機動戦士ガンダム 不死鳥戦記 作:だいたい大丈夫
告げられたのは、マリアが服用していた赤い錠剤の分析結果。
それは、単なる頭痛薬などではなかった。
【ズム・シティ フロートニック家 客室】
宇宙世紀〇〇七九年、十一月十四日、深夜。
静寂が支配するベッド。シーツの下で、マークとエリスは互いの体温を貪るように分け合っていた。
天井をぼんやりと見つめながら、マークは緩慢な思考を唇に乗せる。
「休暇と言ってもな……。ずっと気を張っていたせいか、いざ放り出されると逆にどう過ごしていいのか分からなくなる」
「マーク……。せっかく私を抱いている最中なのに、その気もそぞろな態度は何ですか? 私はもっと、深く気持ちよくしてほしいんですけど……。全然足りないわ。もっと私に集中してちょうだい」
「ああ、悪かった。地球ではお前にも我慢させていたからな。……いいぜ、そこまで言うなら、今夜は一睡もさせないでやるよ」
エリスの肩を引き寄せ、互いの吐息が溶け合う距離まで顔を近づける。
甘い痺れが思考を支配しようとした、まさに絶頂への助走だ。
「ああ……マーク。……ん? あっ!」
快楽の淵へ沈みかけていたエリスの意識が、唐突に覚醒する。
「どうした? 浅かったか? ならもう少し体勢を変えて……」
「あんっ!! じゃなくて、違うわよ! 今、音が鳴ったの! 内線が鳴ってます!」
最悪のタイミングである。
マークは盛大な舌打ちと共に、覆い被さっていた体を離した。
受話器を耳に当て、一方的な用件だけを聞き終えると、頭を抱えながら通信を切る。
「どうしたの? やはりメイド長から?」
「ああ……今すぐ執務室まで来いだとさ。緊急の用事らしい。深夜だっていうのに人使いが荒すぎるぜ」
軍服を素肌へ適当に羽織り、乱れた髪を手櫛で誤魔化しながら執務室へ向かう。よりにもよって、この屋敷で最も恐ろしい女の元へ。
◇
ドアを開けると、深夜にもかかわらず、軍服姿のニキがデスクで書類の束と対峙していた。
常人であれば、ここで恐縮して事の次第を伺うところだろう。
「貴方たち二人が交際しているのは、当主様もカリス様も容認しておりますから私からとやかく言うつもりはありませんが……。もう少し自制する、いえ、せめて周囲の人間への最低限の配慮というものはできませんか?」
「え? 一体どうしたんですか。別に私たち、行為の最中に精神波をダダ漏れにして他人の睡眠を妨害したりしていませんよ? その辺りは自分でコントロールして防壁を張ってますから」
論点はそこではない。
ニキは眼鏡の位置を直し、さらに声を低く落とした。
「私が問題にしているのは、精神波のことではございません。その……『匂い』のことです。特にエリス、貴女から発せられている臭気のことです」
「おいエリス、お前……まさかシャワーを浴びずにそのままここへ来たのか?」
「え? 特に浴びてないですけど。だって途中でいきなり呼び出されたわけですし、急用かと思って急いで駆けつけてきたんですから。時間もったいないじゃないですか」
羞恥心という概念は、オデッサの荒野に置いてきたらしい。
「その無神経さのせいで、発情したメスとオスの匂いが漂っています。すれ違った使用人たちがその匂いを嗅いでどう思うか……フロートニック家の名誉に泥を塗る恥知らずな行為だと言っているのです!」
頬に朱を差し、語気を強めるメイド長。
「おいエリス、いくらなんでもそれはマズいぞ。俺だって最低限のエチケットとしてシャワーくらいは浴びてから外に出る……。少しは羞恥心というものを持てよ」
「そんなに匂いを気にするなんて。処女でもあるまいし……」
見えない地雷を、あえて真上から力強く踏み抜くスタイル。
ニキの肩が跳ね、指先の万年筆がパキリと危険な音を立てる。頬だけでなく耳の先までが鮮やかに染まっていた。
ニキ・テイラー大尉、二十三歳。フロートニック家の裏仕事から厄介な隊長の世話まで一人で抱え込んできた結果、恋愛経験は皆無である。
「……クロード大尉。今の発言を撤回なさい」
「えっ。本当に処女なのですか?」
「撤回なさい!」
鼓膜を劈く怒声。
「エリス。お前はどうして、地雷だと分かったあとに全力でもう一度踏み抜くんだ」
「ニュータイプなので、反応を確かめたくなりました」
「ニュータイプと何の関係もないだろ」
ニキは深く深呼吸を繰り返し、机の下で拳を強く握りしめることで、どうにかメイド長として仮面を貼り直した。
「今の話は忘れなさい」
「それは難しいです」
