君とボクの二度目の冒険 〜転生した少年と幼馴染の勇者が、魔王の孤独を救うまで〜 作:屠龍
第百二十五話 クヌートの微笑み
クヌートが酒場の老人に、湯浴みと食事の用意を頼みに行った。
しばらくして、奥の湯場が使えることになった。
もちろん、付き添うのはミレーヌとフェリシアだ。
僕とクヌートは、少女が安心して身体を洗えるように、湯場から離れた部屋で待つことにした。今のあの子にとって、男である僕達が近くにいるだけでも怖いかもしれない。
ミレーヌは少女の手を握り、フェリシアは柔らかな声で何かを語りかけながら、奥へと連れて行った。
少女は何度もこちらを振り返っていた。
まだ怯えている。
けれど、さっきまでのように逃げ出そうとはしなかった。
湯場の扉が閉まる。
しばらくすると、石鹸の良い香りがかすかに漂ってきた。
薄暗い酒場の奥にいるはずなのに、その香りだけは少し場違いなほど清潔だった。
「……よかった」
僕は思わず呟いた。
湯場の方から、ミレーヌの明るい声が聞こえる。
フェリシアの穏やかな声も続いた。
少女の声はまだ小さい。
けれど、さっきまでの泣き声とは違う。驚いたような、戸惑ったような、それでも少しだけ安心したような声だった。
たったそれだけのことで、胸の奥の強張りが少し解けた。
隣に立つクヌートは、黙ったままだった。
いつものクヌートなら、厄介ごとを持ち込むなとか、後先を考えろとか、きっと小言の一つも言っていたはずだ。
けれど今日は、何も言わない。
むしろ、湯場の方から聞こえる声に耳を澄ませているようにも見えた。
僕は少し不思議になって、彼に話しかけた。
「今日は静かなんだね」
「何がだ?」
「いつものクヌートなら、余計なことをするな、とか言いそうなのにさ」
僕がそう言うと、クヌートは少しだけ目を伏せた。
そして、珍しく優しい微笑みを浮かべた。
クヌートが微笑むところなんて、滅多に見ない。
その笑みは、皮肉でも冷笑でもなかった。
遠い昔の誰かを思い出すような、穏やかな表情だった。
「俺とフェリシアを救ってくれた師匠を思い出したのさ」
「師匠……」
クヌートは古びた壁にもたれ、懐かしそうに天井を見上げた。
「俺達も昔は、あの子と似たようなものだった。ハーフエルフとして親に捨てられ、森からも追われ、町でも相手にされなかった。食うものにも困っていた」
その声には、怒りよりも静かな痛みがあった。
「そんな時、師匠が俺達を拾った。変わり者だったがな。普通は、ハーフエルフの子供なんて養ったりしない」
「いい人だったんだね」
「変わり者だと言っただろう」
クヌートはそう言って、ほんの少し笑った。
「俺達が最初に風呂へ入れられた時も、あの子と似たようなものだった。フェリシアは怯えて泣いていたし、俺は師匠に噛みつこうとした」
「噛みつこうとしたの?」
「本気でな」
クヌートは淡々と言った。
その顔が少しだけ苦笑に変わる。
「だが師匠は怒らなかった。『噛む元気があるなら、生きる気もあるということだ』と言って、俺の頭を押さえて湯に放り込んだ」
それは少し乱暴な話のはずなのに、不思議と温かく聞こえた。
きっと、その魔法使いは本気で二人を助けようとしていたのだろう。
「その人が、魔法を教えてくれたんだね」
「ああ。魔法だけではない。文字も、計算も、言葉も、世の中の汚さも教えられた」
「世の中の汚さも?」
「知らなければ食い物にされるからな」
クヌートの言葉には、実感があった。
「師匠は善人ではあったが、甘い人間ではなかった。人に助けを求める方法も、信用してはいけない相手の見分け方も、金の使い方も教えた。フェリシアが他国の言葉を覚えたのも、師匠のおかげだ」
