「さぁ、レースに戻りましょう!86号車がヤジキタ兄妹をオーバーテイクしたのが鮮烈でしたが、8位争いも凄いことになっているぞ!」
実況の田中の言葉と共に、モニターはセクター2終盤を駆ける三台のマシンを映し出した。
先頭を走るのはスカイブルーのポルシェ911カレラGTS。
その背後へぴたりと張り付く純白のR34 GT-R。
そしてさらに数台分後方から、同じく純白のランボルギーニが猛追している。
三台はまるで一本の鎖で繋がれているかのような車間を保ちながら、国道一号最高地点へ向かう上り勾配を駆け上がっていた。
「なんとポルシェ・911カレラGTSを駆るジャクソン・テイラーに、スカイラインGT-Rとランボルギーニの二台が襲いかかっている!」
実況席が熱を帯びる中、当のジャクソン・テイラーは驚くほど冷静だった。
ステアリングを握る両手に力みはない。
ルームミラーに映る二台を確認しながら、タイヤの摩耗具合、ブレーキ温度、エンジンレスポンスを頭の中で整理していく。
(ルーキーと、それに大石が来たか)
予選十位。神15入りを果たしたルーキー。それがジャクソンにとっての城島和也への評価だった。
確かに速いし、予選の走りも見た。新人離れした技術を持っていることも理解している。
だが、だからといって特別視しているわけではない。
MFGは予選だけで決まる競技ではない。
本戦は長い。
タイヤマネジメントやペース配分に、長丁場のレースを乗り切る精神力。
そしてなにより、レースを体験していると言う経験が重要だ。
神15に名を連ねるドライバーたちは、それらを乗り越えてきた者たちであり、そこには絶対的なプライドもある。
(想定より追い付くのは早いが、まだ問題はない)
冷静に状況を分析する。
最高地点を越えればダウンヒル。その先にはデスエリアがある。
無理に争う必要はないし、まずはこの区間を凌ぐ。
それがジャクソンの描くレースプランだった。
一方、その後方ではまるで別の戦いが繰り広げられていた。純白のランボルギーニを操る大石は歯を食いしばる。
額には汗が浮かび始めていた。
(くそっ……!)
速い。いや、ただ速いだけならまだいい。
問題は前を走るR34の動きだった。
理解できない。本当に理解できない。
これまで積み上げてきた経験を真っ向から対立し、破壊していく。経験は否定しているはずなのに、それでも自分より前を走るR34の方が速く、出口では必ず前へ進んでいる。
(なんでそこから曲がるんだよ!?)
上り勾配の右コーナー。
普通ならもう少し外から入る。
だがR34は違う。早めに向きを変え、かと思えば次のコーナーでは逆。まるで正反対のラインを選択する。それなのに破綻していない。
(意味がわからねぇ……!)
その矛盾した想いを噛み殺して、無理矢理ついていく。ブレーキは繊細に、アクセル開度を調整し、ステアリングを切る。
神経を張り詰め、その度に疲労が蓄積していく。
(これまで、こんな疲労感はなかった。未体験ゾーンなのか……!?)
気付けば呼吸も荒くなっている。視界がいつもよりも狭く、前を走るR34に集中している。でも、だからといって、離されるわけにはいかない。
ここで離れれば二度と追いつけない気がした。
その意地だけでアクセルを踏み続ける。
結果として、大石自身も気付かないうちに予選タイムを大きく上回るペースで走っていた。
そして三台は国道一号最高地点へ到達する。
(ここが最高到達地点……!)
上り勾配が終わり、眼下には箱根の山並みが広がる。
ヒルクライムからダウンヒルへの切り替わりで、ドライバーにとって極めて繊細な区間だった。
車体姿勢が変化し、荷重が変化する。タイヤへ掛かる力も変わる。ほんの僅かな操作ミスが大きなタイムロスへ直結する場所。
コースは緩やかな右。荷重が右と上から下へと切り替わる知られざるコースの難所……そこだ。
「ジャクソン!右だ!」
無線から飛び込んできた叫び声。
しかし、その警告は一瞬遅かった。ジャクソンが反応するより先に、白い影が視界へ飛び込んでくる。
右側。本来なら車を並べる場所ではない。縁石ギリギリ。路面状況も悪く、リスクしか存在しない場所。
そこへR34のノーズが突き刺さっていた。
(なっ――!?)
