第二十一話「芦ノ湖GT……開幕」
夜明けの光が少しずつ街を照らし始める。
筑波山から下りてきたS2000は、つくば駅のロータリーへと静かに停車する。深夜にはほとんど人影のなかった駅前も、始発電車の時間が近づくにつれて少しずつ活気を取り戻している。
スーツ姿の会社員や、旅行用のキャリーケースを引く学生に、コンビニの袋を手にした若者。それぞれが一日の始まりへ向かう中、紫色のS2000だけが夜の続きを引きずっているようだった。
エンジンを止めたと同時に、助手席に乗っていた大石の肩には、どっと疲労が押し寄せてくる。
一晩中走り続けたが、それでも不思議と嫌な疲れではない。
「すいません、朝まで付き合ってもらって」
和也がそう言って笑う。大石は助手席のドアを開けながら首を振った。
「別にいい」
2人揃って車外へ出ると、朝の空気が肺へ流れ込む。5月も末。まだ朝の空気は冷たいが、それが心地良かった。
夜の間、大石はパープルシャドウの走りを見た。
助手席にも乗ったし、実際に和也のS2000の運転もさせてもらった。休憩のときは昔話も聞いたし、今も峠を走る走り屋たちと話もした。
誰もが速さを追い求めていたが……MFGのドライバーたちとは少し違った。
順位のためではなく、賞金のためでもなく、みんながみんな、ただ純粋に走ることそのものを楽しんでいた。それが妙に印象に残っていた。
「俺も……いろいろと勉強になった」
ぽつりと漏れる。
和也は少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お疲れ様でした、大石先輩。次は第二戦で」
そう言って運転席へ戻ろうとする。
だが大石は呼び止めた。
「和也!」
和也が振り返る。
大石は一瞬だけ言葉を探した。
何を伝えたいのか、自分でも整理できていない……だが言わなければならない気がした。
「今日の夜のこと……」
少し間を置く。
「俺は忘れない。必ず見たものと感じたことを、自分の走りに活かす」
それは宣言だった。
誰に向けたものでもない。
自分自身への誓い。
今までの大石代吾なら言わなかった言葉だ。
あの山で見たものは本物だった。
だから認める。認めた上で……追いかける。
和也はそんな大石を見て微笑んだ。
「ええ。その走りを俺は見たいです」
そう答えると、大石は少し驚いた顔をしてから眉を顰めていう。
「生意気な後輩だよ、お前」
思わず笑う。不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ気持ちが軽い。まるで長年引っ掛かっていた何かが取れたような感覚だった。
二人は軽く手を挙げて別れる。
大石は駅へ。
和也は車に乗って実家へ。
それぞれの場所へ向かうために。
その時だ。駅から降りてきた人波の中に、一人の女性が目に入る。
(ん?)
思わず視線を向ける。相手は長い髪を下ろしていて、マスクとサングラスをしている。顔はほとんど見えないが……どこか見覚えがあった。
(あの子……どこかで……?)
