大修道院の朝は、いつだって神聖な静寂とともに始まる。
大聖堂のステンドグラスから差し込む五色の光が、石畳の廊下を厳かに照らし、修道士たちの祈りの声が朝霧の中に溶けていく。だが、そんなフォドラの歴史が紡いできた厳粛な美しさも、今の俺――金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の平穏を何よりも愛するモブ生徒マイルズにとっては、迫り来る胃痛のカウントダウンでしかなかった。
「……お願いだから、今日という一日を何もせずに終えさせてくれ」
自室の木製ベッドの端に腰掛け、俺は祈るような気持ちで宿舎の天井を見上げていた。
昨日、テラスで行われたクロードとの「疑惑のお茶会」は、ある種の見事な大爆死を遂げた。
俺の【話術・欺瞞:S】が勝手に暴走した結果、ただの能力バグ持ちの凡人にすぎない俺が、なぜか
『強大すぎる力を隠して生きる、亡国の超大物元暗殺者』
という、中二病全開のギガ重バックボーンを背負った謎の男としてクロードの中に登録されてしまったのだ。
あの卓上の欺瞞者が、最後に俺の肩を叩いて見せた
「お互い裏の事情はあるよな。これ以上は突っ込まないでおいてやるよ」という親愛の情を込めた苦笑いが、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
(違うんだクロード。俺の裏にあるのは、国家転覆の陰謀じゃなくて、前世のゲーム知識とクソバグ仕様だけなんだ……!)
さらに、お茶会の最後に目撃した、あの真っ赤な衣装の旅行商人アンナさんの馬車。
彼女の到来は、ゲームの世界においては「面倒なクエスト」か「怪しい珍品」の代名詞だ。ただでさえ、理学、隠密、剣術、弓術、料理、そして話術に至るまで、触れるものすべてを『神業(バグ)』へと変えてしまう俺である。
アンナさんの持ってきた怪しい骨董品や調達任務に関われば、今度こそ大司教レア様に物理的に蒸発させられる危険性がある。
「よし、決めた。今日は休日だ。とにかく人と関わらない。アンナさんのいる市場の周辺には絶対に近づかない。クラスの連中とも距離を置き、中庭の隅っこで、ぼんやりと空を眺めて時間を潰そう。それなら完璧に空気になれるはずだ!」
自分の完璧な引きこもり(現実逃避)計画に満足した俺は、制服の襟を正し、ポケットに最低限の小銭だけを押し込んで部屋を飛び出した。
今日こそは、ただの景色(モブ)として、ガルグ=マクの一日をやり過ごして見せる――その固い決意が、わずか数時間後に木っ端微塵に打ち砕かれるとは、この時の俺は微塵も思っていなかった。
午前11時。大修道院の中庭は、初夏の柔らかな日差しに包まれていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、中央にある大理石の噴水からは心地よい水音が響いている。
俺は計画通り、中庭の片隅、普段はあまり人が通らない大きな木陰のベンチに腰掛け、完璧な「通行人A」のオーラを放っていた。
だが、運命というやつは、俺が平穏を望めば望むほど、最も濃い人間関係を目の前に用意してくれるらしい。
「いいかね、イグナーツ! 我がリーガン家と並ぶ同盟の名門、グロスタール家の嫡子たる私の、この洗練された気品! そして、初夏の陽光を浴びて輝く高貴な髪のラインを、その筆で見事に表現してみせたまえ!」
「あ、あはは……。ローレンツくん、気持ちはすごくよく分かるんだけど……そんなに頻繁に首の角度を変えられちゃうと、全体の線がブレちゃうよ……」
すぐ近くにある大理石のガゼボ(東屋)の周辺から、やけに格式張った、耳に馴染みすぎている声が聞こえてきた。
見れば、紫色の髪を完璧に非対称に切り揃えたローレンツ・ヘルマン・グロスタールが、一輪の真紅の薔薇を片手に、胸を張ってポーズを決めている。そしてその数歩先では、眼鏡を指で押し上げながら、大きなキャンバスと格闘しているイグナーツ・ヴィクターの姿があった。
どうやらローレンツは、休日を利用してイグナーツに
「己の高貴なる肖像画」を描かせているらしい。
(うわ、関わりたくない二大巨頭が揃ってるな……。静かに、音を立てずにこの場を離脱しよう)
俺がベンチから腰を浮かせ、半歩後ろに下がった、その瞬間だった。
ガサリ
と靴が枯れ葉を踏んだわずかな音を、眼鏡の奥の鋭い色彩感覚を持つイグナーツが聞き咎めた。
「あ、マイルズくん! ちょうどいいところに!」
「ひぇっ!?」
イグナーツが地獄からの救い主を見つけたかのような顔で、こちらに激しく手を振った。
「マイルズくん、ちょっと助けてくれないかい? ローレンツくんの衣服の、このグロスタール家伝統の刺繍部分のシワと、そこに落ちる影の表現が上手くいかなくて……。もしよかったら、第三者の客観的な意見として、少しアドバイスをくれないかな?」
(アドバイス!? 冗談じゃない、俺は絵なんて義務教育の美術の時間に落書きした程度だぞ!)
