夜明け前の影の国 〜TS転生した影の女王は、死んだはずの者たちを拾い続ける〜   作:姉御肌っていいよね

2 / 4
第2話 羊の家へ行く前に

 

 

 影の国には、朝がなかった。

 

 空に太陽はない。

 

 月もない。

 

 星もない。

 

 ただ、夜に似た静けさだけが、広い石畳の上に沈んでいる。

 

 その静けさを破っていたのは、巨大な足音だった。

 

 ずん。

 

 ずん。

 

 ずん。

 

 一歩ごとに、黒い石畳がわずかに沈む。

 

 最初の一歩で罅が入り、二歩目で端が欠け、三歩目でスカディアの目が細くなった。

 

「止まれ」

 

「はい!」

 

 リンリンは慌てて止まった。

 

 止まった勢いで、足元がさらに沈んだ。

 

 黒い石畳に、大きな足跡の形が残る。

 

 リンリンはおそるおそる下を見た。

 

「……ごめんなさい」

 

「謝罪は後だ」

 

 スカディアは影の段の上に立っていた。

 

 普通に立てば、彼女の身体はリンリンよりずっと小さい。

 

 だが、影で組まれた黒い段が、彼女をリンリンの目の高さまで押し上げている。

 

 紅い瞳が、まっすぐにリンリンを射抜いた。

 

「今、お前は何を壊した」

 

「床……?」

 

「違う」

 

「石?」

 

「違う」

 

「えっと……」

 

 リンリンは困った顔で足元を見る。

 

 床も石も壊している。

 

 なのに違うと言われる。

 

 分からない。

 

「ししょー、分かんない」

 

「歩く、という行為を壊した」

 

「歩くを?」

 

「そうだ」

 

 スカディアは足元の影を伸ばした。

 

 黒い線が石畳の上に引かれる。

 

 細く、まっすぐな線。

 

「歩くとは、前へ進むことだ。地面を殴ることではない」

 

「リンリン、殴ってないよ」

 

「足で殴っている」

 

 リンリンは衝撃を受けた顔をした。

 

 自分の足を見る。

 

 大きい。

 

 普通の子どもとは比べものにならない。

 

 でも、足だ。

 

 拳ではない。

 

「足も殴るの?」

 

「お前の場合はな」

 

「……足、ごめん」

 

「足に謝るな。地面にも謝るな。次で直せ」

 

「はい」

 

 リンリンは線の上に足を置いた。

 

 今度は慎重に。

 

 ゆっくり。

 

 一歩。

 

 石畳は沈んだが、割れなかった。

 

 リンリンの顔が少し明るくなる。

 

「ししょー、割れな――」

 

「騒ぐな」

 

「はい」

 

「二歩目」

 

 二歩目。

 

 今度は少し強い。

 

 端が欠けた。

 

「強い」

 

「うう……」

 

「やり直し」

 

「ご飯は?」

 

「やり直しの後だ」

 

 リンリンの顔が絶望に染まった。

 

「お腹すいた……」

 

「空腹で足元を壊すなら、外には出せん」

 

「外?」

 

 リンリンは顔を上げた。

 

 スカディアは答えず、影の線をもう一度引き直す。

 

「歩け」

 

「外って、どこ?」

 

「歩け」

 

「ご飯ある?」

 

「歩け」

 

「お菓子は?」

 

「働いた後だ」

 

 リンリンはしょんぼりした。

 

 けれど、歩いた。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩。

 

 何度も失敗した。

 

 石を割り、線からはみ出し、膝を曲げすぎて転びかけた。

 

 そのたびに、スカディアは止める。

 

 怒鳴らない。

 

 慰めない。

 

 ただ、やり直させる。

 

 リンリンは泣きそうになった。

 

 腹も鳴った。

 

 だが、泣いて地面を割れば、さらにやり直しになる。

 

 それだけは、さすがに覚えた。

 

「泣きたいなら泣け」

 

 スカディアが言う。

 

「ただし、地面を割らずに泣け」

 

「それ、むずかしい……」

 

「難しいことをさせている」

 

 リンリンは鼻をすすった。

 

 でも、泣き叫ばなかった。

 

 足元を見て、ゆっくり歩いた。

 

