夜明け前の影の国 〜TS転生した影の女王は、死んだはずの者たちを拾い続ける〜   作:姉御肌っていいよね

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第3話 聖母の家

 

 

 羊の家は、温かかった。

 

 扉を開けると、木の匂いがした。

 

 煮込んだスープの匂い。

 

 焼いたパンの匂い。

 

 誰かが走り回ったあとの、少し埃っぽい匂い。

 

 それから、子どもの声。

 

 リンリンは、入口で立ち止まった。

 

 中は広い。

 

 普通の家より、ずっと広い。

 

 けれど、リンリンには少し狭く見えた。

 

 肩を動かしたら壁に触れないか。

 

 足を踏み出したら床が沈まないか。

 

 手を伸ばしたら梁を折らないか。

 

 そればかり考えて、身体が固くなる。

 

「大丈夫よ、リンリンちゃん」

 

 カルメルが微笑んだ。

 

 白い修道服。

 

 柔らかい声。

 

 春の日差しみたいな笑み。

 

「ここは、行き場のない子どもたちの家なの。あなたも、安心していいのよ」

 

「……安心」

 

 リンリンは、その言葉を口の中で転がした。

 

 安心。

 

 食べ物があること。

 

 眠る場所があること。

 

 怒鳴られないこと。

 

 逃げられないこと。

 

 捨てられないこと。

 

 そういうことだろうか。

 

 影の国も、少しだけ似ていた。

 

 あそこは温かいというより、静かで、厳しくて、怖かった。

 

 けれど、逃げられなかった。

 

 見捨てられもしなかった。

 

 リンリンは、スカディアの言葉を思い出す。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 だから、すぐには飛びつかない。

 

 すぐには喜ばない。

 

 まず、見る。

 

「みんな、新しいお友だちよ」

 

 カルメルが手を叩いた。

 

 部屋の奥にいた子どもたちが、一斉に振り返る。

 

 リンリンを見た瞬間、声が止まった。

 

 当然だった。

 

 リンリンは大きい。

 

 この家の子どもたちの中で、誰よりも大きい。

 

 年上に見える子でも、リンリンの胸元に届かない。

 

 子どもたちは、目を丸くしていた。

 

 怖がる子。

 

 口を開けて見上げる子。

 

 面白そうに笑う子。

 

 少し後ずさる子。

 

 リンリンは手を握りそうになって、やめた。

 

 手を握ると、指先に力が入る。

 

 力が入ると、近くのものを壊す。

 

 だから、手を開く。

 

「……リンリン」

 

 大きすぎない声で言った。

 

「シャーロット・リンリン」

 

 子どもたちは顔を見合わせた。

 

 その中から、赤い髪の男の子が一歩出てきた。

 

 リンリンより少し年上に見える。

 

 腕を組み、見上げるようにリンリンを見た。

 

「でっけぇな!」

 

 リンリンは目を瞬かせた。

 

「うん」

 

「巨人族か?」

 

「違う」

 

「じゃあなんでそんなでかいんだ?」

 

「分かんない」

 

 男の子は少し笑った。

 

 悪い笑いではない。

 

 ただ、珍しいものを見つけた時の顔だった。

 

「俺はハンセル。こっちはグレーテ。あっちがロージーで、そこの寝てるのがトマだ」

 

 名前が出てくる。

 

 番号ではない。

 

 リンリンは少し安心した。

 

 ここでは、少なくとも子どもたちには名前がある。

 

「リンリンは、どこから来たんだ?」

 

 ハンセルが聞く。

 

 リンリンは止まった。

 

 影の国。

 

 スカディア。

 

 師匠。

 

 言ってはいけない。

 

 守るために隠す。

 

「……雪のところ」

 

「雪のところ?」

 

「うん」

 

「なんだそれ」

 

 ハンセルは笑った。

 

 リンリンは少し困った。

 

 嘘はついていない。

 

 でも、全部は言っていない。

 

 これでいいのか、分からない。

 

 カルメルが、そっと会話に入った。

 

「リンリンちゃんは、少し遠いところから来たのよ。無理に聞いてはいけません」

 

「はーい」

 

 子どもたちが返事をする。

 

 カルメルの声は優しい。

 

 柔らかい。

 

 けれど、リンリンはその時、少しだけ首を傾げた。

 

 自分は何も話していない。

 

 なのに、カルメルは「遠いところから来た」と言った。

 

 間違ってはいない。

 

 けれど、どうして分かったのだろう。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 リンリンは、カルメルの笑顔を見た。

