君とボクの二度目の冒険 〜転生した少年と幼馴染の勇者が、魔王の孤独を救うまで〜 作:屠龍
第六十四話 クヌートの笑顔
ホレ村の広場に貼られた簡素な地図を前に、僕はしばらく黙り込んでいた。
村外れの小道を十分。
沢を越え、獣道を四時間。
人の足ならそれだけかかる場所でも、森に棲む妖魔にとっては遠くない。
しかも村では流行り病が出ている。
まともに動ける人間は少なく、もし今夜オーガが来れば逃げ遅れる人が出るかもしれない。
秋の夕暮れは早い。
空はまだ青みを残しているのに、森の奥はもう薄暗く沈み始めていた。
それを見ていると、胸の奥にずっと落ち着かないものが広がっていく。
「みんな」
僕は意を決して口を開いた。
「今から森に入りたい。駄目かな」
僕の言葉に、その場の空気が少しだけ張り詰める。
最初に返事をしたのはシグレさんだった。
「今からだと目的地に着くのは夜中になる。得策とは言えないな」
声は落ち着いていたが、即答だった。
そこには迷いがない。
「夜の森は昼とは別物だ。道を外れやすいし、足場も見えない。妖魔と戦う前に、自分たちの足を奪われかねん」
セシルさんも腕を組んで頷く。
「シグレの言う通りだね。あたいとシグレだけなら、まあ何とかなるかもしれない。でもユキナとミレーヌはまだ夜の森に慣れてない。足を取られたら、それだけで危ないよ」
その言い方は軽いのに、内容はまったく軽くなかった。
僕もミレーヌも、まだ青銅級上がりだ。
昼の森ならともかく、夜の森は勝手が違う。
「ボクも反対」
ミレーヌがまっすぐ僕を見た。
その声にはためらいがあった。
でも、はっきりしていた。
「ユキナが焦ってるのはわかるよ。村の人たちが弱ってるのを見て、早く何とかしたいって思ってるのもわかる。でも、だからって危ない方に急いだら駄目だよ」
僕は思わず言葉に詰まる。
ミレーヌは僕の考えていることをちゃんとわかってくれていた。
そのうえで、止めてくれている。
「もし夜の森でユキナが怪我したら、ボク嫌だよ」
その一言が胸に刺さった。
優しさで動きたいと思ったのに、その結果で誰かを危険にさらすなら本末転倒だ。
頭ではわかる。
でも、心はまだ迷っていた。
「……でも」
僕は地図を見たまま、低く言った。
「人の足で四時間ってことは、森の妖魔ならもっと早い。今夜来るかもしれない。村の人たちは病気で逃げられないかもしれないんだ。朝まで待って、その間に襲われたらって思うと……」
「ボクは反対。方角を見失ったら帰れなくなるかもしれないし、足を踏み外したらそれだけで終わりだよ」
やっぱりそうだよね、と心のどこかで思う。
でも時間がないのも事実だった。
今夜もし襲われたらと思うと、待つのも怖い。
夜の森なんて、僕だって進みたくはない。
でも、待つこともまた怖かった。
すると、意外にもクヌートが口を開いた。
「いや、案外いい案かもしれないぞ」
思わずそちらを見る。
クヌートが僕の案に賛成してくれるとは思っていなかった。
「じゃあ賛成ってことかい?」
セシルさんが片眉を上げる。
軽い口調ではあったが、無茶はさせたくないという気持ちは隠していなかった。
「全面的にはな。夜間行軍が危険なのは変わらない」
クヌートは短く答えた。
「お前の言う通りだ。シグレとお前ならともかく、全員が同じように動けるわけではない。足場の悪い夜の森で足を取られれば、それだけで致命的になりかねん」
そう言ってクヌートがフェリシアを見て頷く。
「だが、不可能でない手段がある」
「皆さんは、夜の闇と足元が不安なのですよね」
そう言ったのはフェリシアだった。
彼女は持っていた杖を軽く振る。
すると杖の先から小さな光の玉がふわりと浮かび、ゆっくりと地面へ降りていった。
光が地面に触れた瞬間、形が変わる。
現れたのは、小さな黒猫だった。
艶やかな毛並みは夜の影みたいに滑らかで、丸い金色の目がこちらを見上げている。
細い尻尾がぴんと立ち、まるで本物の猫みたいに小さく足元を歩き回った。
「か、かわいい……!」
ミレーヌがしゃがみ込む。
黒猫は逃げるどころか、そのまま素直に抱き上げられた。
ミレーヌの腕の中で大人しく収まって、喉まで鳴らしそうな顔をしている。
「この子の目を借ります」
フェリシアが微笑む。
「夜でも周囲の様子をきちんと把握できます。足元も、獣道の先も見失いません」
「え、すごい……」
僕は思わず呟いた。
魔法というと、炎や雷のような派手なものばかり考えてしまう。
けれど、こんなふうに夜目を補うこともできるのか。
しかも、こんなに可愛い形で。
「ボク、この子好き!」
ミレーヌが頬を緩めながら黒猫を抱きしめる。
その様子を見て、フェリシアも自然に笑みを深めた。
普段の控えめな微笑みではなく、少しだけ年相応の柔らかい笑顔だった。
その二人を見ていたクヌートの口元にも、ふっと穏やかな笑みが浮かぶ。
それは一瞬だった。
けれど、はっきりとわかった。
今まで見たことがないくらい、優しい笑顔だった。
――クヌートって、こんな顔もするんだ。
たぶんあれは、フェリシアに向ける兄の顔だ。
妹が笑っているのを見て、安心している顔。
その笑顔が、妙に僕の胸に残った。
「なるほどね」
セシルさんが猫を見つめながら口笛を吹く。
「これなら、少なくとも夜目の問題は何とかなるか」
「完全ではないが、条件はかなり良くなるな」
シグレさんも頷く。
最初の反対より、声が少し柔らかくなっていた。
ミレーヌは黒猫を抱いたまま、僕の方を見た。
「……危ないのは変わらないよ。でも、さっきよりはずっとましになったと思う」
僕は小さく息を吐いた。
皆の反対はもっともだった。
それでも、今は少しだけ道が見えた気がする。
そして何より、クヌートとフェリシアの力を、また少しだけ近くに感じられた。
いつかもっと親しくなった時、僕たちにも今みたいな笑顔を見せてくれるのだろうか。
クヌートが警戒ではなく、本当の意味で僕たちを仲間だと思ってくれる日が来るだろうか。
そのくらい仲良くなれたらいいのにと、僕は自然にそう思っていた。