満足げに頷いていた。以前からララァを気に入り、何かと世話を焼いていた彼女にとって、少女の無事と成長が誇らしいのだろう。

 

 

 

 

◇◇

 

 

だが、今はそんなことよりも。

 

「ハマーン」

 

「何よ」

 

「ハマーン、ハマーン、ハマーン、ハマーン……」

 

「だから何よ」

 

「ハマァァァァァン! 俺は帰ってきたぞぉぉぉ!」

 

抑えきれない歓喜が臨界点を突破する。

俺はハマーンの周囲を反復横跳びの要領で右へ左へと高速移動し始めた。

 

「ひっ!?」

 

本気の恐怖を宿した目で後ずさった。

 

「な、何をしているのよ! 私の周りを、名前を連呼しながら動かないで! 怖い! 気味が悪いわ!」

 

「すまんすまん! つい俺の魂が歓喜のステップを!」

 

「魂ごと止まりなさい!」

 

「止められるものか! 俺はこの瞬間のために地球を生き延びたんだぞ!」

 

胸ポケットへ手を滑らせ、肌身離さず持っていた匂い袋を取り出す。

 

一代目はハマーンの言いつけ通りニキさんの手で焼却されたが、今握りしめているのは手紙と共に届いた二代目だ。中身は確認していない。だが状況証拠から推測すれば、中身はアレに違いない。

 

「見ろ、ハマーン!」

 

匂い袋を高々と頭上へ掲げる。

 

「お前のこの加護があったからこそ、俺は地獄から生還できたのだ! 約束どおり、中に入っている特別なおまじないも確認していないぞ!」

 

「声が大きい!」

 

「ぐおっ!」

 

爪先が俺の脛へ正確にめり込む。

走る鋭い痛み。たまらずその場で片膝をついた。

 

「殺すわよ、この変態!」

 

「こ、これだ……この痛み……帰ってきた……俺は本当にハマーンのもとへ帰ってきたんだ……」

 

「気持ち悪いことを言わないで!」

 

容赦なく同じ場所へ二撃目が叩き込まれる。至福の痛みだ。脳髄が痺れる。

 

「坊ちゃま。公共施設で少女から預かった私物を掲げ、その秘密を大声で口にする行為は、軍人として重大な不祥事へ該当する可能性がございます」

 

ニキさんの冷ややかな声が頭上から降ってきた。

 

「待ってくれ! 中身は見ていないし秘密も漏らしていない!」

 

「何が入っているかを周囲へ想像させる時点で問題です」

 

「それはそうだな!」

 

「とにかく、ハマーン。これは約束の品だ」

 

立ち上がり、今度は両手で丁寧に匂い袋を差し出す。

 

「君に言われたとおり、どんな地獄の底からでも這い上がって生きて返しに来た」

 

「……そう」

 

ハマーンは匂い袋と俺の顔を交互に見比べる。張り詰めていた冷たい空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

 

「大きな怪我はないの?」

 

「もちろんだ。手足も全部ついている。内臓も多分、決められた場所に収まっている」

 

「細かい打撲や筋肉痛はあるが、ハマーンの基準でも無傷判定をもらえる範囲だと思う」

 

「本当に馬鹿ね」

 

呆れたような空気が吐き出される。だが、ハマーンは匂い袋を受け取ろうとしなかった。

 

「どうした?」

 

「持っていなさい」

 

「返さなくていいのか?」

 

「あなた、勲章の授与式が終わったらまた軍へ戻るんでしょう?」

 

「多分な。戦争が終わったわけじゃない」

 

「なら、まだ帰ってきたことにはならないわ。ただ休暇で寄っただけよ」

 

ぷいっと顔を逸らす。

 

「戦争が終わって、もう二度と戦場へ行かなくてもよくなった時に返しなさい。それまではなくさずに持っていなさい」

 

「ハマーン……!」

 

胸の奥で熱い塊が弾けた。

 

