SPEED FACTORY FLAT RACING
開け放たれたその工場の中では、リフトアップされた車と工具の音、エアコンプレッサーの駆動音だけが響いていた。
MFG初戦。
ここで組まれたR34が、全世界3000万人が視聴するそのレースにて、初登場で5位という戦績を収めた。その反響は凄まじかった。
古くからFLAT RACINGに車を預けてくれていた人たちは勿論、その戦績を知ったことからクルマを仕上げて欲しいと依頼してくる人も増えた。
ただ、FLAT RACINGは人数を絞っている。それら父の昔からのこだわりで、父の認めた人しか雇わないし、追加で人を入れるのも嫌がる。
だから受けられる仕事は限られるし、身の丈に合わない仕事はまず受けない。断りの連絡を入れるなんて日常茶飯事だ。
さて、そんな中で私、黒木 雫はMFGへ向けて白いR34 GT-Rの調整を進めていた。
その一方で父は、別件で受けたJARI城里テストセンターでの最高速トライに向けた車両の最終確認を行っている。
「そっちはどう? 父さん」
作業が一区切りついたところで、私は別の作業エリアでリフトアップされた車の下で足回りを調整している父に話しかける。
「あぁ、いい感じに仕上がってきた」
フロントの足回りを調整していた父は満足そうに頷く。先日、テスト走行を終えて、父自身がステアリングを握ったこの車はとてつもなく早い速度を叩き出していた。エンジン周りはもう終わっていて、最後に気になっていた足回りを調整しているのも知っている。
「明日の走行じゃ数字は出ると思うよ」
リフトアップされているのは、天井に設置されたLED大型ランプの光を鈍く反射するBCNR33 GT-R。
父……黒木隆之が、長年積み重ねてきたノウハウと執念を注ぎ込んだ最高速仕様のGT-Rだった。
空力に冷却、耐久性、そして高速安定性。時速320キロの向こう側を見据えて組み上げられたその車は、もはや普通のGT-Rとは別物と言っていい。
まさに最高速という魔物に魅せられた男が作り上げた怪物だ。私に言わせれば父の病気みたいなものだ。最高速トライが近づけば近づくほど、父は仕事を後回しにして自分の車を仕上げていく。
エンジンを降ろしてバラして、データを見直して、夜中まで車をいじり倒して仕上げていく。
けど、そんな父の姿を私は嫌いにはなれないし、それでいいとも思っていた。
父がそうやってこだわっている姿は、1人のメカニックでありチューナーの端くれである自分には尊敬できるし、憧れもある。
だから今、私は自分の組んだR34に集中する。
MFG第二戦は芦ノ湖GT。
全長25.3kmで、勾配の激しかった小田原パイクスピークとは異なり、芦ノ湖周辺を駆け抜けるテクニカルなコースだ。
コース内の直線区間は極端に少なく、まともに速度を乗せられる場所は駅伝ストレートくらい。
さらに厄介なのはスリッピートラップ。富士山爆発の影響で、芦ノ湖の限られたエリアには降り注ぐ火山灰によって路面μが著しく低下する危険区間があって、そこがデスエリアとして恐れられている。
初戦とは求められる性能は違う。
だからこそR34の方向性を見直していた。
小田原パイクスピークで和也が見せた走り……あれはGT-Rの走らせ方ではない。
ATTESA E-TSによる四輪駆動の安定性を利用するのではなく、リアを主体に荷重を作り、FRのように向きを変えていく。普通なら破綻するが和也はそれを成立させてしまった。
そして私も理解していた。和也の感覚に最も合っているのは、今の4WD寄りのGT-Rではない。もっとFR寄りの性格であり、リアタイヤを使うセッティングが合っていると思う。それは開幕戦で取れたテレメータリングのデータでも証明されている。
本音を言えば大規模な改修を行いたい。
駆動系を見直し、車重も気持ち軽くしたいし、車両全体のバランスも変えたい。やりたいことはいくらでもある。けれど、現実問題として、第二戦までにそこまでの改修は難しいし、間に合わない。
だから今できる範囲で方向性だけを変える。
少しずつ確実に、乗り手である和也が戦いやすい方向へ。まとめたデータを眺めながら考える。
