芳賀ココノの献身 作:レバニラ炒め
物心がつくころには、私には姉さんがいた。
血は繋がっていない。
いつも私のそばにいて、いろいろなことを教えてくれて、手を引いてくれて、怖い時には隣にいてくれた。
アリウスでは、優しさは余裕のある者だけが持てる贅沢品だった。
食べ物も、水も、眠る場所も足りない。
明日まで生きられる保証もない。
誰かを庇えば、その分だけ自分が弱くなる。
だから、姉さんが私に優しくしてくれた理由は、ずっと分からなかった。
それでも私は、その優しさが好きだった。
「ココノ」
姉さんは私の名前を呼ぶ。
幼い私は、顔を上げる。
記憶の中の私は、今よりずっと小さい。
痩せた腕。
擦り切れた服。
汚れた靴。
それでも、姉さんの隣にいる時だけは、少しだけ胸を張っていた。
「あなたは希望の光なの」
姉さんは何度もそう言った。
私には、その意味がよく分からなかった。
けれど、姉さんがそう言うのなら、きっと大事なことなのだと思った。
私はロイヤルブラッドの血を引いているらしい。
旧きアリウスの血。
かつての体制の象徴。
旧体制派が掲げることのできる、わずかな旗。
アリウスは公会議から追放され、その後も壊れ続けていた。
旧体制派。
その打倒を志す革命派。
どちらにも属せなかった者たち。
食べ物を奪う者。
奪われる者。
昨日まで隣にいた人が、次の日には敵になる場所。
内戦は泥沼だった。
辺りを見れば、どこかに死体が転がっていた。
誰かの泣き声はすぐに消えた。
銃声には、誰も驚かなくなっていた。
そんな場所で、姉さんは私に言った。
「あなたの血には意味がある」
「意味?」
「ええ。あなたが立てば、人は集まる。あなたが旗になれば、この内戦を終わらせることができる」
私は姉さんの言葉を信じた。
私には役目がある。
それは、誇らしいことだった。
ただの孤児ではない。
ただ生きているだけの子供ではない。
誰かに拾われ、誰かに守られているだけの存在ではない。
私には、果たすべき役目がある。
だから、姉さんは私に優しくしてくれるのだと思った。
姉さんが私を必要としてくれる理由があるのだと。
それが嬉しかった。
記憶の中の姉さんは、私の髪を整える。
「いつか、あなたは皆の前に立つの」
「私が?」
「そう。あなたは希望の光だから」
「姉さんも一緒?」
私がそう聞くと、姉さんは少しだけ笑った。
「もちろん」
その言葉を、私は信じた。
ずっと一緒にいてくれると思っていた。
空が赤い。
火の色だった。
隠れ家だった場所に、煙が上がっている。
怒号。
銃声。
足音。
誰かの悲鳴。
革命派の襲撃。
私の存在は、彼らにとって不都合だった。
旧体制派の御旗になり得る血。
内戦を続ける理由になり得る象徴。
利用される前に消すべきもの。
だから、彼らは来た。
姉さんは私の手を掴んで走った。
「こっち!」
「姉さん、家が」
「振り返らない!」
声が鋭かった。
私は転びそうになりながら走る。
姉さんの手は熱かった。
強く握られて、少し痛かった。
狭い通路。
崩れた壁。
血の跡。
瓦礫。
姉さんは私を押し込むようにして、裏口へ連れていった。
「逃げなさい」
「姉さんは?」
「私は後から行く」
姉さんの服は血で濡れていた。
誰の血か分からない。
もしかしたら姉さん自身のものだったのかもしれない。
「嫌だ」
私は首を振った。
「姉さんも一緒に」
「ココノ」
姉さんは私の肩を掴む。
強く。
痛いくらいに。
「あなたは生きなければいけない」
「でも」
「逃げて」
姉さんの声が揺れた。
「逃げて、役目を――」
言葉の最後は、銃声にかき消された。
姉さんの体が揺れる。
私は叫んだはずだった。
けれど、声は記憶の中に残っていない。
残っているのは、姉さんの目だけ。
逃げなさい。
そう言っていた。
私は逃げた。
姉さんを置いて。
それが役目だから。
姉さんがそう言ったから。
私は、生きなければいけなかったから。
走った。
走って、走って、走って。
姉さんに教えられた場所へ向かった。
そこには、旧体制派の仲間がいるはずだった。
私を保護し、役目を果たすための場所があるはずだった。
けれど、辿り着いた先には何もなかった。
瓦礫。