「いやいや、イグナーツくん。俺は絵心なんてさっぱりだし、下級貴族だから名門の衣服のシワなんて高尚なものは分からないよ。ほら、『うーん、なんかすごく格式高くて格好いいんじゃない?』とだけ言っておくよ。じゃあ俺はこれで――」
「いや、待ちたまえ、マイルズくん」
今度はポーズを決めたままのローレンツが、首だけをこちらに向けて声をかけてきた。
「君は謙遜がすぎるな。昨晩の厨房での、あの計算され尽くした料理の盛り付け……
あれは、色彩と配置のバランスを完璧に理解している者にしかできない芸だ。グロスタール家の人間として、広く意見を求めるのは吝かではない。さあ、遠慮せずにイグナーツの筆を取り、君の視点を示してみるがいい!」
「えっ、筆を取るって、それはイグナーツくんの作品だし――」
「いいんだよ、マイルズくん! むしろ僕、君がどういう風に光を見てるのか、すごく興味があるんだ。ちょっとだけでいいから、試してみてよ!」
イグナーツが半ば強引に、俺の右手に絵の具のついた筆と、木製のパレットを握らせてきた。
(いや、本当にやめろって! 俺が適当に描いたら、ローレンツの顔がジャガイモみたいになって、名門のプライドを傷つけて大問題になるだろ……!)
俺は冷や汗を流しながら、キャンバスの前に立たされた。
よし、ここは凡人らしく、ちょっと不器用そうに筆を震わせ、わざと線を歪ませて
「あ、ごめん、手が滑っちゃった。やっぱり俺には無理だわ!」と、速やかにパレットを返そう。
そう心に誓い、筆の先を、ローレンツの衣服が描かれたキャンバスへと近づけた。
その瞬間だった。
ピコン。
頭脳の奥底が凍りつくような、あの冷徹で、無慈悲なシステムアラートが脳裏に響き渡った。
【芸術・絵画:S(潜在)】
【空間把握・色彩構成:S(潜在)】
【限界突破:常時発動】
(嘘だろぉぉぉ!? 美術系スキルまで網羅してるのか、この肉体は!!)
俺の心の中の絶叫は、一ミリも現実の挙動には反映されなかった。
筆を持った俺の右腕が、突如として人間業とは思えない滑らかさと速度で、駆動を始めた。
脳内には、中庭の太陽光がローレンツの紫髪に反射する際の正確な波長、ベルベット生地の繊維が光を吸収・散乱させる仕組み、そしてフォドラの絵画史において『光の魔術』と称された古典技法のすべてが、完璧な三次元の設計図としてフラッシュバックしていた。
「ちょっと、失礼するよ」
俺の口から、自分でも驚くほど落ち着いた、熟練の巨匠のような声が漏れ出た。
次の瞬間、俺の右手は残像を残しながら、パレットの上の絵の具をマッハの速度で混色し始めた。白、青、紫、そしてわずかな黄色。一分の狂いもない、完全に『布地の影』を再現するためだけの奇跡の色彩が、筆の先に生み出される。
――シュババババババババババッ!!!
