ガルグ=マク大修道院の南側に位置する宿舎前庭。そこは、色とりどりの季節の花々が咲き乱れ、行き届いた手入れがなされた美しい庭園だった。
日常の厳しい鍛錬や退屈な講義から解放された生徒たちが、木漏れ日の中で歓談し、優雅なひとときを過ごすための憩いの場――それが、本来のこの庭園の姿である。
「……ここだ。ここなら、今日のところは生き延びられる」
庭園の最奥、背の高い薔薇の生け垣に囲まれた、人目に付きにくい小さな円卓。その白い鉄製椅子の座面に、俺――マイルズは、もはや生気を失いかけた体をごそりと滑り込ませた。
昨日、大図書館で教会の最高機密(古代典礼書)を、自身のクソバグスキル【高速筆記・精密複製:S】によってページをめくる速度と同じ神速で翻訳出力してしまった結果、俺のガルグ=マク・ライフは完全に終わった。
今朝など、宿舎の部屋を出た瞬間に、目を血走らせた
リシテアが「さあマイルズ、昨日の魔力効率の注釈について、全12章の論文にまとめるわよ!」
と羊皮紙の束を抱えて立っていたし
その背後からは「おいマイルズ! 朝練をサボるな! 今日は重りを持って崖を登るぞ!」とレオニーが猟師の目で迫ってきた。
俺は持ち前の【気配遮断:S(潜在)】をフル出力し、窓から這い出て、なんとかこの庭園へと命からがら逃げ延びてきたのだ。
幸いなことに、今日のこの時間は、金鹿の女子たちが「女子だけの親睦お茶会」を開くためにこの区画を予約しているらしい。
男のクロードやラファエル、ローレンツたちはここには近づけない。影に徹するには最適な環境だ。そして俺は、そのお茶会の「事前準備」を少し手伝うという名目で、公式にリシテアたちの追跡から逃れる大義名分を得ていた。
「お茶会の準備を手伝うだけの、ただの雑用係(モブ)。
そう、今日の俺は空気だ。紅茶を淹れて、お菓子をお皿に並べるだけの、背景の置物。これなら誰のヘイトも買わないし、歴史の歯車を回すこともない……!」
俺は安堵のあまり、薔薇の香りが漂う五月の爽やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
これまでのハプニングは、すべて俺が「主体的」に何かをしようとしたからだ。お茶会という、女子たちが主役の極めてプライベートな空間であれば、俺は完全に給仕役に徹することができる。
だが、フォドラの神というやつは、俺が「ただの給仕役」として穏やかな時間を過ごすことを、何かの重大な規約違反だと思っているらしかった。
「あら、マイルズくん。もう来てたんだー。待たせちゃって悪かったねー」
生け垣の隙間から、軽やかな足取りで現れたのは、金鹿の学級の、大貴族ゴネリル家の令嬢であるヒルダだった。
彼女はいつものように、ふんわりとしたピンク色の髪を揺らし、めんどくさがりながらも華やかな笑顔を浮かべている。
そのすぐ後ろからは、おずおずとした風に視線を泳がせながら、茶葉の缶を抱えたマリアンヌがついてきていた。
「あ、ヒルダさん、マリアンヌさん。お疲れ様です。お茶会の準備ですね、俺、何でもやりますよ。椅子の配置とか、お湯を沸かすのとか、モブらしく完璧にこなしますから!」
「お、頼もしい~! さすがマイルズくん、気が利くねー。実はさ、今日のお茶会、ローレンツくんが『同盟の貴族として、至高のお茶会を演出せねば!』とか言って、朝からすっごくうるさかったの。だから、女の子たちだけでこっそり別の場所でやろってことになったんだけど……」
ヒルダは困ったように頬に手を当て、机の上に置かれた、少し古びた茶葉の入った麻袋と、市場で買ってきた安価な焼き菓子の包みを見つめた。
「急に場所変えたから、良い茶葉が手に入らなくって。この茶葉、おじいさん修道士にもらったんだけど、なんか渋くて淹れにくいらしいんだよねー。お菓子も、食堂の残り物のパサパサしたクッキーだし……。マリアンヌちゃんもお茶淹れるの苦手だって言うし、私、めんどくさいことはパスしたいじゃない?」
