学園生活を満喫したいだけのモブ(チート)   作:ハスバル

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第10章:波乱の市場、真っ赤な商人と不可思議な依頼

ガルグ=マク大修道院の朝を告げる鐘の音は、フォドラで最も厳かで、最も慈悲深い響きを持っているはずだった。

 

標高の高いフォドラの山脈を白く包み込む朝霧を切り裂き、大聖堂の鋭い尖塔から響き渡るその音は、地上の迷える子羊たちに神の祝福を告げる福音の調べ。

 

だが、今朝の俺――金鹿の学級に籍を置く、平穏と目立たないことを人生の至上命題とするモブ生徒マイルズにとっては、その鐘の音は、己の破滅へと向かう不吉なカウントダウンにしか聞こえなかった。

 

「……なぁ、神様。俺、前世で何かフォドラの存亡に関わるような極悪非道な大罪でも犯しましたかね?」

 

自室の簡素な木製ベッドの上で、俺は天井の木目をじっと見つめながら、深いため息をついた。

窓から差し込む朝日は眩しく、小鳥たちのさえずりも心地よい。本来なら、貴族や各地の英傑が集う士官学校という最高峰の環境で、ちょっとした青春を謳歌していてもおかしくない、完璧な休日の始まりだ。

だが、俺の現状は「最高峰の泥沼」のど真ん中にあった。

一昨日の夜。俺はただ、宿舎の食堂の厨房が余りにもまずい飯を出してくることに耐えかねて、自分用に『至高の白身魚のソテー』を、前世の記憶を頼りにちょっと真面目に作っただけだった。

 

それが運の尽き。俺の肉体に宿るクソバグ仕様――あらゆる技術の頂点へと自動的に補正をかける

【各種潜在能力:S】と、その出力を限界まで引き上げる

【限界突破:常時発動】が、単なる家庭料理の枠を飛び越え、宮廷最高峰の料理長が失神するレベルの神業(バグ成果物)を出力してしまったのだ。

 

その匂いに釣られてやってきたリシテア、レオニー、ラファエルに料理を強奪されただけでなく、金鹿の級長であり「卓上の欺瞞者」と呼ばれるあのクロード・フォン・リーガンにまで目を付けられる羽目になった。

 

そして昨日の「疑惑のお茶会」。

クロードの疑いの目を反らし、なんとか「ちょっと器用なだけの凡人」として逃げ切ろうと、俺は自分の持つ【話術・欺瞞:S】をフル稼働させて言い訳を試みた。

 

結果、どうなったか。

 

能力が高度に暴走した結果、俺の放った何気ない言い訳は、**『強大すぎる己の暗殺能力と魔力に絶望し、過去に数多の凄惨な血の雨を降らせた末に、身分を隠して教団の闇に潜む、亡国の元特級暗殺者』**という、前世のライトノベルでもお目にかかれないほどに重厚でシリアスな中二病バックボーンへと脳内変換されてクロードに届いてしまったのだ。

 

あの男が、最後に俺の肩を叩いて見せた、あの「すべてを察した、深みのある、そして強い信頼を湛えた苦笑い」を思い出すだけで、俺の胃壁は文字通りきりきりと音を立てて削れていく。

 

(違うんだよクロード。俺の裏にあるのは、国家転覆の陰謀でもなければ、教団の禁忌の人体実験の被害でもない。ただのシステムの暴走なんだ……!)

 

さらに追い打ちをかけるように、昨日の午後には中庭でイグナーツとローレンツに捕まり、美術の古典技法を完璧に再現した歴史的傑作の肖像画を描き上げ、温室ではヒルダとマリアンヌの目の前で、ラファエルすら顔を真っ赤にする超重量テラコッタプランターを羽毛のように軽々と持ち上げ、周囲の野生の小鳥たちを聖者の如き波動で呼び寄せてしまった。

 

夕方には、力比べを挑んできたラファエルを、一分の無駄もない完璧な合気の一本背負いで芝生に沈めた。

 

その結果、金鹿の学級の面々の中で、俺の評価は

「影の薄いクラスメイト」から、→「普段は無能を装っているが、あらゆる武芸、芸術、料理、そして裏の技術を極めた、底の知れない最強のワケあり超人」

 

という、神格化された絶対的なポジションへと完全に固定されてしまった。

 

おかげで、昨晩から今朝にかけての俺のタイムスケジュールは狂気に満ちていた。

 

深夜にはリシテアが

「マイルズ、あなたの筋肉の連動と魔力の相関関係についての推論がまとまりました。今すぐ査読しなさい」

と部屋のドアを叩き、夜明け前にはレオニーとラファエルに

「よお! 朝練の時間だぞ!」と物理的に

ベッドから引きずり出されて大修道院の外周を何十周も走らされ

 

