夜明け前の影の国 〜TS転生した影の女王は、死んだはずの者たちを拾い続ける〜   作:姉御肌っていいよね

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第4話 優しい母の匂い

 

 

 

 羊の家での暮らしは、影の国とはまるで違っていた。

 

 朝になると、窓の外が明るくなる。

 

 誰かが毛布を蹴る音がする。

 

 誰かが欠伸をする。

 

 誰かが寝ぼけたまま、隣の子の枕を抱きしめている。

 

 それから、廊下の向こうからカルメルの声がした。

 

「みんな、起きる時間ですよ」

 

 柔らかい声。

 

 怒鳴るのではなく、包むような声。

 

 その声を聞くと、子どもたちが少しずつ目を覚ます。

 

「マザー……おはよう」

 

「おはようございます」

 

「今日のご飯なに?」

 

「ふふ。起きてからのお楽しみです」

 

 笑い声が広がる。

 

 リンリンは、大きな寝台の端で身体を丸めていた。

 

 夜の間、ほとんど寝返りを打たなかった。

 

 隣で眠る子を潰さないように。

 

 壁に足をぶつけないように。

 

 寝台の縁を折らないように。

 

 小さく。

 

 小さく。

 

 そう思いながら眠っていたせいで、肩が少し痛い。

 

 でも、誰も怪我をしていない。

 

 壁も壊れていない。

 

 寝台は少し軋んでいるけれど、割れてはいない。

 

 リンリンは、ほっと息を吐いた。

 

 その息で、隣にいた小さな女の子の髪がふわりと揺れる。

 

 女の子が、ぱちりと目を開けた。

 

「……おはよう」

 

 昨日、庭で転びそうになったロージーだった。

 

 丸い頬。

 

 柔らかい髪。

 

 リンリンの手なら、少し力を入れただけで壊れてしまいそうな小さな子。

 

 リンリンは慌てて声を小さくした。

 

「おはよう」

 

「リンリンちゃん、もう起きてたの?」

 

「うん」

 

「眠れた?」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

 ロージーは首を傾げた。

 

 リンリンは自分の丸めた身体を見る。

 

「動いたら、ロージー潰すかもって思った」

 

 ロージーは目をぱちぱちさせた。

 

 それから、小さく笑った。

 

「リンリンちゃん、ずっと気をつけてたの?」

 

「うん」

 

「じゃあ、私も気をつけるね」

 

「ロージーが?」

 

「うん。リンリンちゃんがびっくりしないように、急に近づかない」

 

 リンリンは固まった。

 

 誰かを壊さないように気をつけることはあった。

 

 でも、誰かが自分のために気をつけると言ったのは、初めてだった。

 

「……ありがとう」

 

 リンリンはそう言った。

 

 ロージーは嬉しそうに笑った。

 

「どういたしまして!」

 

 その声に、リンリンの胸が少しだけ温かくなった。

 

 影の国で菓子をもらった時とは違う。

 

 ただ食べ物をもらって嬉しい時とも違う。

 

 誰かが、自分を怖がるだけではなく、気にかけてくれた。

 

 それが、リンリンにはまだうまく名前をつけられなかった。

 

 ただ、嫌ではなかった。

 

 とても、嫌ではなかった。

 

「リンリンちゃん、ロージー、朝ごはんですよ」

 

 カルメルが寝室の入口から微笑んでいた。

 

 白い修道服。

 

 柔らかな目。

 

 子どもたちを見る時の、温かい顔。

 

「今日はパンもありますよ」

 

「パン!」

 

 子どもたちが一斉に起きる。

 

 ハンセルが毛布を蹴飛ばし、グレーテが慌てて髪を直し、トマはまだ半分眠ったまま目をこすっている。

 

 リンリンも立ち上がりかけた。

 

 けれど、すぐに止まる。

 

 急に立てば、寝台が傾く。

 

 床が沈む。

 

 隣の子が転ぶかもしれない。

 

 ゆっくり。

 

 片手を寝台につく。

 

 力を入れすぎない。

 

 膝を曲げる。

 

 大きな身体を、少しずつ起こす。

 

 寝台がぎしりと鳴った。

 

 でも、壊れない。

 

「リンリンちゃんは、本当に慎重なのね」

 

 カルメルが微笑んだ。

 

「うん」

 

「そんなに怖がらなくてもいいのよ。ここは、あなたの家でもあるのだから」

 

 あなたの家。

 