 

 笑顔は優しい。

 

 でも、目はリンリンの顔より先に、身体を見ていた。

 

 腕。

 

 足。

 

 肩。

 

 手の大きさ。

 

 床を踏む力。

 

 まるで、大きな食材を見ている時みたいに。

 

「リンリンちゃん、お腹は空いている?」

 

 カルメルが聞いた。

 

 リンリンの腹が、ぐう、と鳴った。

 

 子どもたちが笑う。

 

 リンリンは顔を赤くした。

 

「空いてる」

 

「ふふ。ちょうどお昼にしましょうね」

 

 その言葉に、リンリンの顔が明るくなる。

 

 けれど、走らない。

 

 食卓へ駆け寄らない。

 

 椅子を引こうとして、壊さない。

 

 足元を見て、ゆっくり進む。

 

 一歩。

 

 床が少し鳴る。

 

 リンリンは止まった。

 

 割れていない。

 

 沈んでもいない。

 

 もう一歩。

 

 大丈夫。

 

 周りの子どもたちが、不思議そうに見る。

 

「なんでそんなゆっくり歩くんだ?」

 

 ハンセルが聞いた。

 

「床、壊さないように」

 

 リンリンが答えると、子どもたちはまた顔を見合わせた。

 

「床なんて壊れるか?」

 

「リンリン、壊す」

 

「まじで?」

 

「うん」

 

 ハンセルは目を輝かせた。

 

「すげぇ!」

 

 すごい。

 

 その言葉に、リンリンの胸が少し跳ねた。

 

 でも、スカディアの声が頭の奥に残っている。

 

 強いだけのものは獣。

 

 リンリンは、嬉しさを小さく畳む。

 

「すごいけど、壊したらだめ」

 

「変なの」

 

「変かな」

 

「うん。でも面白い」

 

 ハンセルは笑った。

 

 リンリンは少しだけ笑い返した。

 

 怖がらせないように。

 

 小さく。

 

 食卓には、スープとパンが並んでいた。

 

 肉は少ない。

 

 野菜も入っている。

 

 リンリンは肉を探した。

 

 すぐにカルメルが皿を差し出す。

 

「さあ、たくさん食べてね」

 

 皿は普通の大きさだった。

 

 リンリンの手には小さい。

 

 彼女はそれを見て、少し困る。

 

 この皿は、壊れやすそうだ。

 

 匙も細い。

 

 影の国のものより、ずっと弱い。

 

「どうしたの?」

 

 カルメルが優しく聞く。

 

「壊すかも」

 

「あら」

 

 カルメルは笑った。

 

「大丈夫よ。子どもは少しくらい失敗するものだもの」

 

 その言葉は優しかった。

 

 けれど、リンリンはまた少し引っかかった。

 

 少しくらい。

 

 自分の少しは、少しではない。

 

 匙一本では済まないかもしれない。

 

 皿が割れるだけではないかもしれない。

 

 だから、失敗していいと言われても、安心できない。

 

「リンリン、ゆっくり持つ」

 

 リンリンは両手で皿を支えた。

 

 強すぎず。

 

 弱すぎず。

 

 皿は割れない。

 

 スープもこぼれない。

 

 子どもたちが「おお」と声を上げる。

 

「なんだよ、そんなに慎重に持つのか?」

 

「壊さないため」

 

「リンリン、でかいのに細かいな!」

 

 ハンセルが笑う。

 

 リンリンも少し笑った。

 

 でも、匙を持つ時は真剣だった。

 

 細い匙。

 

 力を入れすぎれば曲がる。

 

 リンリンは息を止めかけて、思い出す。

 

 呼吸。

 

 息を止めるな。

 

 彼女はゆっくり息を吐き、匙を持った。

 

 少し軋む。

 

 でも折れない。

 

 スープをすくう。

 

 こぼれる。

 

 子どもたちが笑う。

 

 リンリンは少し恥ずかしかった。

 

 でも、怒らない。

 

 もう一度すくう。

 

 今度は少しだけ口へ運べた。

 

「おいしい?」

 

 カルメルが聞く。

 

「うん」

 

「よかったわ」

 

 カルメルは微笑んだ。

 

 リンリンはスープを飲みながら、カルメルを見る。

 

 優しい。

 

 優しいのだと思う。

 

 食べ物をくれる。

 

 怒らない。

 

 子どもたちに笑いかける。

 

 でも、スカディアとは違う。

 

 スカディアは厳しい。

 

 食べ物をくれる前に、待てと言う。

 

