あれからしばらくして長かった冬も、ようやく終わりを迎えていた。
幻想郷を覆っていた雪はゆっくり溶け、白かった庭にも柔らかな緑が戻り始める。
冷たい風の代わりに、今は春の匂いを含んだ暖かな空気が流れていた。
八雲邸の庭では、一本の桜が静かに咲いている。淡い花びらが風に揺れ、時々ひらひらと舞い落ちていた。
その日の昼下がり。縁側には、穏やかな時間が流れていた。虎之助は、紫の膝の上にちょこんと座っている。
着ているのは春用に仕立て直された紺色の着物。冬物より少し軽く、柔らかな生地で作られていた。
深い夜空みたいな色合いは相変わらずで、金色の耳と九本のしっぽがよく映える。
春の日差しを浴びながら、虎之助は気持ちよさそうに目を細めていた。
耳がぴこぴこ揺れる。
しっぽもふわふわと左右に動いている。もう寒さに震えることはない。
しもやけも、永琳の薬と紫たちの看病のおかげですっかり治っていた。
細い手足は元通りになり、雪みたいに白く綺麗だった。
まだ少し幼さの残る小さな手。紫はその指先をそっと撫でる。虎之助の指がぴくっと動いた。
虎之助 「んぅ……」
くすぐったいらしい。
紫は少し微笑み、今度は手のひらを優しくなぞる。柔らかい。小さい。守ってあげたくなる手だった。
紫 「綺麗に治ってよかったわね」
すると虎之助は、自分の手をじーっと見てから小さく頷いた。
虎之助 「……いたくない」
その一言に、紫は静かに目を細める。あの吹雪の日を思い出したのか、虎之助のしっぽが少しだけ紫へ巻きついた。
紫は安心させるように頭を撫でる。黒髪を優しく梳くと、虎之助は気持ちよさそうに目を閉じた。
そこへ藍が戻ってくる。手には包みがあった。
藍 「紫様、買ってきました」
紫 「ありがとう、藍」
包みの中には三色団子。淡い桃色、白、緑の並んだ春らしい団子だった。
藍が皿へ並べると、虎之助の耳がぴんっと立つ。視線が完全に団子へ固定された。
紫は思わず笑ってしまう。
紫 「そんなに気になるの?」
虎之助はこくこく頷く。紫は一本取って渡してあげた。
虎之助は両手で大事そうに持ち、小さくはむっと食べる。
すると――しっぽが一気にぶわっと広がった。
虎之助 「……おいしい!」
顔もぱあっと明るくなる。紫と藍は思わず顔を見合わせた。よほど気に入ったらしい。
桜が風で揺れる。花びらが何枚か縁側へ落ちてきた。
けれど虎之助は桜より団子に夢中だった。一口食べるたびに耳がぴこぴこ動く。
紫はその様子を見て、くすっと笑う。
紫 「ふふっ、花より団子なのね」
虎之助は意味がよく分かっていない様子で首を傾げながらも、また団子をもぐもぐ食べる。
頬がほんの少し膨らんでいて、小動物みたいだった。紫はその頭をまた優しく撫でる。
虎之助は自然に背中を預けてきた。暖かな春の日差し。桜の花びら。
縁側で食べる団子。そして、母の膝の上。
虎之助にとって、それは今まで知らなかった幸せそのものだった。紫もまた、小さな九尾の重みを感じながら静かに空を見上げる。
冬は終わった。この子はもう、一人ではない。八雲邸の縁側には、穏やかで優しい春の時間がゆっくり流れていた。
春の陽気は心地よく、縁側には穏やかな空気が流れていた。
三色団子を食べ終えた虎之助は、満足したのか紫の胸へ寄りかかっている。ぽかぽかの日差し。
優しく背中を撫でる手。安心できる匂い。それらに包まれているうちに、虎之助のまぶたはゆっくり閉じていった。
虎之助 「……すぅ……」
小さな寝息。耳も力が抜け、しっぽもふわりと広がっている。紫はくすっと微笑んだ。
