初夏の陽射しが箱根の山肌を照らしていた。
小田原料金所付近に設営されたMFGのスタートエリアには、色鮮やかなスポンサーフラッグが風に揺れ、朝から集まった観客たちの熱気が充満している。
サーキットとは違う、公道レース特有の張り詰めた空気。
その中で、巨大モニターから流れているのは、開幕戦直前の恒例となったMFGエンジェルスのライブパフォーマンスだった。
「4代目、MFGエンジェルスがお送りしました!今シーズン始まってからリリースされたテーマソング、『ブラインドコーナーなんて怖くない』でしたー!」
実況席から響く田中洋二のテンションの高い声。
大型モニターの中では、鮮やかなコスチュームを身にまとったMFGエンジェルスたちが、最後の決めポーズを取っていた。観客席から歓声が上がり、スマートフォンを掲げるファンたちがその姿を撮影している。
MFG。
滅びたはずの走り屋文化を、現代に蘇らせた世界最大級の公道レース。
その開幕戦……小田原パイクスピーク。
5月下旬。
夏が近づきつつある空気を感じさせる晴天の中、箱根の山々はどこまでも澄み渡っていた。
「なんと初登場でランキング3位だそうです!売れています!」
田中の軽快なトークに、実況席横のモニターにはMFGエンジェルスの人気ランキングが表示される。
MFGエンジェルスは、毎年オーディションで選ばれる公式レースクイーンであり、それぞれ番号で呼ばれるのが慣例だった。
シーズンごとにメンバーは総入れ替えされ、人気投票や配信ランキングで順位が決まる。
そして、MFG名物のひとつ。
決勝で表彰台に立ったドライバーは、希望したエンジェルスメンバーから頬へのキスを受けることができる。
それを目当てに本気で表彰台を狙う男もいる……という噂まであるほどだった。
「さぁ、MFG第一戦。小田原パイクスピークのレースが今始まろうとしています!全国、3000万人の視聴者の皆様、こんにちは!実況の田中洋二です!」
実況席から眼下を見下ろせば、スタート地点となる料金所周辺に15台のマシンが並んでいる。
ポルシェ、フェラーリ、メルセデス、ランボルギーニ、アウディ。
世界最高峰のスポーツカーたちが居並ぶその光景は、まるでモーターショーそのものだった。
その中に混じる、日本車。
日産GT-R。トヨタ86。
それらが異様な存在感を放っている。
メカニックたちは最後のタイヤチェックを行い、サポーターたちはドライバーに声を掛け、スタッフたちは慌ただしく動き回っている。
エンジンのアイドリング音。
無線のノイズ。
それら全てが混ざり合い、レース直前という独特の高揚感を生み出していた。
「本日、第一戦のゲスト解説者として、レーシングドライバーとしても期待され、現在は若手ドライバーの監督としてレース活動に携わってらっしゃる小柏カイさんをお招きしています。本日はよろしくお願いします!」
「こんにちは。よろしくお願いします」
落ち着いた声で答えるのは、小柏カイ。
現在はプロレーシングチームの監督として活動しているが、その名はMFG以前……走り屋の時代から知る者には特別な意味を持つ。
かつて、公道最速を巡って競い合った男。
そして、MFGの母体となった組織、プロジェクトDと深い関わりを持つ人物でもあった。
当然ながら、MFG運営上層部とも交流があり、リョウ・タカハシの正体についても知っているが、それは絶対に表へ出してはいけない情報。そのため、彼は決して口外しない。
「このレース、注目すべき2人の新たなドライバーがいます!」
田中が声を張り上げる。
「初登場にして見事予選突破を果たしたルーキー!トヨタ86を操る片桐夏向選手!そして、スカイラインGT-Rを駆る城島和也選手です!!」
その名前が読み上げられた瞬間、配信を見る視聴者の一部がざわついた。
GT-R。しかもBNR34。
化石燃料車時代の怪物。
かつて湾岸線や峠で名を轟かせた、日本を代表するスポーツカー。だが同時に、それはMFGにおいて時代遅れとされる存在でもあった。
「MFGの生き字引を自認する私としては、プライドに賭けてもと思いましてね!片桐選手の故郷イギリスには国際電話をかけまくり!城島選手の故郷、茨城県筑波市にも電話をかけまくりました!」
実況席で胸を張る田中。
方や英語。方や日本語。拙い英語を交えながら、情報の少ない二人について徹底取材を敢行したらしい。
「その中で、2人のインパクトのある情報をいくつか入手しました!後ほど、タイミングを見計らってご紹介しようと思います!」
その言葉に、戦々恐々としていた人物がいた。
MFGエンジェルスの一人……浜崎 萌絵である。
(ひぃーっ……!田中さん、萌絵とお兄ちゃんの兄妹バレだけは勘弁してぇぇ……!)
営業スマイルを保ちながら、内心では完全に青ざめていた。
(もしバラしたら、上有本部長に抗議してやるんだから……!)
