君とボクの二度目の冒険 〜転生した少年と幼馴染の勇者が、魔王の孤独を救うまで〜 作:屠龍
第百三十一話 戦争の足音
アストラハンの夜は、深く、暗かった。
雲に覆われた空の下、街の明かりはぽつりぽつりとしか見えない。城壁に掲げられたかがり火だけが、闇の中に小さな光の輪を作っていた。
西大陸最大の都市と呼ばれる場所なのに、夜になると妙に静かだ。
火災を防ぐため、夜に火を焚くことは厳しく制限されているらしい。明日も仕事のある人たちは早々に寝静まり、夜半に宿の外へ出ることも止められている。
だから、外で飲み足りない者たちは部屋に酒やつまみを持ち込み、そこで夜を過ごすのだろう。
僕たちも、酒場から運ばせた食事と酒を囲んでいた。
机の上には、香辛料で味付けされた羊肉、硬いチーズ、黒パン、それから大きな水差しが置かれている。ワインもあったけれど、誰も気楽に飲み明かす気分ではなかった。
壁一枚向こうから酔客の笑い声が聞こえる。
けれど、その声は妙に遠かった。
「これからどうするの?」
杯を手にしたミレーヌが、僕に尋ねた。
その声はいつものように明るい。けれど、目は真剣だった。
僕は少し考えてから答える。
「まずは情報収集かな」
旅が終わった後のことを考えないわけではない。
いつか、この旅が終わったら。
勇者としての務めを果たしたあと、僕はミレーヌにきちんと伝えたいと思っている。
これからも隣にいてほしい。
ただの幼馴染ではなく、人生を共に歩く相手として。
でも、それは今ではない。
今は、ミレーヌの冒険を支えることが先だった。
「どうやって? 酒場の主人は警戒していたよ」
ミレーヌの言葉に、僕は頷いた。
確かに、あの宿の主人は僕たちを探っていた。人のよさそうな笑顔を浮かべていたけれど、こちらの目的を知ろうとしていたのは間違いない。
特に、ロッテを連れていることを不思議に思ったのだろう。
この街では、フミン族はいる。けれど、僕たちのような旅人の仲間として扱われることは少ないのかもしれない。
「やはり、冒険者ギルドへ向かうのがいいだろう」
そう言ったのはシグレさんだった。
ワインの入った杯を片手に、静かに考え込んでいる。落ち着いた姿勢といい、周囲の空気を読む鋭さといい、ただの旅の戦士ではないのだと何度も思わされる人だ。
ルクス城での戦いでもそうだった。
城門を閉じ、逃げ出そうとするゴブリンやオーガを抑え込んだ判断は、戦場を知る者のものだった。
けれど、シグレさんは故郷のことを語らない。
僕も、あえて聞かない。
同じ旅をする仲間でも、触れられたくないことはある。僕にだって、ミレーヌにも言えていない秘密があるのだから。
「シグレ、どうしたのさ?」
セシルさんが気軽に声をかけた。
付き合いが長いからだろう。セシルさんは、シグレさんの沈黙にも自然に踏み込める。
シグレさんは杯を置き、少しだけ目を細めた。
「酒場に、兵士の匂いが多すぎた」
「匂い?」
ミレーヌが首を傾げる。
「革鎧、武器油、汗。それに、あの食べ方だ。普段なら手を出さないような高い料理を頼み、不味いビールを浴びるように飲んでいた。あれは、出征前の兵士の姿に近い」
部屋の空気が、少し重くなった。
言われてみれば、酒場の男たちは妙に騒がしかった。楽しんでいるというより、何かを忘れようとしているような飲み方だった。
「戦争は、本当かもしれないな」
シグレさんの言葉に、誰もすぐには答えなかった。
東方の交易国家、シリカ国。
アルスラン帝国がその国と戦争を始めるという噂は、港でも聞いていた。
その時、僕はふと、下船した時のことを思い出した。