血。
焼け焦げた布。
壊れた武器。
倒れた人。
そこも、襲撃を受けていた。
私の居場所は、もうなかった。
そこから先は、断片的だった。
食べ物の手に入れ方を知らなかった。
水の場所も分からなかった。
誰を頼ればいいのかも分からなかった。
姉さんはいない。
私を希望と呼んでくれる人はいない。
それでも、死ねなかった。
死んではいけないと思っていた。
私はまだ、役目を果たしていない。
姉さんを置いて逃げたのに。
私だけ生き延びたのに。
役目を果たせなければ、全部が無意味になる。
だから、死ねなかった。
飢えと渇きの中で、私は歩いた。
どこへ向かっているのかも分からずに。
ある日、匂いがした。
温かい匂い。
薄いスープの匂いだった。
私はその匂いに引かれて歩いた。
そこには、炊き出しがあった。
並ぶ人々。
配られる器。
立ち上る湯気。
内戦は終結したのだと、誰かが言っていた。
マダムが、ベアトリーチェが終わらせたのだと。
私は列に並んだ。
器を受け取る手が震えていた。
スープは薄かった。
肉は欠片のようなものが少し入っているだけだった。
味も濃くない。
それでも、温かかった。
私はそれを忘れられない。
薄いスープ。
あの温かさ。
生きていていいと、体だけが先に思い出したような感覚。
その後、マダムが兵を募ることを知った。
私は参加した。
自分の血を告げた。
ロイヤルブラッドの名残であることを。
姉が私に教えてくれたことを。
私には役目があるはずだということを。
そして、マダムと対面した。
記憶の中の私は、ひどく汚れている。
痩せて、疲れて、怯えている。
けれど、必死に背筋を伸ばしていた。
マダムの前で、崩れてはいけないと思った。
「あ、ありがとうございました」
声が震える。
「助けてくれて」
マダムは私を見た。
長い沈黙。
その視線は冷たいようで、ひどく深かった。
「……ロイヤルブラッド」
彼女はそう言った。
私の血を知り、私の価値を知り、私の役割を見た。
「ええ、気にしないでください」
その言葉は、優しかったのかもしれない。
少なくとも、当時の私にはそう聞こえた。
マダムは私に居場所を与えた。
訓練を受ける場所。
眠る場所。
食事。
命令。
役目。
私は必死にこなした。
射撃。
潜入。
暗号。
事務処理。
礼儀。
演技。
必要なことは何でも覚えた。
訓練でいい成績を収めれば、マダムが褒めてくれた。
任務をこなせば、マダムが認めてくれた。
「よくできましたね、ココノ」
その一言だけで、私は息ができた。
役目を果たせば、ここにいていい。
役目を果たせば、必要とされる。
役目を果たせば、姉を置いて逃げたことにも意味が生まれる。
「……だから、私は」
言葉が途切れた。
白い空間の中で、私は立っている。
目の前には先生がいる。
見られた。
一番見られたくなかったものを。
姉さんのこと。
逃げたこと。
役目を果たせなかったこと。
マダムに縋ったこと。
全部。
「この過去を、この思いだけを握りしめていれば……それなら」
声が震える。
「こんなにもつらい思いをしなくてよかったのに」
補習授業部の顔が浮かぶ。
ヒフミさん。
ハナコさん。
コハルさん。
アズサ。
先生。
シャーレ。
アビドス。
私が見ないようにしてきたものが、全部押し寄せる。
「ごめんなさい」
口からこぼれた。
「ごめんなさい。役目を果たせなくて、姉さんを見殺しにして、逃げて、上手に演じられなくて、皆を騙して、アズサの手を取れなくて、先生を撃って、生き残ってしまって、ごめんなさい」
息ができない。
胸が痛い。
私はその場に崩れ落ちそうになる。
「ココノ!」
先生が私の手を握った。
温かかった。
その温かさが、分からなかった。
「……どうして」
声が漏れる。
「どうしてですか」
先生は手を離さない。
「なんでまだ、私の手なんかを握るんですか」
私は先生を見る。
「それが、あなたの役目だからですか」
「違うよ」
先生はすぐに否定した。
「私が、そうしたいと思ったから」
「『先生』だからじゃないんですか」
「違う」
「……そんなことしたって、何にもなりませんよ」
「なるさ」
先生の手に、少しだけ力がこもる。
「君を一人にしない」