「さぁ、スタート予定時刻まで残り10分を切りました!待ちに待った開幕戦の火蓋が、今まさに切られようとしています!!」
実況の熱量がさらに上がる。
「ここで改めて、本日のスターティンググリッドをご紹介しましょう!」
大型モニターに、グリッド順が映し出される。
「ポールポジションは、ポルシェ・911GT3!MFG二年連続覇者……石神風神!!」
「その後ろには同じくポルシェ・718ケイマンS!昨年、鮮烈なデビューを飾った貴公子――ミハイル・ベッケンバウワー!」
ブロンドヘアの青年……ミハイルが静かにグローブをはめる姿が映る。
「3位は好調、坂本雄大のアウディR8 V10!相変わらずフードを被って顔を見せません!」
「4位、メルセデスAMG・GTSの大谷!」
「5位!GT-R35!小田原の神風ヤンキー――相葉瞬!!」
その紹介に視聴者たちがどっと沸く。
地元人気が圧倒的なのだ。
「6位、BMW・M6の柳田!」
「7位にはポルシェ・911カレラGTSを駆るジャクソン・テイラー!やはり欧州車勢が強いですねぇ!神15のオーラが煌めいています!これだけで私はゾクゾクしてきます!!」
「8位、ランボルギーニの大石!」
「9位、フェラーリの赤羽海人!」
そして。
「10位に、今レース注目のルーキーの一人!日産スカイラインGT-R!城島和也がいます!!」
白いR34の映像がモニターに映し出される。
低く構えた車高。太いリアタイヤ。そして、現代のスーパーカーたちの中でも消えない圧倒的存在感がある。
「第11位、レクサスLC500、エミール・ハンニネン!」
「12位、ロータス・エキシージ、八潮!」
「13位、アルファロメオ・4Cの北原!コンビネーションが上手いヤジキタ兄妹です!」
「14位、ホンダ・シビックタイプR、前園!」
「そして最後尾15位にいるトヨタ86!英国からのチャレンジャー、期待のルーキー――片桐夏向!!」
紹介が終わる。空気が変わった。
いよいよ始まる。そんな緊張感が、スタートエリア全体を包み込んでいく。
「ドライバーズミーティングを終えたパイロットたちが、仮設パドックを進み、自らのマシンへと向かっていきます!!」
実況席で興奮を隠しきれない田中。
その頃。
俺……城島和也もパドックを歩いていた。服装はいつもの私服だ。レーシングカートや、もっとハイアベレージなサーキットで安全のためにレーシングスーツを着るが、ここは公道……感覚としては夜に走りにくる、といったものだった。
すれ違うスタッフたち。
緊張した表情のメカニック。
その全てを横目に見ながら歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「よぉ、城島」
「相葉先輩。今日はよろしくお願いします」
そう返すと、先輩という響きが嬉しかったのか、相葉 瞬は満足そうに笑った。
R35 GT-Rを駆る神15の一角。だがその実態は、後輩思いで人情味のある男だ。
「それと紹介するぜ。こっちが86号車の片桐夏向だ」
「はじめまして、片桐夏向です」
礼儀正しく頭を下げる青年。明るめの茶髪、白い肌でありながらどこか日本人らしさの面影を残す。そして、その瞳には妙な落ち着きがあった。
「城島和也だ。今日はめいいっぱいMFGを盛り上げよう」
そう言って手を差し出す。すると、夏向も自然な動きで握手を返してきた。
「そういう心意気、俺は好きだぜ」
相葉先輩が笑う。
「2人とも頑張れよ」
「相葉先輩も」
「good luck」
夏向も小さく笑みを浮かべた。その後、俺と夏向は並んでパドックを歩く。
俺は10位。夏向は15位。今回のレース展開で直接絡むことは、おそらくない。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「日本の車……スカイラインGT-R、とてもクールでエクセレントです」
「お、おう。ありがとうな」
海外育ち特有のストレートな褒め方に少し照れる。
「城島さんはいつもこれに乗ってるんですか?」
「和也でいいよ。年齢もそんな変わんないだろうし」
「では、和也」
その発音が妙に自然だった。
「俺が普段乗ってるのはS2000だよ」
「really?ホンダのS2000!」
夏向の目が少し輝く。
「僕の先生も、その車によく乗っています」
「先生?」
「僕は英国のレーシングアカデミーにいましたので」
その言葉に、なるほどと納得する。
それにこの空気感。レース直前だというのに、この立ち振る舞い。明らかにレース教育を受けた人間だった。
「そうか。まぁ、お互い力を尽くそうな」
「はい。これからもよろしくお願いします」
そう言って別れる俺と夏向。その様子を、少し離れた場所から見つめている男がいた。
フェラーリを駆る神15。
赤羽海人。フェラーリのボディに寄り掛かりながら、静かにこちらを見ている。
(若いな……)
彼は心の中で呟く。
(あの年齢で旧車を選ぶなんて、物好きな……)
R34。いまや過去の名車とされる存在。最新技術の塊である欧州車たちに対し、あまりにも古い。