 黒い線の終わりまで辿り着いた時、石畳は割れていなかった。

 

 深い足跡は残っている。

 

 けれど、割れていない。

 

「……できた?」

 

「一度だけな」

 

「一度だけ……」

 

「だが、一度は一度だ」

 

 スカディアは影に命じる。

 

 食堂へ続く扉が開いた。

 

 温かい匂いが流れてくる。

 

 肉。

 

 硬いパン。

 

 煮込んだ野菜。

 

 リンリンの腹が、ぐう、と鳴った。

 

 石壁が少し震える。

 

「腹の音まで大きい」

 

「お腹すいたもん」

 

「知っている。だから食わせる」

 

 リンリンの顔がぱっと輝いた。

 

 走り出しかけて、止まる。

 

 走れば床が割れる。

 

 ご飯が遠のく。

 

 それはだめだ。

 

 リンリンは、自分で自分の足を押さえつけるように、ゆっくり歩いた。

 

 食堂の中には、大きな影の座台が用意されていた。

 

 リンリンが座っても壊れないものだ。

 

 食卓も、普通のものではない。

 

 影と黒い石で作られ、彼女が手をついても沈まない。

 

 リンリンはおそるおそる座る。

 

 少し軋む。

 

 でも壊れない。

 

「壊れない!」

 

「壊すな」

 

「はい!」

 

 影が料理を運んできた。

 

 肉の皿。

 

 パン。

 

 スープ。

 

 野菜。

 

 そして、小さな皿に乗った菓子が一つ。

 

 リンリンの目は、真っ先に菓子へ向かった。

 

「お菓子!」

 

 手が伸びる。

 

 その手首に影が絡んだ。

 

 痛くはない。

 

 ただ、動かない。

 

「順番が違う」

 

「でも、お菓子!」

 

「褒美だと言った」

 

「今じゃないの?」

 

「今ではない」

 

 リンリンの頬が膨らみかける。

 

 食卓の皿がかたかた鳴った。

 

 スカディアの目が細くなる。

 

「癇癪で菓子を得るなら、以後菓子はない」

 

 リンリンの頬が一瞬で戻った。

 

「……リンリン、怒ってない」

 

「なら、皿を揺らすな」

 

「はい」

 

「最初は野菜だ」

 

 リンリンは世界が終わったような顔をした。

 

「やさい……」

 

「食え」

 

「お肉がいい」

 

「肉も出す。だが野菜も食え」

 

「なんで?」

 

「壊れにくい身体を作るためだ」

 

「リンリン、もう壊れにくいよ?」

 

「お前が壊す側だ」

 

「……そっか」

 

 リンリンは納得したような、していないような顔で野菜を見た。

 

 緑色。

 

 肉ではない。

 

 甘くもない。

 

 嫌そうな顔が隠しきれていない。

 

 スカディアは匙を差し出した。

 

「手で掴むな。匙を使え」

 

「これ、小さい」

 

「お前の手が大きい」

 

 リンリンは匙をつまんだ。

 

 ぐにゃり。

 

 匙が曲がる。

 

「あっ」

 

「一本目」

 

「ごめんなさい」

 

「次」

 

 二本目。

 

 曲がった。

 

 三本目。

 

 折れた。

 

 四本目。

 

 力を抜きすぎて落とした。

 

 リンリンの目に涙が溜まる。

 

「ししょー……手で食べちゃだめ?」

 

「だめだ」

 

「お腹すいた……」

 

「空腹で雑になるなら、食う資格はない」

 

 冷たい言葉だった。

 

 でも、食事を取り上げてはいない。

 

 匙を何本も用意し、ずっと待っている。

 

 リンリンはそれに気づいていた。

 

 怒鳴られない。

 

 逃げられない。

 

 諦められない。

 

 だから、もう一度匙を持つ。

 

 十二本目で、ようやく匙は折れなかった。

 

 野菜をすくう。

 

 こぼれる。

 

 でも、すくえた。

 

 リンリンはそれを口へ運んだ。

 

 噛む。

 

 顔が歪む。

 

「……お肉がいい」

 

「飲み込め」

 

「うう……」

 

「噛め」

 

「もう噛んだ」

 

「二十回だ」

 

「多い!」

 

「多くない」

 

 リンリンは涙目で野菜を噛んだ。

 