午前中にはローレンツから

「真の貴族が身に付けるべき、薔薇の香気と視線の角度の親和性」について熱い講義をマンツーマンで受ける羽目になったのだ。

 

「もう嫌だ。このままだと、俺、士官学校を卒業する前に精神が崩壊するか、筋肉の過剰な超回復で別の生き物になっちまう……」

 

俺は制服の襟を正し、深く、深く、本日何度目か分からないため息をついた。

幸いにして、今は昼過ぎ。クラスの連中も、それぞれ自習や課題、あるいは街への買い出しなどでバラバラに行動している時間帯だ。

 

大修道院の宿舎周辺は、もはや金鹿の包囲網という名のレーダーチャートが敷き詰められており、一歩歩くだけで誰かに捕まる魔境と化している。

ならば、どこへ行くべきか。

 

「……市場(マーケット)だ」

俺はぽんと手を叩いた。

 

ガルグ=マク大修道院の麓、あるいは大正門の近くに広がる巨大な市場。そこは、フォドラ全土のみならず、遥か東方のパルミラ、あるいは北方のスレン、南方のブリギットといった異国からの商客や旅人、さらには買い出しの兵士や修道士たちで、一日中足の踏み場もないほどに賑わう場所だ。

 

あれだけ膨大な人間の雑踏と喧騒の中に紛れてしまえば、どれだけ俺の気配がバグっていようとも、ただの「休日を楽しんでいる一般生徒A」として、完璧に風景の中に溶け込める。

 

クラスの連中も、まさか俺がそんな騒がしい場所にわざわざ飛び込むとは思わないはずだ。あいつらは今、俺を「孤独と静寂を愛する影の達人」だと思い込んでいるからな。

 

「よし、今日の作戦は『完璧な空気(オーラ・ゼロ)』だ。市場で美味そうな串焼きでも買って、買い食いしながら時間を潰し、夕方になったら気配を消して部屋に戻る。これで行こう」

 

俺はポケットの中の財布を確かめると、音を立てずに部屋のドアを開け、宿舎の廊下へと滑り出した。

 

大修道院の長い石造りの階段を駆け下り、大正門を抜けると、そこには期待通りの熱気と喧騒が広がっていた。

 

「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 東方パルミラの上質な絹織物だよ! 貴族の奥様のお召し物に最適!」

 

「冷たいエールに、焼きたての辛味ソーセージはどうだい! 騎士団の兄ちゃんたちも大絶賛の味だよ!」

 

「南方産の珍しい果物だよー! 甘くて酸っぱい、今朝届いたばかりの新鮮な逸品さ!」

 

飛び交う威勢のいい声。荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音。香辛料と焼き肉の香ばしい匂いが混ざり合い、空気を黄色く染めている。

俺は一歩その雑踏に足を踏み入れた瞬間、全身の緊張がふっと解けるのを感じた。

 

(最高だ……。これだよ、この『俺を誰も見ていない』という圧倒的な解放感!)

 

大修道院の中では、右を向いても左を向いても

「マイルズ、お前今何をした?」

「マイルズ、その技術の出どころを教えなさい!」という視線のレーザービームを浴び続けていたのだ。それに比べれば、この市場の喧騒は、俺にとって天国のようなオアシスだった。

 

俺は道行く人波に体を預けながら、適当な露店の前に立ち止まった。

串焼きの肉が、炭火の上でじゅうじゅうと音を立てて脂を滴らせている。

 

「おっ、士官学校の生徒さんかい? 景気よく一本どうだい? 特製のタレがかかってて美味いよ!」

 

「あ、じゃあその、一番大きなやつを一本ください」

 

財布から数枚の銅貨を取り出し、店主に手渡す。

受け取った串焼きを一口齧ると、口の中に濃厚な肉汁と、少しピリッとした香辛料の風味が広がった。

 

(美味い……。いや、待てよ?)

 

【味覚・成分分析:S(潜在)】が、俺の意思を無視して脳内で勝手に駆動を始めた。

**『塩分濃度1.2%。フォドラ西部産の岩塩を使用。香辛料はパルミラ産のクミンと赤唐辛子を3対1の比率で配合。肉は一般的な野豚だが、下処理の段階で安物の果実酒に漬け込むことで、極限まで獣臭さを消しつつ、繊維を柔らかくしている。火入れの時間は三分四十秒、中心温度は――』**

 

「うるさい! 脳内解説を終了しろ!」

 

俺は心の中で激しく叫び、強引に思考をシャットダウンした。ただの市場の串焼きに、宮廷料理の評論家みたいな精緻な分析を勝手に行うのはやめてくれ。俺はただ、普通の味を、普通に楽しみたいだけなんだ。

 

「ふぅ……。危ない危ない。油断するとすぐこれだ」

 

