デスエリア。
火山性ガスと濃霧が視界を遮るエリアに入る。ステアリングとシフト操作に集中。このエリアは何度も映像では見ていたが、実際に走ればイメージとの乖離は出てくる。ここを100パーセント、イメージと合致させるなんて天才的な芸当はできない。
けれど、それに近づくことはできる。
路面の接地感。荒れた路面に弾かれた振動をアクセルワークで収束させる感触。縁石スレスレに攻める角度。霧の向こう側でわずかに変化する勾配。
このコース……このデスエリアを攻める為に必要な情報は、身体で感じ取った。
それを生かして、ただしゃにむに攻めるだけだ。
オレンジ色に染まり始めた濃霧の中を、R34が駆け抜けていく。四灯テールが霧の奥でぼんやりと揺れ、次の瞬間には白煙混じりのブレーキングと共に姿を現す。
あっ……。
「おっといけねぇ。危うく黙り込むところだった」
思わず口に出す。あえて運転中に独り言をぶつぶつ言うのは、コンセントレーションのためじゃない。これは好じいちゃんの受け売りだが、俺も集中すると黙り込むきらいがある。
黙り込んで速くなるなら越したことはないが、それじゃ祖父の走りに近づけるものじゃない。だからあえてしゃべる。
喋って、100パーセントの集中をあえてさせず、ヒートアップした感覚をクールダウンさせる。
80パーセントの集中でも、限界付近を維持できるようにする。
ジュニアカートの時代から取り入れてきたやり方で、最初は思うようにいかなかったし、トーナメントで順位を落とすこともあった。でも、それが身体に馴染めば、80パーセントでも相応のドライビングができるようになってきた。
……まぁ、そのせいでパープルシャドウで次世代ゴッドフットとか、ミニ星野好造とか呼ばれちゃってるんだけど。
「私としては黙って走ってもらった方がいいんだけど?」
「悪いな!癖なんだ!許してくれ!」
インカム越しに文句を言う雫にそう謝罪して、濃霧が立ち込めるコーナーを見据える。
フロントへわずかに荷重を残したままターンイン。ATTESA E-TSが立ち上がりで僅かに介入し、暴れようとしたリアを抑え込む。だが介入は最小限だ。黒木雫がMFG向けに煮詰めたセッティングが、重量級4WDとは思えない鋭さでノーズを向けていく。
「うーん、これは想像以上に視界が悪くて怖いなぁ!でもさ、ここは封鎖された公道だ」
夜の峠ではない。夜景を見る為に登ってくる一般車両や、ドリフトをミスって横を向いている車なんていない。
「対向車なんてこない!そう決めつけていけば、二車線いっぱいを使ってラインを使えるってことだろ!」
対向車線を跨いでアウトまでめいいっぱいに道幅を使う。一車線内で完結させる走りじゃない分、思い切って踏んでいける。
峠みたいに、もしもを考えながら走る必要はない。
封鎖されたMFGだからこそできる、公道の使い方だ。
「なら勇気を出して踏むしかないよな!そのためにここまで限界いっぱいに振り回してきたんだ!」
この車の限界付近は、セクター1からセクター2で把握した。限界まで余力は残しているが、まぁそれでこのタイムなら及第点だろう。
好じいちゃんと祖父が走ったら、もっと上手くマージンを作ってタイムを削るんだろうな。
あの人たち、負けず嫌いだし。
「いっせいの……せぇぇえええい!!」
急勾配の下りをフルブレーキングで減速する。
ABSが細かく脈動し、タイヤが悲鳴を上げる。それでもR34は姿勢を乱さない。フロントへ荷重を叩き込みながら、タイトな直角コーナーへノーズをねじ込む。
「宮下交差点を鮮やかにクリアしていく!すごい!初出場とは思えない速さです!」
実況の田中が興奮を隠しきれない様子で叫ぶ。
夕暮れで濃霧がオレンジ色に染められる中、R34が火山ガスの中から飛び出してくる。白いボディーが霧を切り裂き、四灯テールが揺れる様は、まるで亡霊のようだった。
「現在、順位は10位……!フェラーリを駆る赤羽海斗選手の背後につくタイムで来ています!すでに神15圏内!昨年のミハイル・ベッケンバウアーと同じ、鮮烈なデビューを予感させます!片桐夏向といい、今回のトピックスを独占するドライバーなのは間違い無いでしょう!」
その田中の声からは、興奮という二文字が消えることはなかった。
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(神15圏内……現実を受け入れるのよ、黒木 雫)
セコンドブースでモニターを見つめながら、雫は深く息を吐いた。乱れた情緒を無理やり押し戻すように胸へ手を当てる。
だが、その衝撃はあまりにも大きい。
モニターに映るR34は、濃霧と火山性ガスに包まれたデスエリアを、まるで昔から走り込んでいたかのような精度で駆け抜けていく。
(30位以内に入ってポイントランカーになることですら、すべてのMFG出場者にとって夢であり、憧れなんだよ……!私は40位止まりだけど……!)