 飲み込んだ瞬間、肉の皿が少しだけ前へ出された。

 

 リンリンの顔が輝く。

 

「お肉!」

 

「順番を守った。なら次だ」

 

 その言葉は、リンリンの中に深く残った。

 

 順番を守れば、次がある。

 

 待てば、奪わなくても得られる。

 

 言えば、殴らなくても渡される。

 

 まだ全部は分からない。

 

 でも、腹は少しずつ満たされていった。

 

 最後に、小さな菓子が出された。

 

 リンリンは今度、すぐには手を伸ばさなかった。

 

 ちらりとスカディアを見る。

 

「食べていい?」

 

「いい」

 

「いただきます」

 

 どこで聞いたのか、自分でも分からない言葉だった。

 

 けれど、言った方がいい気がした。

 

 スカディアは何も言わなかった。

 

 リンリンは菓子をつまむ。

 

 潰さないように。

 

 そっと。

 

 口へ運ぶ。

 

 甘い。

 

 たった一つの小さな菓子なのに、胸がいっぱいになった。

 

「……おいしい」

 

「褒美だからな」

 

「もっと食べたい」

 

「明日も課題をこなせ」

 

「明日もある?」

 

「お前が学ぶ限りはな」

 

 リンリンは菓子の甘さを噛みしめた。

 

 その顔から、ほんの少しだけ、雪原で泣いていた影が薄れた。

 

 

 

 食後、リンリンは広間の端で眠りかけていた。

 

 巨大な寝台は用意されている。

 

 けれど、腹が満ち、疲れた身体は、歩く前に眠りへ落ちようとしていた。

 

 スカディアはその様子を見ていた。

 

 子どもだ。

 

 どれほど大きくとも。

 

 どれほど危うくとも。

 

 まだ、食べて、疲れて、眠くなる子ども。

 

 だからこそ、世界はこの子を間違えて扱う。

 

 怪物として恐れるか。

 

 兵器として欲しがるか。

 

 金になる商品として見るか。

 

 どれも、ろくな未来ではない。

 

 スカディアは影へ視線を落とした。

 

 黒い水面のような影が揺れる。

 

 そこに、一つの家が映った。

 

 羊の飾りを持つ大きな家。

 

 巨人族の土地に建つ、孤児たちの家。

 

 羊の家。

 

 そして、その中心にいる老婆。

 

 白い修道服。

 

 柔らかな笑み。

 

 子どもたちに向ける慈愛の顔。

 

「聖母、か」

 

 スカディアの声は冷たかった。

 

 影の中で、老婆が子どもの頭を撫でている。

 

 子どもは笑っていた。

 

 その笑みだけなら、疑う理由はない。

 

 けれど、影は別のものも映していた。

 

 夜。

 

 火のない部屋。

 

 老婆と、黒い服の男たち。

 

 金の入った袋。

 

 小さな名簿。

 

 番号。

 

 年齢。

 

 種族。

 

 健康状態。

 

 適性。

 

 そして、取引先。

 

 世界政府。

 

 諜報機関。

 

 海軍。

 

 売られる子どもたち。

 

「吐き気のする帳面だ」

 

 スカディアは低く呟いた。

 

 リンリンは寝ぼけた声を出した。

 

「……ししょー?」

 

「起きたか」

 

「ご飯……?」

 

「食った」

 

「お菓子……?」

 

「食った」

 

「じゃあ……寝る……」

 

 リンリンはまた目を閉じかける。

 

 スカディアは少しだけ黙った。

 

 このまま影の国に置いておけば、リンリンだけは安全だ。

 

 カルメルにも、羊の家にも、シュトロイゼンにも触れない。

 

 怪物として歪む道の多くは断てる。

 

 だが、それでは終わらない。

 

 羊の家には、他の子どもがいる。

 

 売られる子どもがいる。

 

 名を奪われる子どもがいる。

 

 そして、リンリン自身もまた、外を知らぬままでは育たない。

 

 影の国だけで鍛えた力は、影の外で折れる。

 

 人の中で、壊さず生きる術を覚えなければならない。

 

 それがどれほど危険でも。

 

「リンリン」

 

「ん……?」

 

「明日、お前を外へ出す」

 

 リンリンの目が少し開いた。

 