紫 「寝ちゃったのね」
虎之助は眠ったまま、ぎゅっと紫へ抱きついている。まるで離れたくないみたいだった。紫はその小さな体をそっと抱き上げる。
軽い。でも今は、あの雪山で抱き上げた時よりずっと温かかった。
紫 「少しだけ出かけましょうか」
そう言って、紫は人里へ向かった。春の人里は賑やかだった。
店先には花が並び、子供たちが走り回っている。
その中を、紫は眠る虎之助を抱いて歩いた。最初は人々も驚いていた。八雲紫が、小さな子供を抱いている。
しかも九尾の耳としっぽを持つ珍しい子。だが、紫は隠そうとしなかった。静かに、自然に言う。
紫 「この子は、『八雲虎之助』よ」
その言葉に、人々は目を丸くする。
“八雲”の名。つまり、紫が認めた家族ということだった。
眠っている虎之助は、紫の服をしっかり掴んでいた。顔も胸元へ埋めていて、完全に安心しきっている。
それを見た人々の表情が柔らかくなる。
「まあ……お母さんが大好きなんですねぇ」
「可愛い子ですね」
「耳もしっぽもふわふわ……」
否定も恐れもなかった。あるのは、優しい言葉ばかり。虎之助は眠ったままだったが、安心したのかしっぽがふわりと揺れる。
紫はその様子を見て、少しだけ目を細めた。今まで「商品」としてしか見られなかった子が、初めて“普通の子供”として優しく受け入れられている。
そのことが、どこか嬉しかった。お披露目を終えると、紫は八雲邸へ戻る。そしてそのまま虎之助を布団へ寝かせた。
だが、布団へ置かれた頃には虎之助もうっすら目を覚ましていた。
虎之助 「……ん……おかあさん……?」
紫 「ええ、ここにいるわ」
紫が横へ座ると、虎之助は安心したように小さく息を吐く。しばらく頭を撫でていると、紫はふと思い出した。
――あのスクール水着。虎之助を保護した時に着ていたもの。紫は静かに尋ねる。
紫 「虎之助、あの水着だけれど……どうする?」
虎之助 「え……」
虎之助の耳がぴくっと動く。少しだけ不安そうな顔。嫌な記憶でもある。でも同時に、最後に着ていた“自分の物”でもあった。
虎之助は布団をぎゅっと握る。少し迷ってから、小さな声で言った。
虎之助 「……とっておいて……」
顔はほんのり赤い。恥ずかしいのだろう。でも捨ててほしくはなかった。紫はその気持ちを否定しなかった。
紫 「分かったわ」
それだけを優しく返す。その後、紫は別室へ向かった。綺麗に洗って乾かしておいたスクール水着を広げる。
小さな女子用水着。しっぽ用の穴も開いている。紫はしばらくそれを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、白いゼッケンを取り出した。
そこへ丁寧に文字を書く。
『とらのすけ』
ひらがなで、優しく。それを水着へ縫い付ける。まるで「この子の持ち物」だと認めるみたいに。そして紫は、水着を丁寧に畳んだ。雑には扱わない。悲しい記憶ごと捨てたりもしない。
虎之助の過去も含めて、大事に保管する。最後に静かにタンスへしまう。
紫 「……これでいいでしょう」
部屋へ戻ると、虎之助はまた少し眠そうにしていた。紫が隣へ座ると、虎之助は安心したように近寄ってくる。紫はそっと抱き寄せ、頭を撫でる。虎之助は目を細め、小さく笑った。
その顔はもう、雪山で怯えていた子供のものではなく――ちゃんと愛されることを覚え始めた、小さな子供の顔だった。
春になってからしばらく経ったある日。紫は廊下を歩いている途中、虎之助の部屋から小さな物音が聞こえるのに気付いた。襖は閉まっている。