「命令です」
「階級は同じ大尉です」
「この屋敷では私がメイド長です」
「先ほど軍務の体で呼び出したのでは?」
「エリス、そこまでにしておけ」
これ以上の追撃は命に関わると判断し、マークが強制的に間に割って入る。
「余談が過ぎました」
声から私情が完全に抜け落ちる。
「夜遅くにお呼びしたのは別件です」
差し出されたデータパッド。
「オーエンス少尉が服用している、錠剤についてです」
その名が出た瞬間、室内のふざけた空気が一掃された。
「成分分析の結果が出たのですね」
「はい」
「随分と早かったな」
「当家の医療班へ最優先で分析させました。通常なら数日を要しますが、判明した範囲だけでも直ちに共有すべきと判断しました」
画面に複数の化学式と、毒々しい赤色の警告表示が浮かび上がった。
専門的な数式の意味は分からない。だが、最上位の危険区分を示す表示が、それが単なる鎮痛剤ではない事実を雄弁に物語っている。
「その顔を見る限り、ただの薬ではないな」
「はい」
「毒か?」
ニキは静かに首を振る。
「いいえ」
「では、副作用の強い頭痛薬ですか?」
「いいえ」
意図的な沈黙。
「毒の従兄弟分です」
「人をただ殺すだけの毒ではありません。生かしたまま支配し、使い続けるための薬という意味です」
「強力な鎮痛作用が確認されました。軍用鎮痛剤と比較しても異常な数値です。さらに、服用直後に強い多幸感を生じさせ、特定の神経伝達を一時的に増幅する成分が含まれています」
「苦痛と恐怖を抑え、服用した者へ自分の状態が改善したと錯覚させます。そして、繰り返し服用させることで強い依存を形成する」
「それでは、麻薬と同じではないか!」
「依存性だけを見れば極めて近いものです」
「フラナガン機関は、自国の兵士へ麻薬を飲ませているのか!」
無意識のうちに傍らの椅子を蹴り飛ばしていた。硬質な音が響き、床を滑った椅子が壁に激突して横倒しになる。
「マリアは自分たちの仲間を守りたいと言っていただけの娘だ! その気持ちにつけ込んで薬漬けにしたのか!」
「落ち着いてください、ギルダー少佐」
「これが落ち着いていられるか! 本人へ危険性を説明したのか? 依存性があると伝えたうえで同意を取ったのか!?」
「提供された書類には、その記録がございません」
「なら同意など取っていないのと同じだ!」
扉の外で待機している使用人たちまでが、その尋常ならざる剣幕に身を竦ませている気配が伝わってくる。
「それだけではありません」
ニキは無機質に言葉を続ける。
「薬の成分は、脳内の特定の受容体へ直接作用するよう調整されています。既存の薬物では見られない構造です。医療班は、人間の感応能力に関係する神経活動を人為的に高める
ために設計された可能性が高いと見ています」
「ニュータイプ能力を、薬で引き上げている?」
エリスの声が低くなる。
「正確には、機関がサイコミュ波と呼んでいる特殊脳波です」
「人の頭を薬で壊しておいて、それをニュータイプへの覚醒と呼んでいるのですか?」
「エリス、抑えろ」
「抑えろ? これを聞いてどう抑えろというのです!」
「私はニュータイプが人類の新しい可能性だと信じています。だからこそ許せない! 人間を薬で従わせて都合の良い兵器へ変える行為のどこが革新ですか! ただの拷問でしょう!」
「私も同意見です」
ニキの応じる声は氷のように冷徹だ。
「ですが、怒りのまま乗り込めばマリア少尉の身柄や治療記録は別の施設へ移されます。今は、こちらが気づいたと悟らせてはなりません」
「……っ!」
エリスは唇から血が滲む。それでも溢れ出す怒りは収まらない。
「あの歪みは……」
機関でマリアと再会した時、彼女の力は以前より明らかに増大していた。しかし、ララァやハマーンから発せられる自然な広がりとは異質だった。
「あの違和感の正体がこの薬なのですね」
「薬だけが原因かは分かりません」
ニキは慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、少なくとも能力を引き上げる工程の一部であることはほぼ間違いないでしょう」
「直ちに服用を中止させるべきです」
「マリアは一時的に出向しているだけです。正式な所属はこちらに残っています。我々には彼女を原隊へ戻すよう要求する権限があります」
「私も同じ判断をしました」
「では、明日にでも」
「ただし、服用を中止することはできません」
「なぜです?」
「依存症状のためですか?」