ジョルジュ船長から報酬を受け取った時、セシルさんはアルスラン帝国のイリヤル銀貨ではなく、シリカ国のクラン銀貨を選んでいた。
「そういえば、セシルさん」
「何だい?」
「ジョルジュ船長からの報酬、イリヤル銀貨じゃなくてクラン銀貨で受け取っていましたよね」
セシルさんはにやりと笑った。
「お、気づいたかい。ユキナは目の付け所がいいね」
そう言って、セシルさんは僕の頭を軽く撫でた。
最初に会った時は、金銭感覚に鋭い世慣れた人だと思っていた。けれど、一緒に旅をしているうちに分かった。
この人は、面倒見がいい。
僕やミレーヌのことを、弟や妹のように見てくれているのだろう。
ミレーヌが少し不思議そうに僕たちを見ている。
「どういう意味?」
「同じ銀貨でも、中の銀の量が違うのさ」
セシルさんは机の上に指で丸を描いた。
「アルスラン帝国のイリヤル銀貨は、最近かなり質が落ちている。不純物を混ぜて、見た目だけ銀貨にしてるんだよ。兵士に払う給料も、それで済ませている」
「つまり、兵士の給料が実際には減っているってこと?」
「そういうことさ」
ミレーヌはすぐに理解したようだった。
やっぱり、ミレーヌは賢い。
明るくて、情が深くて、強くて、優しい。
それだけじゃない。こういう話も、ちゃんと受け止めて考えられる。
僕は昔から、そういうところにも惹かれていたのだと思う。
「一方で、シリカ国のクラン銀貨は銀の純度が高い。だから商人はクラン銀貨を欲しがる。武器も食料も、人の口も、信用されている金で買えるからね」
「人の口?」
クヌートが眉をひそめた。
セシルさんは肩をすくめる。
「情報だよ。兵士に酒を奢る。役人に握らせる。商人から倉庫の中身を聞く。価値のある銀貨なら、それができる」
部屋の中が静かになった。
外から聞こえる笑い声が、さっきよりも遠く感じる。
僕は宿の主人が出した不味いビールを思い出した。
良い麦は軍に取られる。
保管場所も武器庫と食糧庫になっている。
残った材料で酒を作るしかない。
でも、それだけではないのかもしれない。
「質のいい麦や物資を、シリカ国が買い集めている可能性もありますね」
僕がそう言うと、ミレーヌが頷いた。
「そっか。だからアルスラン帝国には質の悪い麦しか残らない。ビールが美味しくないのも、そのせいかもしれないんだ」
「うん。たぶん、それだけじゃないけど……この国の商売がかなり苦しくなっているのは間違いないと思う」
戦争には、武器がいる。
食料もいる。
兵士に払う金もいる。
それなのに、自国の銀貨は信用されず、敵になるかもしれない国の銀貨が商人に喜ばれている。
戦争が始まる前から、アルスラン帝国は足元を削られているのかもしれない。
「ということは」
クヌートが腕を組んだ。
「魔物の討伐をする兵士が減る。町や村の治安も悪くなる。俺たち冒険者の仕事は増えるということか」
「そうなるだろうな」
シグレさんが頷く。
「明日は冒険者ギルドだ。仕事の内容を見れば、この国がどこまで戦争に備えているか分かる」
僕も同意した。
冒険者ギルドには、街の困りごとが集まる。
討伐依頼が増えているのか。護衛の依頼が多いのか。物資輸送の仕事が出ているのか。
そこを見れば、この国の状態は少しは分かるはずだ。
僕は窓の外を見た。
アストラハンの夜は暗い。
城壁の上のかがり火だけが、遠くで揺れている。
国民の暮らしよりも、戦争を優先する。
それが、この国の選択なのだろうか。
腐った銀貨。
不味いビール。
出征前のように飲み騒ぐ兵士たち。
そして、暗い街。
まだ戦場に立ったわけではない。
それでも僕には、もう戦争の足音がこの部屋まで近づいているように思えた。