夜明け前の影の国 〜TS転生した影の女王は、死んだはずの者たちを拾い続ける〜   作:姉御肌っていいよね

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第1話 影の女王は、怪物を見定める

 

 

 雪が降っていた。

 

 空も海も白く濁り、世界の輪郭が曖昧になるほどの寒さだった。

 

 その中に、ひとつだけ異様なものがある。

 

 足跡だ。

 

 子どものものではない。

 

 獣のものでもない。

 

 雪原を踏み抜き、地面の土まで抉るほど深い足跡が、海辺から森の方へ続いていた。

 

 一歩ごとに雪は沈み、凍った大地には細かなひびが走っている。

 

 まるで、巨人族の子どもが迷い込んだかのようだった。

 

 だが、その足跡の先にいたのは、巨人ではない。

 

 人間だった。

 

 まだ幼い顔立ちの少女。

 

 頬は丸く、目には涙が溜まり、鼻をすすっている。

 

 けれど、その身体は普通の子どもとは比べものにならないほど大きかった。

 

 同じ年頃の子どもなら、彼女の膝にも届かない。

 

 大人でさえ、彼女の前では小さく見える。

 

 そのくせ、表情だけは年相応だった。

 

「おとうさん……?」

 

 少女は海を見ていた。

 

 雪混じりの風の向こう。

 

 遠ざかっていく船の影。

 

「おかあさん……?」

 

 返事はない。

 

 船は戻らない。

 

 波間に揺れながら、少しずつ、少しずつ小さくなっていく。

 

 少女はまだ、理解できていなかった。

 

 置いていかれたことを。

 

 捨てられたことを。

 

 自分の大きすぎる身体と、強すぎる力が、親にさえ恐れられたことを。

 

「リンリン、いい子にするよぉ……」

 

 大きな手が、自分の服を握りしめる。

 

 布が悲鳴を上げるように軋んだ。

 

「もう、壊さないよぉ……だから、戻ってきてぇ……」

 

 涙が落ちた。

 

 その瞬間、足元の雪が弾けた。

 

 どん、と低い音が響く。

 

 凍った地面にひびが入り、近くの枯れ木が大きく揺れた。

 

 少女はびくりと肩を跳ねさせる。

 

「ち、違うの……リンリン、やってない……」

 

 やっていない。

 

 そう思っている。

 

 ただ泣いただけ。

 

 ただ足を踏みしめただけ。

 

 ただ、寂しくて、怖くて、腹が減っただけ。

 

 それだけで地面が割れる。

 

 それだけで木が折れそうになる。

 

 彼女には悪意がない。

 

 だからこそ、危うい。

 

 自分が何をしているのか、分かっていないのだから。

 

「……なるほど」

 

 雪風の中に、低い声が落ちた。

 

 少女は顔を上げる。

 

 いつの間にか、少し離れた場所に女が立っていた。

 

 黒紫の長い髪。

 

 雪の白に沈まない、濃い影のような衣。

 

 紅い瞳は冷えた鉄のように静かで、風にも雪にも乱されない。

 

 身長は普通の人間の女と大きく変わらない。

 

 少なくとも、リンリンよりはずっと小さかった。

 

 リンリンが腕を伸ばせば、簡単に掴めそうに見える。

 

 細い。

 

 小さい。

 

 壊せそう。

 

 けれど。

 

 リンリンは、動けなかった。

 

 目の前の女は自分よりずっと小さいのに、なぜか大きく見えた。

 

 身体ではない。

 

 そこにいるだけで、背後に暗い国を背負っているような気配があった。

 

 雪原の冷たさより、海の暗さより、もっと深いものが女の周囲に沈んでいる。

 

 リンリンは、初めて感じた。

 

 自分より小さい相手を、怖いと。

 

「これが、シャーロット・リンリンか」

 

 女は少女の名を口にした。

 

 リンリンは目を丸くする。

 

「リンリンのこと、知ってるの?」

 

「噂くらいはな」

 

 女はゆっくり歩いてくる。

 

 足音はしない。

 

 雪に沈んでもいない。

 

