### 第二十一章:海賊の苦悩と、女神の抜け道
ホロライブのスタジオに向かう送迎車の中で、宝鐘マリンは分厚い「交際マニュアル(自作)」を広げ、隣に座るときのそらに向かって真剣な顔で力説していた。
「いいですか、そら先輩! 今日は他のホロメンもたくさん集まる全体収録です! 私たちの関係がバレるようなことは、絶対に、絶対に避けてくださいね!」
「うん、わかってるよ、マリンちゃん」
そらは、マリンの必死な様子をどこか楽しむような、ふんわりとした笑顔で頷いた。しかし、マリンはその笑顔に騙されてはいけないことを、ここ数週間の交際で嫌というほど学んでいた。
「わかってないです! そら先輩は息をするように匂わせをしてくるじゃないですか! だから今日は、特別ルールを設けます!」
マリンはマニュアルのページをバサッとめくり、咳払いを一つした。
「ルールその一! 『人前でのボディタッチ禁止』! 肩を組むのも、手を繋ぐのも、頭を撫でるのも、今日は一切ナシです!
ルールその二! 『見つめ合うのは三秒まで』! そら先輩、無意識に私のことじーっと見つめすぎなんです! 周りから『二人の世界に入ってる』って言われちゃうんですから!
ルールその三! 『過度な特別扱いの禁止』! 私にだけお菓子を多くあげたり、私にだけ『可愛いね』って言うのはダメです! わかりましたか!?」
息継ぎも忘れてまくしたてるマリン。彼女にとって、これは死活問題だった。
大先輩であるときのそらと交際しているなどという事実が公になれば、ホロライブ全体を揺るがす大ニュースになってしまう。なにより、そらの「清純派アイドル」としての完璧なブランドに傷をつけてしまうかもしれない。それだけは、マリンの海賊としてのプライド(と強火のそらファンとしての矜持)が絶対に許さなかったのだ。
一方のそらは、マリンの長口上をニコニコと聞き終えると、コテッと可愛らしく首を傾げた。
「えーっと……つまり、マリンちゃんは私に『冷たくしてほしい』ってこと?」
「ち、違います! 冷たくしろとは言ってません! 『普通に』接してほしいんです! ただの仲の良い先輩と後輩として!」
「うーん……難しいなぁ。だって、マリンちゃんのこと大好きなのに、それを隠さなきゃいけないんでしょ?」
「そこをなんとか! 船長の命がかかってるんですぅ!」
両手を合わせて懇願するマリンを見て、そらは小さく息を吐いた。
「……わかった。マリンちゃんがそこまで言うなら、今日は我慢するね」
「本当ですか!? よかったぁ……!」
マリンは安堵のあまり、シートに深く背中を預けた。
しかし、彼女は見落としていた。そらの瞳の奥に、獲物を狙うハンターのような、静かで熱い「独占欲」の炎がチロチロと燃えていることを。
(ボディタッチがダメなら、別の方法で『私のもの』ってアピールすればいいだけだもんね)
ときのそらは、決して諦めない女である。
彼女の純粋すぎる愛は、時にマリンの想像を遥かに超える形で暴走するのだ。
### 第二十二章:全体収録と、包囲網の形成
スタジオに到着すると、すでに多くのメンバーが集まり、和気藹々とした空気が流れていた。
マリンはそらからあえて少し距離を取り、同期のノエルやフレアたちの輪に混ざって談笑を始めた。
「あ、マリン。おはよう」
「おはようノエル団長! フレアも! 今日は気合い入れていきましょうね〜!」
いつも通りの明るいトーンで挨拶を交わす。
(よしよし、いい感じ。そら先輩もあっちでAちゃんと話してるし、このままいけば今日は何事もなく……)
「——あ、マリンちゃん。おはよう」
背後から、鼓膜を甘く撫でるような声が響いた。
ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには完璧なアイドルスマイルを浮かべたそらが立っていた。
「ひゃいっ!? お、おはようございます、そら大先輩!」
「ふふっ、そんなに硬くならないでよ。……ねえ、マリンちゃん」
そらは、マリンの顔をじっと見つめた。
一秒。二秒。三秒。
(ストップ! ルールその二、三秒経過しましたよ!?)
心の中で叫ぶマリンだが、そらは視線を外さない。それどころか、すっと手を伸ばしてきた。
(えっ!? 嘘!? ルールその一、ボディタッチ禁止って言ったばかりなのに!?)