首を振り、残りの串焼きを一気に平らげると、俺は再び人混みの中を歩き始めた。

色とりどりの布地、怪しげな骨董品、刃の潰れた古い剣。見ているだけで時間が潰れる。これなら、夕方まで「ただのモブ」として時間を消費するのは容易いことのように思えた。

 

だが、そんな俺のささやかな平穏を、世界の因果というやつは絶対に許してくれないらしい。

市場の中央、ひときわ大きな広場の周辺に差し掛かった時、その音が聞こえてきた。

 

チリン、チリン、と。

 

やけに軽快で、それでいて、人間の耳の奥底に直接届くような、奇妙に洗練されたベルの音。

フォドラの一般的な商人たちが鳴らす素朴な銅の鈴とは違う、どこか異国の、そして洗練された金属の響き。

その音を耳にした瞬間、俺の脳裏に、昨日の「疑惑のお茶会」のラストシーンが鮮明に蘇った。

 

テラスの端から見下ろした、大修道院の坂道を登ってくる、これでもかと商品が詰め込まれた巨大な荷馬車。そして、その御子席に座っていた、真っ赤な髪の女性。

 

(……まさか、な)

 

嫌な予感が頭をもたげる。俺は回れ右をして、来た道を全力で引き返そうとした。

だが、その雑踏の向こうから、人混みを割るようにして、ひときわ高らかで、かつ絶対的な商売人の「業」を感じさせる女性の声が響き渡った。

 

「はーい、そこのお兄さんもお姉さんも、騎士団の強そうなおじ様も寄ってらっしゃい! 旅の商人アンナの店へようこそ! 今日はガルグ=マク大修道院の皆さんへの感謝を込めて、フォドラ全土、いえ、世界中のどこを探しても見つからない超・超・超掘り出し物をたくさん揃えているわよ! 今なら大司教様お墨付き(自称)の特別限定割引も実施中!」

 

(アンナさんだ!!! 完全に本物がそこにいる!!!)

 

前世の記憶が、俺の脳内で激しく警報を鳴らし立てる。

ファイアーエムブレムシリーズにおいて、あらゆる作品の、あらゆる時代、あらゆる世界に必ず登場する、神出鬼没にして最強の現金至上主義ヒロイン、旅行商人アンナ。

 

彼女の周りでは、いつだって「面倒な調達任務(クエスト)」か「金がかかる割に怪しい珍品」、あるいは「世界のバランスを揺るがすレベルの謎のアイテム」が取引される。

今の俺のように、触れるものすべてを神業(バグ)へと変えてしまう危険な体質の人間が、最も近づいてはいけない存在の筆頭だ。

 

(落ち着け。目を合わせなければどうということはない。俺はただの背景だ。市場の片隅にある、一本の腐った木柱と同じだ。気配を消せ……!)

 

俺は身を縮め、周囲のガタイのいい騎士団の兵士たちの背後に隠れるようにして、じりじりとその場から離脱を試みた。

 

【隠密・気配遮断:S(潜在)】が発動する。

 

よし、これで俺の存在感は完全にゼロ。周囲の人間の意識から、俺という存在の輪郭が綺麗に消え去るはずだ。

だが、俺のこのクソバグ仕様は、常に俺の斜め上を行く。

「気配を完全に遮断する」という出力を、システムが【限界突破】で処理した結果、俺の周囲数メートルだけが、

**『人混みの喧騒の中にあって、光と音が不自然なほどに遮断され、まるでそこだけ空間が静止しているかのような、絶対的な“無の真空地帯”』**として逆に際立ってしまったのだ。

 

一流の隠密ならいざ知らず、世界中のあらゆるお宝と、それに付随する違和感を嗅ぎ取ってきた超一流の商人であるアンナさんの「特級品センサー」が、その空間の歪みを見逃すはずがなかった。

「あら……?」

アンナさんの声が、ぴたりと止まった。

俺は背中に冷たい汗が伝わるのを感じながら、一歩、また一歩と、足を動かした。

 

「そこの、金鹿の学級の制服を着た、ちょっと影が薄くて……でも、周囲の空間を完全に自分の支配下に置いているような、とんでもない重心の取り方をしてるお兄さん。……そう、あなたよ、あなた! 止まりなさい!」

 

(なんでバレるんだよおおお!!! 隠密スキル仕事しろよ!!!)