グリップウェイトレシオ。MFGにおいて最も重要な概念の一つは、どれだけ馬力を上げても、どれだけ優れた足回りを組んでも、タイヤが受け止められる性能には限界があることを知らしめている。
結局のところ、タイヤが使える範囲以上の性能は無駄になる。
ならば答えは単純、タイヤが使い切れる上限に合わせて車を作り込んでいく。
エンジンも、足回りも、空力も、車重と当てはまるタイヤのステータスを見極め、全てをその枠の中で最適化する。速さとは、性能を足し算することじゃないく、限界の中で無駄を削ることだ。
その考え方は父とは少し違うかもしれない。けど、それが今のMFGで勝つための答えだと、私は考えていた。
そして、その答えを証明するために。
第二戦へ向けて、少しずつ私はその積み上げていく作業を前へと進めていくのだった。
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黒木隆之は、今も最高速という魔物に取り憑かれている。
時速320キロを超えた先の世界。普通の人間からすれば、それがどれほど危険で、どれほど馬鹿げた挑戦なのか理解できないだろう。
だが、隆之にとっては違う。
もっと速く、もっと前へ、もっと完成されたマシンを。その欲求だけは何十年経っても消えなかった。
悔いのない人生だ。今までそうやって生きてきたし、その生き方を支えてくれる人たちがいる。だから今も走り続けていられる。
最高速トライに挑む時、隆之はほとんど自分の車にかかりきりになる。エンジン、タービン、冷却、ブレーキ、空力、足回り。その全てを一つずつ確認し、納得できるまで手を入れる。
時速320キロを超えた世界では、小さな妥協が命取りになる。アライメントが僅かに狂えば車は真っ直ぐ走らない。空力バランスが崩れればフロントが浮く。熱対策を怠ればエンジンは簡単に壊れる。
だから妥協しない。自分がアクセルを床まで踏み抜けると確信できる一台を作る。
それが黒木隆之の流儀だった。
正直、今はいい性能の車は多くある。
とくにGT-R35はいい車だ。速いし完成度も高い。最新技術の塊であり、ノーマルの状態ですら多くのチューニングカーを置き去りにする。
……だが、それでその領域に行かせて何の価値があるというのか。
もし自分が、効率だけを求めるならとっくに別の車へ乗り換えている。だが追い求めているのは効率ではない。
どこまでもR33に拘る。古臭いと言われようが、時代遅れと言われようが、素人くさいと言われようが関係ない。誰もが過去の車だと思っている第二世代GT-Rを磨き上げ、突き詰め、怪物へ変える。
その過程にこそ価値がある。
それこそがFLAT RACINGであり、黒木隆之というチューナーの存在意義だった。
もっとも、そのせいで店が実質的な開店休業状態になることも珍しくない。最高速トライが近づけば近づくほど、隆之は工場の奥へ籠もる。シャシーダイナモのログを眺め、センサーの数値と睨めっこし、夜中まで工具を握り続ける。
そんな時に店を支えているのは……娘の雫だった。
客の相談を受けるのも、部品を選定するのも、車両の状態を見極めるのも、時には作業そのものを行うのも。
ほとんど雫だ。
隆之に惚れ込んで通う客もいるし、雫の腕に惚れ込んでいる客もいる。そして、その両方を信頼している客も少なくなかった。
「黒木さんが認めているなら」
「雫ちゃんが触るなら大丈夫だろう」
そんな言葉を何度も聞いてきた。
だからFLAT RACINGは続いている。
従業員の数は決して多くない。だが、妥協して人を増やしたこともない。自分が認めた人間しか置かない。技術だけではなく、人間性も含めてだ。
その代わり、一人ひとりがプロフェッショナルだった。だから顧客が求めるものも高い。
ただ車を速くしてほしいという客はいない。
自分の理想を実現し、自分の車をもっと好きになりたい。FLAT RACINGには、そんな連中ばかりが集まってくる。
だから居心地が良かった。全員が同じ方向を向いている。
もちろん、速さという答えは人によって違う。それでも、自分の理想を追い求めるという点だけは変わらない。そんな空間を作れたことを、隆之は少しだけ誇りに思っていた。
