芳賀ココノの献身 作:レバニラ炒め
少しだけ
揺らいでいる。
自分を構成するもの。
マダムへの忠誠。
役目への執着。
先生の隣に立つ理由。
そう自覚した瞬間、少しだけ息が詰まる。
「ココノ、大丈夫?」
顔を上げると、コハルさんがこちらを覗き込んでいた。
下江コハル。
トリニティ総合学園、正義実現委員会所属。
そして現在は、補習授業部の一員。
本人は真剣な顔をしているつもりなのだろうが、机の上の解答用紙は真剣とは言いがたい状態だった。
私はそれを一瞥して言う。
「少し疲れただけなのよ。あとそこ、解答が一個ずれてるのよ」
「えっ!?」
コハルさんが慌てて解答用紙を見る。
「う、嘘!? どこから!?」
「三問目からなのよ」
「ほとんど最初じゃない!」
「だから言ってるのよ」
コハルさんは頭を抱えた。
その隣で、ヒフミさんが苦笑している。
「コハルちゃん、落ち着いて。今ならまだ直せますから」
「うう……ヒフミは優しい……」
「優しいだけでは合格点は取れないのよ」
「ココノは厳しい!」
私は赤ペンを持ち直す。
「退学がかかっているのだから、当然なのよ」
補習授業部。
トリニティ総合学園に作られた、退学候補の生徒たちを集めた部活動。
阿慈谷ヒフミ。
下江コハル。
浦和ハナコ。
白洲アズサ。
彼女たちは、定められた三回の試験のうち、一回でも全員同時に合格できれば退学を免除される。
逆に、一度も合格できなければ退学。
私と先生は、その補習授業部の顧問と補佐として関わることになった。
きっかけは、トリニティ側からの依頼だった。
ティーパーティーの桐藤ナギサ。
彼女は、先生に補習授業部の面倒を見るよう依頼した。
表向きは、退学候補者の学力改善。
けれど、それだけではない。
百合園セイア襲撃。
ティーパーティーの一角であったセイアが何者かに襲撃され、表向きは死亡扱いになっている。
その事件以降、ナギサは疑心暗鬼になっていた。
誰が敵か。
誰が裏切り者か。
誰がアリウスと繋がっているのか。
その疑念の果てに作られたのが、この補習授業部。
怪しい生徒を一箇所に集め、退学という圧力をかける。
そこへ先生という外部の観察者を置く。
資料上は、合理的に見えた。
けれど、実際に関わってみると、資料上の「退学候補」と目の前の彼女たちは、どうにも結びつかなかった。
「ココノさん、こちらの解き方ですが……」
ヒフミさんがノートをこちらに向ける。
「この公式で合っていますか?」
「合っているのよ。ただ、途中式が少し足りない。採点者に分かるように書くのよ」
「はい!」
ヒフミさんは素直に頷く。
彼女は部長として、皆をまとめようとしている。
自分にも退学がかかっているというのに、それを表に出さない。
皆が落ち込めば励まし、勉強に詰まれば一緒に考える。
いい子だ。
そう思う。
「ふふ、ココノさん。私の方も見ていただけますか?」
ハナコさんが、微笑みながらノートを差し出してくる。
浦和ハナコ。
掴みどころがなく、ふざけた言動も多い。
けれど、本当は勉強ができる。
それを隠していた。
最近は、それを少しずつ隠さなくなっている。
皆に教え、空気が沈みそうになると和ませる。
「ハナコさんは、もうこの範囲は十分なのよ」
「あら、褒めていただけるんですか?」
「事実確認なのよ」
「それは残念です」
ハナコさんは楽しそうに笑う。
いい子だ。
そう思う。
「ココノ」
低い声がした。
アズサが、こちらを見ていた。
白洲アズサ。
トリニティの生徒。
けれど、彼女の立ち方、視線、武器の扱いには、トリニティらしさが薄い。
最初から分かっていた。
彼女は、アリウスだ。
たぶん、向こうも私に気づいている。
私たちは互いに、それを口にしなかった。
口にすれば、今の関係が壊れる。
補習授業部で机を並べ、先生の指示で勉強を教え、何食わぬ顔で同じ時間を過ごすことができなくなる。
だから、知らないふりをしていた。
それが欺瞞だということも、分かっていた。
「この問題だが、解法は二通りあるのか」