「それはつまり、これからも俺を自分の騎士として繋ぎ止めておくという改めての所有宣言だな!」

 

「やっぱり今すぐ返しなさい。燃やすから」

 

「嫌だ! 今の言葉は取り消せないぞ!」

 

匂い袋を素早く胸ポケットへ戻し、両手でがっちりと守る。

ハマーンが疲れたように額を押さえた。その不機嫌な仕草すら脳を焼くほど愛おしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あっ、そうだ!」

 

マリアが声を上げる。

 

「良かったら、カリス中佐たちも皆さんでフラナガン機関へ寄っていきませんか?」

 

「フラナガン機関へ?」

 

「はい。施設の研究員さんたちも、実戦で活躍している皆さんからぜひ話を聞きたいと言っています。私がどんなところで訓練しているかも見てもらいたいですし」

 

俺はニキさんへ視線を向ける。

 

「俺たち、今からそのまま屋敷へ帰る予定じゃなかったのか?」

 

「帰宅時刻に厳密な指定はございません」

 

「荷物は?」

 

「フロートニック家の車両へ先に運ばせます。皆様にはフラナガン機関の送迎車が用意されているそうです」

 

見事な手回しだ。

 

「マリア」

 

「はい」

 

「最初から俺たちを連れていくつもりだったな?」

 

「えへへ。せっかく本国へ帰ってきたんですから良い機会だと思いまして」

 

悪気のない無邪気な笑顔だ。

 

「まあ、いい。俺も、お前がどんな環境で暮らしてどんな訓練を受けているのか見ておきたい」

 

「ありがとうございます!」

 

「ただし、無理やり人体実験へ参加させようとしたら俺は帰るぞ」

 

「あはは。皆さんはトップエースなんですから無理やりそんなことはしませんよ。大丈夫ですって!」

 

「その笑顔で言われると逆に不安になるんだよ」

 

「実を言えば」

 

ララァの声が場を落ち着かせる。

 

「機関が皆さんへ興味を持っていることは確かです。実戦の中で能力を発現させた方々のデータはとても貴重ですから」

 

「やっぱり狙われてるじゃないか」

 

「脳波の測定や、簡単な質問をお願いされるかもしれません。でも、断れば強制はされないと思います」

 

「思います、か」

 

逃げ道を残した表現が引っかかる。

 

「ふふん。まあ、私はニュータイプとして非常に優秀に目覚めていますからね」

 

「私のデータが人類の革新と研究の発展へ役立つのであれば、協力するのもやぶさかではありません」

 

「勝手に俺の分まで承諾するなよ」

 

「カリス様も受ければよろしいではありませんか。ご自身がニュータイプであるという事実を、そろそろ客観的な数値で認めるべきです」

 

「断る。俺はただの操縦が少し上手い軍人だ」

 

「ビームを敵の感情から予測して避ける人間を、少し上手いとは言いません」

 

「経験と勘だ」

 

「頑固ですね」

 

「私は早く屋敷へ戻って、当主様に可愛がっていただこうと思っていたのだけれど」

 

エターナが艶やかな口元を不満げに歪める。俺の前でその親父絡みの話題を出すな。

 

「まあ仕方ないわね。マリアの顔を立てて少し付き合ってあげるわ」

 

「今すぐ一人で屋敷へ帰っていいぞ」

 

「あら。カリスは私と当主様を二人きりにしたいの?」

 

「やっぱり来い! 俺の目の届くところにいろ!」

 

「難しい年頃ね」

 

「研究施設の医学的な検査で私の剣の腕が分かるとは思えん」

 

エルフリーデは腕を組んで不平をこぼす。

 

「脳波など測る暇があれば模擬戦場を用意してもらいたいものだ。剣を交えればお互いの魂などすぐに理解できる!」

 

「研究員へ斬りかかるなよ」

 

「騎士へ敬意を払う者へ、理由もなく剣を向けるものか!」

 

「理由があっても向けるな」

 

「僕は面白そうだと思うけどね」

 