 皿を壊せば、何を壊したか聞く。

 

 食べ方を間違えれば、やり直させる。

 

 カルメルは、笑って許す。

 

 どちらがいいのか、リンリンには分からない。

 

 けれど、ひとつだけ分かる。

 

 カルメルに見られると、少し落ち着かない。

 

 スカディアに見られる時とは違う。

 

 スカディアの目は怖い。

 

 逃げられない。

 

 けれど、何を見ているかは分かる。

 

 手。

 

 足。

 

 力。

 

 癇癪。

 

 間違い。

 

 カルメルの目は優しい。

 

 でも、何を見ているのか分かりにくい。

 

「リンリンちゃんは、本当に力持ちなのね」

 

 カルメルが言った。

 

「うん」

 

「とても素晴らしいわ」

 

「すばらしい?」

 

「ええ。あなたはきっと、神様から特別な力をいただいたのね」

 

 子どもたちが感心したようにリンリンを見る。

 

 リンリンは、少しだけ胸がむずむずした。

 

 褒められている。

 

 でも、スカディアは言った。

 

 強いだけの獣に価値はない。

 

 リンリンは匙を握りかけて、止める。

 

「リンリン、まだ下手」

 

「あら、そんなことないわ」

 

「下手。歩くのも、持つのも、食べるのも」

 

 カルメルは一瞬、目を細めた。

 

 けれど、すぐに柔らかく笑う。

 

「まあ。謙虚なのね」

 

「けんきょ?」

 

「自分を偉いと思わないことよ」

 

「リンリン、偉くないよ」

 

「ふふ。そうね。今はまだ子どもだもの」

 

 その言い方は優しかった。

 

 でも、リンリンはまた分からなくなった。

 

 今はまだ。

 

 その言葉が少しだけ引っかかる。

 

 今はまだ子ども。

 

 では、大きくなったら何になるのか。

 

 カルメルの目は、それを考えているように見えた。

 

 

 

 食後、子どもたちは外で遊び始めた。

 

 羊の家の前には広い庭がある。

 

 巨人族の国らしく、周囲の木々も大きく、地面も広い。

 

 それでも、リンリンが動けば危ない。

 

 ハンセルが木の棒を持ってきた。

 

「リンリン、鬼ごっこしようぜ!」

 

「鬼ごっこ?」

 

「追いかけるんだよ!」

 

「追いかける……」

 

 リンリンは周囲を見た。

 

 子どもたちは楽しそうだ。

 

 けれど、自分が走れば、地面が割れるかもしれない。

 

 誰かにぶつかれば、怪我では済まないかもしれない。

 

「リンリン、走らない」

 

「えー、なんでだよ」

 

「ぶつかったら、壊す」

 

「俺たちそんなに弱くねぇよ!」

 

 ハンセルが胸を張る。

 

 リンリンは困った。

 

 たぶん弱い。

 

 少なくとも、リンリンよりはずっと弱い。

 

 でも、それをそのまま言えば、ハンセルは傷つくかもしれない。

 

 怖がらせるのとは、少し違う。

 

 けれど、相手の気持ちを踏み潰すのも、きっと壊すことなのだ。

 

 リンリンは、ゆっくり首を振った。

 

「弱いって言いたいんじゃない。リンリンが、まだ下手なの」

 

「下手?」

 

「うん。走るのも、止まるのも、ぶつからないのも。だから、今日は走らない」

 

 ハンセルはぽかんとした。

 

 それから、頭をかく。

 

「よく分かんねぇけど……じゃあ、どうやって遊ぶんだよ」

 

「リンリン、壁やる」

 

「壁?」

 

「みんな、リンリンに当たらないように走る」

 

「なんだそれ!」

 

「ぶつからない練習」

 

 子どもたちは笑った。

 

 面白そうだと思ったのか、何人かが乗ってくる。

 

 リンリンは庭の中央に立った。

 

 動かない。

 

 手を広げすぎない。

 

 足を踏ん張りすぎない。

 

 子どもたちが周りを走る。

 

 近くを通る。

 

 リンリンは動かない。

 

 ぶつかりそうな子がいれば、風を起こさないように少しだけ手を出す。

 

 触れない。

 

 止めない。

 

 ただ、進む先を教える。

 

「そっち危ない」

 

「わっ!」

 

「足元、石」

 

「ほんとだ!」

 

 子どもたちは笑いながら走る。

 

 いつの間にか、リンリンの周りに声が増えていた。

 