 その言葉は、柔らかかった。

 

 リンリンの胸の奥に、すっと入ってくる。

 

 けれど同時に、別の声も残っていた。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 スカディアの声。

 

 怖くて、冷たくて、でも逃げられない声。

 

 リンリンは、カルメルを見た。

 

 カルメルは笑っている。

 

 優しい。

 

 とても優しい。

 

 だからこそ、リンリンは少し困った。

 

 優しいものを疑うのは、悪いことのように思えたからだ。

 

 

 

 食堂には、温かい匂いが満ちていた。

 

 焼いたパン。

 

 薄いスープ。

 

 少しの肉。

 

 野菜。

 

 子どもたちは席につき、カルメルが一人ひとりに皿を配っている。

 

「ハンセル、今日は急いで食べすぎないのよ」

 

「分かってるって!」

 

「グレーテ、トマの分まで取ってはいけません」

 

「取ってないもん」

 

「ロージー、髪がスープに入りそうですよ」

 

「えへへ」

 

 カルメルは名前を呼ぶ。

 

 子どもたちは、そのたびに笑う。

 

 名前を呼ばれること。

 

 ちゃんと見てもらうこと。

 

 それは嬉しいことなのだと、リンリンにも分かった。

 

「リンリンちゃん」

 

 カルメルは、昨日よりも大きい皿を持ってきた。

 

「あなたには、こちらを用意しました」

 

「リンリンの?」

 

「ええ。昨日の皿では、小さかったでしょう?」

 

 リンリンは目を輝かせた。

 

 自分用の皿。

 

 壊しにくい皿。

 

 それは嬉しかった。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 カルメルは微笑んだ。

 

「たくさん食べて、もっと大きくなりましょうね」

 

 リンリンは皿を受け取りながら、少しだけ首を傾げた。

 

 もっと大きく。

 

 普通なら、きっと喜ぶ言葉なのだろう。

 

 けれどリンリンは、自分が大きいことで困っている。

 

 床を壊す。

 

 皿を壊す。

 

 誰かを怖がらせる。

 

 だから、もっと大きくなれと言われると、少しだけ困る。

 

「リンリン、これ以上大きくなったら、もっと壊すかも」

 

「まあ」

 

 カルメルは楽しそうに笑った。

 

「それなら、もっと上手に力を使えるようになればいいのよ」

 

「うん」

 

 それは、スカディアも言っていた。

 

 自分の力を支配しろ。

 

 力加減を覚えろ。

 

 だから、カルメルの言葉は間違っていない。

 

 でも、同じには聞こえなかった。

 

 スカディアの言葉は、石みたいに硬い。

 

 痛い。

 

 けれど、踏める。

 

 カルメルの言葉は、綿みたいに柔らかい。

 

 温かい。

 

 でも、足を置くと沈みそうだった。

 

 リンリンは、ゆっくり皿を置いた。

 

 割れない。

 

 スープもこぼれない。

 

 匙を持つ。

 

 昨日より少し慣れた。

 

 まだぎこちないけれど、折れない。

 

「リンリン、すげぇ」

 

 隣のハンセルが覗き込んでいた。

 

「昨日よりうまくなってるじゃん」

 

「うん」

 

「皿持つだけで、なんか修行みたいだな」

 

「しゅぎょう?」

 

「知らねぇけど、そんな感じ」

 

 リンリンは少し考えた。

 

 スカディアなら、修行だと言うかもしれない。

 

 でも、ここでスカディアのことは言ってはいけない。

 

「リンリン、練習してる」

 

「何の?」

 

「壊さない練習」

 

 ハンセルは頬杖をついて笑った。

 

「変なの」

 

「うん」

 

「でも、すげぇな」

 

 すごい。

 

 その言葉は、リンリンの胸を少し明るくする。

 

 でも、嬉しすぎると力が入る。

 

 力が入ると、匙が曲がる。

 

 だからリンリンは、先に野菜を口へ入れた。

 

 苦い。

 

 でも、噛む。

 

 噛んでいる間は、少し落ち着けた。

 

 

 

 食事の後、カルメルは子どもたちを集めた。

 

「今日は、お手伝いの日にしましょう」

 

 子どもたちから声が上がる。

 

「えー!」

 

「遊びたい!」

 

「後で遊びましょうね。でも、みんなで暮らす家ですもの。みんなで支えないといけません」

 

 支える。

 

 その言葉に、リンリンは反応した。

 

 柱を支える。

 