「え、ええええっ!? マイルズくん!?」
イグナーツが叫び、後ろに飛び退いた。
俺の意思とは裏腹に、筆先がキャンバスの上を猛烈な速度で躍動していた。それはもはや絵を描くというより、キャンバスの上に光と影の魔法を定着させていくような、神聖な儀式に近かった。
衣服のシワ。
ただの布の折り目のはずが、俺の筆が走るたびに、まるで本物の絹織物がそこに存在しているかのような、圧倒的な立体感と量感を持って描き出されていく。
さらに、潜在能力Sはローレンツの背景にあるガゼボの柱、大理石の質感、そして彼が持つ薔薇の花弁に滴る朝露の屈折光までも、前世の写真技術を超えるレベルの圧倒的なリアリティで描写していった。
わずか3分。
俺の右腕の暴走がピタリと止まり、筆がまな板――ではなく、パレットの上へと戻された。
キャンバスの上に現れたのは、光の魔術すら宿っているかのような、神々しいまでのローレンツ・フォン・グロスタールの姿だった。それは、彼の持つ気品を三倍増しにしつつ、同盟の未来を背負う若き貴族としての高潔さを極限まで高めた、美術の教科書に載るレベルの歴史的傑作だった。
「……な、なんだねこれは……っ!?」
ポーズを崩したローレンツが、キャンバスを凝視したまま、激しく身体を震わせた。驚きのあまり、彼の指先から一輪の薔薇がポロリと地面に落ちる。
「この……光の深み、そして私という高貴な存在の魂の本質を完全に捉えた筆捌き……! マイルズくん、君はまさか、帝国や王国の宮廷画家に師事していた、いや、隠れて世界的な名画の修復でも行っていたのかね!?」
「い、いやいやローレンツくん! 違うんだ! 実家が本当に貧乏でさ、家の壁に大きなシミがあったから、それを隠すために、毎日適当にそこらの泥や木の実の汁を塗って誤魔化してたんだ! その時の、泥遊びの延長というか、ただの偶然なんだよ!」
「泥遊びでレアティズ派の古典技法と、光の空気遠近法を同時に再現できるわけがないだろうーっ!!」
イグナーツが、普段の彼からは想像もつかないような、裏返った大声で鋭いツッコミを入れてきた。彼の眼鏡が、驚愕のあまり完全に鼻の頭までずり落ちている。
「マイルズくん、君のこの光の捉え方、そして迷いのない線の引き方……。僕、感動を通り越して、自分が今まで血の滲むような思いでデッサンしてきた時間が何だったのか、分からなくなって、ちょっと恥ずかしくなってきたよ……!」
(違うんだイグナーツ! お前の繊細で純粋な芸術魂を傷つけるつもりなんて、俺には毛頭なかったんだ! 頼むからそんな目で俺を見ないでくれ!!)
「いや、素晴らしい! 素晴らしいぞマイルズくん! グロスタール家は、真の芸術を正当に評価する義務がある。
今すぐ我が領地の御用絵師として契約を結びたいレベルだ!」
「結構です! 俺はただのモブなので、契約とかは本当に勘弁してください!」
俺はパレットと筆をイグナーツの手に無理やり押し戻すと、「お疲れ様でしたー!」と叫んで、脱兎のごとく中庭のガゼボから逃げ出した。
背後から「待ちたまえマイルズくん! まだ私の背景の薔薇園の描写について議論が――!」
というローレンツの高らかな声が追いかけてきたが、絶対に振り返らなかった。
午後14時。中庭での芸術テロ(やらかし)から逃げ延び、完全に体力を消耗した俺は、大修道院の敷地内をあてもなく彷徨っていた。
(もうダメだ……中庭は危険すぎる。今度こそ、誰もいない温室の裏手かどこかで、完全に植物と同化して過ごそう……)
そう思い、ガラス張りの巨大な温室の前にたどり着いた時、俺はまたしても、運命の女神(クソバグ仕様)が用意した次のイベントに遭遇してしまった。
温室の前の木製ベンチ。そこには、金鹿の学級の誇る、これまた極端な二人の同級生がいた。
一人は、どこか物憂げな表情でうつむき、手のひらの上に小さな小鳥を乗せて、消え入りそうな声で囁いているマリアンヌ・フォン・エドマンド。
そしてもう一人は、その隣で退屈そうに髪を指でくるくると弄びながら、可愛い笑顔を浮かべているヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルだった。
「……あ、あの、マイルズさん……。こんにちは……」
マリアンヌが、俺の気配に気づいて、怯えるように肩をすくめながらも、か細い声で挨拶をしてくれた。
「あ、マリアンヌさん。こんにちは。……と、ヒルダさんも」
「あ、マイルズく〜ん! ちょうど良いところに!」
ヒルダが俺の姿を認めた瞬間、その目が完全に
「都合のいいおねだり対象」の形へと変化した。
彼女はフワリとした動作でベンチから立ち上がると、俺の元へと駆け寄り、俺の両手を自分の小さな両手で包み込んだ。
上目遣いの、完璧な計算に基づいた美少女のポーズだ。
「あのね、あのね? 温室の奥にある、すっごく重いテラコッタのプランターを動かしたいんだけど、私、かよわい女の子だから、そんなの持ったら腕の筋肉が痛くなっちゃいそーで……。
マイルズくん、男の子だし、ちょっとだけ手伝ってくれないかな〜?」
(これだ。これだよ、これ!)