 まるで影だけが滑ってくるようだった。

 

「怪力の子ども。泣けば家を壊し、笑えば人の骨を折り、腹が減れば手当たり次第に食らう。そう聞いた」

 

「リンリン、そんなこと……」

 

「していないと言うか?」

 

 リンリンの声が詰まった。

 

 していない。

 

 そう言いたい。

 

 だが、壊れたものは確かにあった。

 

 泣いている大人もいた。

 

 怖がって逃げる子どももいた。

 

 どうしてそうなったのか、リンリンには分からない。

 

 ただ、気づけばいつも、何かが壊れていた。

 

「……わざとじゃないもん」

 

「知っている」

 

 即答だった。

 

 リンリンは驚いて女を見る。

 

 女は慰めるような顔をしていない。

 

 優しい目でもない。

 

 けれど、嘘を言っている顔でもなかった。

 

「悪意ではない。だから厄介だ」

 

「やっかい……?」

 

「お前は、自分の力を知らん」

 

 女はリンリンの真正面に立った。

 

 身体の大きさだけなら、リンリンが圧倒していた。

 

 女の頭は、リンリンの胸元より下にある。

 

 目線を合わせるには、女が見上げるしかない。

 

 だが、女は見上げなかった。

 

 足元から黒い影が盛り上がる。

 

 雪の上に、黒い段が生まれた。

 

 一段。

 

 また一段。

 

 夜を削り出したような階段が女の足元に組まれ、女の身体を静かに押し上げていく。

 

 やがて、紅い瞳がリンリンの目の高さまで届いた。

 

 体はリンリンの方が大きい。

 

 それでもリンリンは、自分が見下ろされているように感じた。

 

「小娘」

 

 女は静かに告げる。

 

「泣くなとは言わん」

 

 リンリンの肩が震える。

 

「だが、泣いた拍子に大地を割るな」

 

「……っ」

 

「腹が減ったからといって、木を引き抜くな」

 

 女の目が、少し横へ動く。

 

 そこには、根ごと引き抜かれた木があった。

 

 リンリンが食べ物を探して、掴んだだけの木だった。

 

「抱きしめたいからといって、骨を砕くな」

 

「リンリン……壊したくないよ……」

 

「なら、覚えろ」

 

 冷たい声だった。

 

 だが、不思議と突き放されている感じはしなかった。

 

「何を……?」

 

「己の力だ」

 

 女の背後で、黒い影が広がる。

 

 影は雪を飲み込み、丸い門のような形を作った。

 

 底は見えない。

 

 暗い。

 

 深い。

 

 けれど、海の闇とは違う。

 

 その奥には、何かがある。

 

「お前は強い」

 

 女は言った。

 

「だが、強いだけのものは獣だ」

 

「けもの……」

 

「人を守る者になるか、人を壊す怪物になるか。決めるのは、お前ではない」

 

「リンリンじゃないの?」

 

「今のお前では無理だ」

 

 容赦のない言葉だった。

 

 リンリンの顔がくしゃりと歪む。

 

「リンリン、悪い子じゃないもん……」

 

「悪ではないと言った」

 

 女は一切揺れない。

 

「だが、無知な力は悪より厄介だ」

 

 その言葉が、リンリンの胸に落ちた。

 

 意味は全部分からない。

 

 でも、怖いことだけは分かった。

 

 自分の力が。

 

 自分の手が。

 

 自分の空腹が。

 

 このままだと誰かを傷つける。

 

 また、誰かを壊す。

 

「やだ……」

 

 リンリンは大きな手を胸元で握った。

 

「リンリン、壊したくない……」

 

「なら、選べ」

 

 女の影が、さらに広がった。

 

 雪原に黒い門が開く。

 

「このまま雪原を歩き、飢えた獣として誰かに拾われるか」

 

 女の紅い瞳が、鋭く光る。

 

「あるいは、私の下で己を鍛えるか」

 

「きたえる……?」

 

「泣こうが喚こうが、逃がさん」

 

 リンリンはごくりと喉を鳴らした。

 

「ごはん、ある……?」

 

「ある」

 