 怖がっていた子も、少しずつ近づいてくる。

 

 リンリンはそれが嬉しかった。

 

 でも、嬉しすぎると地面を踏み抜く。

 

 だから、足の裏に力を入れない。

 

 笑いすぎない。

 

 少しだけ笑う。

 

「リンリン、すげぇな!」

 

 ハンセルが言った。

 

「全然動いてないのに、なんか遊びになってる!」

 

「リンリン、壁」

 

「でっかい壁だな!」

 

 子どもたちが笑う。

 

 リンリンも笑った。

 

 その時だった。

 

 小さな女の子が、足を滑らせた。

 

 リンリンの方へ倒れ込む。

 

 反射で抱きとめそうになる。

 

 ぎゅっと。

 

 いつものように。

 

 でも、その瞬間、スカディアの声が頭に響いた。

 

 誰かを抱く時は、先に私を思い出せ。

 

 リンリンの手が止まった。

 

 抱きしめない。

 

 掴まない。

 

 押さえない。

 

 彼女は女の子の背中ではなく、服の端を指先でそっと摘まんだ。

 

 勢いを殺す。

 

 少しだけ。

 

 女の子は転ばず、その場に尻もちをついた。

 

 泣かない。

 

 怪我もない。

 

 リンリンは息を止めていた。

 

「だ、大丈夫?」

 

 女の子は目を丸くして、それから笑った。

 

「うん!」

 

 リンリンは大きく息を吐いた。

 

 地面が少し揺れた。

 

 でも、割れなかった。

 

 家の窓から、カルメルがその様子を見ていた。

 

 笑っている。

 

 けれど、目が笑っていなかった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 リンリンは、それに気づかなかった。

 

 だが、影の奥から見ているスカディアは気づいていた。

 

「……制御を覚え始めているな」

 

 誰にも聞こえない声で、スカディアは呟いた。

 

「それが、お前にとって都合が悪いか。聖母」

 

 カルメルは窓辺で微笑み続ける。

 

 子どもたちは笑っている。

 

 リンリンも笑っている。

 

 それは確かに、温かな光景だった。

 

 だが、温かいものほど、腐れば臭いが強い。

 

 スカディアはその匂いを嗅ぎ分けていた。

 

 

 

 夕方。

 

 子どもたちは疲れて家へ戻った。

 

 リンリンも庭から戻る。

 

 足元には、深い跡がいくつか残っていた。

 

 でも、穴は空いていない。

 

 木も折れていない。

 

 誰も怪我をしていない。

 

 リンリンはそれが少し誇らしかった。

 

「リンリンちゃん」

 

 カルメルが声をかける。

 

「はい」

 

「今日は、よくみんなと遊べたわね」

 

「うん」

 

「あなたは本当に優しい子ね」

 

 優しい。

 

 その言葉に、リンリンは少し照れた。

 

 でも、すぐに首を振る。

 

「リンリン、まだ下手」

 

「あら」

 

「転びそうな子、ちょっと怖がらせた」

 

「そんなことないわ。助けたじゃない」

 

「でも、怖がらせない方がいい」

 

 カルメルは一瞬だけ黙った。

 

 それから、柔らかく笑った。

 

「そうね。リンリンちゃんは、もっともっと素敵になれるわ」

 

「すてき?」

 

「ええ。みんなを守れる、強くて優しい子に」

 

 その言葉は、甘かった。

 

 お菓子のように。

 

 リンリンの胸が少し温かくなる。

 

 守れる子。

 

 強くて優しい子。

 

 それは、なりたい気がした。

 

 でも、どこかでスカディアの声がする。

 

 強いだけでは獣。

 

 優しいだけでも足りない。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

「……リンリン、覚える」

 

 小さく言う。

 

 カルメルが首を傾げた。

 

「何を?」

 

「壊さないこと」

 

「まあ」

 

 カルメルはリンリンの手を取ろうとした。

 

 リンリンは一瞬、身体を固くする。

 

 だが、カルメルの手は小さく、温かかった。

 

 リンリンの指先に触れる。

 

 リンリンは力を入れないようにした。

 

 壊さない。

 

 握らない。

 

 支えるだけ。

 

「大丈夫」

 

 カルメルが優しく言った。

 

「あなたは、ここにいていいのよ」

 

 その言葉は、リンリンの奥に深く入った。

 

 ここにいていい。

 

 捨てられた後に聞くには、あまりにも甘い言葉だった。

 

 リンリンの目に涙が浮かぶ。

 

 けれど、泣いても地面を割らない。

 

