転生夢主は救済もコメディ路線で生きたい【完結済み】 作:yako
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―――ガリガリガリ
「……爪、無くなっちゃいますよ。景光くん」
背後から降ってきたその声に、肩が跳ねる。
過剰反応をしてしまった。
「っ……! ああ、ごめん。……夢主」
口元から慌てて指を離す。
指先は、すでに深爪の域を超え、赤く腫れ上がっていた。
「お茶飲みます?」
「うん……。いいよ、俺が入れる」
立ち上がる自分の背中がぎこちない。
関節の油が切れた操り人形のようだ。
今日はフロアに人が多いから落ち着かない。
廊下を革靴が踏みしめる音、電話のベル、誰かの怒鳴り声。そのすべてが、俺の鼓膜を針で刺すように刺激していた。あの「偽装人事事件」以来、俺は組織という巨大な機構そのものに、生理的な恐怖を抱いている。
横を通り過ぎる同僚の顔が、すべて意味深に見える。笑いかけてくる上司の言葉が、すべて「罠」に聞こえる。
「もうお昼休憩ですよね? ちょっとこっち来てください」
夢主が、腕を引いた。
逆らえない。彼女に引かれるまま給湯室を通り過ぎ
空き部屋のパイプ椅子に腰を下ろす。
夢主は俺の正面に座ると、小さなポーチを取り出した。
その所作は、血なまぐさい庁舎の中で、そこだけ別の時間が流れているかのように優雅で、浮世離れして見える。
彼女の整った指が俺のボロボロになった手を取り、自分の手の上にのせた。
「……見ないでくれ。汚いから」
「大丈夫。今から綺麗にするんですよ?」
夢主はいつものように、屈託なく笑う。
その笑顔は、かつて長野の河川敷で笑っていた幼馴染そのもので、今の俺にとっては唯一の「聖域」のようでもあった。
夢主は、ポーチからいくつか道具を取り出すと丁寧に俺の爪を整え始めた。
「深爪にささくれ、そこから菌が入るんです。公安がバイ菌に負けるなんて格好つきませんよ?」
「……子供扱い、しすぎだよ」
苦笑するが、うまく笑えた気がしない。
夢主の指先が触れるたび、そこから温かい電流が流れ込むような錯覚に陥る。彼女に触れられている間だけは、周囲の雑音が遠のいて、すべてが霞んでいく。
夢主は俺の傷ついた指先を消毒し、丁寧にヤスリをかけていく。
その間、彼女は小さく鼻歌を歌っていた。
魔法少女アニメの主題歌だろうか。
そのリズムに呼吸を合わせることで、ようやく「今ここにいる自分」を繋ぎ止めていた。
穏やかな時間に目を伏せるとすぐに意識の底に引き込まれる。
廊下の足音。
さっきの上司の視線。
笑顔の裏に隠れているかもしれない意図。
頭の奥で煮詰まった思考がじっとりと滲む。
(考えるな。今は、考えるな)
夢主の指先が、左手の小指に触れた。
細い筆が、静かに爪の上を滑る
その感触にふと、現実に引き戻された。
夢主が小さな瓶の蓋を閉めている。
視線を落とすと、自分の小指が、見慣れない色をしていた。艶やかな、鮮烈なピンク色。
荒れ果てた俺の手の中で、その一点だけが、光を放っている。
ハッと我に返り、目を見開いた。
「……ゆ、夢主!? これ、何……っ」
「ん、お守りです」
夢主は満足げに、俺の小指をひらひらと振って乾かした。
「お守りって、ピンク……! まさかコレ、君が使っている魔法少女のアイテム…? 何か、特殊な効果があるとか?」
俺は小指を凝視した。
そこに塗られた色の中で、キラキラと細かなラメが瞬く。
自分を監視するための発信機だろうか。あるいは、別の…
思考が、狂気へと加速する。
そんな俺の混乱をよそに、夢主はにこりと笑ってマニキュアを片付けた。
「ううん? 可愛いだけですけど?」
「……可愛い、だけ?」
呆然と呟いた。
そんなはずはない。