俺の心の中に、一筋の希望の光が差し込んだ。
ヒルダに都合よく使われる、名前も名乗らせてもらえないような、便利屋のモブ生徒。これこそが、俺が士官学校で送るべきだった、正しい学園生活のスタンスではないか。力仕事を手伝って、「ありがとう、助かったよ〜」と言われて終わる。
そこには何の疑惑も、天才の称号も生まれない。
「いいよ、それくらい。お安い御用さ。どこに運べばいいんだい?」
「わあ、嬉しい! さすがマイルズくん、話がわかる〜!」
ヒルダに案内されて温室の中へと入ると、そこには、湿った土がこれでもかと詰め込まれた、直径一メートルはあろうかという巨大な素焼きのプランターが鎮座していた。大人の兵士が3人がかりで、顔を真っ赤にして引きずるレベルの、明らかな超重量物だ。
(よし、ここはモブらしく、誇張気味に『うわ、重っ!? これ無理だよ、ヒルダさん!』とか言って、顔を真っ赤にしながら必死に数センチだけ動かして、『ごめん、これが限界だわ……』と情けなく笑おう。それで完璧な凡人の証明だ!)
俺はプランターのザラザラとした縁に、両手をかけた。
その瞬間。
ピコン。
【格闘・怪力制御:S(潜在)】
【身体連動・脱力応用:S(潜在)】
【限界突破:常時発動】
(アッ、ハイ。知ってました。知ってましたよ畜生ォォォ!!)
脳内アラートと同時に、俺の骨格と筋肉が、地球の重力を完全に無視するための『完全なる重量分散・最適化フォーム』を強制的に形成した。足の裏から骨盤、脊椎を経て両腕へと、一切の無駄なく力が伝達される。
「よっと」
俺は、生真面目な、何の気負いもない顔のまま、その超重量プランターを、まるで中身が空っぽの軽い段ボール箱でも持ち上げるかのように、ひょいっと地面から浮かせた。
ギックリ腰の気配すら一切見せず、腕の筋肉を膨らませることもなく、軽々とそれを抱え上げると、指定された温室の隅の位置まで、滑らかな足取りで歩いていく。
そして、地面に傷一つ、音一つ立てずに、トン、と静かに置いた。
「……え?」
後ろで見守っていたヒルダの、完璧に計算された可愛い笑顔が、恐怖のあまり完全に凍りついていた。
「マ、マイルズくん……? 今の、ウチの学級のラファエルが『うおおおお! 筋肉がちぎれるーーー!』って叫びながら、顔を般若みたいにして運ぶやつなんだけど……。君、そんな細身のわりに、服の下はとんでもない鋼鉄の筋肉ダルマなの……?」
「ち、違うんだヒルダさん! 誤解だ! 実家が、本当に貧乏でさ! 毎日、山から転がり落ちてくる巨大な丸太とか、野生の暴れイノシシと、力比べの引っ張り合いをさせられてたんだ! だから、なんか重さの感覚がちょっと麻痺してるだけで、筋肉とかは全然ないんだよ!」
「イノシシと丸太の引っ張り合いで、人間の骨格が耐えられるわけないじゃん……。怖っ、マイルズくん、実は怒らせたら一番ヤバいタイプの人……?」
ヒルダが本気で引き気味に半歩下がった。便利屋モブとしての評価を得るはずが、ただの『隠れ怪力モンスター』として恐れられる結果になってしまった。
「……あの、マイルズさん」
その時、温室の入り口の方から、マリアンヌが消え入りそうな、だけどどこか切実な声をかけてきた。
ふと見れば、彼女の手のひらにいたはずの小さな小鳥が、なぜか温室の中へとパタパタと飛び込んできて、俺の頭のてっぺんや、肩、さらには差し出した指の上に、我が家のような顔でちょこんと止まったのだ。
それだけではない。温室の天窓から、さらに二羽、三羽と野生の小鳥たちが舞い降りてきて、俺の周囲をまるで森の王を迎えるかのように親密にさえずりながら飛び回り始めた。
【動物共鳴・調教術:S(潜在)】
【聖者の波動:常時発動】
(おいやめろ小鳥たち! 俺の頭を巣にするな! 俺の体から出てるのは、聖者の波動じゃなくて、バグ能力の残滓なんだって!!)