 皿を支える。

 

 力を入れすぎず、弱すぎず、壊さないように持つ。

 

 スカディアに教えられたことだ。

 

「リンリンも、支える?」

 

 思わず聞いた。

 

 カルメルはにこりと笑う。

 

「もちろん。リンリンちゃんには、薪を運んでもらおうかしら」

 

「薪」

 

 リンリンは外に積まれた薪を見る。

 

 たくさんある。

 

 普通の子どもなら何往復も必要だろう。

 

 リンリンなら、一度で全部持てる。

 

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。

 

 全部持つ。

 

 それは、いいことなのだろうか。

 

 全部持てば、みんなは楽になる。

 

 でも、他の子たちは何をするのだろう。

 

「全部持つ?」

 

 リンリンは聞いた。

 

 カルメルは少し目を見開き、それから笑った。

 

「リンリンちゃんなら持てるかもしれないわね」

 

「持った方がいい?」

 

「あら。みんな助かるでしょうね」

 

 みんな助かる。

 

 それは良いことのように聞こえた。

 

 けれど、ハンセルが横から口を挟んだ。

 

「おい、全部持ってくなよ。俺たちの分も残せよ」

 

「ハンセルも持つ?」

 

「当たり前だろ。手伝いだし」

 

 リンリンは薪を見た。

 

 カルメルは、全部持てば助かると言った。

 

 ハンセルは、自分の分を残せと言った。

 

 どちらも、間違いではない気がする。

 

 でも、ハンセルはただ楽をしたい顔ではなかった。

 

 面倒くさそうにはしている。

 

 けれど、手伝いから外されるのは嫌そうだった。

 

「じゃあ、リンリン、少し持つ」

 

 リンリンは薪の山に近づいた。

 

 全部ではなく、数本だけ。

 

 それでも、彼女の手には軽い。

 

 軽すぎる。

 

 強く握ると折れる。

 

 だから、下から支えるように持つ。

 

「少なっ!」

 

 ハンセルが笑う。

 

「リンリンならもっと持てるだろ」

 

「持てる。でも、ハンセルの分なくなる」

 

 ハンセルは一瞬、黙った。

 

 それから、鼻の下をこすった。

 

「……まあ、そうだけどよ」

 

「一緒に持つ?」

 

「おう」

 

 ハンセルは薪を抱えた。

 

 グレーテも、ロージーも、他の子どもたちも続く。

 

 リンリンは歩幅を合わせた。

 

 速く歩かない。

 

 先に行かない。

 

 薪を落とさない。

 

 ハンセルが少しふらついた時、リンリンは手を出しかけて、止めた。

 

 ハンセルは自分で立て直す。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫」

 

「そっか」

 

 全部持てば簡単だった。

 

 でも、一緒に持つのは、少し楽しかった。

 

 薪置き場まで運び終えると、ハンセルが大きく息を吐いた。

 

「ふう。終わり!」

 

「リンリン、まだ持てる」

 

「そりゃそうだろ」

 

「でも、今日は少しだけ」

 

「なんで?」

 

「一緒の方がいい気がした」

 

 ハンセルは目を丸くした。

 

 それから、照れたように笑った。

 

「変なの」

 

「うん」

 

「でも、まあ、悪くないな」

 

 リンリンは少し笑った。

 

 怖がらせないくらいに。

 

 家の窓から、カルメルが見ていた。

 

 柔らかな笑みを浮かべている。

 

 けれど、指先は窓枠を軽く叩いていた。

 

 とん。

 

 とん。

 

 とん。

 

 考える時の癖のように。

 

 リンリンは気づかない。

 

 庭の端の影だけが、その小さな動きを見ていた。

 

 

 

 昼過ぎ、羊の家に客が来た。

 

 背の高い男が二人。

 

 旅人のような服を着ている。

 

 けれど、歩き方が旅人ではなかった。

 

 足音が小さい。

 

 背筋がまっすぐすぎる。

 

 目が、子どもたちを見ていないようで見ている。

 

 リンリンは庭の端で、落ちた枝を拾っていた。

 

 誰かが踏んで転ばないように、端へ寄せているところだった。

 

 その途中で、男たちに気づいた。

 

 カルメルが二人を迎える。

 

「遠いところを、よくいらしてくださいました」

 

 いつもの優しい声。

 

 でも、少し違う。

 

 子どもたちに向ける声より、薄い。

 

 男の一人が言った。

 

