君とボクの二度目の冒険 〜転生した少年と幼馴染の勇者が、魔王の孤独を救うまで〜 作:屠龍
第百二十四話 それでも見捨てない
路地裏は、表の市場とはまるで別世界だった。
日除けの布も、香辛料の匂いも、美しい青いタイルもない。
薄暗く、不潔で、鼻を刺すような臭いがした。足元には濁った水たまりが点在し、壁際では痩せた犬がうずくまっている。細いネズミが、割れた壺の影へ逃げていった。
さっきまでの豊かな市場が嘘のようだった。
「何がどうなっているのか、説明してくれないか?」
クヌートが走りながら言った。
フェリシアも周囲を警戒しながら、僕達の少し前を走っている。
フミンの少女は限界に近いのか、何度も咳き込みながら足をもつれさせていた。
僕は彼女の手を強く握り直す。
今は止まれない。
「後で話すよ! とにかく、この子を安全な場所へ!」
「分かりました。このまま裏路地を抜ければ、町外れに出ます。そこで事情を聞かせてください」
フェリシアがそう言った。
僕達は無言で走り続けた。
市場の喧騒は、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、湿った路地の臭いと、遠くで泣く子供の声が聞こえてきた。
やがて僕達は、町外れの貧民街へ辿り着いた。
そこは、ファジア港の華やかさから切り捨てられたような場所だった。
そして僕は、助けた少女がまだ僕の手を強く握りしめていることに気づいた。
◆◆◆
僕達は、貧民街にある怪しげな酒場へ転がり込んだ。
店の中は薄暗く、古い酒と煙の匂いが染みついている。客は少なく、隅の席で男が一人、うつむいたまま杯を握っていた。
突然入ってきた僕達を見て、店主らしい老人が目を丸くする。
けれど、僕達がフミンの少女を連れていることに気づくと、老人はすぐに表情を変えた。
何も聞かず、店の奥へ案内してくれる。
「ここまでくれば、ひとまず安心だ」
クヌートがそう言いながら、小さな革袋を老人に投げた。
革袋の中身を確認した老人は、にやりと笑う。
「この老人は、金次第で口が堅い」
クヌートの言葉通り、老人は余計なことを聞かず、すぐに店先へ戻っていった。
僕達は奥の部屋に入る。
外の音は遠く、壁も厚い。少なくとも、さっきの広場よりはずっと安全に思えた。
「それで、何があった?」
クヌートが改めて尋ねる。
僕は市場で見たことを説明した。
水差しと果物が倒れていたこと。
少女が男達に囲まれていたこと。
兵士が「あれはフミンの子だ」と言い、誰も助けようとしなかったこと。
「なるほどな。その子がフミンという民族の子なんだな」
クヌートは少女を見る。
少女は汚れた服を着たまま、ミレーヌの後ろに隠れていた。頬や腕には痣があり、足元も擦り傷だらけだった。
クヌートはその姿を見て、普段とは違う悲しそうな顔をした。
「まずは傷を癒やしましょう」
フェリシアがそう言って近づこうとすると、少女は怯えたようにミレーヌの背中へ隠れた。
よほどひどい目に遭ってきたのだろう。
まるで手負いの猫のように、こちらの動き一つ一つに身を強張らせている。
「大丈夫だよ。この人は君をいじめたりしないから」
ミレーヌは優しく声をかけながら、少女の手を取った。
言葉は通じていないはずなのに、その声音だけは伝わったのだろう。少女はまだ警戒しながらも、少しずつフェリシアの方へ近づいた。
フェリシアの手から、淡い光があふれる。
少女は最初、びくりと身を縮めた。
けれど光が腕の痣に触れると、痛みが引いたのか、驚いたように自分の肌を見つめた。
擦り傷が塞がり、痣が薄くなっていく。
少女は信じられないという顔で、何度も自分の腕を見ていた。
それから、フェリシアに向かって何かを話し始める。
僕には分からない言葉だった。
「フェリシア、その子の言っていることが分かるの?」
「言葉そのものは分かりません。ただ、感情と断片的な意味なら読み取れます」
フェリシアは少女と視線を合わせるように膝をついた。
その表情はとても穏やかだった。
「それで、なんて言っているの?」
「とても怖かった。両親や兄弟のように殺されると思った……そう言っています」
僕は息を呑んだ。
つまり、この子はもう家族を失っている。
一人で生き残って、周りの誰も助けてくれず、あの広場でまた殺されると思っていたのだ。
どれほど心細かっただろう。
どれほど怖かっただろう。
フェリシアは少女をそっと抱きしめた。
少女は最初こそ体を硬くしたが、やがて何かが切れたように泣き出した。
クヌートが部屋の周囲に、沈黙の魔法をかける。
少女の泣き声は部屋の中に響いたが、外へ漏れることはなかった。
フェリシアは少女の背中を撫でながら、低く優しい声で言葉を紡いでいる。
意味は分からない。
けれど、その声は祈りのようだった。
「お風呂に入れてあげようよ」
ミレーヌが小さく言った。
「服もぼろぼろだし、身体も冷えてる。きれいにして、美味しいものを食べたら、きっと少し落ち着くよ」
僕達は頷いた。
少女は、ミレーヌとフェリシアを交互に見ていた。
まだ完全に安心したわけではないのだろう。膝の上で握られた小さな手は、白くなるほど力が入っていた。
けれど、さっきまでのように逃げ出そうとはしない。
フェリシアがそっと差し出した布を受け取ると、少女はそれを胸元に抱きしめるようにして、小さく頷いた。
言葉は通じない。
でも、彼女が少しだけこちらを信じようとしていることは分かった。
その小さな変化が、僕には何より重く感じられた。
助けると決めた以上、ただ傷を癒やして終わりにはできない。
この子がまた怯えながら路地裏へ戻らなくて済むようにしなければならない。
この子を助けたことで、僕達はこの街の決まりに逆らったのかもしれない。
兵士にも顔を見られている。
少女を連れ去ったと思われるかもしれない。
それでも。
あの場で見捨てることなんて、できなかった。
少なくとも今は、この子を安心させてあげたかった。