「お菓子は?」

 

「褒美だ」

 

「ほうび?」

 

「働かぬ者に甘味はない」

 

 リンリンの頬が膨らみかけた。

 

 空気が揺れる。

 

 だが、女の視線が細くなった瞬間、リンリンは慌てて頬を引っ込めた。

 

「……いまの、だめ?」

 

「だめだ」

 

「ちょっとだけなのに……」

 

「ちょっとで地面を割る子どもが何を言う」

 

 リンリンは足元を見た。

 

 割れた地面。

 

 沈んだ雪。

 

 さっき自分が泣いた場所だ。

 

「……ごめんなさい」

 

「私に謝るな」

 

「え?」

 

「壊したものに謝れ。壊す前に止まれ。それができるようになるまで、お前に甘味は早い」

 

 リンリンの目が揺れた。

 

 怖い。

 

 厳しい。

 

 だけど、この女は逃げない。

 

 リンリンを怖がって距離を取らない。

 

 大人たちのように、笑いながら後ずさりしない。

 

 ただ真正面から、リンリンを見ている。

 

「……リンリン、できるかな」

 

「知らん」

 

 即答だった。

 

 リンリンの顔がまた歪む。

 

 けれど、女は続けた。

 

「だが、やらせる」

 

「やらせる……?」

 

「私が拾うと決めたなら、半端は許さん」

 

 女は懐から硬いパンを取り出した。

 

 リンリンの目が輝く。

 

 大きな手が反射的に伸びかけた。

 

 その瞬間、黒い影がリンリンの手首に絡む。

 

 痛みはない。

 

 ただ、動きだけが止められた。

 

「待て」

 

「お腹すいたぁ……」

 

「待てと言った」

 

 リンリンは唇を噛む。

 

 目の前に食べ物がある。

 

 欲しい。

 

 今すぐ食べたい。

 

 でも、手が動かない。

 

 力を入れれば千切れるかもしれない。

 

 そう思った瞬間、女の声が落ちた。

 

「力で奪るなら、ここで終わりだ」

 

 リンリンは震えた。

 

 手を引いた。

 

 影がほどける。

 

「……どうすればいいの?」

 

「まず、願え」

 

「ねがう?」

 

「欲しいなら、言葉にしろ。奪うな」

 

 リンリンはパンを見つめる。

 

 それから、女を見る。

 

 考えている。

 

 必死に。

 

「……ください」

 

「よろしい」

 

 女はパンを差し出した。

 

 リンリンが受け取ろうとする。

 

「まだだ」

 

「ええっ!?」

 

「礼を言え」

 

「れい……」

 

「食べ物を得たなら、礼を言う。これは強さ以前の話だ」

 

 リンリンは困ったように眉を寄せる。

 

 それから、小さく言った。

 

「……ありがとう」

 

「食え」

 

 許可が出た瞬間、リンリンはパンに噛みついた。

 

 一口で半分が消える。

 

 硬いパンを、まるで柔らかい菓子のように噛み砕く。

 

 女はその様子を見て、表情を変えなかった。

 

「噛む回数が少ない」

 

「んむ?」

 

「飲み込むな。噛め」

 

「お腹すいたもん」

 

「だから噛め。食うとは、腹に物を詰めることではない」

 

 リンリンはよく分からない顔をした。

 

 だが、言われた通りに噛んだ。

 

 大きな顎がゆっくり動く。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 途中で我慢できなくなりそうになるたび、女の視線が飛ぶ。

 

 リンリンは慌ててまた噛んだ。

 

 ようやく飲み込む。

 

「……めんどくさい」

 

「生きることは面倒だ」

 

 女は乾燥肉も渡した。

 

「だが、面倒を嫌う者は、いずれ他人に面倒を押しつける」

 

「んー……?」

 

「今は分からなくていい」

 

 女は影の足場から一段降りた。

 

 だが、リンリンの目の高さからはまだ降りきらない。

 

 あえて、同じ高さに留まっている。

 

 子どもに合わせるためではない。

 

 逃げ道を塞ぐためだ。

 

「小娘。名は」

 