 

心の中で血の涙を流しながらも、俺は聞こえないフリをして、さらに歩行速度を上げた。モブは振り返らない。モブは自分の名前を呼ばれるまで自分だと気づかないものなのだ。

だが、次の瞬間、風を切るような鋭い気配が背後から迫った。

信じられないほどの軽快なフットワークで、真っ赤な髪の影が人混みを縫うようにして突進してきたのだ。ゲーム内でも時折、驚異的なステータスを持つトリックスターとして戦場に立つアンナさんである。その身体能力は、並の兵士を遥かに凌駕していた。

 

「はい、捕まえた!」

ガシッ、と。

 

俺の制服の右袖が、見た目からは想像もつかないような、万力のような力強さで掴まれた。

 

「……あ、あはは。これはこれは、大商人のアンナさん。俺に何か、買い忘れた果物でもありましたかね?」

 

俺は観念してゆっくりと振り返り、顔を引きつらせながら、できる限り「うだつの上がらないどこでもいる生徒」の笑みを浮かべた。

アンナさんは、腰に両手を当て、フフンと鼻を鳴らしながら俺の全身をねめ回すように見つめた。彼女の大きな瞳は、まるで極上の宝石の原石を見つけた鑑定士のように、ギラギラとした、恐ろしいほどの商売人の輝きを放っている。

 

「ノンノン、私が探していたのは、買い忘れたお客さんじゃなくて、あなた自身よ」

 

「俺……ですか? いやいや、人違いですよ。俺はマイルズっていう、金鹿の学級でも一番成績が悪くて、これといった特技もない、ただのパッとしないモブ生徒です。財布の中身も、さっき串焼きを買ったから、あとは数枚の銅貨しか残ってませんよ?」

 

俺は必死に財布を振って、チリンチリンと寂しい音を鳴らしてみせた。貧乏アピールだ。金のない人間に、アンナさんが用を落とすはずがないという、前世の知識に基づいた完璧な防衛策である。

だが、アンナさんの笑みは深く、さらに不敵なものへと変わった。

 

「お金がないのは問題ないわ。私が言ってるのはね、あなたのその『普通っぽさ』を装った、隠しきれていない尋常じゃないオーラのことよ」

 

「オーラなんて、俺から出てるのはせいぜいさっきの串焼きのタレの匂いくらいですよ」

 

「誤魔化しても無駄なんだから」

 

アンナさんは顔をぐっと近づけてきて、俺の耳元で小さく囁いた。

 

「昨日、テラスで金鹿の級長さんたちに出したっていう『至高のベリータルト』のお話、もう市場の商人たちの間でも大噂よ? 『宮廷の菓子職人が裸足で逃げ出すレベルの、光の加減まで計算された究極のタルトを作る生徒がいる』ってね。それにさっき、あなたが私の視界から消えようとした時のあの身のこなし……。ただの生徒が、騎士団のベテラン隠密みたいな気配遮断を使えるわけがないじゃない?」

 

(誰だ噂を流したやつは!! ……いや、聞くまでもない、ラファエルかレオニーのどちらか、あるいは両方だ。あの食いしん坊どもめ……!)

 

俺は内心で頭を抱えた。自分の能力の暴走が、大修道院の中だけでなく、こうして外部の商人にまで影響を及ぼし始めている。このままでは、本当に教団の監査役であるセテスさんあたりに「お前は何者だ」と、地下の尋問室に連行されかねない。

 

「……で、その大商人であるアンナさんが、俺みたいなワケあり(仮)の生徒に、一体何の用なんです? 最初に言っておきますが、怪しい開運の壺とか、持つだけで呪われる暗黒魔法の古文書とかは、本当に買う余裕がありませんからね」

 

俺はあからさまに警戒の度合いを強め、半歩後ろに下がった。

すると、アンナさんは周囲の露店商や道行く人々に聞こえないよう、さらに声を潜め、真剣な表情になって言った。

 

「買う方じゃないわよ。あなたに、ちょっとした『お仕事』をお願いしたいの。もちろん、タダでとは言わないわ。成功報酬はたっぷり出すし、もしあなたが望むなら、金鹿の学級の戦術マニアが喉から手が出るほど欲しがるような、東方の特級戦術書や、武器の錬成に必要な超レアな鉱石でもいいわよ?」

 

「仕事、ですか?」

 

「そう。実はね、今回の旅の途中で、東方のパルミラ国境近くの怪しい古物商から、すっごく珍しい

『未鑑定の古代の遺物(のようなもの)』を仕入れたのよ。

でもね、これがどうにも不気味でさ。魔力を流しても一切反応しないし、かと言って、普通の鉄の刃物じゃ傷一つ付かない。私の何十年もの目利きをもってしても、一体何に使う道具なのか、どうやって動かすのかが、さっぱり分からないのよね」

 

アンナさんはそう言うと、背後に停めてある大きな荷馬車の方へと俺を促した。

彼女は荷台の奥深く、厳重に何重もの鍵がかけられた鉄の箱を開け、その中から、厚手の黒い布に包まれた「何か」を慎重に取り出した。

 

「ちょっとだけ見せてあげるわね。驚かないでよ?」

 