ジャクソンの目が見開かれる。
あり得ない。
そこは使う場所ではない。
オーバーテイクポイントですらない。
だが和也は迷いなく飛び込んでいた。
ガガッ、と音を立てて、右フロントタイヤが縁石を舐め、サスペンションが大きく沈み込む。
同時に下り勾配へ突入。ヒルクライムで後方へ掛かっていた荷重が、一気に前輪側へ流れ込む。
その瞬間、ポルシェのフロントがわずかに沈み、ジャクソンはステアリング操作へ集中する。
RR特有の挙動変化に一瞬だけ神経を奪われる。その一瞬こそが和也の狙いだった。GT-Rのフロントタイヤが路面へ食いつく。
柔らかく動くサスペンション。四輪へ均等に荷重が乗る。
そして、するりとまるで水が流れるようにR34はポルシェの前へ出た。無理矢理ではなく、接触もなく、タイヤスモークもない。
ただ自然に順位だけが入れ替わった。
「なんだよ、そりゃ……!?」
後方で見ていた大石の口から思わず声が漏れる。
今の光景は衝撃だった。
縁石際で荒れた路面。しかも上りから下りへ切り替わる最も不安定な場所。
普通なら車体が暴れる。事実、一瞬、前をいくR34の車体は右に旋回している中で浮く。
当然速度も落ちるはずだ。
だがR34は違った。右フロントが跳ねたのに車体はブレず、姿勢も乱れないし、速度も落ちない。
何事もなかったようにポルシェを抜いていった。
(そんなのアリかよ……!)
理解できない。理解できないからこそ……とにかく、恐ろしかった。
「な、なんとォォォ!!」
実況席で田中が絶叫する。
「最高地点到達直後!034号車がテイラーのポルシェをオーバーテイク!!こんな場所で前走車を抜くなんて私は聞いたことがありません!!一体何が起きたんでしょうか!」
リプレイ映像が流れるが、何度見ても異常だった。しかし、その隣で小柏カイは静かに映像を見つめる。
「最高地点到達後は下りになります」
落ち着いた声で語り始める。
「車の荷重が後ろから前へ移行する。その切り替わりを狙ったのでしょう」
モニターには荷重移動を示すCGが表示される。
「オーバーテイク時は緩やかな右旋回でした。つまり横方向の荷重を抱えながら、さらに下方向への荷重変化も発生する」
田中が大きく頷く。
「なるほど!」
「左右方向の荷重変化に対応できるドライバーは多い。しかし上下方向の急激な荷重変化まで完全にコントロールできるドライバーは少ない」
映像の中でGT-Rが沈み込みながら路面へ吸い付いている。
「城島選手のR34はテイラー選手のポルシェより柔軟な足回りだったのでしょう。荷重変化を吸収しながら速度を維持し、そのまま旋回力へ変換した。そして立ち上がりで前へ出た」
理屈としては理解できる。だが実際に行うのは別問題だった。
そして何より、その一瞬を見抜く観察眼と、迷わず飛び込む度胸、成立させる技術。その全てが揃わなければ不可能だ。
ポルシェのコクピットでジャクソンもすでに理解していた。
(Shit……)
奥歯を噛み締める。
(荷重変化の切り替わりを狙ったのか)
事実、その瞬間だけはステアリング操作へ意識を奪われていた。RRの強みを発揮する前のわずかな隙。そこへナイフのように差し込まれたのだ。
ヴォォォン、先行するR34がエンジン音を響かせながら箱根ドールハウス美術館前を通過していく。
その先にはテクニカルなダウンヒル。
追いつけるか。追い返せるか。
それは自分次第だ。
だが今、ジャクソンの胸にあったのは怒りではない。
純粋な驚きだった。
予選十位のルーキー。
その認識は変わらない。
だが、そのルーキーは今、自分を抜いた。
神15の一角を相手に。
誰も仕掛けない場所で。
誰も選ばないタイミングで。
(きみは、そんな真似ができるドライバーなのか……034号車)
