「さぁ、スタート入り口にスカイラインGT-Rがくる。この新人は一体どんなドラマを見せてくれるのでしょうか!」
実況席の田中洋二が興奮を抑えきれない声を響かせる。夕日が差し迫ろうとしている箱根。
小田原料金所前には、スタートを待つ一台の白いBNR34……スカイラインGT-Rが静かに停車していた。かつて湾岸を駆け、第二世代GT-R最後の怪物とまで呼ばれたマシン。
直列6気筒ツインターボ、RB26DETTを搭載したその車は、現代のハイブリッドスーパーカーが並ぶMFGの中では、あまりにも古い。
だが、その存在感だけは別格だった。
アイドリングに合わせ、低く唸る排気音が料金所の天井に反響する。
独特のリズムを刻むRB26サウンド。
それを見るMFGスタッフたちからはざわめきが起こっていた。
「あれ、本当にR34か……?」
「今どきGT-Rって……」
「いや、でも音ヤバくないか?」
電子制御が洗練された現代車にはない、生々しい機械の鼓動。それだけで目を奪われる。
コクピットの中。城島和也は静かに前方を見据えていた。
(……まずは、60パーセントでいくか)
MFG初参戦。世界最高峰の公道レース。
まずは〝限界領域付近〟でのマシンの挙動を確かめることな優先だ。
小田原料金所のスタートライン脇。
そこに立つのは、MFGレースクイーン『MFGエンジェルス』の一人、佐藤真美だった。白とオレンジを基調としたコスチュームを身にまとい、カウントダウンボードを掲げている。
だが、その視線はつい運転席へ向いてしまう。
(片桐くんとは違うけど、この人も結構イケメン……)
片桐夏向の柔らかい雰囲気とは違う。和也にはどこか危険な匂いがあった。
静かなのに目が離せない。そんな空気を纏っている。真美は思わず見惚れそうになるが、すぐに仕事を思い出し、表情を引き締めた。
カウントボードが切り替わる。
5。4。3。
料金所周辺の空気が張り詰める。
GT-Rのエンジン回転数が僅かに上がった。
タービンが過給圧を溜め込む音が響く。
2。1。
「エンジェルズが掲げるカウントボードが進む!そしていま……カウントがゼロになった!」
その瞬間だった。
GT-Rが弾丸のように射出される。四輪が路面を掴み、猛烈なトラクションを発生。ATTESA E-TSが一瞬で駆動を制御し、重量級ボディを強引に前へ叩き出す。
タイヤがスキール音を上げる。ホイールスピンは最小限。白いR34は一気にターンパイク上り区間へ飛び込んでいった。
田中洋二が思わず叫ぶ。
「RB26サウンドを響かせ、旧時代の怪物が小田原を駆ける!」
シフトアップ。ターボが本格的に立ち上がる。
背中を蹴飛ばすような加速。現代の洗練されたスーパーカーとは違う。荒々しく、暴力的。
だが、それこそがGT-Rだった。
▼
「なぁ、雫。この小田原パイクスピークはどんなコースなんだ?」
MFG運営ブースの大型モニターを眺めながら、黒木隆之が娘へ問いかける。
モニターには箱根一帯を俯瞰した3Dマップが映し出されていた。
アネスト岩田ターンパイク箱根を駆け上がり、芦ノ湖周辺を抜け、そこから小田原市街地へ向けて一気に下る。
全長40キロを超える超高速公道コース。その異様な長さに、一般人なら誰でも眉をひそめる。
「そっか、父さんはMFGのブースに来るのは初めてだもんね」
雫は苦笑しながら腕を組む。その目はモニターに映るコースレイアウトへ向けられていた。
「このコースは難しいの。開幕戦でMFGランナーを容赦なく篩にかけてくる」
「篩にかける、か」
「ええ。単純に速いだけじゃ絶対に勝てない」
雫はモニターへ歩み寄ると、指先でコース前半をなぞった。
「全長は約40キロメートル。前半はターンパイクの高速上り区間。ここは速度域が高いのに、路面のうねりと勾配変化が激しい」
画面には連続する高速コーナー。
一般道とは思えない速度で駆け抜けるMFGマシンの過去映像が流れていた。
「しかも、ただのヒルクライムじゃない。大観山を越えた後は芦ノ湖側へ抜けるテクニカル区間に入る。そこから今度は長い下りになるの」
「登って、下るのか」
「そう。だから車への負担がとにかく大きい。エンジン、ブレーキ、タイヤ……全部を酷使する」
雫の口調は自然と真剣なものになっていく。
それはメカニックとして、このコースの恐ろしさを誰より理解しているからだった。
「最後の超高速ストレート……カマボコストレートでは、速い車は一気に速度に乗る」
モニターに映るのは海沿いへ向かって伸びる長大な直線。MFG名物とも言われる高速区間。300キロ近い速度域へ到達するマシンも存在する。
