茨城県、筑波山。
深夜。
昼間は観光客で賑わう山道も、今は静寂に包まれていた。だが、その静寂を切り裂くように、遠くから甲高いエンジン音が木霊する。
『ヴォォォン!!』
『キィィィィッ!!』
コーナーを駆け抜けるタイヤの悲鳴。
そして再び響くフル加速の咆哮。
パープルシャドウ。
茨城県が誇る伝説の走り屋チーム。その走行会が今夜、筑波山で開かれていた。峠のパーキングにはスポーツカーが並び、集まった走り屋たちは思い思いに談笑している。
缶ジュース片手に縁石へ腰掛けていた俺……城島和也は、そんな光景をぼんやりと眺めていた。
祖父である城島俊也に無理を言ってナビシートへ乗せてもらい、この走行会へ来た。だが、その胸の内には、ただの憧れだけではない感情が渦巻いていた。焦り。伸び悩み。そして、自分の限界への不安がベッタリと張り付いてるような気がした。
「伸び悩んでるようだなぁ、和坊」
「好じいちゃん」
声を掛けてきたのは、パープルシャドウで神様と呼ばれる男……ゴッドフットこと星野好造だった。
缶コーヒーを片手に豪快に笑うその姿は、年齢を感じさせない。祖父とは長い付き合いで、よく城島家へ遊びに来ては酒を飲み交わしている。俺にとっても、もう一人の祖父みたいな存在だった。
……まぁ。前世で読んでいた『頭文字D』の中でも、かなり好きなキャラクターだったというのもあるのだが。
「JAFジュニアカートでタイトルを取った割には、あんまり嬉しそうじゃなかったからな」
先日の祝勝会にも、好じいちゃんは顔を出してくれていた。レーシングギアをプレゼントしてくれた時は本当に嬉しかった。
だが、それ以上に。自分の走りに納得できていない感情のほうが大きかった。
俺が初めて本物を知ったのは、祖父……城島俊也の助手席だった。
S2000。ワンハンドステア。
異次元の速さで筑波山を流れるように駆け抜けるその走りは、まるで車が重力から解放されているようだった。
あの時。頭を金槌で殴られたみたいな衝撃を受けた。車って、こんな風に走れるのかと。
それからだ。
俺が本気で“走り屋”という世界に惹かれていったのは。
前世でも車は好きだったが、それ以上に、作中で描かれるドライバーたちの人生観、技術を磨き続ける職人みたいな生き方、限界へ挑み続ける姿勢に、憧れていた。
その気持ちを知ってか、好じいちゃんは色々と手を回してくれた。
筑波サーキットでのジュニアカートでの経験。そしてトーナメントへの出場と、普通なら簡単に辿り着けない環境を、俺は与えてもらっている。
それなのに。
「……まだまだ、おじいちゃんみたいには運転できないんだ」
ぽつりと零す。カートでも祖父のワンハンドステアを真似してみた。タイヤの使い方、荷重移動、向きの変化、それらを自分なりに研究している。
だが近づくどころか、むしろ遠ざかっている気さえした。
「あの人、ほんと意味わかんないんだよ……」
「ははは!」
好じいちゃんが豪快に笑う。
「城ちゃんのワンハンドステアは、熟練した技術があるからな」
「この前ナビシート乗せてもらって、嫌ってほど思い知ったよ……。あのレベルに近づけるイメージが全然湧かないんだ」
祖父の走りは派手じゃない。
だが、異常だった。
全く無駄がなく、速いのに怖さがない。
なのに速い。意味がわからないくらい。落ち込む俺を見て、好じいちゃんは「よし」と立ち上がった。
「じゃ、俺のナビシート乗るか」
「なんでそうなる?」
思わず即答してしまう。
すると好じいちゃんはニヤリと笑った。
「城ちゃんのワンハンドステアはトラウマものだからな。それを払拭するには、別のインパクトが必要ってことだろう」
いや理論が雑すぎる。
というかゴッドフットの助手席とか、絶対ろくなことにならない。
「いやいやいや、無理無理無理」
「大丈夫大丈夫。死なん死なん」
「その励まし文句が一番怖いんだけど!?」
ケラケラ笑う好じいちゃん。
だが、そこでふと思い出す。
「……
星野光弘。好じいちゃんの息子であり、俺とも仲がいい気のいい兄ちゃんだ。そして父親であるゴッドフットに、特別な憧れを抱いている人でもある。
その気持ちは痛いほどわかる。けれど、好じいちゃんは少しだけ困ったように頭を掻いた。
「アイツには俺の会社継いでもらいたいからなぁ!教えたいけど我慢してんだ!」
「……それ、絶対本音半分だろ」
「まぁ、走り屋なんて人生狂わせるからな!」
カラカラ笑う。冗談みたいに言っているが、その言葉には妙な重みがあった。
峠に魅せられた人間たち。
速さに囚われた人間たち。
きっと、この人たちはそれを知っている。
だからこそ、自分の息子には別の道を歩んでほしいのだろう。
……まぁ。その代わりを俺で発散しようとしてる気がするけど。
「俺で欲求発散しようとしてない?」
「まぁまぁ。溜まってるおじさんのわがままに付き合うと思って」
「その言い方、なんかやらしいから嫌なんだけど……」
そう言いながらも、俺は少しだけ笑っていた。
祖父とは違う。だが、この人も神様と呼ばれたドライバーだ。
城島俊也の理論的で静かな走り。
星野好造の豪快で本能的な走り。
同じ領域にいるはずなのに、まるで違う。
その時からだった。
祖父と同じ走りを追うだけじゃ駄目なんじゃないか……そう思い始めたのは。
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「オフィシャルサイトの動画は見てたけど、思っていたよりハードなコースだなぁ!こいつは骨が折れる!」