意味がないはずがない。
いつでも人を救い、萩原を救い、あの事件から俺を連れ戻した「魔法少女」が、意味のないことなどするはずがないのだ。
「そんなの……信じない…」
「そうですか?」
夢主が「可愛いだけなんですけどねぇ」と呟いている。
困らせたいわけじゃない…ただ何もかもが信じられない
「ごめん、夢主…俺....」
「そうですね、じゃあ『おまじない』です」
夢主が、俺の左手をそっと包み込んで
ポンポンとあやすように軽く叩く。
「この小指は今から私のものです」
「え?」
「え?じゃないです。だって私の色が付いてるんだから私の物です。景光くんに貸してます。レンタルです」
「どういう…事??」
「景光くん、これ以上傷つけちゃダメですよ」
「…………あ」
視界が熱くなった。
濁った思考の何もかもが霞んでいく。
「可愛いだけ」という言葉は、夢主にとって真実なのだろう。
彼女はただのいたずらで、本当にただの気まぐれで
俺に「自分という色彩」を塗りつけただけだ。
おまじないなんて…子供騙しで…なのに
小指のピンク色が、既に俺は彼女の所有物なのだと示す。
そんな些細なことが、どうしようもなく心の奥底に絡みついてしまった。警察組織を信じられないのに警察官を続ける俺の状態は歪だ。でも彼女と離れてしまうのが怖かった。
俺は……僕は……...
夢主が「お昼行きましょうか」と立ち上がる。
「あ…俺は…まだ仕事残ってて…キリが付いてから…コンビニ行くよ」
「わかりました。…後でね」
俺は一人、椅子に残された。
左手の小指を見つめる。
そこだけが、無機質な部屋の中で輝いている。
(可愛いだけ……)
その言葉を何度も反芻する。
嘘だ。
これは、俺を繋ぎ止める、世界で一番優しい鎖だ。
俺は震える右手で、その小指をそっと包み込んだ。
その夜、俺は自宅の洗面台で小指を見つめた。
マニキュアは規律違反だ。でも落とすのが惜しくて
結局俺はリムーバーを手に取ることはなかった。
そこには変わらずキラキラと鮮やかなピンク色がある
誰かに見られたら落とさないといけない。
隠さなければ。
これは誰にも見せてはならない。
これは俺と彼女だけの、秘密の「魔法」なのだから。
ベッドに入り、暗闇の中で左手を掲げる。
暗闇の中でも、そこにあって安心させてくれる。
窓の外では、東都の夜景が輝いていた。
平和な、けれどその裏側で誰かが死にゆく世界。
その中で、俺は久しぶりに、深い、深い眠りに落ちた。
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翌朝
警察庁のフロアは、いつも通りの無機質な活気に満ちていた。
朝から極度の緊張の中にいる。
左手の小指。
そこにある色が、まるで肌を焼く熱を持っているかのように意識されて仕方がない。俺は左手の指を折り曲げ、徹底的にその「秘密」を隠し通していた。
だが。
「……規律違反ですねぇ、景光くん?」
背後から、楽しげに弾んだ声が降ってきた。
思わず背筋が凍りつく。ゆっくりと振り返ると、そこには夢主が、これ以上ないほどの笑みを浮かべて立っていた。
「夢主……声が大きい」
「えー? だって、あの真面目な諸伏景光くんが! まさかの規律違反ですよ? マニキュア!ふふふ!しかもラメ入り!」
夢主は俺のそばに詰め寄ると、ニヤりとしながら俺の左手を指差した。
「コンビニにリムーバー売ってるのに、落とさなかったんですね」
顔が赤いのを自覚しつつ慌てて周囲に同僚がいないか確認する。
「しっ……! 頼むから。これは、君がお守りだって……」
「そうですよ? でも、客観的に見れば立派な不良職員です。あーあ、もしこれが見つかったら。……高明くんに叱られちゃいますねぇ?」