「外?」

 

「ああ」

 

「海?」

 

「違う」

 

「ご飯ある?」

 

「ある」

 

「お菓子は?」

 

「おそらくな」

 

 リンリンは少しだけ嬉しそうにした。

 

「じゃあ行く……」

 

「ただし」

 

 スカディアの声が低くなる。

 

 リンリンは眠気の中で、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「そこでは、私の名を出すな」

 

「なんで?」

 

「私はいない者だからだ」

 

「ししょー、いるよ」

 

「お前の側にはいる。だが、外ではいない」

 

 リンリンは難しい顔をした。

 

 眠気と理解できなさで、眉が寄っている。

 

「うそ?」

 

「隠すのだ」

 

「名前みたいに?」

 

「そうだ」

 

 リンリンは少し考えた。

 

「守るため?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ、リンリンも隠す?」

 

「お前は、まだ隠しすぎる必要はない」

 

 スカディアはリンリンを見る。

 

 シャーロット・リンリン。

 

 この名は、いずれ奪われる。

 

 欲しがる者が出る。

 

 騙る者さえ出るかもしれない。

 

 だが、今はまだ早い。

 

 ここで完全に隠せば、羊の家に繋がらない。

 

 カルメルは、この子を見つけなければならない。

 

 見つけさせる。

 

 そして、正体を暴く。

 

「外で聞かれたら、名乗れ」

 

「リンリン?」

 

「そうだ」

 

「リン・シャーロットじゃなくて?」

 

「まだだ」

 

 リンリンはますます混乱した。

 

「名前、難しい……」

 

「難しい。だから覚えろ」

 

「うん……」

 

「ただし、私のことは話すな。影の国のことも話すな。食べ物を奪うな。泣いても地面を割るな。誰かを抱く時は、先に私を思い出せ」

 

「いっぱいある……」

 

「覚えろ」

 

「……はい」

 

 リンリンは眠そうに頷いた。

 

 それから、ふと目を開ける。

 

「外に、子どもいる?」

 

「いる」

 

「リンリンみたいな?」

 

「捨てられた子もいる」

 

 リンリンの目が少しだけ揺れた。

 

 雪原。

 

 消えた船。

 

 戻らなかった親。

 

 まだ胸の奥に残っている。

 

「その子たち、泣いてる?」

 

「笑っている子もいる。泣いている子もいる。笑わされている子もいる」

 

「笑わされてる?」

 

「見れば分かる」

 

 リンリンは分かっていない顔をした。

 

 だが、少しだけ真剣になった。

 

「リンリン、壊さない」

 

「そうしろ」

 

「奪わない」

 

「そうしろ」

 

「お菓子、もらっていいって言われたら食べる」

 

「……食べすぎるな」

 

「うん」

 

「本当に聞いているか?」

 

「聞いてる……」

 

 今度こそ、リンリンは眠りに落ちた。

 

 大きな身体が寝台へ沈む。

 

 影で補強した寝台が、ぎしりと音を立てた。

 

 しかし、壊れない。

 

 リンリンは安心したように寝息を立て始める。

 

 スカディアはその寝顔を見下ろした。

 

 柔らかい顔。

 

 幼い顔。

 

 怪物の顔ではない。

 

 ただ、よく食べて、よく泣いて、よく眠る子どもの顔だ。

 

「……さて」

 

 スカディアは影へ向き直る。

 

 羊の家が映っている。

 

 聖母の笑み。

 

 子どもたちの笑顔。

 

 帳面。

 

 金。

 

 政府の影。

 

 そのすべてを、紅い瞳が冷たく見ていた。

 

「聖母を名乗るなら、せいぜい上手く演じることだ」

 

 影が静かに揺れる。

 

「こちらも、しばし見届けてやる」

 

 その声には、怒気はなかった。

 

 だからこそ、冷たかった。

 

 翌日。

 

 リンリンは影の門の前に立っていた。

 

 食事は済ませた。

 

 野菜も食べた。

 

 菓子はまだだ。

 

 外で課題をこなせたら、戻ってから出すと言われている。

 

 そのせいで、リンリンのやる気は高かった。

 

「覚えているな」

 

 スカディアが言う。

 

「走らない」

 

「他には」

 

「泣いても地面割らない」

 

