東京都、練馬区の工業団地。
都心から少し離れたそこは、昼間でもどこか薄暗い空気が漂っていた。
大型トラックが頻繁に行き交い、古びた工場のシャッターには油汚れが染み付き、アスファルトには長年染み込んだオイル跡が黒く残っている。
金属を削る音。エアツールの甲高い駆動音。遠くから聞こえる大型プレス機の振動。そんな工業地帯特有の喧騒の中に、その店はあった。
『SPEED FACTORY FLAT RACING』
年季の入った看板で、シャッターは半開きではなく全開で、店の中まで外気が流れ込んでいる。
中には数台のスカイラインGT-R。
BNR32、BCNR33、そしてR34。時代ごとのGT-Rが並んでいる様子は、まるで日産GT-Rの博物館だった。
店先に立った瞬間、オイルとガソリンの混ざった独特の匂いが鼻をくすぐる。
嫌いじゃない。むしろ、この匂いを嗅ぐと妙に落ち着くような気がした。
「待ってたよ。君が城島 和也くんだね」
声をかけてきたのは、作業着姿の男性だった。
オイルで少し汚れたグローブ、袖をまくった作業着。
黒縁眼鏡の奥に見える鋭い目付き。年齢は四十代後半くらいだろうか。整備士というより研究者めいた空気を纏っているが、その腕や指先には長年工具を握ってきた人間特有の硬さが見えた。
「初めまして。黒木 隆之さんでいいですか?」
「あぁ。君のことは妻からよく聞いているよ。連絡を受けた時は驚いた」
そう言って黒木さんは少しだけ笑う。だが、その視線はこちらを観察するようでもあった。
値踏み、というほど嫌なものではない。どちらかといえば、「本当に乗れる人間なのか」を確認しているような視線だ。
それも当然だろう。MFGに出る、ということはつまり、命を懸けて走るということだ。
ショップ側としても、誰にでもマシンを貸すわけではない。
「夫人とは昔から色々とお世話になってましたから」
俺がそう言うと、黒木さんは少し意外そうな顔をしたあと、どこか嬉しそうに口元を緩めた。
黒木 ミカ。
自動車関係を中心に活動しているフリーライター。俺とミカさんの出会いは、数年前の取材だった。
向こうはライター。俺は取材を受ける側。最初はそれだけの関係だったのだが、妙に馬が合った。
何より、ミカさんの記事は“現場の匂い”がした。
最近のネット記事にありがちな、スペック表を並べただけの薄っぺらい内容ではない。
エンジンの熱。タイヤの焦げる匂い。深夜の湾岸線の空気。メカニック達の怒号。そういう「現場にいた人間にしか書けないもの」が文章の中に混ざっていた。
だから俺は、何か取材を受ける時はなるべくミカさんを指名していた。素人ライターより、遥かに信用できたからだ。
「フリーライターで君の専属にしてもらえたからね。妻も貴重な経験ができたとよく話していたよ」
「こちらこそ助かってました。変に盛らない記事を書いてくれる人、最近少ないですから」
「ははっ、違いない」
黒木さんはそう笑いながら、店の奥へ案内してくれる。作業場の一角には、小さな商談スペースが設けられていた。
金属製の机。簡素なソファ。壁にはレース写真や古いGT-Rのポスターが貼られている。棚には歴代GT-Rのミニカーまで並んでいた。
「散らかってるけど座ってくれ」
「お邪魔します」
椅子に腰掛けると、黒木さんは缶コーヒーを二本持ってきてくれた。
「しかし、まさか君がMFGに興味を持つとはね」
「俺も半分くらい勢いなんですけどね」
「勢いで出るレースじゃないんだけどな、あれは」
「まぁ、それはそうなんですけど」
缶コーヒーを開けながら苦笑する。正直、自分でもそう思う。MFGは国内最高峰の公道レースだ。単なる走り屋遊びではない。
世界中のメーカーやスポンサー、チューナー達まで注目している巨大コンテンツであり、プロドライバー崩れや化け物みたいな連中がゴロゴロいる。
そんな場所に、大学生がノリと勢いで挑むのだから無謀にも程がある。
「さて、そろそろ本題に入ろう」