マリンが身構えた瞬間、そらの手はマリンの頬……ではなく、マリンの首元へと向かった。
そして、マリンの着ていたブラウスの襟元を、指先でほんの少しだけ、チョイチョイと直したのだ。
「……襟、少し折れてたよ。これでよし、と」
「あ……あ、ありがとうございます……」
触れたのは、ほんの一瞬。しかも「服」に触れただけで、直接のボディタッチではない。
しかし、その仕草があまりにも自然で、あまりにも「甲斐甲斐しい彼女」のそれだったため、周囲の空気が一瞬にしてピタリと止まった。
「……ん?」
ノエルが、目をパチクリとさせて二人を見る。
「そら先輩……なんか今、すごく……距離感、バグってませんでした?」
フレアが、核心を突くようなツッコミを入れる。
「気のせい気のせい!! そら大先輩は後輩思いの女神だから! 襟を直すくらい朝飯前なんですよ!!」
マリンは必死に両手を振って誤魔化した。
そらは「触ってないよ? 服を直しただけだもん」と言わんばかりの涼しい顔で微笑んでいる。
(この人、ルールを逆手にとってギリギリを攻めてきやがった……!)
マリンは冷や汗を流しながら、今日の収録がとんでもなく長い戦いになることを確信した。
### 第二十三章:巧妙なマーキングと恐怖の水分補給
収録が始まり、カメラが回っている間は、さすがのそらもプロのアイドルとして完璧な立ち回りを見せていた。マリンもホッと胸を撫で下ろし、持ち前のトーク力で番組を盛り上げていく。
しかし、事件は休憩時間に起きた。
長時間の収録で喉が渇いたマリンは、スタジオの隅に置かれていた自分のペットボトルに手を伸ばした。マジックで『マリン』と書かれたスポーツドリンクだ。
キャップを開け、ゴクゴクと喉を鳴らして飲む。
「ぷはーっ! 疲れた体に染み渡るぅ〜!」
「美味しい? マリンちゃん」
「はい! やっぱり動いた後は……って、えっ?」
声のした方を振り向くと、すぐ隣にそらが立っていた。
そして、そらの手には、**マリンが今飲んでいたのと同じペットボトル**が握られていた。いや、違う。そらが持っているペットボトルには、マジックで『そら』と書かれている。
マリンは自分の手元を見た。
『そら』と書かれていた。
「…………え?」
「あ、ごめんねマリンちゃん。私、間違えてマリンちゃんのペットボトル飲んじゃったみたい。……だから、マリンちゃんも私の飲んじゃったね。ふふっ、間接キスになっちゃった」
そらは、頬に手を当てて「困ったなぁ」という顔をしているが、その瞳は全く困っていなかった。むしろ、いたずらが成功した子供のようにキラキラと輝いている。
(ま、ま、間違えるわけないでしょぉぉぉぉ!!)
マリンの心の絶叫がスタジオに木霊した(※幻聴)。
自分の名前がデカデカと書かれたペットボトルを、天下のときのそらが間違えるはずがない。これは明らかに、意図的なすり替え工作だ。
しかも、周囲には他のホロメンたちがゴロゴロいる。
「あれ〜? そら先輩とマリン、ペットボトル交換して飲んでるにぇ?」
さくらみこが、お菓子を齧りながらニヤニヤと近づいてきた。
「えっ、ほんとだ。……あれ? そら先輩って、そういうの気にするタイプじゃなかったでしたっけ?」
星街すいせいが、鋭い観察眼で首を傾げる。
「ちちちち違うんです!! これは事故!! 不慮の事故です!!」
マリンは真っ赤になってペットボトルをそらに突き返した。
「そら先輩、はい! お返しします!」
「えー? でも、もうマリンちゃんが口つけちゃったし……私、気にしないから、マリンちゃんがそのまま飲んでいいよ? 私はマリンちゃんのをもらうから」
そらは、自分の名前が書かれた(マリンが口をつけた)ペットボトルを両手で大切そうに胸に抱きしめ、トロンとした目でマリンを見つめた。
それはもう、完全に「愛する人の痕跡を愛おしむ女」の顔だった。
「〜〜〜〜っ!!!」
マリンは限界だった。これ以上ここにいたら、羞恥心で爆発してしまう。
「と、トイレ!! 船長トイレ行ってきます!!」
脱兎のごとくスタジオを飛び出していくマリンの後ろ姿を、そらは優雅に微笑みながら見送っていた。
「間接キス、嬉しかったな」と、誰にも聞こえない小さな声で呟きながら。
### 第二十四章:控え室の壁ドンと、女神の本当の素顔
トイレから戻る途中、誰もいない薄暗い廊下で、マリンは不意に腕を引かれた。
「ひゃっ!?」
そのまま空き部屋の控え室に引きずり込まれ、背中がドンッと壁に打ち付けられる。
目の前には、笑顔を消し、少しだけ冷ややかな、けれど酷く熱っぽい瞳をしたそらが立っていた。
いわゆる、壁ドンである。
「そ、そら……先輩……?」
「……マリンちゃん」
そらの声は、普段の配信よりもずっと低く、甘く、マリンの背筋をゾクゾクさせるような響きを持っていた。
