黒木 雫。
FLAT RACINGの代表・黒木隆之と、その妻である黒木ミカの間に生まれた彼女は、幼い頃から父の隣でGT-Rに触れてきた。
まだ物心も曖昧な頃から、雫にとってガレージは遊び場だった。工具箱の匂い。焼けたオイルの熱気。コンプレッサーの駆動音。深夜まで灯りの消えない作業場。
父の背中越しに見えるR32、R33、そしてR34。
幼い雫には、その違いなどわからない。ただ、父が真剣な目で車に触れ、エンジン音に耳を澄ませる姿だけは、不思議と強く記憶に残っていた。
だが……雫が生まれた年の時点で、GT-Rは過去の異物になりつつあった。
R34以降、スカイラインGT-Rの系譜は途絶え、日産は新たなGT-R、R35を世へ送り出した。
それは確かに速かった。電子制御の進化、洗練された空力、サーキット性能。誰もが認める最先端の日本の誇るスーパーカーだった。
だが同時に、スカイラインGT-Rという存在は終わったのだ。
古いGT-Rたちは時代遅れと呼ばれた。大排気量の化石燃料車。重い鉄の塊。電子制御が未成熟だった時代の怪物。
時代は環境性能を求め、やがて電気自動車が主流となる。
さらに富士山爆発以降、公道を走れる車両そのものが厳しく制限され、多くのスポーツカーは歴史の裏側へと追いやられていった。
それでも父はGT-Rにこだわった。
周囲から何を言われても変わらなかった。
古い、効率が悪い、時代遅れ、顧客のニーズに合っていない。そんな言葉を投げかけられても、黒木隆之は笑って受け流した。
そして何より、父はGT-Rを速さだけで語らなかった。
エンジンの鼓動。四輪へ伝わる駆動。荷重移動。アクセルを踏み込んだ瞬間の挙動。ドライバーとマシンの対話。
父は機械としてではなく、まるで生き物のようにGT-Rを扱っていた。だからこそ、父の組むマシンには熱狂的なファンがいた。
サーキットでも、違法な公道レースでも、FLAT RACINGのGT-Rはどこか特別視されていた。電子制御全盛のハイパフォーマンスな車が台頭する時代にあってなお、父の手がけた車は、人間の感覚を研ぎ澄ませるような車だったからだ。
当然、オファーも多かった。
金ならいくらでも払うと言う者もいた。
スポンサー目的のチーム。有名レーサー。成金のコレクター。だが父は簡単には車を渡さない。
「速いだけの奴に乗らせても、車が可哀想だ」
それが父の口癖だった。
もちろん商売と割り切る時もあった。だが、それでも最後には、この車を理解してくれるかを見ていた。
星野好造は、その数少ない一人だった。
父が組み上げたGT-Rを、星野はまるで自分の手足のように操った。無理矢理ねじ伏せるのではない。車の癖を受け入れ、その上で限界を引き出していく。
タイヤの潰れ方。姿勢変化。ターボの立ち上がり。四輪の接地感。すべてを感じ取った上で、怪物のような速度域へ到達していく。
幼い雫は、その走りをモニター越しに見ていた。
雨が降る中、白煙を引きながら立ち上がるR34。闇夜の中で赤く灯るテールランプ。そしてコーナーを抜けた瞬間、一気に加速していくRB26の咆哮。
その瞬間。雫の中で、何かが変わった。目の前に果てしない道が開けたような感覚があった。
それからだ。
雫が工具を握るようになったのは。
父の作業を真似し、データを読み、セッティングを学び始めたのは。やがて彼女は、メカニックとしての知識だけではなく、自らハンドルを握るようになる。
GT-Rという古い怪物を、今の時代でどう走らせるのか。
父とは違う答えを探すために。
▼
彼女に案内されてシャッターが閉められたガレージの前まで歩くと、雫が壁にかけられたリモコンを手に取り、電動シャッターを開けていく。
モーター音と共にゆっくりとシャッターが上がっていき、その奥に隠されていた車体が少しずつ姿を現す。
そこには真っ白なボディーカラーのR34があった。
BNR34 スカイラインGT-R。
直線的で無骨なデザイン。
ワイドフェンダーと低く構えた車高。