アンナさんが、その布の端を少しだけめくった。

その瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、鈍い銀色の輝きを放つ、奇妙な形状の金属製の器具だった。

 

長さは三十センチほど。全体としては円筒形をしているが、その表面には、フォドラの公用語とも、教会の聖典に書かれている古代文字とも違う、極めて精密で、禍々しい幾何学的な紋様が隙間なく刻み込まれている。そして、その器具の中心部には、ガラスのようでありながら光を一切反射しない、完全に無色透明な、奇妙な「結晶(レンズのようなもの)」が埋め込まれていた。

 

(……待て。これ、俺は知っている。見たことがあるぞ)

 

前世の記憶――『ファイアーエムブレム 風花雪月』の膨大な設定資料、あるいはゲーム本編の裏側に隠された、あの最悪の勢力の存在が、俺の脳内で急速にパズルを完成させていった。

この地上にセイロス聖教会が成立するよりも遥か昔、神の眷属に対抗するために、恐るべき高度な科学技術と魔導科学を発達させ、そして地下へと落ちていった太古の人間たちの末裔。

 

「光の杭」と呼ばれる弾道兵器を操り、フォドラの歴史を裏から操らんとする闇の不穏分子――

**『闇に蠢く者(アガルタの民)』**。

 

この銀色の器具の質感、そして幾何学的な紋様のデザインは、彼らが使用する地下都市の建造物や、魔導兵器のパーツに酷似していた。というか、そのものズバリだ。

 

(ウワアアアアアア!!! 最悪だ!!! 関わっちゃいけないやつらナンバーワンの遺物じゃねえか!!!)

 

背筋に、これまでにないほどの激しい極寒の衝撃が走った。

クロードの深読みや、リシテアの監視なんて可愛いものだ。もしこのアガルタの遺物に深く関わっていることが教会にバレれば、今度こそ大司教レア様の「光の加減(物理)」によって、この世からチリ一つ残さず消滅させられる。

 

「ア、アンナさん……! これ、今すぐ布を戻して、箱に鍵をかけて、ガルグ=マクの奈落の底にでも投げ捨ててください! あるいは、大聖堂のセテスさんのところに持って行って、『道で拾いました』って言って差し出してください! 俺みたいな、一介のモブ生徒が触れていいものじゃありません!!」

 

俺は本気で顔を真っ青にし、掴まれていた袖を強引に引き剥がして、今度こそ一目散に逃げ出そうとした。

「ちょっと待ちなさいよ! 逃げるなんて許さないわ!」

アンナさんは素早く俺の前に回り込み、通せんぼのポーズを取った。

 

「教会のカタブツたちに持って行ったら、没収されて一銭にもならないかもしれないじゃない! 私はこれを正当に鑑定して、しかるべき大貴族……たとえば、帝国のヘヴリング伯爵家とか、同盟のコーデリア家とか、そういう魔導研究に熱心なところに高く売りたいのよ! マイルズくん、あなた、料理や隠密であれだけの『物』を出せるなら、この遺物の構造や、動かし方もわかったりしないかしら?」

 

「わかるわけないでしょ!! 俺はただの、哀れな下級貴族ですよ!!」

 

叫びながら、俺は彼女の脇をすり抜けようとした。

だが、運命の歯車(クソバグ仕様)は、俺の意志など微塵も尊重してはくれなかった。

 

ピコン。

 

頭脳の、さらに奥深く、魂の根源に近い部分で、あの冷徹で、無慈悲なシステムアラートが脳裏に響き渡った。

【古代工学・遺物理解:S(潜在)】

【魔力回路・強制同調:S(潜在)】

【限界突破:常時発動】

(……嘘、だろ?)

 

俺の思考が停止した。

次の瞬間、俺の右手が、まるで強力な磁石に引き寄せられる鉄屑のように、俺の意思とは完全に無関係な軌道を描いて突き出された。

アンナさんが両手で持っていた、その不気味な銀色の器具に向けて、俺の指先がまっすぐに伸びていく。

 

「動くな! 止まれ! 俺の右手、頼むから言うことを聞いてくれ!!」

 

心の中での悲痛な絶叫も虚しく、俺の右手は、その鈍い銀色の金属表面に、吸い付くようにピタリと接触してしまった。

 

キィィィィィィィィィィィン――――――ッ!!!