MFGにおいてポイントを獲得するということは、それだけで選ばれた存在になるということだ。
0.1ポイントでも取れば様々な優遇がある。
タイヤは全て無償供給。セコンドブースも優先的に割り当てられ、エントリー時の扱いまで変わる。
そして何より、カーナンバーに刻まれるゴールドの縁取り。それは、MFGで結果を残したドライバーである証明だった。
だからこそ、ランキングボードに映る『10位』という数字は重い。
自分が必死に追い続けても届かなかった場所へ、城島和也は初出場で踏み込もうとしている。
「……っ」
自分の走りと、城島和也の走り。
その質の違いをまざまざと見せつけられ、胸の奥から嫉妬にも似た感情が込み上げる。
悔しい。羨ましい。認めたくない。
そんな感情が喉元までせり上がるが、雫は小さく頭を振って無理やり思考の外へ追い出した。
今は感情論で見る場面じゃない。
メカニックとして、セコンドとして、見るべきものを見なければならない。
「テレメータリーのデータは正確……」
モニターへ表示される各種数値を凝視する。タイヤ温度。摩耗率。ブレーキ負荷。駆動配分。
「あんな運転をしてるけど、タイヤの消耗はギリギリ……レースが終わるまでは持つ……持つ?」
はた、と雫は気づいた。無茶苦茶な走りだと怒り心頭で見ていたそのドライビングに、この終盤に来て……理論的な裏付けが見え始めていた。
コーナー進入では荷重移動を短時間で終わらせ、立ち上がりではATTESA E-TSの介入を最小限に抑える。
フロントタイヤを削りすぎないように、わずかにリアを滑らせて向きを変えている。
あれはただの豪快な走りじゃない。GT-Rの弱点を理解した上で、ギリギリ寸前まで使い切る走りだ。
「たった1レースでタイヤを使い切るくらいのマネジメントが……城島和也はできているっていうの?」
戸惑うように呟いた雫へ、背後から落ち着いた声が返ってくる。
「そこは信頼していいと思うよ」
「父さん?」
振り返ると、腕組みした父、黒木隆之がモニターを見つめていた。その視線には驚きよりも、どこか納得したような色が浮かんでいる。
「なにせ、あの子を育てたのは……筑波山にいる神様なんだから」
「…………は?」
ぽかん、と雫は固まった。
数秒遅れて、じわじわと困惑が表情に浮かぶ。
「それ、信仰宗教かなにか?」
「全然違うから、変な誤解はやめろな?」
隆之は即座に否定する。
だが、その脳裏には、筑波山で笑いながらGT-Rを振り回す老人の姿が浮かんでいた。
ゴッドフット……星野好造。
そして、神様と呼ばれたもう一人。
城島俊也。
「あの二人に育てられた時点で、普通のドライバーになるわけないだろ」
モニターの中では、霧の向こうから再びR34が姿を現す。
オレンジ色の濃霧を切り裂きながら駆け抜けるその姿に、セコンドブースの雫が息を呑んでいた。
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「全くペースを落とさずにデスエリアを抜け、セクター4へと入る!全長約40キロという長いコースに終わりが見えてきました!」
実況の田中が興奮気味に叫ぶ。
モニターへ映し出される映像。その光景を、MFG本部ビルの一室で静かに見つめている男がいた。
MFGの創設に関わった中心人物の一人であり、かつて公道最速理論を掲げた男、高橋涼介と共にMFGを築き上げた人間である。
映像の中では、ヴォン!とRB26の重厚なエンジンサウンドを響かせながら、純白のR34が減速していく。
火山性ガスの霧を抜けた先。そのままマシンは、大平台のヘアピンへとエントリーした。
「大平台のヘアピンカーブをR34が攻め……おおっと!!」
ぐわっ、とリアが外へ振り出される。
四輪へ荷重を残したまま、R34は大きく姿勢を崩すことなく滑っていく。タイヤが路面を削る甲高いスキール音。わずかに上がる白煙。
だが、その動きは破綻ではない。むしろ、狙って滑らせている。
「この派手なドリフト!本当にこれは4WDなのか!?ATTESA E-TSは居眠りでもしているのかぁ!?」
田中の実況に、スタジオすらざわつく。
GT-R。本来なら強烈なトラクションで路面へ張り付くように立ち上がるマシンだ。
だが、城島和也のR34は違う。