そして、今の時代では珍しくなった内燃機関の怪物、特有の威圧感。それには綺麗さではなく、走るために作られた車という空気を纏っていた。
「このマシンがMFGに向けたもの?」
「そうよ。私が手を入れたの」
そう胸を張る雫。作業着越しではあるが、奥さんのミカさんに似て、その体型は慎ましくはあるがグラマラスさが感じられる。
もっとも、本人はそんな視線を向けられているとは思っていないのだろう。
そんな俺の内心を知らない雫は、不満げに俺へ視線を向けてきた。
「なによ、文句あるなら渡さない。ちゃんとしたワークスマシンなんだからね!」
頬をやや膨らませながら言うが、残念ながらこちらは既に黒木さんと契約済みである……というか、黒木さんセッティングのマシンになると思っていたけど、本気でこの子が組んだマシンで行くのだろうか。
ちらりと黒木さんの方を見ると彼はにこりと微笑むだけだったが、その目は雄弁と語っている。まじでこの車でいくと。
「……ちなみに、どんなセッティング?」
俺がそう聞くと、雫はR34のボンネットを軽く撫でる。
「このマシン、もとは湾岸を走らせてたんだけど、富士山爆発から湾岸は化石燃料車が走行できなくなったでしょ?だから、MFG向けにチューンを変えたの」
「あぁ……時代の流れってやつか」
富士山噴火以降、日本国内の交通事情は大きく変わった。
環境規制の強化によって、湾岸エリアでは化石燃料車への締め付けが厳しくなり、かつて深夜の高速道路を駆け抜けていたチューニングカー達は行き場を失った。
そんな中で、最後の内燃機関レースとして人気を集めたのがMFGだった。
「ATTESAのセッティングも?」
俺がそう聞くと、雫は少しだけ口元を吊り上げた。
「へぇ、ちゃんとGT-Rのこと知ってるんだ」
「まぁ、それなりには」
彼女がいうのはATTESAのことだろうが、スカイラインGT-Rを語る上で、この話は避けて通ることはできない。
「
“Advanced Total Traction Engineering System for All-Terrain”の頭文字を取った名称であり、その発展型である「ATTESA E-TS」も存在する。
普通の4WD車は、常に前輪と後輪へ駆動力を分配して走行する。
雪道や悪路では高い安定性を発揮する反面、曲がりにくい、重く感じやすい、アンダーステアが出やすいという欠点もある。
だが、ATTESA E-TSは違う。
通常走行時はほぼ後輪駆動……つまりFRに近い状態で走行し、必要な時だけ前輪へ駆動力を送る。
そのためGT-Rは、4WD車でありながらFRスポーツカーのような軽快なハンドリングを実現していた。
簡単に言えば「電子制御によって前後の駆動力を自動調整する4WDシステム」なのだ。
さらに、加速時や滑りやすい路面では、車体側のセンサーがタイヤの空転や挙動変化を瞬時に検知。
必要に応じて前輪へトルクを配分することで、4WDならではの強烈なトラクション性能を発揮する。
急加速、雨天、コーナー立ち上がり、路面μが低い状況、そういった場面で後輪だけでは支えきれなくなった瞬間、ATTESA E-TSが介入し、車体を安定させながら圧倒的な加速を可能としているのだ。
FRの旋回性能と、4WDの安定感。それはGT-Rという怪物を成立させている重要なシステムの一つだった。
GT-R最大の武器にして、同時に最も扱いが難しい牙でもある。
「実を言うと、このマシンはMFGに向けてATTESA E-TS介入セッティングをかなり下げてるわ」
苦虫を噛み潰したような言い方に、俺も腕を組んでマシンを見つめながら「だろうな」と呟く。MFGのコースは、サーキットのような一貫したテーマ前提で作られているわけじゃなく、生活道路や封鎖された道路、荒れた路面、タイトなコーナーと様々なテーマがごった煮されたコースが多い。
ガツンとテーマに左右されるATTESA E-TSのセッティングは並み大抵のことじゃない。
