テイラーを置き去りにして、ダウンヒルで速度を上げ始めた034号車のスカイラインGT-R。
その速度の伸びは、それまでの区間を余力を残しながら走っていたことを何より雄弁に物語っていた。
大石は無意識にステアリングを握る手へ力を込める。
つい先ほどまで視界のどこかにいたはずの純白のR34は、もう見えない。
死に物狂いで追いかけた。タイヤを削り、神経を削り、プライドまで削りながら食らいついてきた。
それなのにあの男は、こちらを振り返ることすらなく順位を上げ、さらに前へ進んでいく。
その事実が、大石の胸の奥をじわじわと焼いていた。
「代吾からブース! テイラーを抜かした034号車はどこいる!」
怒声にも似た無線に、ブースから呆れた声が返る。
「そんな大声でなくても聞こえてる」
「いいから教えろ!」
「だから気にするな。お前は前の8号車をオーバーテイクすることに集中しろ!」
前方を走るスカイブルーのポルシェ。
8号車、テイラーのマシン。
それが今の標的だ。そんなことは分かっている。だが、大石の頭の中には純白のR34しか存在していなかった。
だんだん腹が立ってきた。いや、もうそんな生易しい感情ではない。散々追いかけ回させておいて、最後は置き去り。
まるで子供扱いだ。
「はっ!やだね! アイツ……手を抜いてやがった。散々俺を……キング・オブ・スーパーカーのランボ様をコケにしやがった。ぜってぇ許さねぇ!」
吐き捨てるように叫ぶと同時にアクセルを踏み込む。
ランボルギーニのV10エンジンが咆哮を上げた。
予選、一周目、そしてこれまでのレースペース、そのすべてを上回る勢いで車体が前へ飛び出していく。セコンドブースから見れば危険極まりない猛プッシュだった。
「大吾! この先はデスエリアだぞ!? 勝負はデスエリアを抜けたあとでもできる!」
しかし、その言葉はもう届いていなかった。
大石の中で何かが切れていた。
これまで守ってきたプライド。ランボルギーニ乗りとしての流儀。マシンポテンシャルを最大限に活かして勝つという哲学。
そんなものは、あのR34に粉々に叩き壊された。
今の大石に残っているのは、ただ一つ。
追いつきたいという純粋な衝動だけだった。
(034号車に……あのバカみたいに速い旧車に追いつかねぇと、俺がここにいる意味なんてないだろーが!)
セクター3の下り勾配へ飛び込んだランボルギーニは、そこからさらに牙を剥いた。
闘牛。
その異名に相応しい暴れっぷりだった。
「ああー! 034号車に続いて大石のランボルギーニがぁぁー!」
実況席の田中も思わず声を張り上げる。
「小涌谷のダウンヒル! デスゾーン目前で果敢に仕掛けていくー!」
その狂気的とも言える攻めを、最も間近で見ていたのは前を走るテイラーだった。
バックミラーに映る白いランボルギーニ。
一つコーナーを抜けるたびに近付いてくる。
冗談ではない。
この区間は本来、ポルシェが優位な区間だ。
車重も、旋回性能も、タイヤへのマネジメントも、どれを取っても図体が大きく、重いランボルギーニには不利なはずだ。
それなのに。
(おいおい、大石。それは無茶ってもんだろ……!)
隙を見せれば一気に行くと言わんばかりのプッシュ。
そしてそれはランボルギーニというハイパワー車にとっては自殺行為に等しい。
エイペックスを抜けるたびに目に見えてランボルギーニの車体が暴れる。ハイパワーを受け止め切れず、巨体がアウト側へ流れる。
エイペックスから抜けるたびに車は横にずれ、ガードレールが近づく。
普段よりも近い。
もはやぶつかってるのではないかと思える距離だ。
だが、大石は踏む。がむしゃらに踏み続ける。
その姿は、まるで自らの限界へ牙を剥く猛獣そのものだった。
(パワーを受け止めきれない! 車体が路面から剥がれる!)
グォッ!リアタイヤが悲鳴を上げる。V10エンジンが吐き出す莫大なトルクが後輪を押し流し、車体が横へ逃げる。
普通ならアクセルを戻す。ほんの数パーセント戻すだけで安全圏へ帰れる。
だが戻さない。
(いや、我慢だ!)