ジュナスの粘着質な笑い声。

 

「人間が他人の頭の中へどんな名前をつけたがるのか。少し興味があるよ」

 

「お前の場合、測定機械のほうが壊れそうだな」

 

「失礼だなあ。僕はどこにでもいる普通の少年だよ」

 

「普通の少年は上官の背後へ張りつかない」

 

「マリア姉さん」

 

周囲の喧騒をよそに、シェルドの視線はマリアから微塵もブレていない。

 

「僕も行きます。姉さんがどんな訓練をしているのか、ちゃんと見たいです」

 

「ええ。シェルドには一番に見てもらいたかったの」

 

マリアが破顔し、シェルドの腕へ自分の腕を絡ませた。

 

「だから公共の場所だぞ、お前ら!」

 

「腕を組んでいるだけです!」

 

見事なユニゾン。息が合っていて腹立たしい。

 

「ハマーンはどうする?」

 

水を向けると、露骨に顔をしかめられた。

 

「私はフラナガン機関なんて行きたくないわ」

 

「なら、先に屋敷へ送るか?」

 

「それも嫌」

 

「どうしたいんだ?」

 

「あなたを一人で研究施設へ入れたら、調子に乗って変な装置へ頭を突っ込みそうだもの。仕方ないから監視してあげる」

 

「つまり一緒に来てくれるんだな!」

 

「勘違いしないで。あなたのためじゃないわ。問題を起こされると私まで恥をかくからよ」

 

「はいはい。そういうことにしておこう」

 

「その分かったような顔をやめなさい」

 

ハマーンの靴が三度俺の脛を狙う。今度は軽く足を引いて躱した。

 

「見切った!」

 

「避けるな!」

 

理不尽極まりない。

 

「あ、れ……?」

 

背後からの微かな声。

振り返ると、マリアがこめかみを強く押さえていた。

 

先ほどの明るい笑顔は消し飛び、眉間に苦痛の皺が刻まれている。シェルドの腕から離れ、足元がふらついた。

 

「マリア姉さん?」

 

シェルドが体を支える。

 

「どうしたんですか?」

 

「だ、大丈夫……ちょっと、頭が……」

 

震える手で軍服のポケットを探る。

取り出された小さなピルケース。蓋を開け、中から赤い錠剤を一粒つまみ出すと、水も飲まずに飲み込んだ。

 

「マリア?」

 

近寄ろうとした矢先、マリアの体から強ばりが抜けた。

 

「ふぅ……」

 

こめかみを押さえていた手がだらりと下がる。

 

「もう大丈夫です。すみません、驚かせちゃって」

 

張り付いたような笑顔。

異常な即効性だ。あれほどの苦痛が錠剤を飲み込んだ直後に霧散するなどあり得るのか。

 

「今の薬は何だ?」

 

「ただの頭痛薬ですよ」

 

「昔から偏頭痛持ちだったか?」

 

付き合いの長い副長が知らない以上、不死鳥隊にいた頃から常用していたものではない。

 

「えへへ……最近少し無理して勉強してるから寝不足なのかもしれません」

 

「寝不足で、そんな薬が必要になるほど痛むのか?」

 

「研究員の先生から処方されているものなので大丈夫です。訓練中は脳波を安定させる必要があるからって」

 

「脳波を?」

 

「はい。難しいことは私にもよく分からないんですけどね」

 

「姉さん。本当に大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫だって。シェルドは心配性ね」

 

「だって……」

 

「訓練を頑張っている証拠です。真面目すぎるんですよ、マリアは」

 

エリスのフォローが空気を和らげる。

 

「そうね。今度からはきちんと睡眠を取ることです。努力するにも体が資本なのですから」

 

「はい、気をつけます!」

 

エルフリーデも大きく頷き、エターナも冗談めかして笑う。

表面上の空気は元通りになった。

 

だが、俺の顔は強ばったままだ。

 