そして、そんな隆之が唯一素直に認めている存在がいる。
娘の黒木 雫だ。
親の贔屓目ではない。むしろ仕事に関して言えば、誰よりも厳しい目で見ている。
だからこそ分かる。
雫には才能がある。
この業界、パワーだけを求める人間は多い。馬力を上げるだけなら簡単だ。だがクルマはエンジンだけでは速くならない。
アクセルを踏んだ時のレスポンス、コーナーでの荷重移動、ブレーキ、タイヤの温まり方、そしてドライバーの癖。
それらを一台のクルマとしてまとめ上げる能力は、間違いなく才能だ。
そして雫は、その才能を持っている。
同じ馬力でも、同じパーツでも、雫が組んだ車は不思議と乗りやすい。
ドライバーが安心して攻められる。それは数字では説明できない感覚だった。おそらく、その部分では自分より優れている。そう思うことすらあった。
もっとも、まだ足りない部分もある。
失敗、挫折、遠回り。それは理屈では辿り着けない感覚で、何百台もの車を触り、何度も失敗して初めて身につく職人の勘。
そこだけは時間が必要だった。
だからMFGはいい。あれほど多くのドライバーと車種が集まり、本気で競い合う環境はそうそう存在しない。
フェラーリにランボルギーニにポルシェ。
考え方も哲学も違う車が同じ舞台で競う。雫にとっては最高の教材だろう。そこには理論だけでは見えないものがある。
実際にレースを見て、実際にドライバーと話し、実際に車を痛めつけて、どうやって治し、どうアプローチするか。
寿命を縮めて速さをとるか、それともタフで粘りのあるマシンに仕上げるか。そうやって試行錯誤を繰り返して繰り返して、やっと身につくものがある。
だから隆之はMFGへの参戦は雫にとってプラスになると考えていた。自分では絶対に選ばない道だった。
もし自分がMFGの車を作るならどうなるか。
速い車は作れる。それは間違いない。
だが勝てる車は作れない。隆之は自嘲気味に笑う。自分はどこまで行っても最高速屋なのだ。300キロの先を追い続けてきた。
高速域の車の安定性、冷却能力、パワーをいかに絞り出し、どこまで速度を伸ばせるか。
そんなことばかり考えて生きてきた。
だから分かる。
MFGでは求められるものは違う、と。
箱根のようなコースでは、最高速だけでは勝てない。テクニカルなセクションでタイヤを使い切る足回り。
長距離レースで性能を維持するバランス、コーナー立ち上がりの僅かなトラクション、そういう積み重ねが結果になる。最高速を見てきた自分には、どうしても偏りが出る。
だから雫に任せられる。自分には見えない景色が、あいつには見えている。
それが分かるからだ。
そして、もう一人。
城島和也という存在も大きい。
初めて会った時から妙な男だった。速さに貪欲なようでいて、数字には執着しない。レコードラインをなぞることよりも、車の声を聞くことを優先する。
理屈だけでは説明できない感覚を持っている。
どこか昔の走り屋たちを思わせる男だった。
だから面白い。
雫が組み上げるR34。
和也が操るR34。
そこには自分にはない発想がある。
自分なら選ばないセッティング。
自分なら試さないアプローチ。
だが結果として速い。
それを見るのは不思議と嫌ではなかった。
むしろ楽しい。気付けば自分もレース映像を見返している。ログデータを眺めている。雫から送られてくるセットアップシートを見ている。
昔なら考えられなかったことだ。最高速しか興味がなかった男が、箱根のコーナリングを真剣に分析しているのだから。
純白のR33が静かに佇んでいる。それは、320キロの向こう側を目指すための車。
そして同じく純白のR34がある。MFGを戦うための車。
目指す場所は違う。
求める速さの質も違う。
だが根っこにあるものは同じだ。
速くなりたい。誰よりも前へ行きたい。その想いだけは変わらない。
だから黒木隆之は今日も工具を握る。
最高速という魔物に取り憑かれたまま。
けれど今は少しだけ楽しみが増えた。
自分が追い続ける320キロの世界とは別に、娘と若いドライバーが切り拓こうとしている新しい速さの世界を見守ることができるのだから。