エデン条約調印式当日。
キヴォトスの空は、嫌になるほど晴れている。
雲は薄く、古聖堂の尖塔には穏やかな光が落ちている。
そこだけ見れば、歴史的な一日と呼ぶにふさわしかったのだろう。
トリニティ総合学園とゲヘナ学園。
長く対立を続けてきた二つの学園が、正式に和平へ向かう。
その象徴となる条約。
エデン条約。
私は古聖堂から少し離れた場所にいた。
参列者ではない。
護衛でもない。
補佐でもない。
今日の私は、マダムの命令を果たすためにここにいる。
『ココノ』
通信機越しに、マダムの声が聞こえる。
「はい」
『先生は必ず動きます』
「……はい」
『彼は、生徒たちを見捨てられない。混乱が起これば、必ず中心へ向かうでしょう』
私は古聖堂の方を見る。
そこには、先生がいる。
きっといつも通りなのだろう。
誰かが困れば動く。
誰かが傷つけば手を伸ばす。
『撃ちなさい』
マダムは言った。
『射殺してかまいません』
喉が乾いた。
手元の銃が、やけに重い。
この銃は、マダムから与えられたものだ。
アリウスで訓練を受けていた頃から、ずっと触れてきた。
分解も、整備も、射撃も、目を閉じていてもできる。
扱いを間違えるはずがない。
『ココノ』
「はい」
『あなたならできますね』
「……はい」
私は答えた。
「私が、やります」
通信が切れる。
その瞬間、周囲の音が少し遠くなった気がした。
遠くで、式典開始を告げる鐘の音が鳴る。
古聖堂には多くの生徒が集まっている。
トリニティの関係者。
ゲヘナの関係者。
護衛。
報道。
そして、先生。
補習授業部の皆は、ここにはいない。
それでいい。
ヒフミさんたちがこの場所にいないことに、私は少しだけ安堵している。
そのことに気づいて、すぐに打ち消した。
余計なことは考えない。
私は役目を果たす。
それだけでいい。
「大丈夫?」
背後から声がした。
振り返ると、メメが立っていた。
いつものように軽い表情。
だが、目だけは少し違う。
「大丈夫」
私は答える。
メメは、私の顔を見て肩をすくめた。
「全然そんな風に見えないけど」
「問題ない」
「手、震えてるよ」
私は自分の手を見る。
震えていた。
ほんの少し。
けれど、確かに。
私は銃を握り直す。
メメは近づいてくる。
「私が撃とうか?」
その言葉に、体が先に反応した。
「そんなのダメ!」
思っていたよりも大きい声が出た。
メメは少しだけ目を丸くする。
私は息を整える。
「私がやるの」
「でも」
「私がやるの」
声がかすれる。
「これは、私の役目だから」
メメはしばらく私を見ていた。
「そう」
その時、空が割れた。
違う。
そう錯覚するほどの音が、古聖堂の方から響いた。
ミサイル。
爆発。
崩落。
悲鳴。
通信の混線。
「……先生」
声を出すと、先生が振り返った。
その顔に驚きが浮かぶ。
「ココノ」
その呼び方が、いつも通りだった。
シャーレで私を呼ぶ時と同じ。
アビドスで資料を頼む時と同じ。
補習授業部で様子を聞く時と同じ。
だから、少しだけ腹が立った。
こんな時まで、いつも通りに呼ばないでほしかった。
「……先生なら、来ると思ってた」
先生は、私の手元を見る。
銃に気づいたのだろう。
それでも、先生は逃げようとはしない。
「ココノ、君と話がしたい」
「私、もう迷わないって決めたんです」
自分の声が、ひどく冷たく聞こえた。
「ココノ」
「来ないで」
先生は足を止める。
私は銃を上げる。
照準は先生の胸元。
訓練通り。
いつも通り。
何度も繰り返した動作。
これでいい。
これが私の役目。
「お休みなさい、先生」
引き金を引く。
カチン。
音だけが響いた。
弾は出なかった。
「……あれ」
私は銃を見る。
安全装置。
安全装置が、かかったままだった。
そんなはずはない。
なんで。
マダムに渡された日から、ずっと触ってきた銃だ。
何度も整備した。
何度も撃った。
手の一部のように扱える。
こんな、初歩的なこと。
「どうして」
指がうまく動かない。
ああ。
どうしよう。
銃ってどう撃てばいいんだっけ。
「ココノ」
先生の声が近づく。
「来ないで」
掠れるような声が、喉から響く。
先生が一歩近づく。
「ココノ、聞いて」
「来ないで!」
銃声。
先生の体が揺れる。
「あ」
床に崩れ落ちた先生の下から、赤いものが広がっていく。
血。
先生の血。
私は撃った。
撃てた。
撃ってしまった。
「先生」
先生は動かない。
このままでは死んでしまう。
マダムに褒めてもらえるかな。
違う。
違う。
そんなことを考えてる場合じゃない。
私は役目を果たした。
先生を撃った。
マダムの命令に従った。
だから。
だから。
「あ、ああ……」
喉から声が漏れる。