マリアンヌは、自分の手のひらから離れて俺に群がる小鳥たちを見つめ、その物憂げな瞳の奥に、深い、深い尊敬と、どこか救いを見出したかのような光を宿らせていた。
「……動物たちは、心が本当に清らかな人や、圧倒的な『自然の強者』にしか、そんな風に自分から近づかないのです……。マイルズさんは、普段は目立たないようにされていますが、やっぱり、神様から特別な祝福を受けた、とても、とてもお優しいお方なのですね……」
「マリアンヌさん、それは本当に、100%以上の誤解です! 俺の心は泥のように汚れてますし、ただ鳥の餌みたいな匂いが制服からしてるだけなんです!」
頭の上の小鳥を優しく指で払いながら、俺は涙目で引きつった笑いを浮かべるしかなかった。温室の裏手で植物と同化する計画は、怪力と聖者スキルの同時暴走によって、完全なる大失敗に終わったのだった。
午後5時。夕暮れの宿舎前。
中庭での芸術テロ、温室での怪力&ムツゴロウさん状態を経て、俺の精神的ライフポイントはすでにゼロを下回っていた。
(もういい。今日は部屋に鍵をかけて、明日まで一歩も出ない。誰が何と言おうと、俺はただの死体になるんだ……)
そう思い、宿舎の階段を登ろうとした、その時。
後ろから、地響きのような凄まじい足音が迫ってきた。
「おおおーい! マイルズーーーッ!!」
ドスドスと地面を揺らしながら走ってきたのは、金鹿の肉体担当、ラファエル・クラスタだった。
彼の巨体が夕日に照らされ、もの凄い質量感を持って俺の前に立ち塞がる。
「ラ、ラファエルくん……。こんばんは。俺、今から部屋で深刻な睡眠をとる予定が――」
「レオニーから聞いたぞ! お前、物資置き場で弓を使って、矢を真っ二つに裂いたんだってな! しかもさっきヒルダからも連絡があって、温室の超重いプランターを片手でひょいっと運んだって聞いたぞ! お前、そんなにすっげえ筋肉を隠してたのか!?」
「ラファエルくん、違うんだ。あれは筋肉じゃなくて、骨格の連動とテコの原理がたまたま噛み合っただけで、俺自身の力は本当にモブレベルで――」
「ガハハ! 言い訳はいらねえ! 挨拶代わりだ、男なら体で語り合おうぜ!!」
ラファエルが豪快に笑いながら、丸太のような両腕を広げ、俺にベアハッグ(鯖折り)をかまそうと、猛烈な勢いで突っ込んできた。体重は俺の倍近くある。まともに食らえば、背骨がへし折れて、保健室のマヌエラ先生のお世話になるのは確実だ。
【格闘・対捕縛体術:S(潜在)】
【柔能く剛を制す・合気:常時発動】
(うわあああ! 防衛本能で肉体が勝手に最適解のカウンターを選んじゃう!!)
ラファエルの巨体が、俺の胸元に触れた、その瞬間。
俺の肉体は完全に脱力した。彼の凄まじい突進のパワーを、俺の体は一切反発することなく受け流し、むしろその前進するエネルギーをそのまま利用して、滑らかな円の動きで彼の重心を上空へと導いた。
フワリ、と。
ラファエルの巨体が、一瞬、重力を失ったかのように宙に浮いた。
ズシーン!!!
