芳賀ココノの献身 作:レバニラ炒め
初めて芳賀ココノという少女に出会ったとき、真面目な子だと感じた。
だけど彼女と過ごす中でその印象は変わっていった。
彼女は『役目』に拘る子だ。
自分の今の立場、その中でできること、領分、それを大事にしている。
そのせいで一見冷たく映る場面もあるが、案外人情家で、こちらが困っているときはその役目を超えて助けてくれる。
聖ウィストリア学園。
小規模ながらも歴史の深い学園。
そこが連邦生徒会所属前の彼女の母校だ。
ここ数年運営資金で苦労し、一時は廃校の話も出ていたが、匿名からの寄付によって難を逃れた。
この時期のあたりから、書類上だけは正当な、過去の不審な生徒の入学が確認できる。
皆岸メメ、そして芳賀ココノ。
それは、祈りに似ていた。
彼女が清廉潔白の身であることを。
私は、彼女に寄り添うべきだったのだ。
一番近くにいた彼女に。
ココノがいなくなった。
補習授業部の館に戻った時、最初に気づいたのはそのことだった。
机の上には、彼女が使っていた赤ペンが残っている。
途中まで整理された学習計画もある。
開いたままの参考書もある。
解答用紙には、細かい字で注意点が書き込まれていた。
けれど、あの子がいない。
「ココノは?」
そう聞くと、アズサがわずかに目を伏せた。
その反応だけで、何かがあったのだと分かった。
ヒフミも、コハルも、ハナコも、詳しい事情は知らないようだった。
ただ、部屋の空気だけが重くなっていた。
コハルが不安そうにアズサを見る。
「アズサ? 何かあったの?」
アズサはしばらく黙っていた。
その沈黙の間、部屋の中には時計の音だけが響いていた。
机の上に残されたココノの赤ペンが、妙に目につく。
やがて、アズサは顔を上げた。
「話がある」
その声には、逃げるつもりのない硬さがあった。
「皆に、話さなければならないことが」
アズサは、ゆっくりと口を開いた。
自分がアリウスの生徒であること。
トリニティへ送り込まれた存在であること。
百合園セイア襲撃に関わっていたこと。
一つひとつ、言葉を選ぶように話していく。
「先生」
「うん」
「ココノも、私と同じ」
「アリウスだ」
「……なるほど」
アズサは小さく頷く。
「詳しい立場までは分からない。けれど、私も彼女も何度か顔を合わせたことがある」
少し前、アズサはココノに話があると言っていた。
「何か話したの?」
「一緒に裏切ろうと言った」
アズサは少しだけ苦しそうに息を吐いた。
「でも、手を取らなかった」
ココノは、アズサの言葉を聞いた。
その上で、戻らなかった。
アリウスへ帰った。
自分の役目がある場所へ。
アズサからアリウスの計画を聞いた私たちは、ナギサのもとへ向かった。
彼女との対峙は、静かなものでは終わらなかった。
ハナコは、いつもの柔らかな笑みを浮かべたまま、ナギサの言葉を受け止めた。
その笑みの奥に、冷たいものがあるのが分かった。
アズサは前に出た。
自分の罪を隠さずに、それでもナギサのやり方を止めるために。
ナギサの表情が崩れていく。
彼女もまた、追い詰められていたのだと思う。
疑い続けなければならなかった。
守らなければならなかった。
セイアを失ったと思い込んだまま、何かを止めようとしていた。
けれど、その疑いは、別の誰かに利用されていた。
ミカが現れた。
空気が変わった。
聖園ミカ。
ティーパーティーの一人。
彼女はアリウスの部隊を引き連れ、笑っていた。
けれど、その笑みの奥には、怒りと悲しみが混じっていた。
セイアを失ったと思い込んだこと。
ナギサに疑われたこと。
トリニティに裏切られたと思ったこと。
アリウスと手を組んだこと。
その全部が、彼女をここまで連れてきたのだろう。
「先生」
ミカは私を見た。
「もう、止まれないんだよ。私は」
「それでも、止めるよ」
「どうして?」
「君も、生徒だから」
その言葉に、ミカは一瞬だけ目を細めた。
「一つ、いいかな」
「……なぁに?」
「芳賀ココノという生徒を知らない?」
ミカは少し考えてから、首を横に振った。
「知らない。見たことないかな」
ミカが見たことがないということは、随分長い間アリウスを離れていたと見ていいだろう。
それだけの任務を任されるのは、マダムとやらに重宝されているから?
「……ありがとう、教えてくれて」
「もういい?じゃ、始めようか」
ミカ達は強かった。
補習授業部だけで正面から受け止めるには、あまりに重い。
アズサは前に出た。
コハルは震えながらも退かなかった。
ヒフミは必死に皆を支えた。
ハナコは状況を読み、少ない隙を探していた。
私は指示を出し続けた。
誰も失わせないために。
「アズサ、前に出すぎない」
「分かっている」
「コハル、右側を見る。ヒフミは一度下がって」
「は、はい!」
「ハナコ、ミカの足を止められる?」
「少しだけなら」
ほんの少しの隙を積み重ねる。
押し返すというより、崩れないように支える戦いだった。
やがて、別の知らせが届いた。
セイアは生きている。
その事実が明かされた時、場の空気が変わった。
ミカの表情から、色が抜けていく。
彼女が立っていた場所の土台が、突然消えたように見えた。
セイアは死んでいなかった。
ミカが信じていた悲劇の形は、そこで崩れた。
もちろん、それで全てが解決したわけではない。
ナギサの疑心も、ミカの罪も、アズサの過去も、簡単に消えるものではない。
けれど、止まる理由にはなった。
ミカは膝をついた。
怒りも、悲しみも、行き場を失っていた。
私は彼女に近づいた。
「ミカ」
ミカは顔を上げない。
「私、何をしてたんだろうね」
その声は小さかった。
私はすぐに答えられなかった。
何をしていたのか。
その答えは、きっとミカ自身がこれから向き合わなければならない。
ただ、今ここで終わらせるわけにはいかなかった。
「それを考えるためにも、戻ろう」
ミカは何も言わなかった。
一つの山は越えた。
けれど、補習授業部にはまだ最後の試験が残っている。
第三次試験。
最後の機会。
試験当日、部屋は静かだった。
ヒフミは深呼吸している。
コハルは自分の解答欄を何度も確認していた。
ハナコはいつもより真面目な顔を。
アズサは、問題用紙をまっすぐ見ていた。
ココノはいない。
けれど、机の上には彼女が作った学習計画が残っている。
コハルのケアレスミス対策。
ヒフミの記述問題の注意点。
ハナコが本気を出した場合の時間配分。
アズサの苦手分野の補強。
彼女は、確かにここにいた。
試験が始まる。
鉛筆の音が響く。
結果は、全員合格だった。
ヒフミは泣いた。
「よ、よかったです……!」
コハルは「泣いてない」と言いながら泣いていた。
「泣いてない! これは、その、安心しただけ!」
ハナコは笑っていた。
「ふふ。これで退学は免れましたね」
アズサはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……よかった」
その声は、本当に小さかった。
けれど、確かに安堵があった。
私は、その光景を見て安心した。
ヒフミも。
コハルも。
ハナコも。
アズサも。
全員が、ここに残れた。
それは、とても大きなことだった。
それと同時に、どうしても一つの席を見てしまう。
ココノ。
君は、何を選んだのか。
なぜ戻らなければならなかったのか。
君と、話がしたい。