アズサは何事もないようにノートを向けてくる。
「あるのよ。そちらの解法でも合っている。ただ、試験では時間がかかるから、こっちを使った方がいいのよ」
「分かった」
アズサは短く頷き、すぐにノートへ向かう。
不器用だ。
言葉も少ない。
けれど、真面目で、まっすぐだ。
彼女は誰かを助けられる。
自分が傷つくことを前提にしてでも、人のために動ける。
いい子だ。
そう思う。
コハルさんは、まだ解答用紙と格闘している。
「うう……また一個ずれてる……」
「なぜ直している途中でさらにずれるのよ」
「分かんないわよ!」
コハルさんは涙目になりながら、必死に消しゴムを動かす。
少し抜けている。
思い込みも激しい。
すぐに騒ぐ。
けれど、人一倍正義感が強い。
誰かが困っていれば、放っておけない。
いい子だ。
ヒフミさんも。
ハナコさんも。
アズサも。
コハルさんも。
いい子だ。
そう。
当たり前のことだ。
皆が皆、屑でも、機械のような連中でもない。
生きている。
笑って、怒って、悩んで、少しずつ前に進んでいる。
それを、私たちは壊す。
マダムの計画が成就すれば、トリニティもゲヘナも、今の形ではいられない。
この子たちの学園生活も、笑い声も、机の上のノートも、全部。
壊れる。
私たちが壊す。
私が。
「ココノ?」
先生の声で、私は我に返った。
先生が少し心配そうにこちらを見ている。
「本当に大丈夫?」
「……少し疲れただけなのよ」
「休む?」
「必要ないのよ」
「そう」
先生はそれ以上、強くは言わなかった。
ただ、私の机の上に温かい飲み物を置いた。
「じゃあ、少しだけ」
私はそれを見る。
「……先生」
「うん?」
「甘すぎるのよ」
「飲み物が?」
「対応が、なのよ」
先生は少し困ったように笑った。
私はカップに触れる。
温かい。
それが、少しだけ煩わしかった。
補習授業部の状況は、最初は壊滅的だった。
試験範囲の理解も、基礎知識も、集中力も足りていない。
それぞれの能力差も大きい。
第一次試験。
結果は、届かなかった。
ヒフミさんは合格点に届いた。
だが、全員同時合格でなければ意味がない。
コハルさんは焦りすぎた。
ハナコさんは実力を隠したままだった。
アズサは、得意不得意がはっきりしすぎていた。
不合格。
コハルさんは悔しがり、ヒフミさんは皆を励ました。
ハナコさんは笑っていたが、少しだけ目が違った。
アズサは、何も言わず次の問題集を開いた。
第二次試験。
今度は届くはずだった。
少なくとも、こちらの見立てでは合格圏内だった。
学習計画は修正した。
弱点も潰した。
コハルさんのケアレスミスも減った。
ハナコさんも、少しずつ本気を出していた。
だが、試験室が爆破された。
答案用紙は焼失。
採点不能。
第二次試験は無効。
そして、全員不合格扱い。
理不尽だった。
コハルさんは怒鳴った。
ヒフミさんは言葉を失った。
ハナコさんの笑みは、いつもより薄かった。
アズサは、静かに周囲を見ていた。
私はその光景を見て、ただ記録した。
妨害。
明らかな外部干渉。
補習授業部を合格させたくない誰かがいる。
そう分析することはできた。
けれど、それよりも先に浮かんだのは、悔しさだった。
どうして。
そう思ってしまった。
任務としては、奇妙な話だ。
補習授業部が合格しても、不合格になっても、私は本来どちらでもいい。
私は先生の補佐としてここにいる。
そして、マダムのために先生を観察するためにいる。
それなのに。
第三次試験だけが、残った。
三回のうち一回でも合格できれば退学免除。
つまり、次が最後。
失敗すれば、彼女たちは退学になる。
「はい、今日はここまでにするよ」
先生が言った。
補習授業部の面々がそれぞれ息を吐く。
「うう……頭が溶ける……」
コハルさんが机に突っ伏す。
「コハルちゃん、お疲れ様です」
ヒフミさんが笑う。
「明日は復習中心ですね」
ハナコさんがノートをまとめる。
アズサは、まだ問題集を見ていた。
私は時計を見る。
かなり遅い時間だった。