「様子を見に来ただけだ」

 

「ええ。もちろんですわ」

 

 様子。

 

 何の様子だろう。

 

 リンリンは枝を持ったまま、耳を澄ませる。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

「新しい子が入ったそうだな」

 

「ええ。とても大きな子です」

 

 カルメルの視線が、一瞬だけリンリンの方へ向いた。

 

 男たちも見る。

 

 リンリンは動きを止めた。

 

 見られている。

 

 カルメルの目とも違う。

 

 スカディアの目とも違う。

 

 男たちの目は、もっと冷たい。

 

 人を見る目ではない。

 

 荷物を見る目に近い。

 

「……あれか」

 

「ええ」

 

「年は」

 

「はっきりとは。まだ幼いようですが」

 

「体格は申し分ない」

 

 申し分ない。

 

 リンリンはその言葉の意味を全部は知らない。

 

 でも、嫌な感じがした。

 

 自分の身体のことを話している。

 

 自分に聞かずに。

 

「性格は」

 

「素直ですわ。少し慎重すぎるところがありますけれど」

 

「慎重?」

 

「力加減を気にしているようです」

 

 男の眉が動いた。

 

「誰かが教えたのか」

 

「さあ。親に恐れられていたのでしょう。自分の力を怖がっているのかもしれません」

 

 カルメルは、困ったように笑った。

 

「けれど、子どもです。安心できる場所を与えれば、きっと懐きますわ」

 

 懐く。

 

 リンリンは枝を握りかけて、止めた。

 

 枝が少し軋む。

 

 懐く。

 

 犬や猫に使う言葉のように聞こえた。

 

 ロージーには使わない。

 

 ハンセルにも使わない。

 

 でも、自分には使うのか。

 

 分からない。

 

 でも、嫌だった。

 

「見込みは?」

 

 男が聞く。

 

「極めて高いかと」

 

「提出はいつになる」

 

「まだ早いですわ。あの子は感情の波が大きい。少し整えてからでなければ」

 

「商品価値を落とすなよ」

 

 リンリンの手の中で、枝が折れた。

 

 ぱきり。

 

 小さな音だった。

 

 それでも、カルメルと男たちの視線が向いた。

 

 リンリンは慌てて枝を見る。

 

 折れている。

 

 折るつもりはなかった。

 

 ただ、嫌な言葉を聞いて、力が入った。

 

 商品。

 

 それは、嫌な言葉だった。

 

 前にスカディアから何かを教わったわけではない。

 

 でも、分かる。

 

 人に向けて使う言葉ではない。

 

 少なくとも、ロージーやハンセルに向けて使う言葉ではない。

 

 なら、自分にも使ってほしくない。

 

「リンリンちゃん」

 

 カルメルが微笑んだ。

 

 いつもの声に戻っている。

 

「枝を片づけてくれていたのね。ありがとう」

 

 リンリンは返事をしなかった。

 

 折れた枝を見ていた。

 

 枝だけで済んだ。

 

 地面は割れていない。

 

 家も壊れていない。

 

 男たちも壊していない。

 

 でも、胸の奥が熱い。

 

「リンリンちゃん?」

 

 カルメルが近づいてくる。

 

 男たちは黙って見ている。

 

 リンリンは顔を上げた。

 

「しょうひんって、なに?」

 

 空気が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 カルメルの笑みが固まった。

 

 男たちの目が細くなった。

 

 リンリンはその反応を見た。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 今の沈黙を、覚える。

 

「商品というのはね」

 

 カルメルはすぐに笑みを戻した。

 

「市場で売る物のことよ」

 

「物?」

 

「ええ。パンやお肉や、お洋服みたいなもの」

 

「リンリン、物?」

 

「まあ、どうしてそんなことを?」

 

 カルメルは驚いたような顔をした。

 

「あなたは子どもよ。物ではありません」

 

 優しい声だった。

 

 けれど、さっきの沈黙が残っている。

 

 リンリンの中に、細い棘みたいに。

 

「でも、今」

 

「聞き間違いよ」

 

 カルメルが、リンリンの手にそっと触れた。

 

 リンリンは力を抜く。

 

 壊さない。

 

 握らない。

 

「大丈夫。あなたは、ここにいていいの」

 

 その言葉は、昨日と同じだった。

 

 甘くて、温かくて、欲しかった言葉。

 

 でも今日は、その甘さの奥に、さっきの「商品」という言葉が混じっていた。

 