アクセルワークで横Gを消し、姿勢を整える。
そして最短で加速へ繋げる。
コーナーへ飛び込むたびに試行錯誤を繰り返しながら、大石は少しずつ答えへ近付いていた。
あの訳の分からないR34。
走るたびに変わるライン。
常識から外れた侵入。
それなのに誰よりも早く収束する挙動。
ただただ理解できなかった。しかし追いかけ続けた結果、身体だけは学び始めていた。
前を走るテイラーも、その変化に気付く。
コーナーを抜けるたびにランボルギーニの動きが洗練されていく。
心の中の理性が、ブレーキを踏め馬鹿野郎!と泣き喚いているが、ドライバーとしての本能がアクセルを決して緩めるなと急かす。
あの訳のわからないライン。走るたびに変わるライン。しかし早く収束するラインに振り回された大石に、ある変化が訪れていた。
(まだ車体が路面から剥がれる!アクセル開度をコンパクトに!)
タイヤがパワースライドする。
横Gを消せなければガードレールと仲良しになること必至だ。
しかし、ランボルギーニは接触ギリギリで立ち上がる。
命がすくみそうな瞬間、針の穴を通すような瞬間をいくつも潜り抜けて……大石は自分が乗るマシンの限界を知りはじめようとしていた。
(アクセルを調整して前へ。一刻も早く加速体制に入る!)
最初は暴れていたが、今は違う。
暴れながらも前へ進む。
危険なだけではない。
確実に速くなっている。
コーナーを抜けるたびに、この車は、確実に、その精度を見極めている……!
テイラーの背筋に冷たいものが走った。
「ああー! 小涌谷のテクニカルセクションで大石が攻める! 攻める!」
田中が叫ぶ。すると解説の小柏が静かに続けた。
「彼は良くも悪くもマシンのポテンシャルを活かせる場所で勝負するドライバーです。この区間でランボルギーニを振り回すような走りは、これまで見たことがありません」
「つまり成長していると?」
「何かを掴み始めているように見えますね」
もうデスエリアは目と鼻の先。
大石は無意識だが、前を走るテイラーは消耗させられっぱなしだった。
このままデスエリアまで後ろに突かれると、どちらにしてもカマボコストレート……いや、その前に撃墜される。
そして、その撃墜に耐えうるほどのタイヤの戦闘力も、大石の怒涛のペースに付き合えば根こそぎ奪い取られるだろう。
(ここで仕掛けてくるとは、誤算だったな)
ふと、テイラーは笑みを浮かべる。
今年のMFGはルーキーの参戦や、ミハエル・ベッケンバウワーの参戦によって変革期を迎えているという自覚はあった。
ハイパワーマシン、高度に制御された電子機器で武装したマシン、それよりももっと必要なものがあると、心のどこかで思っていた。
しかし….その答えを参戦からマシンポテンシャルのみを重視していた男から学ばされるとは。
MFGとはつくづく奥が深く、面白い。
(その幅広の図体をねじ込まれれば、こちらとしては立ち上がり時のラインを維持できない。ノーズを突き刺されれば万事休すだ)
デスエリアに入る最後のコーナー。
キィッ――――!
ポルシェのリアタイヤからわずかに白煙が上がる。
ラインがほんの数センチ乱れる。
その隙間。わずかに見えたチャンスに……大石は迷いなくノーズを突き刺した。
(……君はいつから、テクニックセクションで果敢に攻めるチャレンジングなドライバーになったんだ?)
テイラーのポルシェのインに、白いランボルギーニが並ぶ。タイヤが暴れる。スキール音、タイヤから白煙が2台同時に上がる。
(横に逃げる!タイヤをもっとコンパクトに!もっと、もっとだ!)