「なんで」
自分でも、情けない声だと思った。
「役目とかじゃないんだ」
先生は言う。
「ただ、私は君に生きてほしい。君に、青春を歩んでほしいと思ったんだ」
「そんなの」
「……それに、君のいないシャーレを、私は持て余してしまう」
その言葉は、あまりにも小さかった。
世界を救うとか。
正義とか。
生徒の未来とか。
そんな大きな言葉ではなかった。
君がいないと困る。
君がいないと寂しい。
そう言われている気がした。
「これは、私のエゴだ」
先生は言った。
「生きて」
短い言葉だった。
「君の足で立って、君だけの道を歩んで」
白い空間が揺れる。
遠くで、姉さんの声が聞こえた気がした。
マダムの声も、補習授業部の笑い声も、シャーレのざわめきも。
全部が、私の中で混ざっている。
「辛く、苦しいその先に、美しいものがきっとあるはずだから」
私は何も言えなかった。
先生の手を、振り払うこともできなかった。
ただ、握られた手の温かさだけが残っていた。
靄の中にいるようだった。
ブラウン管のテレビ越しに、知らない映像を眺めているような感覚。
誰の記憶だろう。
私がいる。
幼い頃の私が、誰かに感謝を述べている。
場面が切り替わる。
少し成長した私が、誰かに楽しそうに話しかけている。
また、場面が切り替わる。
聖ウィストリア学園の制服を身にまとった私が、誰かに言葉を交わしている。
温かい。
この記憶を通して、私は温かみを感じている。
誰の記憶なんだろう。
誰が、こんな風に私を見ているのだろう。
違う。
私はこれが誰の記憶か知っている。
これは――。
「今更、どうしようというのです」
マダムの声だった。
白い空間の中に、マダムが立っている。
先生の姿はもうない。
けれど、手に残った温かさだけは消えていなかった。
「あなたには、もうこの役目しか残っていないでしょう」
マダムは言う。
「あなたは先生を撃った」
胸が痛む。
「補習授業部を欺き、シャーレを裏切り、私のもとへ戻った」
その言葉は、どれも事実だった。
否定できない。
「それでも、あの男がまた受け入れてくれると本気で考えているのですか」
マダムの声は静かだった。
静かで、冷たくて、けれどどこか縋るようにも聞こえた。
「私と来なさい」
マダムが手を伸ばす。
かつて、私に役目を与えた手。
私を死の淵から拾い上げた人の手。
「あなたには、私しかいないのです」
その言葉は、かつての私なら救いだった。
私にはマダムしかいない。
そう思っていた。
姉さんを失って、役目を失って、飢えと渇きの中で死にかけていた私に、居場所を与えてくれた人。
必要だと言ってくれた人。
役目をくれた人。
だから、私はその手を取ってきた。
何度も。
何度も。
「さあ」
マダムの手が近づく。
「ココノ」
私は、その手を見つめた。
少し前なら、迷わず取っただろう。
それが私の役目だから。
それが私の居場所だから。
それが、私を必要としてくれた人への返礼だから。
でも。
先生の声が残っている。
生きて。
君の足で立って。
君だけの道を歩んで。
私は、ゆっくり息を吸った。
「ごめんなさい」
マダムの表情が止まった。
「……何を」
初めて見る顔だった。
怒りでもない。
嘲笑でもない。
理解できないものを見たような、ひどく驚いた顔。
「ずっと、迷ってきました」
私は言う。
声は震えていた。
それでも、言葉は出た。
「答えを出さなくちゃって」
役目を選ぶのか。
自分を選ぶのか。
マダムを選ぶのか。
先生を選ぶのか。
アリウスを選ぶのか。
シャーレを選ぶのか。
ずっと、どちらかを選ばなければならないと思っていた。
「でも、そんなことはなかったんです」
マダムが眉を寄せる。
「何を言っているのです」
「全部が、私だったんです」
姉さんを置いて逃げた私。
役目を果たせなかった私。
マダムに救われた私。
任務としてシャーレへ行った私。
先生の隣で働いた私。
アビドスを助けた私。
補習授業部を見て揺らいだ私。
アズサの手を取れなかった私。
先生を撃った私。
全部。
全部が、芳賀ココノだった。
「役目を捨てることも、自分を殺すことも、本当は怖くなかった」
私は顔を上げる。