 リンリンは、何も言えなかった。

 

 男たちはしばらくリンリンを見ていたが、やがてカルメルと一緒に家の奥へ入っていった。

 

 リンリンは、折れた枝を両手で持っていた。

 

 枝を折った。

 

 でも、それ以上は壊さなかった。

 

 それだけは、できた。

 

 庭の端。

 

 誰にも見えない影の中で、スカディアの紅い瞳が冷たく光っていた。

 

「……聞いたな、小娘」

 

 声は届かない。

 

 だが、リンリンは胸に残った違和感を握りしめていた。

 

 言葉にできない。

 

 でも、忘れない。

 

 

 

 その夜。

 

 リンリンはなかなか眠れなかった。

 

 子どもたちは、いつも通り眠っている。

 

 ロージーは小さな寝息を立てている。

 

 ハンセルは毛布を蹴っている。

 

 誰も、昼間の客のことを気にしていないようだった。

 

 リンリンは、天井を見ていた。

 

 ここにいていい。

 

 マザーはそう言った。

 

 あなたは子どもよ。

 

 物ではありません。

 

 そう言った。

 

 でも、男は言った。

 

 商品価値。

 

 カルメルは、一瞬だけ黙った。

 

 なぜ黙ったのだろう。

 

 聞き間違いなら、すぐに笑えばよかったのに。

 

 リンリンは、自分の手を見る。

 

 昼間、枝を折った手。

 

 男たちを壊さなかった手。

 

 カルメルの手を壊さなかった手。

 

 何が正しいのか、分からない。

 

 でも、スカディアは言った。

 

 見る。

 

 聞く。

 

 覚える。

 

 だから、リンリンは目を閉じた。

 

 眠る前に、忘れないように繰り返す。

 

 商品。

 

 物。

 

 子ども。

 

 ここにいていい。

 

 カルメルの笑顔。

 

 男たちの目。

 

 枝の折れる音。

 

 全部、覚える。

 

 その頃。

 

 別室では、また帳面が開かれていた。

 

 カルメルはランプの下で、昼間の男たちと向かい合っている。

 

「感情制御に難あり、か」

 

 男の一人が帳面を見た。

 

「枝一本で済んだだけ、上出来ですわ」

 

 カルメルは微笑む。

 

「あの子は、力を恐れている。そこを上手く撫でてあげれば、こちらを頼ります」

 

「使えるか」

 

「ええ。今まで見たどの子よりも」

 

「では、早めに――」

 

「急ぎすぎてはいけません」

 

 カルメルの声が少しだけ低くなる。

 

「壊してしまっては価値が落ちます。あの子は、丁寧に扱うべき品です」

 

 品。

 

 その言葉を、影が聞いていた。

 

 部屋の隅。

 

 黒い影の中で、スカディアは動かない。

 

 今すぐ出ることもできる。

 

 今すぐ、この部屋ごと沈めることもできる。

 

 だが、まだだ。

 

 この男たちがどこへ戻るのか。

 

 誰に報告するのか。

 

 帳面がどこへ渡るのか。

 

 そこを掴まなければならない。

 

 子どもを売る者は、一人ではない。

 

 家を壊しても、道が残ればまた子どもが消える。

 

 スカディアは、カルメルの帳面を見た。

 

 そこには、リンリンだけではない。

 

 ハンセル。

 

 グレーテ。

 

 ロージー。

 

 トマ。

 

 他の子どもたちの名もある。

 

 名前の横に、年齢がある。

 

 出身がある。

 

 性格がある。

 

 売り先の候補がある。

 

「母の字ではないな」

 

 スカディアは、声なき声で呟いた。

 

「これは、商人の帳面だ」

 

 ランプの火が小さく揺れた。

 

 カルメルは気づかない。

 

 男たちも気づかない。

 

 影だけが、その夜の会話を覚えていた。

 

 リンリンもまた、眠りの中で小さく眉を寄せていた。

 

 優しい家。

 

 温かい食事。

 

 名前を呼んでくれるマザー。

 

 そして、商品という言葉。

 

 それらはまだ、リンリンの中で繋がらない。

 

 けれど、確かに残った。

 

 優しさの匂いに混じる、かすかな腐った匂いとして。

 

 羊の家は、まだ笑っていた。

 

 まだ温かかった。

 

 まだ壊れていなかった。

 

 けれど、リンリンはその日初めて知った。

 

 優しい声でも、人を物みたいに呼ぶことがあるのだと。

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