「シャーロット・リンリン!」

 

 リンリンは少しだけ元気よく答えた。

 

 名乗ることは好きだった。

 

 自分が自分だと言える気がするからだ。

 

 女はその名を聞き、わずかに目を伏せた。

 

「その名は、しばらく伏せろ」

 

「え?」

 

「外では名乗るな」

 

「なんで?」

 

 リンリンの表情が不満に染まる。

 

「リンリンはリンリンだよ」

 

「だからだ」

 

 女は静かに言う。

 

「名は命と同じだ。知られれば縛られる。奪われれば、利用される」

 

「よく分かんない……」

 

「分からずとも覚えろ」

 

「やだ」

 

 リンリンは首を振った。

 

 初めて、はっきりと拒んだ。

 

「リンリン、リンリンがいい」

 

「そうか」

 

 女は怒らなかった。

 

 ただ、影の中から一本の槍を抜いた。

 

 黒い槍だった。

 

 雪原の空気が一瞬で変わる。

 

 リンリンの背筋が凍る。

 

「なら、守れるようになれ」

 

「……え?」

 

「己の名を守る力も、知恵も、覚悟もない者が、名だけを晒すな」

 

 槍の穂先がリンリンに向く。

 

 だが、殺意はない。

 

 あるのは、試す気配。

 

「シャーロット・リンリンという名は、いずれ必ず誰かが欲しがる。お前の力も、身体も、孤独も、空腹も、すべて利用される」

 

「……」

 

「それでも名乗るか」

 

 リンリンは言葉を失った。

 

 名乗りたい。

 

 リンリンはリンリンだから。

 

 でも、怖い。

 

 この女が言うと、本当のことに聞こえる。

 

「……じゃあ、どうすればいいの?」

 

「隠せ」

 

「捨てるの?」

 

「違う」

 

 女の声が、少しだけ柔らかくなった。

 

 けれど、甘くはない。

 

「守るために隠す」

 

 リンリンは俯いた。

 

 雪が髪に積もる。

 

 大きな身体。

 

 幼い顔。

 

 捨てられた子ども。

 

 その子どもが、初めて自分の名を手の中で握り直そうとしていた。

 

「外では、リンと名乗れ」

 

「リン……」

 

「リン・シャーロット」

 

「リンリンじゃなくて?」

 

「私の前では好きに名乗れ」

 

 リンリンは顔を上げた。

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

「ししょーの前では、リンリンでいいの?」

 

「師と呼ぶのは早い」

 

「えー?」

 

「まだ弟子にすると決めたわけではない」

 

「えっ」

 

 リンリンが固まる。

 

 女は槍を影へ沈めた。

 

「私はスカディア。影の国の門番だ」

 

「すか……でぃあ……」

 

「言いにくいなら、師でいい」

 

「ししょー!」

 

「……早いと言った」

 

 リンリンは、少しだけ笑った。

 

 泣き顔の跡が残ったままの、幼い笑みだった。

 

「ししょー、リンリンを弟子にしてくれる?」

 

 スカディアはしばらく黙っていた。

 

 目の前にいるのは、未制御の災害。

 

 甘やかせば、国を壊す。

 

 利用されれば、海を荒らす。

 

 放置すれば、いずれ多くの命が失われる。

 

 だが、今はまだ子どもだ。

 

 壊したくないと泣ける子どもだ。

 

 ならば、叩き直す価値はある。

 

「条件がある」

 

「なに?」

 

「泣いても逃げるな」

 

「うん」

 

「腹が減っても奪うな」

 

「……うん」

 

「甘味は褒美だ」

 

「うう……うん」

 

「野菜を食え」

 

 リンリンの顔が露骨に歪んだ。

 

「やさい、きらい」

 

「食え」

 

「お肉がいい」

 

「食え」

 

「お菓子は?」

 

「任務の後だ」

 

「にんむ?」

 

「働く者だけが得る甘味だ」

 

 リンリンは難しい顔をする。

 

 だが、さっきのように地面は割れなかった。

 

 それだけで、スカディアは内心で評価を上げた。

 

 止まれる。

 