「セッティング、MFGのコースでやればやるほどわからなくなるのよね。介入させすぎると曲がらないし、タイヤの消耗は激しいし、減らしすぎると今度は暴れるしでね」
通常時こそFRに近い特性を持つが、加速時や滑り始めた瞬間には瞬時に前輪へ駆動を送る。
四輪で路面を掴み、前へ押し出す。だからこそ、立ち上がりでは異常なほど速い。
コーナーの出口でアクセルを踏み抜ける。リアが流れて失速する場面でも、GT-Rは四輪で地面を噛み砕きながら加速していく。
だが、その代償は確実に存在した。
「グリップウェイトレシオ……MFGジレンマってやつか」
「そういうこと」
雫は小さく肩を竦める。これがMFGが4WDに厳しいと言われる所以だ。現在よMFGは基本的に軽量FRが強い。
下り主体、コーナー連続、シビアなタイヤマネジメントが求められるコースレイアウト。
後輪駆動の
その中で4WDという選択。
それも今回はGT-Rだ。
重い車体。重い駆動系。巨大なRB26。
加速力だけなら第一線級だが、その力を支えるためにフロントタイヤへかかる負担が尋常ではない。特にMFGのコースでは、その問題が一気に噴き出す。
雫はR34のフロントタイヤへ視線を落とす。
白いホイールの奥に覗くブレーキローターは大径化され、タイヤも明らかにMFG向けのコンパウンドへ変更されていた。
それでもなお、この車はフロントへ負担を押し付ける。
GT-Rという車の宿命だった。
「MFGに出て、ATTESA E-TSのありがたみをこれでもかって思い知ったわ。GT-Rのトルクって、抑えが効かなくなるとほんと洒落にならないから」
「600馬力近いトルクをFR寄りで受け止めるわけだしな」
「そう。しかもMFGって、公道ベースだから路面が一定じゃないのよ」
サーキットのような綺麗な舗装ではない。場所によってグリップが変わり、路面温度も違う。荒れたアスファルト。乱雑な継ぎ目。急勾配に、ジャンプスポット。
そうした条件の中で、GT-Rの大トルクを解き放つということは猛獣の首輪を外すようなものだった。
雫はボンネットへ手をかけ、そのままロックを外す。重厚な音と共にボンネットが持ち上がった。
現れたのはRB26DETT。古い時代のエンジンとは思えないほど整然と収まったその姿は、まるで機械工芸品だった。
一目で、ただのチューニングカーではないとわかる。
「MFGに参戦したとき、私は大気圧に対して過給圧を緻密に制御して、RB26の本来の排気量……2600ccって枠を超えた力を引き出してた」
雫はインタークーラー配管へ軽く触れる。MFG……雫も予選に出たことある。だが、その初戦は散々たる結果だった。車は性能を発揮できず、ダラダラと続くストレートともコーナーとも言えない、一つのラインしかない道を前に、加速とパワーも全然使えなかった。
「このR34は私がMFGに出た経験で組んだもの。サーキットや湾岸を得意とする父のマシンとは別物よ」
かつて湾岸で語られたGT-Rは、最高速の怪物だった。ブーストを叩き込み、超高速域で伸び続けることだけを求めたセッティングで時速300キロを越える速度で巡航するモンスターマシン。
だが、MFGでは求められるものが違う。
ストレートに加え、猛烈なアップダウン、連続するコーナー、低μの路面状況を制し続ける……トータルバランス。
「MFGじゃ、単純にパワーがあれば速いってわけじゃないの」
雫はエンジンルームを眺めながら続ける。
「全域フルブーストで押し切ると、今度はタイヤもブレーキも死ぬ。特に第1戦は立ち上がりと減速の繰り返しだから、ピークパワーだけあっても意味がないのよ」
どれだけ馬力があっても、アクセルを開けられなければ意味がない。一瞬の最大出力ではなく、どれだけ長く踏み続けられるか。
それがタイムに直結する。
「だからこのRB26ら、最大馬力よりトルクの出方を重視してる。中回転から一気に立ち上がるようにして、コーナー出口で前に出るセッティング」
「ドッカンターボじゃないのか」
「そんなのMFGでやったらタイヤ終わるわ」