 

その瞬間、市場の喧騒、人々の話し声、風の音のすべてを力任せに掻き消すような、鼓膜を直接劈くほどの凄まじい高周波の駆動音が響き渡った。

 

「う、うわっ!? なにこれ!?」

 

アンナさんが驚愕のあまり、短い悲鳴を上げて遺物から手を離し、後ろへと飛び退いた。

だが、俺の手は遺物の表面に完全に「吸着」していた。離そうとしても、まるで強力な接着剤で固定されたかのように、指一本身じろぎもできない。

 

それだけではない。

鈍い銀色だった器具の表面に刻まれた幾何学的な紋様が、脈動するように、禍々しい「深紅の光」を放ち始めたのだ。中心部に埋め込まれていた無色透明だった結晶が、生き物の眼球のように怪しく明滅し、周囲の空間から浮遊する魔力を猛烈な勢いで吸い込み始めた。

 

ゴォォォォォォ……という、不気味な風切り音が温室のように狭い荷台の周辺に巻き起こる。

 

(ウワアアアア! 脳内に直接、何か変な情報が流れ込んできやがった!!)

 

【古代工学:S】の暴走により、俺の意識の中に、この器具の『完全なる取扱説明書』および『設計思想』が、膨大な三次元グラフィックとなって強制的にインストールされていく。

 

**『正式名称:アガルタ式・高密度魔力集束型熱線砲(ポータブル版)・試作三号機』**

 

**『現在のステータス:起動プロセス完了。周囲の環境魔力を強制吸収し、最大出力を充填中』**

 

**『充填(チャージ)完了まで――残り60秒』**

 

**『警告:本機は試作型のため、エネルギー充填完了と同時に、自動的に【直近の最大魔力源(ガルグ=マク大聖堂・大司教室)】に向けて、最大出力の熱線を射出します。手動での発射キャンセルは不可能です』**

 

(……は???)

 

俺は思考が完全に白熱した。

つまり、あと一分足らずで、この手に持っている怪しい金属筒から、大修道院の中央尖塔をブチ抜いてレア様を直撃するレベルの、超極太レーザービームが自動的に発射されるということだ。

 

もしそんなことが起きれば、大修道院は一瞬にして戦火に包まれ、俺は「教団を揺るがす特級テロリスト」として、セイロス騎士団の総力を挙げて物理的に抹殺される。歴史の教科書に名前が載るどころか、このガルグ=マクの地から遺伝子レベルで消滅させられるのは確実だ。

 

「マ、マイルズくん!? これ、一体どうなってるの!? 光がどんどん強くなって、なんだかもの凄く不吉なエネルギーが溜まってるみたいだけど……私の大事な馬車と商品、破裂したりしないわよね!?」

 

アンナさんが顔を真っ青にして、荷台の隅でガタガタと震えている。さすがの伝説の商人も、アガルタのロストテクノロジーが放つガチの殺意の波動には、恐怖を隠しきれないらしい。

 

「アンナさん! 馬車どころか、あと五十秒で、この市場の半分と大修道院の尖塔が、跡形もなく消し飛びます!! 今すぐ周囲の人たちを全員避難させてください!!」

 

「ええええええっ!? そんなの困るわよ! 破産しちゃう!! マイルズくん、あなたこれ、止められないの!?」

 

「止めるって言ったって、これの安全弁(セーフティ)は、裏側の魔力回路を同時に十箇所、特定の周期で遮断しなきゃいけないんだよ! 現代の魔道士が一生かかっても解明できないような、超複雑なアガルタ語のパスコードが必要で――」

 

言いかけた、その瞬間。

俺の頭脳【遺物理解:S】が、冷徹なまでの「最適解」を瞬時に弾き出し、俺の視界に緑色の光のラインで『解除手順』をガイドし始めた。

 

(……あ、ハイ。俺の身体、もうこの機械のシステムを完全にハッキングしてやがる)

 

「くそっ、やるしかないのか!! 頼むから指がちぎれないでくれよ!!」

 

俺は腹を括った。

左手を懐から突き出し、遺物の側面にある、肉眼では見えないほど小さな微小突起群へと指を滑らせる。

次の瞬間、俺の両手は、人間の肉体の限界を超えた速度で、駆動を始めた。

 

それはもはや、絵を描くとか料理をするとかいう次元ではない。前世の超高速タイピング、あるいは神速のピアニストすら生ぬるい、残像しか見えないレベルの手指の運動。

トントントントントトントントン――ッ!!!