中からは、たんすを開ける音。何かを探しているようだった。
紫 「……?」
紫は気になって、そっと気配を消す。スキマを小さく開き、中の様子を静かに覗いた。部屋の中では、虎之助が真剣な顔でたんすを漁っていた。
やがて、小さく「あった……」と呟く。取り出したのは――あのスクール水着だった。
紫は少し目を細める。虎之助は周囲をきょろきょろ確認する。
窓は閉まっている。襖も閉めた。誰もいない。それを確認してから、虎之助はゆっくり着物を脱ぎ始めた。
白い肌が春の光に照らされる。まだ子供らしい細い体。そして、九本の金色のしっぽ。虎之助は少し緊張した様子で水着を広げる。
しっぽ穴の位置を確認してから足を通し、ゆっくり引き上げた。九本のしっぽを穴から丁寧に出して整える。最後に肩紐をかける。
少しねじれていたので、鏡を見ながら直していた。その仕草はどこか慣れていて、でも少しぎこちない。着替え終わると、虎之助は鏡の前へ立った。
紺色のスクール水着。背中から広がる九本のしっぽ。胸には『とらのすけ』と書かれたゼッケン。虎之助はその文字をそっと指で撫でた。
そして静かに自分の姿を見つめる。恥ずかしそうでもあり、安心しているようでもある。たぶんこの服は、辛い記憶だけではないのだ。“お母さんに拾ってもらえた時の服”でもある。
だから捨てたくなかった。その時。
紫 「似合ってるわよ」
後ろからお母さんの声がした。
虎之助 「っ!?」
虎之助は飛び上がるほど驚いた。耳がぴんっと立ち、しっぽもぶわっと膨らむ。慌てて水着を脱ごうとする。
だが紫は優しく止めた。
紫 「大丈夫」
ゆっくり近付いて、目線を合わせる。
紫 「ここでは、あなたがどんな格好をしようと誰も否定しないわ」
虎之助は固まった。
虎之助 「……でも……」
紫 「好きなんでしょう?」
虎之助はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。顔は真っ赤だった。紫はその頭を優しく撫でる。
紫 「なら、それでいいのよ」
その言葉を聞いて、虎之助の肩から少し力が抜けた。とはいえ、さすがに藍や他の人に見られるのは恥ずかしいらしい。虎之助は慌てて上からいつもの紺色の着物を羽織る。すると見た目は普通の着物姿だが、中はスクール水着という少し不思議な格好になった。紫はくすっと笑う。
紫 「隠したいの?」
虎之助 「……お、おかあさんだけならいいけど……」
耳まで真っ赤だった。紫はその反応が可愛くて、また頭を撫でる。その後、虎之助はそのまま邸内で過ごしていた。歩くたび、着物の下で水着の生地が少し擦れる感覚がある。でも嫌ではない。むしろ安心感があった。
ただ――問題もあった。
虎之助 「……ぅ……」
廊下で虎之助が困った顔をしている。紫はすぐ察した。
紫 「トイレ?」
虎之助は恥ずかしそうに頷く。スクール水着は上下一体型。
つまり、用を足すには着物だけでなく水着もかなり脱がなければならない。子供の虎之助には少し大変だった。しかもしっぽが九本あるので、引っ掛からないよう気を遣う必要もある。
紫は思わず笑いそうになるのを堪えながら、優しく言う。
紫 「手伝いましょうか?」
虎之助 「だ、大丈夫っ!」
虎之助は慌ててトイレへ駆けていく。だが数分後。
虎之助 「お、おかあさぁん……」
困りきった声が聞こえてきた。どうやら途中でしっぽが絡まったらしい。紫は小さく笑いながら立ち上がる。
紫 「はいはい、今行くわ」
そんなやり取りさえ、今の八雲邸では穏やかで暖かな日常の一部になっていた。