俺の言葉に雫は呆れたように笑った。
「ブーストもギリギリまでレスポンス寄り。高回転で無理矢理伸ばすんじゃなくて、必要なところで踏める方向にしてるの」
つまりこのR34は、速さを我慢しているセッティングということだった。
もっと暴力的にできる。もっと危険な加速もできる。だが、それを封じ込めている。
MFGという舞台で勝つために。
「けど、この子の音を聞いてみて」
雫はそういうと運転席に乗り込むとキーを回し、エンジンに火を入れる。
その音は出力を落としつつも、漂う気配は隠し切れない。低く唸るアイドリング音。わずかに震える車体。アクセルを踏み込めば、即座に牙を剥くであろう獰猛さ。
GT-Rという怪物の本質だけは、消えていなかった。
「本気で踏めば、今でも怪物よ」
雫は白いR34を見つめる。その視線には、自分の作ったマシンへの誇りが滲んでいた。
単純なハイパワー4WDでは勝てない世界。
それがMFG。
だからこそ、雫は万能のGT-Rではなく、MFG仕様のGT-Rを作ろうとしていた。
「MFGは4WDに厳しいけど、この車ならそこそこ走れるわ」
雫はR34のルーフへ軽く手を置く。
「駆動配分も第一戦向けに合わせてるし、足回りもかなり変えてる。サーキット仕様のGT-Rみたいな動きはしない。タフなストリートファイトにも耐えれるわ」
その口ぶりには、自信があった。GT-Rという古い怪物を、今の時代に適応させる。そのために積み重ねてきた試行錯誤への、自信が。
雫はタイヤラックへ顎を向ける。そこには数セットのタイヤが並べられていた。
「タイヤも予備はあるから。フロントは特に消耗するし、温度管理もシビア。多分、一戦ごとにセッティング変えることになるわね」
「……完全にレースマシンだな」
「当たり前でしょ?」
雫は呆れたように笑う。
「趣味でこんな旧車維持してると思ってる?」
その言葉には、冗談半分と、本気半分が混ざっていた。そして最後に、雫はじろりと俺を見る。それは値踏みするような視線だった。
「エントリーすればすぐに行けるわ。……まぁ、ちゃんと乗り手が踏めるなら、だけど」
どうやら、まだ完全には信用されていないらしい。
だが逆に言えば。
この女は、乗れる奴にはとことん入れ込むタイプだ。
そのスタンスだけは、どこか後ろで微笑んでいる黒木隆之に似ている気がした。
▼
翌日。
箱根ターンパイク。
黒木さんの計らいで、実際のMFGコースを使った練習走行ができることになった。
まだ朝早い時間帯。山の空気は冷たく、ガードレールの向こうには薄い霧が流れている。路面は乾いているが、夜の湿気をわずかに残しており、完全なドライというには微妙なコンディションだった。
そんな山道に、RB26DETTの重低音が響く。
ナビシートに雫を乗せ、ステアリングは俺が握っていた。シートに身体を沈め、視線を先へ送る。目の前に迫る下り勾配の高速コーナー。
普通のドライバーなら、一度ブレーキで姿勢を整えてから慎重に進入するような区間だが、必要最低限だけ減速し、そのままラフな速度域でコーナーへ飛び込ませた。
「……っ」
助手席の雫が小さく息を呑む。
当然だ。初めて乗るドライバーのナビシートほど怖いものはない。まして相手は、父親が突然連れてきた正体不明の男である。
だが車は暴れない。フロントが逃げることも、リアが唐突に流れることもなく、白いR34は路面へ吸い付くようにエイペックスへ向かう。
サスペンションが荷重を受け止め、タイヤがわずかに鳴く。
そしてクリッピングポイントを抜けた瞬間、今度はリアへと駆動が移る感覚が伝わってきた。
「おぉ、これはすごいな」
思わず感心の声が漏れる。立ち上がりでアクセルを踏み込むと、ATTESA E-TSが絶妙なタイミングで介入した。
必要以上に前へ駆動を逃がさない。だがリアを完全に自由にもさせない。FRのような自然な旋回感を残しながら、4WDとしての安定性だけを引き出している。
立ち上がりでトラクションが抜けない。