「アズサ、今日はもう終わりなのよ」
「あと少しだけ」
「疲労状態で続けても効率は落ちるのよ」
「……分かった」
アズサは問題集を閉じた。
その時、彼女と目が合った。
まっすぐな目。
私は、少しだけ見返せなかった。
皆が片付けを始める中、アズサが私の方へ来た。
「ココノ」
「何なのよ」
「この後、話がしたい」
声は静かだった。
けれど、逃げ道はなかった。
私は少しだけ間を置く。
先生がこちらを見る。
ヒフミさんも、何かを感じたように視線を向けている。
アズサの目は、揺れていなかった。
……もう、終わってしまうのか。
「……分かったのよ」
補習授業部の館を出る時、夜風が頬に当たった。
トリニティの夜は、アビドスの砂の夜とは違う。
整った石畳。
静かな校舎。
遠くの礼拝堂の影。
そのすべてが、私には少し眩しかった。
アズサは、前を歩いている。
その背中を見ながら、私は思う。
あと一日だけ。
第三次試験が終わるまで。
皆が合格するのを見届けるまで。
それが終わったら、私はアリウスへ戻ろう。
……皆を殺すために?
違う。
私は役目を果たすだけだ。
マダムから与えられた役目を。
「ここでいい」
アズサは、中庭から少し離れた場所で足を止めた。
人通りはない。
補習授業部の館からも、校舎からも少し距離がある。
話をするには、ちょうどいい場所だった。
私はアズサと向き合う。
「話って何なのよ」
自分でも、少し声が硬いと思った。
アズサは、私をまっすぐに見ている。
その目は、いつも通りだった。
真面目で、不器用で、逃げ道を用意しない目。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは、アズサだった。
「私たちは、いつまで知らないふりを続けるんだろうな」
……そうだね。
「ココノも分かっているはずだ。私も、ココノも、アリウスだ」
風が吹いた。
木の葉が揺れる。
遠くで、夜の鳥の声がした。
私は何も言わなかった。
否定することはできる。
私は聖ウィストリア学園の生徒として登録されていて、連邦生徒会防衛室で働き、今はシャーレの補佐としてここにいる。
どこにも、アリウスの名前はない。
けれど、アズサの前でそれを言っても意味はない。
「そう思うなら、そうなのかもしれないのよ」
「曖昧な言い方だ」
「答える義務はないのよ」
「そうだな」
アズサは頷いた。
責めるような声ではなかった。
彼女は私を暴きたいわけではない。
最初からそうだ。
私たちは互いに気づいていた。
互いに気づいていながら、補習授業部の部屋で、何でもない顔をして過ごしていた。
その沈黙が、今ここで破れただけだった。
「そのうえで言いたい」
アズサは、少しだけ息を吸う。
「共に裏切ろう、ココノ」
「……何を言っているのよ」
「言葉の通りだ」
アズサは私を見る。
「ベアトリーチェを裏切る。アリウスを裏切る。あの計画を止める」
喉が、少しだけ乾いた。
マダムの名を、ここで聞きたくなかった。
「……本気、なんだね」
「ああ」
アズサの声は揺れなかった。
「ヒフミも、ハナコも、コハルも、トリニティの皆も生きている」
分かってる。
「分かるだろう。ココノにも」
分かっている。
ヒフミさんは、皆を励ます。
ハナコさんは、ふざけながら周囲を見ている。
コハルさんは、間違えながらも必死に進もうとする。
アズサは、今こうして私に向き合っている。
皆、生きている。
「私たちの空虚な妄執で殺していい相手ではない」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
空虚な妄執。
アズサは、自分たちの信じてきたものをそう呼んだ。
私にはできない。
そう呼んでしまえば、私のこれまでが崩れる。
姉を置いて逃げたことも。
生き延びたことも。
マダムに救われたことも。
役目を与えられたことも。
全部、空っぽになってしまう。
「アズサ」
「何だ」
「あなたは……私とは、違う」
アズサは黙る。
「だから、そう言えるの」