「他には」

 

「食べ物は奪わない」

 

「他には」

 

「ししょーのこと言わない」

 

「他には」

 

「影の国も言わない」

 

「他には」

 

「誰かをぎゅってする時は、先にししょー思い出す」

 

「よろしい」

 

 リンリンは少し誇らしげだった。

 

 スカディアは影の段に上がり、リンリンの目の高さに立つ。

 

「外には、優しい顔をした者がいる」

 

「うん」

 

「優しい者もいる」

 

「うん」

 

「優しい顔だけの者もいる」

 

 リンリンは首を傾げた。

 

「顔だけ?」

 

「そうだ」

 

「どうやって分かるの?」

 

「見る。聞く。覚える」

 

「むずかしい」

 

「難しいことをさせている」

 

 リンリンは頷いた。

 

 もう、その言葉には少し慣れてきていた。

 

「行け」

 

 影の門が開く。

 

 向こうに見えるのは、白い雪原ではなかった。

 

 巨人族の土地。

 

 大きな木々。

 

 巨大な家々。

 

 そして、羊の飾りを持つ一軒の家。

 

 リンリンは目を丸くした。

 

「あそこ?」

 

「ああ」

 

「大きい家」

 

「羊の家だ」

 

「羊、食べる?」

 

「食べるな」

 

「はい」

 

 リンリンは影の門をくぐった。

 

 足元が、影の国の石畳から外の土へ変わる。

 

 冷たい空気。

 

 遠くから、子どもの笑い声が聞こえる。

 

 リンリンは振り返った。

 

 だが、影の門はもう閉じかけている。

 

 その奥に、スカディアの紅い瞳だけが見えた。

 

「忘れるな」

 

「うん」

 

「お前は、壊すために行くのではない」

 

「見るため」

 

「そうだ」

 

「聞くため」

 

「そうだ」

 

「覚えるため」

 

「そうだ」

 

 リンリンは大きく頷きかけて、慌てて小さく頷いた。

 

 周囲の雪が少しだけ落ちる。

 

「行ってくる」

 

「ああ」

 

 影の門が閉じた。

 

 リンリンは一人になった。

 

 いや。

 

 遠くで、子どもたちの声がする。

 

 誰かがこちらに気づいた。

 

 小さな子どもが数人、家の前で立ち止まる。

 

 リンリンを見上げ、目を丸くしている。

 

 その向こう。

 

 白い修道服の老婆が、ゆっくりと歩いてきた。

 

 柔らかい笑み。

 

 優しそうな目。

 

 両手を広げる仕草。

 

「まあまあ……」

 

 老婆の声は、春のように温かかった。

 

「こんなところに、大きな迷子さんが」

 

 リンリンは、昨日のスカディアの言葉を思い出した。

 

 優しい顔をした者がいる。

 

 優しい者もいる。

 

 優しい顔だけの者もいる。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 老婆は微笑んだ。

 

「私はカルメル。みんなからは、マザーと呼ばれているのよ」

 

 リンリンはその顔をじっと見た。

 

 温かい声。

 

 優しい笑み。

 

 でも、どこか分からない。

 

 まだ、分からない。

 

 だから、リンリンは名乗った。

 

「リンリン」

 

 大きすぎない声で。

 

「シャーロット・リンリン」

 

 カルメルの目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。

 

 それはすぐに笑みに隠れた。

 

「そう。リンリンちゃん」

 

 カルメルは両手を広げる。

 

「よく来たわね。ここは、帰る場所のない子どもたちの家よ」

 

 リンリンは、その言葉を聞いた。

 

 帰る場所のない子ども。

 

 自分と同じ。

 

 けれど、影の奥から見ている紅い瞳の気配を、彼女はまだ忘れていなかった。

 

「……ご飯、ある?」

 

 カルメルは優しく笑った。

 

「ええ。もちろんよ」

 

 リンリンの顔が少し明るくなる。

 

 けれど、走らない。

 

 手を伸ばさない。

 

 地面を踏み割らない。

 

 彼女は一歩だけ、ゆっくり前へ進んだ。

 

 羊の家。

 

 その扉の向こうへ。

 

 優しい顔をした聖母のもとへ。

 

 そして、影の女王が見定める巣の中へ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。