手から銃が落ちそうになる。
「先生、先生、先生」
返事して。
「やっぱりだめじゃん」
声がした。
メメだ。
「メメ……」
「立てる?」
私は答えられない。
メメはため息をつき、私の腕を掴む。
「やば。空崎ヒナが来てる」
メメは私を担ぎ上げるようにして、引きずった。
「行くよ」
「先生が」
「行くよ」
「先生が、死んじゃう」
「そのために撃ったんじゃん」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
メメは私を連れて、崩れた通路の奥へ向かう。
何やってるんだろう、私。
カタコンベの空気は冷たかった。
古聖堂の崩落音も、銃声も、悲鳴も、ここまでは届かない。
代わりに聞こえるのは、濡れた石床を踏む音と、どこか遠くで滴る水の音だけだった。
メメに腕を引かれながら、私は歩いていた。
歩いている、というより、引きずられているに近かった。
足に力が入らない。
指先が冷たい。
けれど、手のひらにはまだ銃の感触が残っている。
先生を撃った時の反動。
銃声。
倒れる体。
広がる血。
それらが、何度も頭の中で繰り返される。
「危なかったー、今の」
メメが言った。
声はいつも通り軽い。
まるで、道端で雨に降られたくらいの調子だった。
「もう少し遅かったら、空崎ヒナに見つかってたかもね」
私は答えられなかった。
ヒナ。
あの人なら、先生を助けてくれるだろうか。
助かってほしい。
先生を撃ったのは私だ。
助かってほしいなら、最初から撃たなければよかった。
「ココノ?」
メメが振り返る。
いつの間にか、壁に手をついている。
呼吸が浅い。
喉が乾く。
視界の端が暗い。
「歩ける?」
「歩く」
「そ」
メメはそれ以上、手を貸そうとはしなかった。
私が歩き出すのを待っている。
それが少しだけありがたくて、少しだけ苦しかった。
私は壁から手を離し、再び歩き出した。
カタコンベの奥へ進む。
通路は入り組んでいる。
何度も曲がり、階段を下り、また上る。
知らない者が入れば、すぐに道を失うだろう。
私はその道を知っている。
何度も通った。
任務のために。
報告のために。
マダムのもとへ戻るために。
今日も同じだ。
私はマダムのもとへ戻る。
それが、今の私の役目だ。
「マダムのところ行ってきな」
少し開けた場所に出たところで、メメが言った。
「道、分かるでしょ?」
「……うん」
「私はまだやることあるし」
メメは軽く手を振って、別の通路へ向かおうとする。
その背中を見た瞬間、足が止まった。
一人になる。
そう思った。
いつもなら、何とも思わないはずだった。
一人で報告へ向かう。
一人で任務をこなす。
一人で戻る。
それが当たり前だった。
なのに、今は足が動かない。
「ココノ?」
メメが振り返る。
私は返事をしなかった。
できなかった。
メメはしばらく私を見て、ため息をついた。
「……やっぱ無理じゃん」
彼女は戻ってきて、私の正面に立つ。
「ココノ」
「何」
「マダムのところに戻る」
メメの声が、いつもより少しだけ低かった。
「これが今のココノの役目。分かった?」
役目。
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
私の役目。
先生を止めること。
先生を撃つこと。
マダムに報告すること。
マダムの計画を進めること。
役目。
それがあれば、私は立てる。
「私の……役目」
私は呟いた。
「そう。分かった?」
「分かった」
「じゃあ行く」
メメはそう言ったが、私の顔を見て少しだけ眉を寄せた。
「……やっぱ私もついてく」
「いいの?」
「よくなさそうだから」
メメは私の手首を軽く掴んだ。
強くはない。
けれど、離さないくらいの力だった。
「行くよ」
私は頷いた。
メメに手を引かれて、マダムのもとへ向かった。
広間に近づくにつれて、空気が変わる。
冷たさの中に、何か重いものが混じる。
祈りとも、呪いともつかない気配。
石壁に刻まれた古い文字。
祭壇へ続く長い通路。
マダムは、そこにいた。
祭壇の前。
複雑な機材と、古い儀式の痕跡に囲まれている。
調整は続いているらしい。
古聖堂での襲撃、先生の負傷、式典の崩壊。
それらはすべて、計画の一部として処理されている。
マダムは振り返らずに言った。
「よく戻りましたね、ココノ」
その声を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
戻ってきた。
私はマダムのもとへ戻ってきた。
「はい」
私は頭を下げる。
「せんせいを、ころしました」
言葉にすると、吐き気がした。
マダムはゆっくりと振り返る。
「ええ。確認しています」