「それもあります」
「極秘医療班は錠剤の分析だけでは判断できないとし、提出されたオーエンス少尉のカルテも確認しました」
「あの施設が正直なカルテを渡したとは思えないが」
「表面的な数値しか記載されておりません。投薬履歴も処置内容も黒塗りです」
「なら何が分かった?」
「伏せられていても、異常な数値までは隠し切れておりません」
別の資料が展開される。神経伝達速度、血液中の薬物濃度、肝機能、心拍、基礎代謝。不気味な数字の羅列。
「この薬を何の処置も受けていない人間が服用した場合、強い神経興奮、循環器系の異常、意識障害を起こします。医療班の試算では、成人であっても3日以内に死亡する可能性が極めて高いとのことです」
「なっ……」
マークとエリスの呼吸が同時に止まった。
「3日で?」
「はい」
「では、マリアは今日俺たちの前で飲んだ。それ以前から何度も服用しているはずだ」
「そのとおりです」
「なぜ生きている?」
ニキの表情が硬直する。
「薬の負荷へ耐えられるよう、すでに肉体へ何らかの処置を受けている可能性があります」
「処置とは何だ」
「現時点では推測しかできません。脳神経の反応を変える外科的処置、内臓機能を補助する薬物、代謝を変える長期的な投与。複数の可能性があります」
「人体改造……」
エリスの呟きを、ニキは否定しなかった。
「本人を詳しく診察しなければ断定はできません。ただ、通常の人間では耐えられない劇薬を継続して服用し、その状態で生活している。何もされていないと考えるほうが不自然です」
「何が人類の革新だ……」
「あの施設は、マリアを使い捨ての兵器にするつもりか!」
「あいつらはマリアを何だと思っている! 性能を上げるためなら中身を取り替えても構わない、モビルスーツの部品とでも思っているのか!」
「人間は部品ではありません」
エリスの声は、激高していた先程よりも恐ろしいほどに凪いでいた。
「私たちの仲間です。あの娘の体へ勝手に手を加えた者は全員その責任を取らせます。軍の研究機関だろうが、勲章をつけた将官だろうが関係ありません」
「私も、責任者を許すつもりはございません」
ニキが万年筆を置き、冷たく光る双眸で二人を見据えた。
「ただし、処罰はマリア少尉を取り戻したあとです。先に怒りを見せれば証拠を消されます」
「分かっている。分かってはいるが……!」
◇◇
「解毒薬は?」
「成分が分かったのなら中和する方法も作れるでしょう?」
「簡単ではありません」
「不可能なのですか?」
「現時点では、分からないとしか申し上げられません」
「ただし医療班からは、絶対に急な断薬を行ってはならないと警告されています」
「禁断症状で死ぬから?」
「それだけではありません。カルテの数値を見る限り、マリア少尉の現在の代謝と神経活動は、この薬が体内に存在することを前提としている可能性があります」
「薬へ依存しているのではなく、肉体そのものが薬を必要とする状態へ変えられていると?」
「その恐れがあります」
「神経系と内臓の機能が急激に低下し、最悪の場合は細胞組織の崩壊を起こして死亡する。医療班はそう推測しています」
「では、飲み続ければ?」
「強い神経興奮と代謝への負荷が、少しずつ肉体を損ないます」
「どのくらい生きられる?」
「分かりません」
「おおよその予測でいい」
「今ある資料だけでは予測できません」
ニキはマークの目を見据えたまま事実だけを告げる。
「ですが、このまま同じ投薬を続けることも極めて危険だとしています。少なくとも、健康なまま長期間服用できる薬ではありません」
執務室に重い静寂が降りる。
「シェルドには……」
エリスの声が微かに掠れる。
「言えませんね」
言葉とは反対に、握りしめた拳は小刻みに震え続けていた。爪が手のひらに食い込んでいる。
「ああ」
マークも頷く。
「事実を隠し続けることはできない。だが、治療の見通しもマリアを安全に確保する手段もないまま伝えるべきではない」
「これは隠蔽じゃない。そうでなければ俺自身が納得できん」
「カリス様にも?」
「伝えない」
マークはタイムラグを一切置かずに返す。
「あいつへ知らせれば、夜が明けるのを待たずフラナガン機関へ乗り込む」
「坊ちゃまなら、研究員を全員拘束し施設を接収なさるでしょうね」
「それで済めばいい。フロートニック家の権力を使い、施設そのものを潰しかねん」
冗談の色は微塵もない。