「そうかもしれない」
否定しないのか。
私は少しだけ苛立った。
「あなたに、私の何が分かるの」
「全部は分からない」
アズサは即答した。
「だが、分かることもある」
「何が」
「ココノは苦しんでいる」
その言葉で、呼吸が止まりそうになった。
「……苦しんでなんか」
「なら、どうしてヒフミたちを見る時、そんな顔をする」
「うるさい」
「行き場を見失った者の顔だ」
私は、言葉を失った。
行きたい場所。
そんなのは一つだ。
私には役目がある。
帰る場所はアリウスで、従うべき相手はマダムだ。
シャーレにいるのは任務のため。
先生の隣にいるのは補佐として。
補習授業部に関わるのも、先生の業務に必要だから。
それだけだ。
「私は」
声がかすれた。
「私は、別に」
アズサは一歩近づいた。
「ココノ」
彼女は手を差し出した。
「私と協力してほしい」
差し出された手。
「ベアトリーチェを打倒し、私たちの自由を」
アズサの声が、少しだけ強くなる。
「彼女たちの青春を」
青春。
私とは無縁の言葉だ。
補習授業部の部屋が浮かぶ。
机を囲むヒフミさんたち。
解答用紙をずらして騒ぐコハルさん。
笑ってごまかすハナコさん。
真面目に問題を解くアズサ。
温かい飲み物を置く先生。
それから、シャーレ。
机の上の書類。
先生のため息。
雑多な依頼。
迷い猫。
ゲーム開発部の笑い声。
ヒフミさんのペロロ。
アビドスの砂。
ゲストハウス。
ホシノさんの背中。
私が、守ったもの。
もし。
もし、この手を取ったら。
補習授業部に残って。
先生の補佐を続けて。
ヒフミさんたちと試験を乗り越えて。
皆と並んで歩く。
普通の学園生活。
ああ、なんて。
『あなたは希望の光なの』
『逃げなさい』
『役目を』
血に濡れた手。
崩れた拠点。
瓦礫。
空腹。
乾いた喉。
そして、スープの匂い。
マダムが与えてくれた居場所。
マダムが与えてくれた役目。
マダムが言ってくれた言葉。
『あなたが必要です』
私の命は、そこで繋がった。
役目を果たせば、ここにいていい。
役目を果たせば、必要とされる。
役目を果たせば、姉を置いて逃げたことにも意味が生まれる。
だから。
だから私は。
「私は」
差し出された手を見つめる。
取れない。
「私は、芳賀ココノだから」
アズサの表情が歪む。
「違う!」
彼女は強く言った。
「違わない」
「ココノは、ココノの思う道を歩んでいいんだ!」
その言葉は、あまりにもまっすぐで。
「私の思う道なんて、ないの」
「ある」
「ないんだよ」
「ある。今、ココノは迷っている」
私は奥歯を噛んだ。
「迷っていない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「なら、どうして泣きそうな顔をしている」
私は目元に触れた。
涙は出ていなかった。
「私の命は、マダムに拾ってもらったから」
アズサは黙る。
「マダムがいなければ、私は死んでいた。マダムが役目をくれたから、私は生きてこられた」
「それでも」
「それでも、じゃない」
私は一歩下がる。
「私は、返さなくちゃいけない。果たさなくちゃいけない。そうじゃなきゃ、私は」
私は。
何なのだろう。
言葉が止まる。
役目を果たせなければ、私は何になるのだろう。
姉を置いて逃げた子供。
何も守れなかった孤児。
誰にも必要とされない、ただ生き残っただけのもの。
そんなものには戻れない。
戻りたくない。
「行かなくちゃ」
私は呟いた。
アズサが目を見開く。
「行くな!」
「ココノ!」
足元がいつの間にか変わっていた。
白い石畳ではない。
湿った、冷たい床。
地下へ続く通路。
カタコンベ。
気づけば、そこに立っていた。
自分がどう歩いてきたのか、うまく思い出せない。
入口の前に、人影があった。
皆岸メメ。
彼女は、いつものように軽い調子で手を上げた。
「お帰り」
その声を聞いた瞬間、少しだけ体から力が抜けた。
「メメ」
「出迎えだよ」
「行こう」
メメはカタコンベの奥を指す。
「道が変わる前に」