ターンパイクの急勾配を登り、大観山から芦ノ湖麓まで下るセクター1。
平坦な芦ノ湖畔と、元箱根から国道1号最高地点までの登りが続くセクター2。
その二つを、ほとんど速度域を落とさないまま、和也は楽しそうにR34を振り回していた。
限界走行で見えてくる車の癖。アンダーへ逃げようとする挙動をアクセルワークで押さえ込み、ステアリング操作は最小舵角で済ませる。
データで見る限り、レコードラインとは異なるラインを走っている。だが、その走りのブレはコーナー出口で綺麗に収束していた。
『タイヤのグリップをうまく使えば、どのラインでもタイムに大きな差はない』
祖父、城島俊也が言っていた言葉だ。
ワンハンドステアは、ただの見栄えではない。タイヤの限界荷重を感じ取り、車の滑り出しを掴むための合理的な走法。
そしてその先……タイヤ四本をすべて使い切る、限界ラインを見つけるための方程式でもある。
グリップウエイトレシオ。MFG独自のレギュレーションは、その傾向を極端なほど表面化させていた。
ハイパワー車はタイヤを潰し。
軽量車はパワー不足に苦しむ。
その中で、どこまでタイヤの美味しい領域を使い続けられるか。
それがMFGだ。
「このR34がこういうセッティングだって言うことは分かってたんだ。なら、そう走らせるのが男ってもんだろ!好じいちゃん!」
急峻な下りのセクター3。和也はコーナー入口から車を横へ向け、そのまま一気に突っ込んでいく。
その走りには恐怖よりも、どこか遊びに近い楽しさがあった。
「せーのっ!うおりゃああああーー!!」
『ヴォォォォォォォン!!』
ターボが吠える。RB26DETTの暴力的な加速音が箱根に響いた。
「速い!なんと言う速度だ!R34!カーナンバー、『034』に偽りなし!まさにモンスターマシンだぁー!」
実況の田中洋二が絶叫する。モニターには、白いR34がドリフトともグリップともつかない姿勢でコーナーを抜けていく映像が映し出されていた。
その裏側。黒木陣営のブースでは、別の意味で大騒ぎになっていた。
「ちょっとぉ!ダウンヒルに入ってるのよ!?そんなペースでタイヤ持つと思ってるの!?」
悲鳴を上げる雫の後ろで、黒木隆之は食い入るようにモニターを見つめていた。
表示されるのは車両挙動データ、タイヤ温度、荷重移動、ヨーレート、ATTESA E-TSの駆動配分。
(すごいな……これは本当に4WDなのか?)
四輪駆動の補助機構であるATTESA E-TSの制御を振り切るような横滑り。
だが、完全には破綻していない。横方向へタイヤを酷使しているように見えるにも関わらず、データ上では“美味しい領域”からギリギリ外れていない。
完全なコントロール下にある。
(こんな使い方、普通はしない……)
GT-Rという車を知る人間ほど、その異常性が分かる。BNR34は本来、もっと綺麗に、もっと安定して走る車だ。
だが和也は違う。FRのように振り回しながら、それでも4WDのトラクションを使い切っている。
娘の雫ではまだ辿り着けない領域。
だからこそ、自分がここにいる。
(ダブって見えるよ……)
隆之はモニター越しにR34のテールランプを見つめる。
(サーキットで豪快にドリフトをかます好造さんの姿に)
星野好造……ゴッドフットと呼ばれる走りの神様。
その豪快な走りが、和也の姿と重なった。
コーナーを滑り抜けていくR34。
その無骨な後ろ姿には、どこか獣じみた色気があり、エキゾチックで……そして危険。理解できる者にしか分からないエロスがそこにはある。
「コースはセクター2を超えてセクター3へ!その先にはデスエリアが待ち受けています!」
田中洋二の声が響く。
デスエリア。それは富士山北面の大爆発で生じた地下水脈の変動で、火山性ガスと濃霧が立ち上る。かつて温泉街として栄えた箱根の一部は、人の住めないゴーストタウンと化していた。
特に小涌園前から大平台駅付近。そこは霧による視界不良と急勾配が重なり、事故が多発する危険地帯。
小田原パイクスピーク最大の難所だ。この攻略が、レースそのものを左右すると言ってもいい。
「現在は脅威の10位!注目フラグも出ています!ダウンヒル区間では、片桐夏向が操るトヨタ86の鮮やかなコーナリングが印象的でしたが、このR34の暴力的なコーナリングも凄い!」
国道1号最高地点から塔ノ沢温泉郷まで続くセクター3。
デスエリア手前の下りで、R34は驚異的なタイムを叩き出していた。順位は落ちていない。むしろ食らいついている。
その圧巻の走りに、雫は白目を剥いていた。
「これだからMFGは面白い!今回は魅力的なルーキーが豊作です!しかし、セクター3にはMFGの誇るデスエリアが待ち構えています!今シーズン、間違いなく話題となる片桐夏向に加え、城島和也はどうやって攻略するのか!その興味は尽きません!」
「アンタ!もうデスエリア手前よ!?そんな速度で挑むなんて死にたいの!?」
通信越しに雫が怒鳴る。
だが和也は笑っていた。
「そのためにここまで振り回して限界値を見極めてきたんだ!今更後には引けないだろ!」
「意味わかんないわよ!?」
「安心しろ!100では攻めない!ただ70パーセントくらいには上げていくぞ!ヒャオーーー!!」
「南斗水鳥拳の伝承者みたいな雄叫びをあげるんじゃないわよ!?」
ブースの空気が一瞬だけ和む。
隆之は思わず吹き出しそうになった。