大修道院の地面が激しく揺れ、ラファエルが綺麗に背中から、宿舎前の芝生の上へとひっくり返った。一分の無駄もない、完璧な一本背負い(合気バージョン)だった。
「……痛てて。うお、すっげえ! 今、オレ、何が起きたんだ!? 完全に宙に浮いたぞ!?」
ラファエルは痛がるどころか、その顔をこれ以上ないほど輝かせ、がばっと起き上がった。
「マイルズ、お前やっぱり最高だ! 飯はめちゃくちゃ美味いものを作るし、弓もできるし、力もあるし、その上、オレを簡単に投げる技まである! お前、オレの生涯の『相棒(ブラザー)』になってくれ!!」
「いや、俺はただの通りすがりのモブで、ブラザーとかそういう重い関係は本当に求めてなくて――」
「おやおや。夕暮れ時に、ずいぶんと盛り上がってるところに悪いねぇ」
宿舎の影から、いつの間にか腕を組んだクロードが、ニヤニヤと最高に楽しげな笑みを浮かべながら歩いてきた。
しかも、彼の後ろからは、ノートを手にしたリシテア、弓を肩にかけたレオニー、さらには今さっき描き上げたばかりの肖像画を大事そうに抱えたイグナーツと、一輪の薔薇を耳に挟んだローレンツまで揃って現れたのだ。
「ク、クロードさん……なんで、みんな揃ってここにいるんですか……」
俺の顔から、完全に血の気が引いた。
「いやさ、お前が『目立ちたくない』って部屋に引きこもろうとするからさ。級長として、みんなから届くお前の『今日のやらかし報告』をまとめてたんだよ」
クロードは琥珀色の瞳をギラギラと光らせ、俺の前に立った。
「イグナーツとローレンツからは、宮廷画家の神画を超えた肖像画を描いたって報告。ヒルダとマリアンヌからは、ラファエル並みの怪力でプランターを運び、聖者並みに小鳥と会話してたって報告。で、目の前では、そのラファエルを技一つで投げ飛ばした、だろ?」
クロードは一歩、俺に近づき、その肩にガシッと腕を回した。
「マイルズ。お前さ、昨日のお茶会で『強大すぎる力が周囲を狂わせるから、静かに生きたい』なんて悲劇の主人公みたいなこと言ってた割には……やってることが全然モブじゃないし、一日で金鹿の全員を虜(とりこ)にしちまってるぜ?」
「そ、そうですよ! あなた、昨日の料理といい、今日の絵画といい、何かおかしな禁術を使っています! 私がこれから毎日、あなたの隣で徹底的に監視して、その秘密を暴いてあげますから!」
リシテアが真っ赤な顔で、調査ノートをパチンと叩いた。
「おう、明日の早朝の弓の特訓、ラファエルとローレンツも強制参加な! マイルズ、たっぷり可愛がってやるよ!」
レオニーが不敵に笑いながら、弓の弦をペシッと鳴らす。
「我がグロスタール家は、君という不世出の芸術家、そして武人を放っておくわけにはいかないからね。明日からは、私の高貴なる日常のすべてを君にスケッチしてもらうよ!」
ローレンツが薔薇を掲げて宣言する。
(終わった。好感度を平均値にして空気にするどころか、金鹿の学級の『絆(逃げ場のない包囲網)』が、完璧に、完全な形で完成しちまった……!!)
宿舎前の芝生の上。夕日に照らされながら、俺は金鹿の仲間たちにガッチリと中心に取り囲まれ、完全にロックオンされていた。
「頼むから……みんな、俺のことは忘れて、ただの背景だと思ってくれ……」
俺の切実な絶叫は、
ラファエルの「ガハハ! 明日の朝飯も楽しみだな、ブラザー!」という豪快な笑い声にかき消され、ガルグ=マクの夕空へと虚しく響き渡るのだった。
このクラス、のんびりしてるどころか、一度目を付けられたら底なし沼のように逃げられない、フォドラで最も熱くて恐ろしい魔境だった。
なぜだろう…ラファエルが某呪術のあいつに見えてきた(震え