僕は、湯場の方から聞こえるフェリシアの声に耳を傾けた。
言葉そのものは分からない。
けれど、相手を怖がらせないように、ゆっくりと、優しく語りかけていることは分かった。
フェリシアは、あの師匠から受け取ったものを、今度はあの少女へ渡そうとしているのかもしれない。
救われた人が、今度は誰かを救う側に回る。
それはきっと、師匠が二人に残したものなのだと思った。
「ユキナ」
クヌートが僕を見る。
「この件は、面倒になるぞ」
「うん」
「市場で人を眠らせた。兵士にも顔を見られている。フミンの子を連れ去ったと思われるかもしれない」
「分かってる」
軽い気持ちで済む話ではない。
この街の法も、フミンへの扱いも、僕達はまだ何も知らない。
フミンという人達が、なぜここまで嫌われているのか。
どれだけの人数がいるのか。
どこで暮らしているのか。
あの少女に、他に頼れる人がいるのか。
分からないことだらけだった。
それでも。
「あの子を見捨てることはできなかった」
僕がそう言うと、クヌートは小さく息を吐いた。
「それは俺も同じだ」
その言葉に、僕は少し驚いた。
クヌートは湯場の方へ視線を向ける。
「師匠が俺達を見捨てなかったように、俺もあの子を見捨てる気はない」
その言葉は、静かだった。
けれど、確かな重みがあった。
湯場の方から、ミレーヌの明るい声が聞こえた。
それに続いて、少女の小さな笑い声のようなものが聞こえた気がした。
本当に笑ったのかどうかは分からない。
でも、少なくとも泣き声ではなかった。
僕とクヌートは、しばらく何も言わずにその声を聞いていた。
やがて老人が、木の盆に料理を載せて運んできた。
薄いパン。
豆の煮込み。
羊肉の串焼き。
それに、湯気の立つ甘い茶。
クヌートは老人に追加の銀貨を渡す。
「できれば、あの子が食べやすいものをもう少し用意してくれ。香辛料は控えめでいい」
老人は無言で頷き、また奥へ消えていった。
「優しいね」
僕が言うと、クヌートは不機嫌そうに眉をひそめた。
「必要だから頼んだだけだ。痩せた子供にいきなり香辛料の強い飯を食わせれば、腹を壊す」
「そういうところだよ」
「何がだ」
クヌートは少し不満そうに言った。
僕は小さく笑った。
この人は、素直ではない。
けれど、冷たい人ではない。
むしろ、誰かを助ける時に何が必要なのかを、ちゃんと考えられる人だった。
「クヌート」
「何だ」
「ありがとう。さっき眠りの魔法を使ってくれて」
「礼を言うならフェリシアにも言え。あいつがいなければ、巻き込む範囲を絞れなかった」
「うん。あとで言う」
「それに、次からは飛び出す前に少しは考えろ。お前とミレーヌは、善意だけで危険に突っ込みすぎる」
やっぱり小言は出た。
けれど、その声はいつもより少し柔らかかった。
「……気をつける」
「本当に分かっているのか怪しいな」
クヌートは呆れたように言った。
その時、湯場の扉が開く音がした。
僕とクヌートはすぐに視線をそちらへ向けないようにした。
少しして、ミレーヌの声が聞こえる。
「もう大丈夫だよ。こっち来ていいよ」
僕達が戻ると、少女は清潔な布服を身にまとい、フェリシアの隣に座っていた。
髪はまだ湿っていたけれど、顔の汚れは落ち、痣も薄くなっている。
それでも、細い肩は不安そうに縮こまっていた。
彼女は僕達を見ると、一瞬身を硬くした。
けれど、フェリシアがそっと背中に手を添えると、小さく頭を下げた。
意味は分からない。
でも、きっと礼を言ってくれたのだと思った。
あのフミンの女の子を、これからどうするのか。
僕達にはまだ分からない。
少なくとも、見捨てるという選択肢はなかった。
僕にも。
ミレーヌにも。
クヌートにも、フェリシアにも。