 完全ではない。

 

 だが、止まろうとしている。

 

「最後に」

 

 スカディアは影の門を指した。

 

「この門をくぐれば、戻る道はしばらくない」

 

「おとうさんとおかあさんにも?」

 

「会えん」

 

 リンリンは海を見た。

 

 船はもう完全に消えていた。

 

 波の跡すら残っていない。

 

 置いていかれた場所。

 

 泣いても戻らなかった場所。

 

 それでも、しばらく見ていた。

 

「……リンリン、悪い子だったのかな」

 

「違う」

 

 スカディアは即座に否定した。

 

 慰めではない。

 

 断定だった。

 

「お前は未熟だった。あの者たちは恐れた。それだけだ」

 

「怖かったから、置いていったの?」

 

「そうだ」

 

 リンリンの目に、また涙が溜まる。

 

「じゃあ、リンリンが悪いんじゃ……」

 

「悪いかどうかで考えるな」

 

 スカディアの声が鋭くなる。

 

「弱い者は恐れる。恐れた者は逃げる。逃げた者を憎むか、越えるかはお前が決めろ」

 

「越える……?」

 

「捨てられたから、誰かを捨てる者になるか」

 

 影の門が静かに揺れる。

 

「捨てられたから、拾う者になるか」

 

 リンリンは泣かなかった。

 

 ただ、大きな手を握った。

 

「……リンリン、拾う」

 

「今のお前には無理だ」

 

「うっ」

 

「だが、鍛えれば可能だ」

 

 リンリンは顔を上げた。

 

 涙は残っている。

 

 でも、目の奥に小さな火が灯っていた。

 

「じゃあ、鍛えて」

 

「命令するな」

 

「……鍛えてください」

 

「よろしい」

 

 スカディアは影の足場から降りた。

 

 今度は完全に、リンリンより低い位置に立つ。

 

 普通の人間の女の背丈。

 

 巨大な少女の前では、小さく見える。

 

 けれど、リンリンはもう錯覚しなかった。

 

 この人は小さいのではない。

 

 ただ、身体の大きさで測れないだけだ。

 

「行くぞ、リン」

 

「うん!」

 

「走るな」

 

「はい!」

 

「門を壊したら食事は抜きだ」

 

「やだ!」

 

「なら歩け」

 

 リンリンは慎重に足を出した。

 

 一歩。

 

 雪が沈む。

 

 だが、さっきより浅い。

 

 もう一歩。

 

 今度は、地面が割れなかった。

 

 リンリン自身が、それに気づいた。

 

 ぱっと顔が明るくなる。

 

「ししょー! 割れなかった!」

 

「当然だ。その程度で喜ぶな」

 

「でも、割れなかった!」

 

「……そうだな」

 

 スカディアはほんのわずかに目を細めた。

 

 笑みと呼ぶには薄い。

 

 だが、リンリンにはそれで十分だった。

 

 影の門の前で、リンリンはもう一度だけ振り返った。

 

 白い雪原。

 

 黒い海。

 

 消えた船。

 

 自分を置いていった世界。

 

「リンリン、行くね」

 

 返事はない。

 

 けれど、リンリンは続けた。

 

「今度は、リンリンが拾うから」

 

「早い」

 

 スカディアが言った。

 

「まずは己を拾え」

 

 リンリンはきょとんとして、それから頷いた。

 

「うん!」

 

 二人は影の門へ入った。

 

 リンリンの巨体が闇の中に消える。

 

 スカディアの細い背中も、その後に続いた。

 

 門が閉じる。

 

 雪原には、巨大な足跡だけが残った。

 

 世界はまだ知らない。

 

 本来なら、海を恐怖で震わせるはずだった少女が、この日、影の国へ連れ去られたことを。

 

 シャーロット・リンリンという名が、守るために隠されたことを。

 

 そして、いつかその名を騙る偽物が現れることを。

 

 ただひとつ、確かなことがある。

 

 怪物として捨てられた少女は、この日。

 

 怪物として育つ道から、引きずり下ろされた。

 

 影の女王の手によって。

 

 弟子として。

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