黒木さんが缶コーヒーを机に置いた。空気が少しだけ変わる。さっきまでの雑談とは違う、仕事の顔だった。
「和也くん。君は本気でMFGに挑戦するのかい?」
「ええ、とある人……まぁ俺のもう一人の祖父みたいな人からお願いされまして」
「また変わったエントリー理由だね」
「まぁ、きっかけは人それぞれですから」
黒木さんは小さく頷く。
MFGに出る理由なんて、本当に人それぞれだ。
金。名声。メーカー契約。己の腕試し。昔の夢。……あるいは、ただ走りたいから。
理由なんて後付けでしかないのかもしれない。
「妻が“くれぐれもよろしく”と言っていたからね。わかった。君からの要望なら受けよう」
「ありがとうございます」
「ただし、半端な気持ちなら途中で降ろす。MFGは遊びじゃない」
その言葉だけは、少し重かった。
それは冗談のない声だった。
「……はい」
俺も自然と真面目に頷く。黒木さんはそのままパソコンの前に座り、キーボードを叩き始めた。
「マシンのセッティングはこちらでやる。本戦出場時の賞金分配はどうする?」
「賞金獲得前提で話すの、地味にプレッシャーなんですけど」
「君なら本戦は確実だろう。ウチのワークスマシンを使えば尚更ね」
さらっと凄いことを言われた。
ワークスマシン。つまりショップが本気で作った車両ということだ。ただのデモカーではない。
MFGで戦う前提の車。そんなものを貸し出すという時点で、かなり破格である。
「期待充分と受け取っておきます」
「そうしてくれて構わない」
黒木さんは笑う。
だがその目は真剣だった。
「賞金についてはお任せします。お金稼ぎで出るつもりじゃないですし」
「じゃあ五十対五十にしておこうか。マシンの維持費もあるからね」
「妥当だと思います」
MFGは金がかかる。タイヤ。ブレーキ。エンジンメンテナンス。遠征費。消耗品。特にGT-Rみたいな重量級ハイパワーマシンは、湯水のように金を食う。
黒木さんは誓約書を印刷し、机へ差し出した。内容を確認し、俺も持ってきていた印鑑を押す。
これで正式契約。もう後戻りはできない。
「よし」
書類をまとめた黒木さんは立ち上がった。
「じゃあ、実際に君の担当を紹介しよう」
「担当?」
「ウチでMFG車両を見てるメインメカニックだ」
そう言って工場の奥へ歩いていく。
店内にはGT-Rが並んでいた。
ジャッキアップされているR32。
エンジンを降ろされたR33。
そして奥には、白いR34が見える。
作業場独特の熱気。
工具の音。
エアインパクトの炸裂音。
そこはまるで戦場の整備基地みたいだった。
「雫」
黒木さんが呼びかける。すると、一台の車の下から、作業着姿の女性が車輪付きボードに寝転がったまま滑り出てきた。
工具を片手に持ち、額には薄く汗。
髪は邪魔にならないよう後ろでまとめられている。
「なに? 父さん」
作業用グローブを外しながら彼女が顔を上げる。そして俺を見た瞬間、少しだけ眉をひそめた。
「この人は城島 和也くん。五月のMFGに出場するパイロットだ。この子にマシンを準備して欲しい」
「……は?」
数秒の沈黙。
次の瞬間。
「え、本気!? 五月ってもうすぐじゃん!? 狂ってるの!?」
至極真っ当な反応だった。
「黒木さん、こちらの女性は?」
「黒木 雫。俺たちの娘だよ」
「どうも……」
軽く会釈すると、雫さんはじっとこちらを見る。まるで新しい部品の性能チェックでもするみたいな視線だった。
「父さん。この人、本当にMFG出るの?」
「出る」
「今からマシン用意するの?」
「用意する。ベースはお前の組んだやつがあるだろ?」
「頭おかしいんじゃないの?」
「今さらだろう」
「それはそうだけど!」
まるで漫才のような会話だった。だが、そのやり取りの中にも、互いへの信頼が見えていた。
雫さんは大きくため息を吐く。
そして工具を置き、俺の前まで歩いてきた。
「……ひとつ聞くけど」
「はい」
「君、私のGT-R、ちゃんと踏める?」
その言葉だけで、この人が本物だとわかった。
湾岸ミッドナイトで一番好きな人