その視線の先で、純白のR34は何事もなかったかのように次のコーナーへ飛び込んでいった。
まるで今のオーバーテイクなど最初から決まっていたと言わんばかりに。
▼
最高地点でのオーバーテイクは、我ながら会心の出来だった。
上りから下りへ切り替わる一瞬。
荷重が後ろから前へ流れる僅かな隙。
あれは好じいちゃん……星野好造に嫌というほど叩き込まれた戦法だ。
上りと下りが複雑に入り混じる区間で、何度も何度も同じようにやられた。
車が不安定になる瞬間、ドライバーが無意識に車体の制御へ意識を割く瞬間、そこへ鼻先を突っ込む。
言葉にすれば簡単だが、実際には相手の癖やタイミングを見抜かなければ成立しない。
おまけにサーキットではほとんど使う機会がない。
上下方向の荷重変化を利用したオーバーテイクなど、峠を走り込んだ人間特有の武器と言っていい。
だからこそ効く。特に峠経験の少ないドライバーには。
ポルシェの横へ並んだ瞬間の反応を思い出す。
ジャクソン・テイラーは間違いなく上手い。神15に名を連ねるだけの実力者だ。
だからこそ成立した。
そして、最高地点で仕掛けた理由はもう一つあった。
ここから先はダウンヒルで、さらにその先にはデスエリア。タイヤへ最も負担が掛かる区間が続く。
タイヤの戦闘力を考えれば、ポルシェの後ろで空気を乱されながら走るのは得策ではない。
ただでさえ911はリアタイヤへ大きく荷重が乗る。ポルシェは立ち上がりも鋭い。追いかける側はブレーキングも加速も神経を使わされる。
ならば前へ出る。
自分のペースを作る。
そして前の車を追う。
その方がレース全体で見れば圧倒的に楽だった。
(それに……)
ルームミラーを見る。
少し後方。
スカイブルーのポルシェの後ろに白いランボルギーニがいる。
あの最高地点でのオーバーテイク。
正直に言えば、あれはポルシェを抜くためだけのものじゃない。
あのランボルギーニに見せるためでもあった。
ここで仕掛ける。
ここで抜く。
そういう走り方もある。
そういう世界もある。
言葉ではなく走りで伝える。
よく俺が祖父……城島俊也と走る時に投げかけれたメッセージだ。
後はそれをどう受け止めるかは、本人次第だ。
そこから先は、もう自分の役目じゃない。
(メッセージは投げた。自分で決めるだけだ)
そう思いながら視線を前へ戻す。そして胸の奥で別の感情がゆっくりと顔を出していた。
(ここからは攻めさせてもらう)
口元が自然と緩む。ふと脳裏に浮かんだのは筑波山の夜景だった。
好じいちゃん。そして祖父。
あの二人なら今頃どう思うだろうか。
テレビ越しか、配信か……酒でも飲みながら見ているのか。
(たぶん、好じいちゃんやお爺ちゃんも見てるだろうしな……)
無線ボタンを押す。
「和也からブースに!俺の前は誰がいる?」
すぐに雫の声が返ってくる。
「BMW・M6の柳田選手が三秒先にいるよ!」
三秒。遠いようで近く、近いようで遠い。
だが今のペースなら十分射程圏内だ。
「まぁ、それを目標にするか……」
アクセルを踏み込む。R34のRB26が唸る。
温存させたタイヤはここからの降り、そしてストレートのブレーキング競争で一気に使い切る。
集中しすぎるのは禁物。だから自分の集中をクールダウンするために、モードを切り替えた。
「ここからは足を使うぞ!うりゃあああああーーーっ!!」
「それ!!」
即座に雫のツッコミが飛ぶ。
「叫ぶトリガーって一体なんなのよ!?」
「気合い!」
「雑すぎるわ!!」
無線越しに聞こえる怒鳴り声に笑いながら、和也は次なる獲物へ向けて純白のR34を解き放った。
その先には神15。
そして、まだ見ぬ高みが待っていた。
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※全話を含めた作品の副題を変更しています。