確認。
つまり、マダムは知っている。
私が先生を撃ったことを。
先生が倒れたことを。
その血が床に広がったことを。
「あなたのおかげで、私の計画はより完全なものとなりました」
マダムは言った。
「ありがとう、ココノ」
ありがとう。
ほめてもらえた。
わたしはやくめをはたした。
まだむにひつようとされた。
まだむのやくにたった。
なら、まちがいじゃない。
そうおもえば、息ができる。
「ありがたいお言葉です」
私は頭を下げた。
声は平坦だった。
平坦でなければ、崩れそうだった。
マダムは私をしばらく見ていた。
その視線は、褒めた者を見る目ではなかった。
何かを確認する目。
ひび割れた器の中身を覗くような目。
「ココノ」
「はい」
「あなたは、少し休みなさい」
「必要ありません」
反射的に答えていた。
「私は、次の任務に備えます」
「そうですか」
マダムは静かに言う。
「では、秤アツコが戻るまで待機していなさい」
「承知しました」
「余計なことは考えないように」
「はい」
余計なこと。
先生のこと。
補習授業部のこと。
アズサの手。
ヒフミさんの声。
コハルさんの解答用紙。
ハナコさんの笑み。
アビドスの砂。
シャーレの机。
チャーハンの味。
全部、余計なことだ。
考える必要はない。
私には役目がある。
それだけでいい。
私はもう一度頭を下げ、広間を出た。
メメは入口の近くに立っていた。
「終わった?」
「終わった」
「あそ」
それだけ言うと、メメは歩き出す。
私もその後を追う。
広間から離れたところで、メメがぽつりと言った。
「褒めてもらえてよかったね」
足が止まりそうになった。
私は何とか歩き続ける。
「そう、だね」
声が少し震えた。
「私は、役目を果たした」
「うん」
メメは前を見たまま頷く。
「ひどい顔」
「……何」
「そのままの意味」
私は自分の顔に触れた。
涙は出ていない。
少なくとも、泣いてはいない。
「鏡、見る?」
「必要ない」
「そ」
ひどい顔。
褒めてもらえたのに。
役目を果たしたのに。
マダムにありがとうと言われたのに。
私は、どんな顔をしているのだろう。
「メメ」
「何?」
「先生は」
そこまで言って、言葉が止まった。
聞いてはいけない。
先生が助かったか。
先生が死ぬのか。
ヒナが間に合ったのか。
そんなことを聞いてどうする。
私は先生を撃った側だ。
心配する資格なんてない。
メメは少しだけこちらを見る。
「知らない」
「……そう」
「でも、たぶん死んでないんじゃない?」
心臓が跳ねる。
「どうして」
「空崎ヒナがいた。救急の子たちもいた。先生ってしぶとそうだし」
「しぶとそう」
「うん。なんかそういう感じ」
あまりにも雑な言い方だった。
でも、少しだけ息ができた。
先生は死んでいないかもしれない。
そう思ってしまった。
そのことに、また苦しくなる。
死んでほしくないなら、撃たなければよかった。
助かってほしいなら、なんで。
「ココノ」
メメが言う。
「諦めな」
私はメメを見る。
彼女はいつもの軽い顔だった。
「そしたら、考えなくていいし、楽になる」
「……考えない」
「そう。今のココノには役目があるんでしょ」
「うん」
私は頷く。
「私には、役目がある」
役目。
それだけを握る。
先生の血の色も。
倒れた姿も。
自分の中に浮かんだ「褒めてもらえるかな」という思考も。
全部、見ない。
見ないために、役目を握る。
握りしめる。
待機室に戻った後、私は椅子に座った。
メメは少し離れた壁にもたれている。
「私はこれで戻るけど」
「うん」
「一人で大丈夫?」
「大丈夫」
「さっきと同じくらい信用できない返事」
「大丈夫」
「そ」
メメはそれ以上言わなかった。
扉の前まで歩き、少しだけ振り返る。
「ココノ」
「何なのよ」
「寝れるなら寝た方がいいよ」
「眠くない」
「だろうね」
メメは小さく笑った。
「でも、目閉じるくらいはしときな」
そう言って、部屋を出ていった。
静かになった。
今度こそ、一人。
私は椅子に座ったまま、手のひらを見る。
銃を握っていた手。
先生を撃った手。
指先には何も付いていない。
血もない。
汚れてもいない。
それなのに、ひどく汚れている気がした。
私は手を握る。
役目を果たした。
マダムは褒めてくれた。
私は間違っていない。
私は、マダムに必要とされている。
そう言い聞かせる。
何度も。
何度も。
……目を閉じると先生が倒れる姿が浮かぶ。
先生が私の名前を呼ぶ。
『ココノ』
その声が、耳の奥に残っている。
私は目を閉じられなかった。
役目。
役目。
役目。
それだけを繰り返す。
何も考えないために。
もう、何も考えたくなかった。