「怖かったのは、自分でそれを決めることでした」
役目なら、言い訳ができる。
マダムのためなら。
姉さんのためなら。
アリウスのためなら。
そう言えば、立っていられた。
「誰からも期待を裏切りたくなかったから」
マダムの期待。
姉さんの言葉。
先生の優しさ。
補習授業部の笑顔。
アビドスの感謝。
全部が重かった。
「誰からも失望されたくなかったから」
必要とされなくなるのが怖かった。
役目を果たせない私に戻るのが怖かった。
「誰も、傷つけたくなかったから」
それなのに、私は傷つけた。
先生を撃った。
皆を騙した。
アズサの手を振り払った。
マダムの期待にも、きっと応えられない。
「でも、いいんだって」
先生の手の温かさを思い出す。
「私が、私の行く先を決めていいんだって、気づけたから」
マダムの顔が歪む。
「その男の言葉に、惑わされたのですか」
「違います」
私は首を横に振る。
「先生は、私に答えをくれたわけじゃありません」
選べと言ったわけではない。
正しい道を示したわけでもない。
ただ、生きてほしいと言った。
私の足で立ってほしいと言った。
だから、これは先生の答えではない。
「これは、私が決めることです」
言葉にした瞬間、足元が少し揺れた。
怖い。
今でも怖い。
この選択が間違っているかもしれない。
先生に許されるとは限らない。
補習授業部に受け入れられるとは限らない。
シャーレへ戻れるとも限らない。
それでも。
「だから」
「ごめんなさい」
「さようなら」
マダムの伸ばした手は、まだそこにある。
けれど、私は取らない。
「私は、私の意志で、生きていきます」
長い沈黙が落ちた。
マダムは、私を見ていた。
その表情から、感情は読み取れない。
怒り。
失望。
驚き。
それとも、別の何か。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「そう、ですか」
「……そうですか、ココノ」
それが何を意味していたのか、私には分からない。
でも、もうその意味をマダムに委ねる必要はなかった。
私は、私の足で立つ。
その先が怖くても。
辛くても。
苦しくても。
私の行く先は、私が決める。
白に満ちた空間の中で、私は目を閉じた。
「マ、ダム」
かすれていた。
立ち上がろうとするけれども、重力にあらがえない。
マダムは何も言わない。
ただ、私を見ている。
そこへ、黒い渦が開いた。
「これはこれは。幕引きには、少々静かすぎるかもしれませんね」
顔のない男――ゴルコンダ の声だった。
デカルコマニーが続く。
「そういうこった!」
ゴルコンダは、芝居がかった仕草で周囲を見渡した。
「役割を拒み、物語の外へ踏み出す少女。救済と所有の境界を見誤った大人。なるほど、興味深い結末です」
「御託は結構です」
マダムが低く言う。
「ゴルコンダ。さっさと私を回収しなさい」
「ええ、もちろん」
ゴルコンダは穏やかに応じる。
「あなたの失敗もまた、貴重な記録ですので」
私は、ふらつきながら立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
それでも、言わなければいけないことがあった。
「マダム」
マダムがこちらを見る。
私を救った人。
私に役目を与えた人。
私を縛った人。
私が縋った人。
「……ありがとう」
マダムの表情は変わらなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せたように見えた。
それが本当にそうだったのか、私の願望なのかは分からない。
ゴルコンダの黒い渦が、マダムを包んでいく。
「それでは、先生。いずれまた、別の幕で」
「そういうこった!」
黒い渦が閉じる。
マダムの姿も、ゴルコンダの姿も、デカルコマニーの声も消えた。
後には、壊れた祭壇と、静まり返った空間だけが残る。
私はその場に膝をついた。
先生が私を支える。
「ココノ」
「……先生」
「うん」
謝らなければならないことは、山ほどある。
でも、最初に出た言葉は違った。
「私」
声が震える。
「戻って、きました」
先生は静かに頷いた。
「おかえり」
その一言で、私はもう一度泣きそうになった。