ララァの瞳にも笑みはない。彼女はマリアのポケットをじっと見つめ、何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。

 

「カリス様」

 

隣に立ったエリスの囁きが耳元に届く。

周囲の喧噪から切り離された氷のような響きで、戦場で敵の殺意を探る時よりさらに鋭利な気配だ。

 

「何だ?」

 

「マリアの力、感じましたか?」

 

「少しな」

 

以前のマリアの精神波は弱かった。俺を十とすれば二にも届かず、他者の感情に引きずられるばかりの危うさがあった。

 

今は違う。

明らかに力そのものは増大している。機関へ移ってから半月余りで異常なほどの成長だ。

 

だが、ララァのような澄み切った静けさがない。精神の波の奥底に異物感がある。狭い管から無理やり高圧で押し出されたような、ひどく不快なざらつきだ。

 

「確かに前より強い。だが……何か変だ」

 

「はい」

 

エリスの声がさらに沈み込む。

 

「彼女のニュータイプ能力は以前より急激に強くなっています。ですが、ひどく歪です」

 

「歪?」

 

「自然ではありません」

 

「人が自分から目を開くのではなく、閉じている瞼を無理やりこじ開けたような……そんな感じがします」

 

フラナガン機関。

ニュータイプを人類の革新などではなく、明確に兵器として扱うための研究施設。

 

劣等生だと自分を卑下し早く俺たちに追いつきたいと焦るマリアに対して、あそこは一体何をしているのか。

 

ただの訓練か。あの赤い錠剤は本当に頭痛薬なのか。マリアが自ら望んだ結果だとしても限度がある。

 

「あれは、本当に大丈夫なのでしょうか」

 

能力の成長を誰より歓迎するはずのエリスが明確な危険を感じ取っている。それだけで事の深刻さは十分に伝わった。

 

「今ここで騒ぐな」

 

「はい」

 

「まず施設へ行く。何をしているのか確認する」

 

「承知しました」

 

こちらの不穏な気配を察知したのか、ニキさんの視線が絡んだ。

言葉を交わす必要すらない。彼女の目からも帰還の安堵が完全に拭い去られていた。

 

「立ち話も何ですから」

 

ニキさんの淀みのない声がロビーに響く。

 

「皆様、移動いたしましょう。荷物はフロートニック家の車両へ預けました。私どもはマリア少尉の案内でフラナガン機関の送迎車へ参ります」

 

「はい! こっちです!」

 

マリアが明るく手を振り先導する。

シェルドがその隣を歩く。いつでも彼女を支えられる距離を保ちながら、硬い表情を崩さない。ララァは二人の背中を静寂の瞳で見つめ後へ続いた。

 

「行こう、ハマーン」

 

俺は隣の小さな手へ己の手を伸ばす。

 

「子供扱いしないで。一人で歩けるわ」

 

「分かってる。俺が手を繋ぎたいんだ」

 

「正直に言えば許されると思ってるの?」

 

「駄目か?」

 

「……勝手にしなさい」

 

顔を逸らしたまま、ハマーンの指先が俺の掌にそっと重ねられた。

小さくて温かい。それだけで、脳裏のざらついたノイズが少しだけ和らぐ。

 

だが、焦燥感は消えない。

 

マリアの力は確実に増している。その代償として、彼女の中で決定的な何かが捻じ曲げられようとしている。

 

「カリス」

 

ハマーンが俺を見上げる。

 

「怖い顔をしているわよ」

 

「そうか?」

 

「ええ。誰かを殺しに行く時みたいな顔」

 

「視察へ行くだけだよ」

 

呆れたような気配。それでも重ねられた手は離れなかった。

俺はそのささやかな温もりを頼りにマリアたちの後を追うのだ。

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます。

今回は、サイド3へ帰還した不死鳥隊と、ハマーン、マリア、ララァとの再会を書きました。

故郷についての会話や、ハマーンとの再会、マリアの異変など、印象に残った場面があれば感想をいただけると嬉しいです。
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