 彼女は唇を結び、頷いた。

 

「うん」

 

「いい子ね」

 

 カルメルは微笑んだ。

 

 その手は優しい。

 

 声も優しい。

 

 リンリンは少しだけ、その優しさに寄りかかりたくなった。

 

 けれど。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 その言葉だけは、胸の奥に残っていた。

 

 

 

 夜。

 

 羊の家は静かになった。

 

 子どもたちは寝床に入り、暖炉の火も小さくなっている。

 

 リンリンは大きな寝台の端で身体を丸めていた。

 

 寝返りを打てば、隣の子を押してしまうかもしれない。

 

 だから、なるべく小さくなる。

 

 小さくなるには、身体が大きすぎた。

 

 それでも、リンリンは頑張った。

 

 隣で寝ている女の子が、少し寝返りを打つ。

 

 リンリンは息を止める。

 

 ぶつからない。

 

 大丈夫。

 

 女の子はそのまま眠っている。

 

 リンリンはほっとした。

 

 そのまま、少しずつ眠気に沈んでいく。

 

 楽しかった。

 

 ご飯があった。

 

 子どもたちが笑っていた。

 

 マザーは優しかった。

 

 ここにいていいと言われた。

 

 それは確かに、リンリンにとって温かいものだった。

 

 けれど、羊の家のすべてが眠ったわけではなかった。

 

 別室。

 

 ランプの灯りの下で、カルメルは帳面を開いていた。

 

 そこに並んでいるのは、子どもたちの名前。

 

 年齢。

 

 出身。

 

 種族。

 

 性格。

 

 能力。

 

 健康状態。

 

 そして、余白に書き込まれた短い評価。

 

 カルメルはペンを持ち、新しい欄に名前を書いた。

 

 シャーロット・リンリン。

 

 年齢不詳。

 

 極めて巨大。

 

 怪力。

 

 感情制御、要観察。

 

 接触には注意。

 

 ただし、従順化の余地あり。

 

 価値、極めて高。

 

 カルメルはそこでペンを止めた。

 

 リンリンの名を眺める。

 

 昼間と同じ、柔らかな笑みを浮かべる。

 

「本当に、神様からの贈り物ね」

 

 その声は、誰にも聞こえないはずだった。

 

 けれど、影は聞いていた。

 

 部屋の隅。

 

 ランプの光が届かない場所。

 

 黒紫の影が、静かに揺れる。

 

 スカディアは姿を見せない。

 

 ただ、カルメルの帳面を見ていた。

 

 子どもたちの名前が並ぶ帳面。

 

 名前を記録するためではなく。

 

 値をつけるための帳面。

 

「……よく分かった」

 

 影の女王は、声なき声で呟いた。

 

「お前は母ではない」

 

 カルメルは気づかない。

 

 帳面を閉じ、ランプを消す。

 

 部屋が暗くなる。

 

 羊の家は眠りにつく。

 

 その夜。

 

 リンリンは大きな寝台で眠っていた。

 

 隣の子どもたちは、最初は怯えていたが、今は眠っている。

 

 リンリンは寝返りを打たないよう、身体を丸めていた。

 

 誰かを潰さないように。

 

 壁を壊さないように。

 

 それでも、表情は少し穏やかだった。

 

 影の奥で見ている女だけが知っている。

 

 温かい家の奥に、値札があることを。

 

 優しい手の下に、売買の帳面があることを。

 

 聖母の笑みの裏に、子どもを商品として見る目があることを。

 

 スカディアは眠るリンリンを見つめた。

 

 まだ早い。

 

 今、連れ戻すことはできる。

 

 カルメルを消すこともできる。

 

 だが、それでは足りない。

 

 帳面の先にいる者たち。

 

 買い手。

 

 運び手。

 

 政府の影。

 

 そこまで見なければ、同じ家はまた生まれる。

 

 だから、まだ見届ける。

 

 リンリンには酷かもしれない。

 

 だが、世界を知るには、優しい顔の悪意も見なければならない。

 

「眠れ、小娘」

 

 スカディアは静かに呟いた。

 

「明日も、見ることを覚えろ」

 

 羊の家に、子どもたちの寝息が満ちていた。

 

 その中で、リンリンは小さく寝言をこぼした。

 

「……ししょー……お菓子……」

 

 スカディアは呆れたように目を細めた。

 

 影が静かに揺れる。

 

 その夜、羊の家はまだ壊れなかった。

 

 けれど、影はもう、その奥にある腐った根を見つけていた。

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