 

「魔力回路、第一、第二、第三、順次強制シャットダウン! パスコード『光をもたらす者』をアガルタ語で強制入力! 周波数同調、セーフティを上書きする!!」

 

俺の指先から、バグ仕様によって生成された高密度の魔力が、遺物の内部回路へと針のように正確に突き刺さっていく。

中心部の結晶に溜まっていた深紅のエネルギー球が、俺の指が叩かれるたびに、びくん、びくんと激しく歪み、その出力を減退させていく。

 

残り、十秒。

 

「第四から第九回路、完全遮断! ラスト、第十回路の接続ポイントは――ここだァァァッ!!」

 

俺は右手の親指を、遺物の底面にある紋様の中心へと強く押し込み、同時に、人差し指で中心の結晶をペシッと、デコピンするように力強く弾いた。

 

ぷしゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………。

 

空気を切り裂いていた高周波の駆動音が、嘘のように、弱々しい排気音へと変わった。

遺物の表面を覆っていた禍々しい深紅の光のラインが、サーッと引いていくように消え去り、中心の結晶も、元の濁った無色透明なガラスの塊へと戻っていく。

 

カラン、と。

 

俺の手から吸着が解け、ただの古びた銀色の金属筒に戻ったアガルタの遺物が、荷台の木床の上をごろごろと転がった。

 

「……………………は、吐きそう」

 

俺はその場に両膝をつき、両手を床について、ハァハァと激しく息を荒くした。

全身から、冷や汗が文字通り滝のように流れ落ちている。脳にかかった負荷は凄まじく、危うく脳の血管が数本まとめて弾け飛ぶところだった。あと一秒、いや、コンマ数秒でも解除のタイピング(魔力注入)が遅れていたら、今頃ガルグ=マクは大爆発の光に包まれていたはずだ。

 

 

静まり返った荷馬車の荷台。

外の市場の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように、荷布の隙間からかすかに聞こえてくる。

アンナさんは、床に転がった遺物と、完全に魂が口から抜けかかっている俺の姿を、交互に何度も、何度も見つめていた。その顔は、驚愕を通り越して、もはや「とんでもない、世界を揺るがすレベルの怪物を見つけてしまった」という、底知れない恐怖と、それを遥かに上回る猛烈な『商売人の興奮』に満ちあふれていた。

 

「……マ、マイルズくん」

 

「……なんですか、アンナさん。俺はもう、今日という日を境に、士官学校を自主退学して、フォドラの最果ての無人島で貝殻拾いでもしながら余生を過ごすことに決めました」

俺は床に顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟いた。

 

「あなた……あなた、本当に、一体何者なの!?」

 

アンナさんががばっと俺の両肩を掴み、床から強引に顔を引き剥がした。彼女の顔は数センチの距離まで近づいており、その瞳の中には、金色に輝く貨幣のマークが完全に浮かび上がっているように見えた。

 

「パルミラの高名な呪術師も、帝国の凄腕の魔道学者も、触れることすら恐れて『ただの呪われた鉄屑』として扱っていた古代の遺物を……あなた、触れただけでその構造を理解して、しかもわずか数十秒で、完璧に無力化しちゃったのよ!? これがどれだけ異常なことか、分かってる!?」

 

「分かってますよ! 異常だからこそ、俺は関わりたくなかったんです! 頼むから教会のセテスさんには秘密にしてください!」

 

「秘密にするに決まってるじゃない! こんな最高の人材、教会に渡したら大損失よ!」

 

アンナさんは拳を強く握り締め、信じられないほどの力強い口調で宣言した。

 

「決まりよ、マイルズくん! あなたを私の、旅の商人アンナ商会の『古代遺物鑑定士』として、今すぐ正式に生涯雇用契約を結びたいわ! 報酬は、あなたが鑑定して動かした遺物の売上の三割……いえ、四割あげる! これであなたも、若くしてフォドラを代表する大富豪の仲間入りよ!」

 

「全力でお断りします!!! 俺はただの、影の薄いモブとして平穏に生きたいだけなんです!!!」

 

「えええーっ!? なんでよ! 四割よ!? 贅沢な暮らしができるのよ!?」

 

「贅沢な暮らしの前に、俺の命がいくつあっても足りません!!」

 

俺は最後の力を振り絞ってアンナさんの拘束を跳ね除けると、荷馬車から転がり落ちるようにして外へと脱出した。

背後から

 

「待ちなさい! マイルズくん! 五割! 利益の五割を折半にするから、ちょっと契約書にサインしてーーー!」

 

という、商魂が限界突破したアンナさんの絶叫が市場中に響き渡ったが、俺は一切振り返らず、人混みを文字通りモーセの十戒のように割りながら、全力で逃走した。

 

 

 

ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……。

 

大修道院の宿舎前。夕暮れのオレンジ色の光が、石造りの建物を赤く染め上げている。

俺は自分の部屋の入り口へと続く階段のふもとで、完全に膝から崩れ落ち、這うようにして一段一段を登っていた。

 

「……中庭に行けば、芸術テロ……。温室に行けば、怪力暴走……。市場に行けば、アガルタの古代兵器解体ショー……。なぁ、この大修道院という場所は、どこに行っても俺の平穏をピンポイントで圧殺する罠しか設置されてないのか……?」

 

精神的なライフポイントは完全にゼロ。むしろマイナスだ。

今日一日で消費したエネルギーは、普通の人間が一年間で経験する修羅場の総量に匹敵する。

 