「けど、本当に怖いのはその先」
「ブレーキングか」
「うん」
雫は頷く。
「最後のストレートでハイアベレージのブレーキング勝負をするなら、コース終盤までタイヤを温存しながら走るマネジメントが必要になる」
「なるほどな」
「でも、そこでタイヤを守ろうとしてペースを落としたら、今度は先頭グループについていけない」
MFGはタイヤ性能差を均一化するレギュレーションが存在する。
だからこそ、タイヤの使い方がそのままドライバーの実力差として現れる。特に小田原パイクスピークは、その傾向が極端だった。
「高速コーナーでタイヤを削られ、下りで熱を入れられ、最後に超高速ブレーキングを要求される」
雫は小さく息を吐いた。
「つまり、速く走りながら壊さない技術が必要なの」
過去に駆け抜けていった神15のマシンは、高速コーナーを信じられない速度で抜けていく。ギリギリまで攻めている。なのに車体は乱れない。
「……あの区間をタイヤを維持したまま高速域で走り抜ける技量が、前提として求められる。だから神
隆之は黙ってモニターを見つめた。そこには、自分がかつて知っていた走り屋とはまるで別次元の世界があった。
峠は速く走るだけではない。機械を理解し、タイヤを管理し、空力を感じ、速度域そのものを支配する世界。
それがMFG。
そして、その舞台へ今……城島和也が挑んでいる。
(今回はMFGの空気感とか、城島和也の限界領域での走りのデータさえ取れれば文句はない)
雫は心の中でそう割り切っていた。
今回の目的は勝利ではない。まずは現代MFGの基準を知ること。そして、和也がどこまで通用するかを見ること。
R34という古い車で戦う以上、無茶をするべきではない。
まずは開幕戦で車の挙動とドライバーの特性を洗い出して、そして次に向けて車を調整する。本当の戦いは第二戦をターゲットにしていた。
……頭ではそう理解している。
だが。
モニターに映る白いGT-Rを見た瞬間、なぜか嫌な予感が胸をよぎる。絶対に様子見だけで終わることはない……そんな予感めいたものがあった。
「頼むからクラッシュとか勘弁しなさいよぉ……」
思わず本音が漏れる。すると、その隣で隆之がふっと笑った。
「雫、それ本気で言ってるのか?」
「え?」
雫はきょとんと父を見る。
だが、隆之はそれ以上何も言わなかった。
ただ、モニターに映るR34を静かに見つめる。
かつて自分たちがいた世界。
命知らずの走り屋たちが、限界のさらに先を目指していた時代。
そして今。
あのGT-Rに乗っている青年は、間違いなくそちら側の人間だった。
▼
「さぁ、スタートしていきます!MFG開幕戦、小田原パイクスピーク!まず最初の見どころは、やはりこの前半高速セクションでしょう!」
巨大モニターに映し出されるのは、箱根山を切り裂くように伸びるコース全景だった。
小田原料金所から始まり、ターンパイクを駆け上がり、大観山方面へ向かう長大な山岳ルート。
標高差。長距離。そして異常なまでの高速域。通常の峠とはまるで別物の、MFG屈指のハイスピードコースである。
実況席に座る田中洋二が興奮気味に声を張り上げる。
「この小田原パイクスピーク、一般的な峠レースとはまるで違います!前半はまさに高速山岳サーキット!MFGの中でも屈指のハイスピードレイアウトです!」
画面が切り替わる。
『ヴォォォォォン!!』
一気に吹き上がるエンジン音。
車体が加速Gで沈み込み、各車が猛烈な勢いで上り勾配へ飛び込んでいく。
「速い!速いぞぉ!スタート直後からフル加速!」
速度表示が次々と跳ね上がる。
160。180。190。
公道とは思えない数字が並ぶ。
しかも、まだ序盤。
ここからさらに速度域は上がっていく。
「このターンパイク区間、特徴はなんといっても速度域!普通の峠のような低速ヘアピン主体ではありません!長い高速コーナーと全開区間が延々と続くレイアウトです!」
大型モニターには各車の車載映像。ガードレールが凄まじい速度で流れていく。一瞬の判断ミスが即クラッシュへ繋がる世界。
だが、それでも神15のドライバーたちはアクセルを踏み抜く。
白いR34 GT-Rは、その持ち得る直線加速でスタートダッシュを決めていた。
RB26DETT。旧世代の怪物。ターボが過給を始めるたび、野太い吸気音が響く。
だが問題は高速コーナーだ。ここでの処理を間違えれば、神15など夢のまた夢。
この序盤でタイヤを壊せば、後半のカマボコストレートまで持たない。
全ては、この時点で始まっている。
「さぁR34 GT-Rが来たぁ!!」
現在のMFGでは珍しい、旧世代の重量級4WD。