しかも、タイヤを無駄に削っている感覚もない。
……使い方としてはかなり贅沢ではあるが。
「これ、かなり煮詰めてあるな……」
ぼそりと呟く。湾岸仕様のように、ひたすら最高速だけを追ったセッティングではない。
MFGのような公道レースを意識し、減速、旋回、加速、その全てのバランスを高い次元で成立させようとしている。
黒木さんだけじゃない。このセッティングには、ナビシートにいる雫の意思が色濃く出ていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
高速コーナーを抜けていくうちに、乗り心地に慣れてきたのか、雫がようやく口を開く。
「やっぱり上手いわね。父さんが車を預けるっていうのもわかるわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
素直にそう返した。
湾岸ミッドナイト。
あの世界で、“職人”とまで呼ばれた黒木隆之。
ただ速いだけじゃない。車を理解し、限界を見抜き、機械と対話するようにチューニングを積み重ねてきた男だ。
その黒木に、少しでも認められたというのなら。
それは、きっと誇っていい。
だがその隣で、雫は別の衝撃を受けていた。
(これは……ほんとに私の組んだR34なの?)
自分でセッティングしたマシン。
自分でも乗った。
MFGにも、この仕様で参戦した。
だからこそわかる。この車は、本来ここまで滑らかには走らない。
もっと重いし、もっと前に荷重が残るし、もっとGT-R特有の“塊感”が出るはずなのだ。
なのに今、走っているこのR34は違った。
(滑らかなエントリーとボトム……まったくホイルスピンさせない立ち上がり……タイヤの美味しいところだけを使って駆け抜けていく……)
荷重移動があまりにも綺麗だった。ブレーキで前荷重を作り、旋回でタイヤを潰し、そのままリアへ荷重を戻しながら立ち上がる。
操作そのものは大胆なのに、タイヤへ伝わる入力は驚くほど繊細。
まるで、タイヤが最もグリップする瞬間だけを正確に拾い続けているようだった。
そして雫が最も目を奪われたのは、隣の男の姿勢だった。
(なに、あの手の配置……)
ちらりと横目でドライバーを見る。
片手はステアリング。もう片方はシフトレバーへ軽く添えられている。気負いも力みもない。まるで日常の延長みたいな自然な姿勢。
(ワンハンドステア……?でも、こんなの操舵角なんて全然取れないはずなのに……)
実際には、必要以上に舵を切っていないのだ。
最小限のステア操作。最小限の荷重変化。だから車体が乱れない。だからタイヤが悲鳴を上げない。
コーナーへ入る車は驚くほど滑らかに向きを変え、そして驚くほど自然に加速していく。
GT-Rという重量級4WD特有の無理矢理感がまるでない。
タイヤへのダメージも、信じられないほど少なかった。まるでアクセルワークそのものが芸術作品のように思えた。
「……ぅっ」
雫は思わず小さく息を漏らす。
(なんでこんなに滑らかに曲がるのよ……!信じらんない……!)
自分だって、決して下手ではない。MFGに出場できる程度には腕がある。GT-Rの癖も理解している。
それでも、隣の男は、そのさらに先にいた。
(それに……)
雫は無意識に肩の力が抜けていることに気づく。普通なら怖いはずの速度域。なのに、不思議と恐怖がない。
(まるで車の隅々まで理解してるみたいな安心感がある……)
どんな挙動になるか。次に何をするのか。全部わかっている走り。だからナビシートにいても、不安より先に納得が来る。
しかし……雫はふと、現実へ引き戻される。
脳裏に浮かぶのは、MFGのトップランカーたち。
相葉。赤羽。沢渡。
“神15”。箱根の化け物たち。
(でも……)
雫は唇を噛む。
(これじゃだめね)
視線を前へ向ける。白いR34は確かに速い。けれど……MFGで勝つには、まだ足りない。
(予選で神15には届かない……)
それが、雫がテスト走行で感じ取った確信でもあった。