「戦線へ戻る前に部隊が公国軍の研究機関と正面衝突すれば、全員が処分される可能性もある」
「ですが、カリス様は隊長です」
「人事権を行使しマリアを原隊へ戻すなら、いつまでも秘密にはできません」
「分かっている」
マークは目を閉じ、深い深呼吸を繰り返す。
「ララァは?」
エリスが尋ねる。
「あの娘は大丈夫なのでしょうか」
「分かりません」
「私が感じた限りではマリアのような歪みはありませんでした。力もマリアよりはるかに大きい。それでもとても自然で透明でした」
「なら同じ薬は使っていない可能性が高いか」
マークが思考を巡らせる。
「だが調べなければ断言はできないな」
「シャア大佐が、自分の大切な女性へそこまで非道な処置を許すとも思えません」
「シャアが知っていればな」
「あいつは今マッドアングラー隊を率いて地球にいる。フラナガン機関が何をしているかすべて把握しているとは限らん」
「大佐へ知らせますか?」
「まずはマリアの状態を確認してからだ。証拠もなく知らせれば向こうも動きようがない」
「ララァだけではありません」
ニキが感情を削ぎ落とした声で補足する。
「クスコ、マリオン、ほかの候補生にも同様の処置が行われていないか、可能な範囲で確認する必要があります」
「全員を一度に救い出す権限はない」
「承知しております。まずは我々の人事権が及ぶマリア少尉です」
「ああ」
「ほかのみんなへは?」
エリスが聞く。
「どこまで伝えていますか?」
「リアム中尉にはすでに」
ニキの答えに、マークの表情に疑問符が浮かぶ。
「なぜジュナスが最初なんだ?」
「私が分析結果を受け取った時、すでにこの部屋におりました」
「呼んだのか?」
「呼んでおりません」
「ではどうして入った?」
「気づいた時には、そちらの椅子へ座っていました」
ニキが部屋の隅を指し示す。誰も座っていない空の椅子がある。
マークとエリスが、無言でそこを見つめた。
「相変わらずだな」
「警備体制を見直します」
「たぶん、見直しても無駄です」
「私もそう思います」
ニキも否定しない。
「シュルツ中尉にはこのあと伝えます。あの方は言動こそ騒がしいですが状況判断と秘密保持に問題はありません」
「ああ。戦闘以外では意外と冷静だからな」
「意外は余計だと怒りますよ」
「本人はいない」
「エターナ大尉は?」
「現在は……当主様と奥様が帰還を祝っておられますので」
「呼べないか」
「明朝にします」
「それがいい」
三人とも、それ以上はその地雷原へ踏み込まない。
「それで」
マークが先ほどの核心へ戻る。
「ジュナスは、この結果を聞いて何と言った?」
「笑っておられました」
マークの眉がピクリと動く。
「笑った?」
「はい」
「あいつ……!」
「嘲笑ではありません」
ニキが間を置かずに否定の言葉を被せる。
「リアム中尉はいつもと同じ顔でこう言いました」
『何をそんなに心配しているの?』
『マリアが死ぬのは、あと七十四年後だから大丈夫だよ』
「七十四年……」
エリスが反芻するようにつぶやく。
「マリアは今十七歳です。あと七十四年なら……」
「九十一歳だな」
「どこから出た数字だ?」
「分かりません」
「本人へ根拠を聞かなかったのか?」
「聞きました」
「何と?」
「宇宙がそう言っている、と」
マークがこめかみを強く揉む。
「いつもの電波発言か」
「はい。いつもの発言です」
普段ならまともに取り合わない。
ジュナスは未来を見たようなことを平然と言い放つ。誰も知らない過去を言い当て、まだ起きていないことを予告し、その理由を聞けば宇宙の声だと煙に巻く。
フラナガン機関の検査機器には何の特殊な脳波も映らなかった。未来予知の仕組みも心を読む方法も何一つ説明できない。
「……信じられると思いますか?」
エリスがすがるように尋ねる。
「分からん」
エリスは自らの両手を胸の前で固く組む。祈るような形だった。
「それでも……」
目を閉じる。
「あの人の出鱈目な予言が本当に当たってほしいと思ったのは、これが初めてです」
マークは一度だけ、誰も座っていない虚空の椅子へ視線を向けた。
そして、静かに頷いた。
「ああ。同感だ」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、マリアが服用していた赤い錠剤の正体と、フラナガン機関への疑惑を書きました。
マーク、エリス、ニキの反応や、ジュナスが残した七十四年後の予言など、印象に残った場面があれば感想をいただけると嬉しいです。