女性は迷うことなくロータリーへ向かい、そして真っ直ぐにS2000へ向かっていった。
和也も気付いたらしい。軽く手を振る。すると女性は周囲を確認してからマスクとサングラスを外した。
朝日に照らされた横顔。
その瞬間、大石は目を見開く。
(あ……)
見間違えるはずがない。
MFGエンジェルス……しかも人気ナンバーワン。
浜崎 萌絵だった。二人は親しげに何かを話している。和也は自然体で、萌絵も自然体。まるで昔からの知り合いのように。
そして当然のように助手席へ乗り込み、S2000はゆっくりと走り出した。残された大石は呆然と見送る。
(エンジェルスのナンバーワンとあんなに親しそうに……)
MFGでもあれだけ自然体。
神15相手でも自然体。
そしてエンジェルス相手でも自然体。
(走りだけじゃなく、そっちも速いのかよ……)
思わず苦笑する。筑波山で価値観を揺さぶられたばかりだというのに。最後の最後で別の意味でも驚かされるとは思わなかった。
「あいつ、本当に何なんだ……」
そう呟きながら駅へ向かう。東京行きの列車がホームへ入ってくるアナウンスが聞こえた。
第二戦。今度は自分が変わった姿を見せる番だ。そんなことを考えながら、大石代吾は東京へと向かうのだった。
なお、和也と萌絵が会っていた真実は単純。休みに入り帰省してきた妹を、兄が駅まで迎えに来ていただけだった。
▼
6月。本格的な梅雨に入る手前という時期に、MFGは新たなスタートを切る。
箱根を舞台にした世界最高峰の公道レースは、再び多くのファンの視線を集めていた。
迎えた第二戦。その名は……芦ノ湖GT。
「ハローフロム小田原ジャパン!全世界三千万人のMFGファンの皆様、こんにちは!梅雨が近づいているこの時期ですが、箱根の空は爽やかに晴れ渡っています!」
実況席から聞こえる田中洋二の張りのある声。その声に合わせるように映像が切り替わる。
芦ノ湖を巡るコースを映し出す映像には、梅雨とは程遠い晴れ晴れとした天気が映し出されていて、芦ノ湖の湖畔は爽やかな日差しに照らされてキラキラと輝いている。
湖面を渡る風。遠くに見える山々。観光地として名高い箱根の景色は、この日も変わらず美しかった。
未観客前提で行われるMFGであるが、予選初日はスタッフや参加するドライバーたちもどこか緊張感に包まれている様子だった。
予選初日は特別だ。誰もまだ基準となるタイムを持たない。最初に走るドライバーが、その大会の基準を作る。だからこそ独特の空気がある。
「六月、芦ノ湖GTの予選が始まります!舞台となるのは全長25.3キロを誇る超高速市街地・山岳複合コースです!」
富士山爆発の影響で起こった深刻なインフラ破壊や観光業への打撃。温泉街や市街地も被害が及び、多くの人が避難をしたり、住み慣れた地を去ることになった。かつて賑わっていた観光地は人の流れを失い、復興への道のりは決して平坦なものではなかった。
そんな富士山爆発の復興支援を目的に設立されたMFGは、もはや日本……とくに箱根では多くの支持者がいるほど盛り上がるコンテンツとなっている。
世界中へ配信されるレース映像。
その背景に映る箱根の景色。
それは単なるレースではなく、復興のシンボルとしての意味も持っていた。コースの大部分は有料道路や観光道路、山間部であるが、一部は一般道として使用される市街地を長期間封鎖することになるレースとなる。
住民には封鎖期間も手厚く保証はしているが、それ以上に富士山爆発で人が来なくなった観光地をクローズアップしてくれるMFGを応援する機運の方が高く感じられる。事実、レース開催後は観光客が増加し、地域経済にも好影響を与えていた。
今やMFGは単なるモータースポーツではなく、地域復興と結びついた一大イベントなのである。
「まずスタート地点は芦ノ湖スカイライン箱根峠料金所!ここからドライバーたちは時計回りにコースを三周し、その合計タイムを競います!」
画面にはスタート地点となる料金所が映し出される。長い上りの先に続く25.3キロの戦い。
「最初のセクター1は芦ノ湖スカイライン!高速コーナーが連続する超ハイスピード区間です!」
映像には山肌を縫うように続くワインディングロードが映し出される。
「ドライバーはここでいきなり度胸を試されます!アクセルを踏み続けられるか!それとも恐怖に負けてしまうのか!」
高速域で続くコーナーに、見通しの悪い区間、少しの躊躇がタイムロスとなる。
「速度域が非常に高いです。一つの判断ミスが大きなタイムロスに繋がります。そして、このセクターの後に待ち受けるコース最大の難所がこちら!」