「おやおや。夕暮れ時に、ずいぶんとボロ雑巾のようになってるお兄さんがいるねぇ」

 

階段の上から、聞き慣れた、そして今最も聞きたくなかった飄々とした声が降ってきた。

俺が恐る恐る顔を上げると、そこには、宿舎の手すりに背中を預け、腕を組んで楽しげに笑っている金鹿の級長、クロード・フォン・リーガンの姿があった。

しかも、彼の後ろからは、ノートを手にしたリシテア、弓を肩にかけたレオニー、さらには昼間中庭で別れたはずのイグナーツとローレンツまで揃って姿を現したのだ。

 

(……終わった。完全に逃げ場(包囲網)が完成してる)

俺は階段の途中で、力なく両手を挙げた。

 

「クロードさん……なんで、みんな揃って俺の部屋の前で待ち伏せなんかしてるんですか……」

 

「いやさ、お前が『完璧な空気』になるために市場へ行くってのは、あらかじめ予想がついてたんだよ」

 

クロードは手すりから身を離し、ゆっくりと階段を下りて俺の前に立った。彼の琥珀色の瞳は、昨日のお茶会以上に見事な、**「すべてを見通し、確信に満ちた」**ギラギラとした輝きを放っていた。

 

「市場の商人たちから、さっき一斉に情報が入ってきてさ。金鹿の学級の、普段は影の薄い生徒が、あの神出鬼没の旅行商人アンナの荷馬車で、深紅の怪光を放つ古代の呪物か遺物を、指先一つで一瞬にして解体したってね」

 

クロードは一歩、俺に近づき、その細くも引き締まった腕を、俺の肩にガシッと回した。その力が、妙に重い。

 

「マイルズ。お前、昨日のお茶会で『強大すぎる力が周囲を狂わせるから、静かに生きたい』なんて悲劇の暗殺者みたいなこと言ってたけどさ……。やってることが全然、静かじゃないんだよなぁ。むしろ、フォドラの裏の歴史の核心に、お前の方から全力で首を突っ込みにいってないかい?」

 

「違うんですクロードさん! 突っ込んだんじゃなくて、あっちからガシッと掴まれて、勝手に指が動いて――」

 

「嘘を言いなさい、マイルズ!」

後ろから、リシテアが厳しい表情で一歩前に出た。彼女は手にした研究ノートを、ペシペシと自分の手のひらに叩きつけている。

 

「アンナが扱っていたのは、普通の魔道学者では解析すら不可能な、古代のロストテクノロジーです。それを瞬時に無力化するなんて、やはりあなたの魔力回路には、教会の禁忌、あるいは帝国や同盟の裏に潜む組織の技術が組み込まれているとしか思えません! 私はこれから、あなたの睡眠時間以外、すべての行動を徹底的に監視して、その秘密を解剖させてもらいますからね!」

 

「監視とか解剖とか、物騒な言葉を簡単に使わないでリシテアちゃん! 俺の心はもう硝子細工なんだよ!」

 

「アハハ! そういうことなら、朝練だけじゃ足りないね!」

 

レオニーが不敵に笑いながら、俺の背中をバシバシと豪快に叩いた。

 

 

「我がグロスタール家としても、君という『芸術』と『古代の叡智』を兼ね備えた逸材を埋もれさせておくわけにはいかないからね」

 

ローレンツが耳に挟んだ薔薇を華麗に一振りし、高らかに宣言した。

 

「明日からは、私の高貴なる戦術論の講義にも出席してもらう。君のその『最適解』という視点から、我が同盟の未来についての議論を深めようじゃないか!」

(アアアアアア……。好感度を平均値にして空気にするどころか、金鹿の学級の『絆(逃げ場のない絶対包囲網)』が完成されとる…)

 

夕暮れの宿舎前。

俺は金鹿の仲間たちにガッチリと中心に取り囲まれ、その視線のレーザービームから逃れる術は、もはやフォドラの大地のどこにも残されていなかった。

 

「頼むから……みんな、俺のことは忘れてくれ。ただの背景、ただの石ころだと思って、放っておいてくれ……」

 

俺の切実な、魂からの絶叫は、クロードの「あはは、そいつは無理な相談だな、我が学級の『最高にして最凶の相棒(切り札)』さん?」

 

という、最高に楽しげな笑い声にかき消され、ガルグ=マクの夕空へと虚しく響き渡るのだった。

 

この金鹿の学級、のんびりしたお気楽クラスだなんて前世のプレイヤーたちは言っていたが、大嘘だ。一度目を付けられたら、底なし沼のようにどこまでも追いかけてくる、フォドラで最も熱くて、最も逃げられない、恐ろしい魔境(クラス)だった。

 




そろそろ先生を出さないとまずいですねこれ
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