しかしその存在感は圧倒的。低く構えた車体。張り出したフェンダー。そして時代を感じさせる直線的なシルエット。
だが、その古さこそが逆に視聴者を熱狂させる。
「この前半区間ではGT-Rのような高出力4WDが非常に強い!上り勾配でのトラクション性能!高速域での安定性!馬力をそのまま速度へ変えられるマシンが有利になります!」
高速コーナーが迫る。ブースでモニターを見つめる雫は、無意識に息を呑んでいた。
さて、このドライバーは、一体どんな走りをするのか……。
「せぇーの……」
インカム越しに、妙に気の抜けた声が聞こえた。
その瞬間。
「どりゃああああああーーーっ!!」
「!?」
和也が雄叫びを上げながらコーナーへ突っ込んだ。
ワンハンドステアで、ほぼノーブレーキ。常識外れの速度で、R34が半ば横滑りのような姿勢で進入していく。
しかし崩れない。車体が暴れない。タイヤを滑らせているはずなのに、ラインが異様なほど綺麗だった。
「な、なんとぉ!横滑り……いや、ドリフト!?は、速い!R34、全く速度が落ちない!!」
ドローン映像が映し出される。タイヤのスキール音を轟かせながら、R34はエイペックスを舐めるように通過。
リアをわずかに流しながら、そのままアウト側へ抜けていく。
普通なら速度が死ぬ。しかし速度は落ちきっていない。むしろ立ち上がりへ向けて加速態勢へ入っている。
「これは危なぁい!この速度で抜けれるのかぁ!?」
実況の悲鳴。
しかしR34はガードレール際を数センチで掠め、そのまま立ち上がった。
『グォォォォォッ!!』
RB26が咆哮する。四輪が路面へ食らいつき、一気に車体を前へ押し出す。その結果、速度ロスは、ほぼゼロだった。
「な、なんなのよ、いまのはぁ!?」
ブースで雫が思わず叫ぶ。
序盤からタイヤを滑らせる?何を考えているの!?というか……ATTESA E-TSは!?
このドライバー、コーナー入り口から滑らせていた。普通なら電子制御が介入して横滑りなんて消されるはずなのに。
「悪いな、ちょっとタイヤが冷たかったから。特にリアの右が」
インカム越しに聞こえる和也の声は妙に軽い。だが、その言葉に雫の表情が変わる。
「……タイヤを温めるために滑らせた?」
この速度域で?このコースで?
混乱の嵐の中、次のコーナーが迫る。
「R34は図体がでかいからな!タイヤの温度はマネジメントの生命線だ!どりゃあああああーー!!」
「また叫んでるぅ!?」
緩やかに曲がりながら、なお加速を続ける危険な高速区間。
「この前半の恐ろしいところは、減速ポイントが少ないことです!一度速度が乗ると、そのまま高速コーナーへ突入していく!」
ドローン映像では、ガードレールが猛烈な勢いで流れていく。
ステアリング操作は最小限。だが速度は異常。
「うおぉっと!GT-R、かなり踏んでいる!!」
タイヤがわずかに鳴く。リアが数センチだけ滑る。だが完全には流れない。ATTESA E-TSが絶妙な領域で介入し、4WDとしてのトラクションを残したまま車体を前へ押し出している。
それは単なるドリフトではない。
極限の速度を維持するための、制御された滑りだった。
そしてインカムからはコーナーに入るたび……
「おりゃー!」
「どりゃー!」
「ひゃおー!」
などという意味不明な雄叫びが聞こえてくる。
「ナビ乗ってる時そんな声出してなかったわよねぇ!?」
雫が半ば悲鳴混じりに叫ぶ。しかし当の和也は楽しそうだった。R34が立ち上がる。
アクセル全開。RB26が山へ木霊する。
「豪快なRB26サウンドだぁぁ!!いやぁ懐かしい!!かつて湾岸を席巻した怪物が、いまMFGを走っております!!」
視聴者がどよめく。年配ファンの歓声も混じっていた。
「GT-Rだ……!」
「この音だよ、この音!」
「R34がMFGでこんな走りを……!」
そして。実況席へ新たなデータが届く。
「そしてこの区間でのタイムですが……ちょっと信じられないことになっています!」
田中洋二が目を見開いた。
「なんと現在、暫定13位の速度で推移しています!!」
「じゅ、13位ぃぃい!!?」
雫の悲鳴。
ブースが騒然となる。
初参戦。旧世代GT-R。しかも序盤。
その条件で神15圏内に食らいついている。すると、隣で黒木隆之が腹を抱えて笑い始めた。
「あははははは!やるなぁ、さすが城島和也くんだ!」
その目は、どこか懐かしいものを見るように細められていた。
あの走り。
あの無茶苦茶な踏み方。
そして、それを成立させてしまう異常な技量。
間違いなく。あれは、怪物を御するのにふさわしい人間だった。