画面が切り替わると、富士山火口からの火山灰が集中して降り積もるために路面が極めて滑りやすい区間があり、「スリッピートラップ」と呼ばれる。
灰色に染まったコースには、今もわずかに火山灰が舞っていて、そこだけ異質な空気を放っていた。
「通称、デスエリア!この火山灰は何度コース清掃をおこなっても除去しきれず、区間内での事故率も高いために、芦ノ湖GTにおけるデスエリアとして恐れられています!普通のサーキットなら絶対に採用されない区間ですが、そこをあえてコースとするのがMFGなのです!」
ここでタイムを失う者、ここでクラッシュする者、そしてここで勝負を仕掛ける者。このエリアもまた芦ノ湖GT最大の名物区間だった。
そしてデスエリアを抜けた先の映像へ移る。画面には湖尻新橋から桃源台方面へ向かう区間が表示される。
「セクター2は一転してテクニカルセクション!高速区間を抜けたマシンに今度は正確なコーナリング性能が求められます!」
湖尻ヘアピンが映し出された。
「特に有名なのがこの湖尻ヘアピン!速度を完全に落として立ち上がるため、マシン性能差も出やすいポイントです!ここではトラクション性能に優れたマシンが強さを発揮します!」
高速性能だけでは勝てない。マシンバランスにドライバーの技量、そしてタイヤマネジメント……総合力が試される区間だ。
「そして最後がセクター3!芦ノ湖沿いを駆け抜けるこの区間は追い抜きのチャンスがあります!」
箱根神社第一鳥居、箱根関所、そして駅伝ストレート。
「MFGファンなら誰もが知る駅伝ストレートです!ここではフェラーリ、ランボルギーニ、AMG、ポルシェといったハイパワーマシンが本領発揮!」
映像には全開加速するスーパーカー群が映る。エンジンサウンドに伴う猛烈な加速。視聴者の心を掴む華やかな区間である。
「しかし、ただ速いだけでは勝てません!この芦ノ湖GTは、あらゆる要素が詰め込まれた総合力勝負のコースなのです!」
車のバランスに25.3kmを三周走るために必要なマシンのタフネスさ。そしてドライバーポテンシャルと、レースの基礎的な要素の全てが要求される。
だからこそ芦ノ湖GTは難しく、だからこそ面白い。
「初日は現在ランキング7位、ランボルギーニ・ウラカンに乗る大石代吾が登場します!」
画面が切り替わる。
前回の小田原パイクスピークで大きなインパクトを残したドライバー。神15の一角を担う男が、今まさにスタートラインへ立とうとしていた。
芦ノ湖スカイライン箱根峠料金所。
そこでは白いランボルギーニ・ウラカンに乗る大石がいた。
▼
予選1日目。エンジェルスの萌絵が担当し、スタートボードを掲げている。箱根の青空を背にしたその姿は相変わらず華やかで、多くの視聴者の視線を集めていた。
ふと、大石は先日のことを思い返す。
夜明けのつくば駅。紫色のS2000。そして何事もないように助手席へ乗り込んでいった萌絵の姿。
だが大石はすぐにそんな下世話なことは脳内から追い出した。
クソ……集中力が乱れている。
スタート前だというのに余計なことを考えている場合ではない。
ドライバーシートに体を預けながら一度深く息を吐く。目の前にはこれから始まる戦いがある。それに集中しろ。
(予選初日はやりづらい……ほかのドライバーのタイムというベンチマークとなるものがないんだからな)
決勝なら前を走る相手がいるし、追いかける目標もある。
だが予選は違う。予選1日目は目標もない。頼れるのは自分自身だけだ。
どこまで攻めるべきか。どこでタイヤを使うべきか。その判断を全て一人で下さなければならない。
ォンッ、ランボルギーニのV10エンジンが吠える。
背中越しに伝わる振動……このサウンドは好きだ。初めてこの車を手に入れた時も胸が高鳴った。今でもそれは変わらない。
だが……。
あの峠での走りを体験してから、大石はこのマシンの限界を掴もうともがいてきたが、まだ限界走行には辿り着いていない。
やはりパワーがありすぎる。MFGのグリップウェイトレシオを前にすると、このウラカンのバランスはいいとは言えない。
そこまではわかっている。でも、それを言い訳にはしたくない。車のせいにした瞬間、ドライバーとして負ける気がした。
和也ならきっとそう言うだろう。車には車の良さがある。使い切れていないのはドライバーの方だと。
だからこそ、今、この戦いで大石はウラカンを駆る。まだ見ぬ領域へ届くために。
(どこまでタイムを作れるか……攻めなきゃ神15から弾き出される……!)