「……クレイジーだぜ、大石」
テイラーが呟く。
それに応えるように大石は叫んだ
「死ぬ気で踏み込めぇぇーーーっ!!」
切り返しのコーナーで無理やりノーズをねじ込み、そのまま立ち上がりのラインを奪う。
ポルシェは行き場を失う。
そして次の瞬間。
ランボルギーニが完全に前へ出た。
「デスエリア目前! 大石のランボルギーニがテイラーのポルシェをオーバーテイクー!!」
悲鳴にも似た実況が響く。
本人はというと、自分でも何をやったのか半分理解していなかった。
涙目になりながら前を向く。
だが次の瞬間にはブースから怒鳴られる。
「喜ぶなバカ! デスエリアだ!」
「あっ」
我に返った。
その瞬間にはもう火山性ガスが立ち込める地獄の入り口が目前に迫っている。
だが大石は笑った。
これでまた追える。
あの純白のR34を。
「見事なオーバーテイクでした。ストレートで抜くよりも実りのあるものですよ、これは」
小柏が感心したように言う。
「これで大石が8位!その先、城島の白いR34がぁーー!?」
田中の声が悲鳴へ変わった。
映像が切り替わる。
火山性ガスによって視界が著しく悪化したデスエリア。
その白い霧の中で、純白のR34が獲物へ襲い掛かる猛獣のようにBMW・M6へ迫っていた。
「うわぁぁああーー!? デスエリアで白いR34がBMWにぃぃーー!!」
実況席が騒然となる。
柳田も思わず目を見開いた。
小涌谷踏切を越え、テクニカルセクションを立ち上がった直後。
左旋回からの加速区間。
本来なら視界の回復を待ちながら慎重に進入する場面だった。
だが白いR34は違った。
エイペックスを抜けた瞬間、アウト側へ膨らむBMWのラインへ被せるように車体を並べてきたのだ。
それもインではない。
外側から!
まるで相手の逃げ道を塞ぐような強引な位置取りだった。
(なんてところで仕掛けてきやがる!?)
柳田の背筋に冷たいものが走る。
火山性ガスによる視界不良。路面状況も見えない。次に何が現れるかも分からない。
そんな状況でサイドバイサイドを仕掛けるなど正気の沙汰ではない。
しかし。隣のR34はまるで迷っていなかった。
(これじゃ加速できない!)
アクセルを踏みたい。
だが踏めない。
横にはR34がいる。
視界もない。もしここで無理に踏めば接触する。
そう考えた瞬間だった。
雫のインカムから聞こえる和也の声は、どこか楽しそうですらあった。
「なんだ、視界が悪いからアクセル踏めないのか?」
軽口だった。だがその言葉の裏には確かな圧力があった。
「大したことないな、BMWのV8ツインターボってのは!」
挑発とも取れるその言葉に、雫は思わず顔をしかめる。
R34はなおも隣……いや、少しずつ前へ出ている。その様子をセコンドブースで見守っていた雫は思わず頭を抱えた。
「何やってんのよあのバカぁ……」
つい先ほどまで冷静そのものだった。
タイヤを労り、状況を分析し、完璧なペース配分でレースを進めていた。
それがテイラーを抜いて以降、急にタガが外れたように攻め始めている。
しかも場所はデスエリアだ。
普通のドライバーなら慎重になる。
だが和也は違った。
むしろ誰よりも積極的に仕掛けている。
「視界のない中でサイドバイサイド! 宮ノ下交差点手前のわずかなストレート区間で何をやっているんだこの男はーー!!」
田中の絶叫が響く。
真っ白な火山性ガスの中で、二台は並んだまま交差点へ向かう。
そして緩やかな右コーナーへ差し掛かった瞬間だった。
「せーのっ!」
和也がステアリングを切る。
「うおりゃああああ!!」
R34が一気に向きを変える。
荷重移動と旋回、そして加速。
すべてが噛み合った。
柳田も必死に応戦するが視界の悪さが判断を鈍らせる。
ほんのわずかな躊躇。
その一瞬が勝負を決めた。
白いR34が半車身。
さらに一車身。
完全に前へ出る。
「抜いたぁぁぁーー!!」
田中が叫ぶ。
「デスエリアでオーバーテイク成功!BMW・M6を攻略です!」
火山性ガスの中から飛び出した純白のR34は、そのまま何事もなかったかのように前方へ加速していく。
「鮮やかなオーバーテイクでした」
小柏が静かに言う。
「普通ならリスクを嫌う場面です。しかし彼はリスクを受け入れた上で、その先にあるリターンを取りにいった」
「まさに攻めの走りですね!」
「ええ。そして何より……」
小柏はモニターに映るR34を見つめた。
「彼は恐らく、この視界の悪さすら利用していましたね」
その言葉に実況席が静まり返る。
純白のR34は、なおも火山性ガスの中を切り裂くように前へ進んでいた。
和也「対向車が来ないなら道幅いっぱい使ってなんぼ」
雫「こいつバカなんじゃないの?」