FRのようにリアを流しながら、それでも四輪の接地感を失わない。
GT-Rを無理やり曲げているのではなく、GT-Rの限界を理解した上で遊ばせている。
そんな走りだった。
実況を聞き終えた史浩は、ギシリとデスクチェアへ身体を預け、深いため息を吐いた。
「……まさかだな。エントリー直前まで把握できなかった」
片桐夏向……カナタ・リヴィントン。
藤原拓海の教え子がMFGへ参戦する。
それだけでも十分すぎるほど衝撃的なニュースだったが、その直後に現れたこの男は、別方向から過去を刺激してくる。
「涼介……俺は覚えているよ。忘れようがない」
史浩の脳裏へ蘇る。
若かりし頃の、“夢”みたいな夜。
プロジェクトDによる神奈川遠征。そこで彼らを待ち受けていた、神様たちとの死闘。
「茨城遠征で戦った……神様たちとの戦いを」
静かな声でそう呟きながら、史浩はモニターのR34を見つめる。
「城島和也……藤原拓海に猛烈なインパクトを与えたゴッドアーム……城島俊也の孫……」
表示されるプロフィールデータ。
年齢、経歴、車種。
そこへ刻まれた城島の姓に、史浩は苦笑する。
「こんな逸材を最終日に回してしまうとはな……」
運営としては痛恨だ。だが同時に、コンテンツを作る側としては、最高のドラマでもあった。
片桐夏向という話題の直後に、今度はパープルシャドウの系譜。SNSも、配信コメントも、今頃は大騒ぎだろう。
「そして、あの走り……猛烈にダブって見える」
史浩の視線が細くなる。
「啓介と戦ったゴッドフットの……星野好造に」
笑いながら限界へ踏み込んでいくようなアクセルワーク。
豪快なのに、破綻しない。
遊んでいるように見えて、実際はギリギリの制御。
あの神様の走りが、確かにそこにはあった。
モニターの中では、R34が市街地へ向かって一気に駆け下りていく。
▼
そして場所は変わり……横浜。
「……ったく、嫌味だぜオッサン。MFGに参戦できねぇからって、こんな奴を送り込んでくるとは」
吐き捨てるように言いながらも、その口元はどこか楽しそうだった。
高橋啓介。
かつてプロジェクトDで、ゴッドフット……星野好造と壮絶なバトルを繰り広げた男。その啓介もまた、城島和也という存在に胸を高鳴らせていた。
「啓介さん、やっぱり!」
背後から声を上げたのは、
「間違いねぇ」
啓介は断言する。
「あの走りはゴッドフット……星野好造の血脈を感じる」
そう言って、タブレットへ表示されているラインデータを賢太へ見せた。
「ラインデータを見てみろ、賢太」
「これは……レコードラインと違う場所がいくつもある」
その言葉に、啓介はもう一人の“神様”を思い出す。
「ラインを外れても、時間を合わせて収束させていく技術……」
脳裏に浮かぶのは、S2000。ハンドルへ片手を添えながら笑っていた男。
「藤原がビビってた、ゴッドアームのおっさんの走りとそっくりだ」
賢太にとって、星野好造と城島俊也いう存在は強烈だった。
とくに星野好造。
パープルシャドウとのバトル。ヒルクライムとダウンヒルが複合したコース。その折り返し地点で、啓介のFDへぶつける勢いでR34をターンさせた光景は、今でも忘れられない。
「ってことは……城島和也って、パープルシャドウの神様たちに英才教育されたドライバーってことですか?」
「それだけなら驚かねぇよ」
啓介は低く答える。
そして、MFGの映像へ視線を戻した。
すでにレースは最終盤。
R34は最後のコーナーを抜け、立ち上がり加速へ入っている。
「怖ぇのは……こいつの走りのプライドだ」
その一言には、かつて最前線を走っていた男だけが理解できる危うさが滲んでいた。
速いだけじゃない。
自分の走りへ絶対的な信念を持っている。
だから限界を超えて踏める。
そして、そういうドライバーほど止まらない。
「入生田駅付近の西湘バイパスとの分岐から、1.9キロに及ぶカマボコストレートを抜け、東風祭交差点をクリアしたR34!もう神15入りは確定だぁ!!」
田中の絶叫が響く。
「10位でレースを終えました!新たな衝撃がMFGに走ります!今年も目が離せないぞ!!」
配信を見る者たちから歓声が上がる。
その中心で、純白のR34だけが、何事もなかったかのように走り抜けていった。