「私のこと、そんなに避けたかった?」
「ち、違います! 避けてるんじゃなくて、隠さなきゃって……!」
「どうして隠すの?」
そらは、逃げ場を塞ぐようにマリンの顔の横に手をつき、じりじりと距離を詰めてきた。そらの甘い香りがマリンの鼻腔をくすぐり、思考回路がショートしそうになる。
「だって……そら先輩は、ホロライブの象徴で、清純派で……私みたいな、セクハラばっかりしてる海賊と付き合ってるなんてバレたら、絶対に変な目で見られます……! そら先輩に、迷惑をかけたくないんです!」
マリンの切実な訴え。それは、彼女なりの深い愛情と、自分に対する少しの自信の無さからくるものだった。
しかし、そらはその言葉を聞いて、小さくため息をついた。
「マリンちゃんは、本当にバカだなぁ」
「えっ……」
「清純派とか、象徴とか、そんなのどうでもいいよ。私が欲しいのは、そういう肩書きじゃなくて、マリンちゃんだけなのに」
そらの手が、壁から離れ、マリンの頬をそっと包み込んだ。
先ほどまでの冷ややかな瞳は消え、そこには海よりも深い、圧倒的な愛情が湛えられていた。
「私はね、マリンちゃんが可愛くて仕方ないの。マリンちゃんが私を好きでいてくれることが、嬉しくて仕方ないの。だから……みんなに自慢したいくらいなんだよ? 『この子は私のものだ』って」
「そ、そら先輩……」
「隠したいマリンちゃんの気持ちもわかる。でも……私を、ただの『先輩』扱いしないで。私だって、好きな人には独占欲、湧くんだからね」
そう言うと、そらはマリンの唇に、甘く、少しだけ強引なキスを落とした。
「んっ……ぁ……」
抵抗することなどできるはずもなく、マリンはそらの腕の中で、ただその熱を受け入れることしかできなかった。
息が苦しくなって唇が離れた後、そらはマリンの耳元に唇を寄せ、とどめを刺すように囁いた。
「後半の収録、もしまた私を避けようとしたら……今度はカメラの前で、キスしちゃうからね?」
「……っっっ!!!」
それは、ホロライブの女神から発せられた、世界一甘くて恐ろしい脅迫だった。
### 第二十五章:首輪の代わりのリング、そして続く日常
結局、その後の収録でマリンがどうなったかは言うまでもない。
「カメラの前でキスされる」という恐怖(と、少しの期待)に怯えたマリンは、そらから近づいてきても一切逃げることができず、終始そらの隣で顔を真っ赤にしてモジモジし続けるという、前代未聞の「借りてきた海賊」状態を全世界に晒すことになった。
収録後。
すっかり疲労困憊で控え室のソファに沈み込んでいるマリンの隣に、そらが機嫌良さそうに座った。
「お疲れ様、マリンちゃん。後半は素直でいい子だったね」
「……そら先輩の、ドS……」
「ふふっ。はい、これ、今日ご褒美に渡そうと思ってたの」
そらが小さな箱を取り出し、パカッと開ける。
中に入っていたのは、シンプルなデザインのシルバーリングが二つだった。
「これ……」
「お揃いの指輪。本当は左手の薬指にはめてほしいけど……さすがにそれはマリンちゃんが嫌がるだろうから」
そらはマリンの右手を取り、その小指にリングをそっとはめた。
「ピンキーリングなら、アクセサリー感覚で誤魔化せるでしょ? 私もつけるから」
そらは自分の右手の小指にも、同じリングをはめた。
キラリと光るお揃いの銀色。それは、誰の目にもつかないような小さなものだけれど、二人の間にある確かな「繋がり」の証だった。
「……これなら、文句ない?」
上目遣いで尋ねてくるそらに、マリンは完全に白旗を揚げるしかなかった。
「……ずるいです。そら先輩は、本当に……」
マリンは自分の小指にはまったリングを見つめ、それから、たまらなく愛おしそうにそらの肩に頭を預けた。
「……ありがとうございます。大切に、します」
「うん。……あ、でもね、マリンちゃん」
「はい?」
「明日の私のソロ配信、手元を映すカメラがあるから、この指輪、バッチリ映っちゃうかも」
「…………はい?」
「リスナーさん、気づくかなぁ? 『あれ、マリンちゃんが昨日つけてたのと同じじゃない?』って。ふふふっ、楽しみだな」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください! 隠すためのピンキーリングじゃないんですか!? そら先輩!? 確信犯ですか!? 匂わせ通り越して直球じゃないですかーーーっ!!!」
控え室に響き渡る海賊の悲鳴をBGMに、女神は満足そうに微笑んでいた。
関係を隠したいポンコツ海賊と、独占欲を隠さない完璧な女神。
矛盾する二人の想いが交差する奇妙で甘い日常は、これからも、ホロライブの裏側でドタバタと、そしてどこまでも幸せに続いていくのだった。