神15の称号は重い。一度入ったからといって安泰ではない。後ろには数百人のドライバーがいる。少しでも停滞すれば飲み込まれる。生き残るためには進み続けなければならない。
それに、俺に発破をかけた後輩にみっともない走りを見せるわけにはいかない。
あの夜に教えられたことは、まだ理解しきれていない。だが確実に自分を変え始めている。
スタートシグナルが切り替わる。
「芦ノ湖GT予選、開幕です!」
(吼えろV10!俺を前に押し出せ!)
アクセルを踏み込む。白いウラカンが弾かれたように飛び出した。
「速い!乗れています!3号車、大石!」
V10エンジンが咆哮する。高速コーナーへ向けて一気に加速すると、車体が沈み込み、四輪が路面を掴む。
(25.3km……タイヤを目いっぱい使ったタイムアタックだ!滑ってようが踏み込んでいけ……踏め!)
速度計の数字が上がる。だが以前のようなパワー任せではない。ステアリング越しに伝わるタイヤの感触に、荷重のかかり方……その全てへ意識を向ける。
「大石は前回の小田原パイクスピークで目覚ましい走りを見せました!その走りはこの芦ノ湖GTでも光ります!前年度の自己タイムを大きく上回り、その速度をぐんぐんと押し上げている!」
実況席の田中も変化に気付いていた。
以前よりも滑らかで、落ち着いている。タイムは目に見えて速い。明らかにドライビングそのものが変わっていた。
「代吾、お前に何があったんだ!?いままでのタイムとは比べ物にならないほど速いぞ!」
無線から聞こえるブースの声。
だが今は応えている余裕などない。
「代吾からブースへ!今集中してるんだ!しばらく沈黙する!オーバー!」
通信を切る。
今は車と対話する時間だ。
(くそ、まだアクセルがラフか!もっと慎重に……!)
高速コーナーを抜けるが、わずかにリアが落ち着かない。タイヤがかすかに悲鳴を上げる。まだアクセルの開け方が荒く、無駄がある。
そう考えながら、大石は筑波山のことを思い返す。
S2000の運転席でコースを下っている時、隣に乗る和也が教えてくれたことを。
『車の重心がどこにあるのか。タイヤにどれだけ仕事をさせられるのか。どこから先が車の限界で、どこから先がドライバーの限界なのか』
まだ理解しきれてはいない……だが、今なら少しだけわかる。
車の重心がどこにあって、トラクションをどれだけ掛けられるのか。どこまでがタイヤの仕事で、どこからがドライバーの仕事なのか。どこまでが自分の手で操れる限界なのか。
コーナーへ飛び込み、ブレーキを残しながらターンイン、車体が向きを変える。
ボトムスピードは、そのコーナーにおいて最も速度が落ちた瞬間の速度だ。
コーナリングには大きく分けて二つの考え方がある。
一つは減速を最小限に抑え、旋回速度を高く保ちながらコーナー全体でタイムを稼ぐ走り方。
もう一つは奥までブレーキを残し、旋回速度を多少犠牲にする代わりに車を素早く出口へ向け、立ち上がり加速でタイムを稼ぐ走り方。
前者はスムーズさを重視する走り。後者は加速性能を活かす走り。
では……本当にランボルギーニ・ウラカンに合うのはどちらだ。高速で向きを変えるのか?それとも多少速度を落としてでも、V10の暴力的な加速を活かすのか?大石はコーナーへ飛び込む度に、その一つ一つを丁寧に意識する。
ステアリングの舵角にブレーキの残し方、アクセルを開けるタイミング、車が何を嫌がり、何を求めているのか。
それを探るように……対話するように。
(改めて実感する……この車はパワーがありすぎる……!)
アクセルを踏むが踏み切れない。その先へ踏み込むのが怖い。リアタイヤが悲鳴を上げるが、四輪駆動が路面を掴む。
それでも本能が警鐘を鳴らす。
まだ、この車の全てを理解できていない。
コーナーの入り口から出口まで、どうしても踏めない領域がある。そこにあるのは車の限界なのか。それとも自分の限界なのか……今はまだ分からない。
だが一つだけ分かることがあった。あの夜に見たS2000も、白いR34も、決して無謀な走りではなかった。車を理解した者だけが辿り着ける領域だったのだ。
(今の俺じゃ……踏み切れない……!)
悔しさを噛み締めながらも、大石はアクセルを踏み続ける。
その先にある答えを掴むために。