だが、それでも。あのGT-Rには、妙に目を引く何かがあった。
(まぁ、俺の相手じゃないか)
そう結論付ける赤羽。
しかしその直後……RB26DETTの重低音が響いた。
ブォン、と。まるで獣の唸り声のような音。
赤羽は無意識に視線を向ける。
白いR34。
そのマシンを前に、城島和也は静かにステアリングに手を添えていた。
そして赤羽は、ほんの僅かに眉を動かす。
妙だな。なぜだろう。
なぜ、あのGT-Rから目が離せないんだ。
赤羽は無意識に口元を歪めた。
(面白い)
その感情が、警戒に近いものだと、本人はまだ気づいていなかった。
▼
「スタート予定時刻まで1分を切りました!実況の私でさえ、口から心臓が飛び出しそうな勢いです!!」
実況席の田中洋二が興奮を抑えきれない声で叫ぶ。
スタート地点。料金所ゲート前。並んだ15台のモンスターマシンが、一斉にエンジンを唸らせていた。
ポルシェの乾いたフラットシックス。
フェラーリV8の甲高い咆哮。
ランボルギーニの猛獣じみたサウンド。
そして、その中に混じるGT-Rの重低音。
それぞれが異なる個性を放ちながらも、共通しているのは圧倒的な速さへの執念だった。
MFG開幕戦。
その瞬間を、世界中が待っていた。
「総勢8名のエンジェルスが、パイロットを見送るためにスタート位置で整列します!」
実況に合わせ、MFGエンジェルスたちが横一列に並ぶ。
オレンジと白を基調としたコスチューム。
風になびく髪。笑顔でドライバーたちを見送る彼女たちは、まさにMFGという祭典の象徴だった。
ゆっくりと。
15台のマシンがスタート地点、料金所ゲートへと進んでいく。
タイヤがアスファルトを擦る音。低速で転がるだけなのに、その一台一台から異様な存在感が漂っていた。
「表彰台に上がれば、ご褒美にエンジェルスがほっぺにキスをしてくれます!!しかも指名ができるのです!!」
田中が妙に力説する。
「田中さん、それ毎年必要以上に熱弁しますよね」
横から小柏カイが苦笑混じりにツッコむ。
「いやぁ、モチベーションは大事ですから!」
実況席が笑いに包まれる。だがその一方で、ドライバーたちの空気は静かだった。
集中。ただ、それだけ。
エンジェルスの前をマシンがゆっくりと通過していく。
その中で。
ふと、萌絵の前を純白のR34が抜けていった。
ほんの一瞬。
サイドウインドウ越しに、パイロットと萌絵の視線が交差する。
(行ってくるよ、萌絵)
声にはならない意思。萌絵は営業スマイルを崩さないまま、小さく拳を握った。
(無事に帰ってきてね、お兄ちゃん)
胸の奥が少し苦しくなる。だが、それを表には出さない。MFGエンジェルスは、笑顔を絶やしてはいけないのだ。
R34はそのままゆっくりと前へ進む。
「ポールポジションのポルシェが、ゆっくりとゲートを抜けていきます!」
先頭。石神風神のポルシェ911GT3。
「最後尾の車がゲートを抜けるまで、全ての車には時速40キロの速度規制がかかります!」
MFG特有のスタート方式。公道封鎖レースゆえ、安全確保のために全車両は一定速度でスタート区間を走行する。
その先導を務めるのがAI搭載ドローン。
「それぞれの車にはAI搭載の最新鋭ドローンが付き、ドライバー前方を時速40キロで飛行!ブルーシグナル点灯以前にドローンへ追いつけばペナルティとなります!」
各車両の前方。小型ドローンが赤いライトを点灯させながら飛行している。このドローンが許可するまで、ドライバーたちは牙を隠さなければならない。
それでもなお。
マシンたちは抑えきれない獰猛さを滲ませていた。
GT-Rのコクピット。
俺は静かに前を見据える。
ステアリング越しに伝わる微振動。RB26の鼓動。駆動系の唸り。全てが手のひらから伝わってくる。
「……」
隣を見れば、少し前方に赤羽のフェラーリ。
さらに前には相葉先輩のR35。
神15。MFGトップクラスの怪物たち。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ。心の奥底から湧き上がるのは高揚感だった。
後方では、最後尾の86が静かに隊列へ加わる。
片桐夏向。
彼もまた、静かに前だけを見ていた。
英国仕込みのドライビング。そして、藤原拓海の系譜。だが今はまだ、その正体を知る者は少ない。
「さぁ、最後の車がゲートを抜ける……!!」
実況席の田中が叫ぶ。
その瞬間。
15台全てのエンジン音が、一段低く唸った。
ドライバーたちがアクセルへ意識を集中させる。
次の瞬間を待つ。
ブルーシグナル。
それが点灯した瞬間、戦いが始まる。
山の空気が震える。
誰もが、その瞬間を待っていた。
そして。
「一斉に15台のマシンが咆哮を上げる!!」
ドローンのブルーライトが点灯。
「MFG開幕戦!!小田原パイクスピークの戦いが、今始まりましたぁぁぁぁぁッ!!」
瞬間。15台の怪物が、一斉に牙を剥いた。
フェラーリが吠える。
ポルシェが加速する。
ランボルギーニが咆哮する。
そして。
純白のR34が、低く獰猛な排気音を轟かせながら、箱根の山へと解き放たれた。