夢主が意地悪く囁いた瞬間、背後から聞こえてきたのは、穏やかで涼やかな声だった。
「――叱る? 誰が、誰をですか」
「っ、兄さん……!」
思わずが跳ね上がるように直立不動になる。
そこには、兄の高明がいつものポーカーフェイスで立っていた。その瞳は、弟が必死に隠そうとしている左手と、それを見て楽しそうに笑う夢主を、静かに、けれどすべてを見透かすように捉えている。
「あ、諸伏警視! 聞いてくださいよ、景光くんが規律違反してるんです」
夢主が楽しげにチクると、兄さんはふっと口角をわずかに上げた。
「……規律違反、ですか。いったい何をしでかしたんですか?景光は。」
「左手の小指、塗ってます。」
「ちょっっ!ちょっと夢主!?」
夢主が一瞬の隙をついて俺の左手を掴むと兄さんの前に差し出した。
「爪を噛まないでいられるおまじないです」
「そうですか。…きれいな色ですね。古事記にも『言霊の幸ふ国』とあります。言葉が力を持つように、その色彩が景光の心を調律しているのだとしたら……それは一種の『必要悪』と言えるのではないですか?」
「兄さん……怒らないのか?」
呆然とする俺を、兄さんがどこか慈しむような、それでいて悪戯っぽい目で見つめる。
「怒る? 滅相もない。……ただ、これほど美しい『魔法』を、弟が独占しているというのは、少々不公平だと感じているだけですよ」
兄さんは夢主の方へ一歩歩み寄ると、自らの左手を差し出した。
「夢主さん。景光がそれほどまでに必死に隠匿し、あなたがそれほどまでに愉快そうに眺めているその色……。私も一枚、噛ませていただけませんか? 時に些細な規律の逸脱が、人生の彩りになるのかもしれません」
「えっ! 高明くんも塗るんですか!? 大丈夫なんですか?」
「ふふふ。……隠し通してみせましょう。……我々は共犯です。私に相応しい『魔法』を期待しています」
「……! さすが、高明くん!」
夢主がさらにニヤリとしながら、差し出された指を品定めし始める。
兄さんでも夢主の魔法が必要なことがあるんだろうか?
俺はもうこの魔法を手放せない。たとえこの爪が剥がれたとしても、この色はもう俺に染みついてしまっている
「おまじない………」
誰かの目に触れたら消えてしまうかもしれない。
そんな小さな小さな魔法のかけらが俺を支えている
俺はすがるように小指を握り込んだ。
ーーー
「魔女! 貴様、い、い、加、減、にしろ!」
警視庁警備局のフロアに、零くんが現れたかと思ったら私のデスクに詰め寄る。その姿は最早恒例となっており、周囲の同僚たちは「またか」言いたげに遠巻きに眺めていた。
「イタタタタッタ痛い痛い!?何ですか!?握力考えてください」
「痛くしてるんだよ!お前のせいだ!」
零くんは歯ぎしりしながら喋るという器用な技を見せながら激しい勢いで捲し立てた。
「いいか、ヒロの小指!……あのマニキュア、もう完全に剥げているよな? 俺はこの目で、あいつが石鹸で手を洗っているところを確認した。爪は、至って健康な桜色だ!」
「そうですね。塗り直してないですから」
「だろうな! なのに、あいつの挙動は何だ! いまだに左手をポケットに突っ込むか、あるいは死守するように握り込んでいる。不審に思った同僚が怪我でもしたのかと尋ねた時の、あいつの反応を知っているか?」
私は首を傾げた
「なんて言ったんですか? 『魔法がかかってる』とか?」
「……『何でもない! 本当に、何でもないから!!』……と、顔を青ざめて否定しながら走り去ったそうだ。……それがどうなるかわかるか!」
「どうなります?」
「 警視庁の公安で噂になってるんだよ!『諸伏は、出向先で指をつめられた上に欠損の事実を口止めされているんだ』って…!!」
「あらら」
「あららじゃない!」