「あ、あの……すみません。私のような者が、お茶会に参加するだけでもおこがましいのに、何も用意できなくて……。きっと、女神様が私に罰を……」
マリアンヌがいつものように、深く俯いてネガティブなオーラを放ち始める。
「いやいや、マリアンヌさん、そんなことないですって! 茶葉もお菓子も、淹れ方とちょっとした工夫次第でどうにでもなりますよ。俺、平民ですから、こういう安物の素材を美味しく食べる知恵だけはあるんで!」
俺は二人を安心させるために、努めて明るく笑ってみせた。
そう、これが俺の生存戦略だ。貴族の豪華なお茶会は無理でも、平民の知恵として「それなりの紅茶」と「それなりのお菓子」をサーブする。これぞ、完璧な雑用係の仕事。
だが、俺が机の上の茶葉の袋を開け、その匂いを嗅いだ瞬間。
ピコン。
脳裏に、あの冷徹で、最高に最悪なシステム音声が鳴り響いた。
【家事万能・調理技術:S(潜在)】
【茶葉同調・至高の抽出:S(潜在)】
【限界突破:常時発動】
(アッ、これ、お菓子と紅茶のジャンルでも発動すんの……!?)
俺の意識が、一瞬にしてプロの職人のそれへと切り替わる。
目の前の、ただの「渋くて古い劣化した茶葉」が、俺の目を通した瞬間、『乾燥工程での火入れが甘く、水分量がコンマ数パーセント過剰なため、熱湯の温度を87.5度まで下げて3分12秒間抽出することで、渋みを完璧にアミノ酸の旨味へと反転させられる未完の至高品』に脳内で全自動で解析されていった。
さらに、食堂から持ってきたというパサパサのクッキーの包みを見た瞬間、俺の身体が勝手に動き出した。
「マイルズくん……? 急に目が真剣になったけど、どしたの?」
「……すいません、ヒルダさん。ちょっと、このお菓子と紅茶、俺に『お色直し』をさせてください。モブの意地、見せてもらいます」
俺は庭園の簡易調理場へとダッシュした。
宿舎の厨房から、いくつかのスパイス(果物の皮の乾燥粉末、ハチミツ、そして少々の果実酒)を神速の身のこなしで調達してくると、俺の右手は再び【限界突破】の残像を残す速度で動き始めた。
パサパサのクッキーを一度砕き、ハチミツと果実酒、そして庭園に生えていた食用ミントの絞り汁を絶妙な比率で練り込む。それを調理場の簡易オーブンに放り込み、精密な火力調整で再焼成する。
その間に、お湯の温度を指先から伝わる熱伝導だけで「87.5度」に完璧に固定。茶葉を躍らせるようにポットへ投入し、脳内の正確なクロックで3分12秒をカウントした。
シュババババババババ!!!
調理場から、風を切り裂く恐ろしい速度の作業音が響き渡る。
「ちょっと、マイルズくん!? クッキー叩く速度がおかしくない!? 残像が見えるんだけど!?」
ヒルダが声を裏返らせて驚き、マリアンヌは
「あ、あの、食材の精霊が怒って、あのような高速の音が……」と祈りを捧げ始めた。
「遅れて悪かったわね。クロードが変な戦術書を押し付けてくるから、撒くのに時間がかかったわ」
そこへ、本を片手にリシテアが歩いてきた。彼女は相変わらず、俺を監視する気満々の鋭い目をしている。
だが、彼女が円卓のエリアに足を踏み入れた瞬間、その足がピタリと止まった。
クンクン、と小さな鼻が動く。
「……何ですか、この、信じられないほど甘くて、香ばしい匂いは。
……私の脳の疲れを瞬時に癒やしてくれそうな、至高の糖分の気配を感じるのですが……!」
リシテアの目が、机の上のクッキーへと吸い寄せられた。
「あ、リシテアちゃん、お疲れー。これね、マイルズくんが淹れてくれた紅茶とお菓子なんだけど……。ちょっと信じられないくらい、良い匂いがするのよ」
ヒルダに促され、リシテアはゴクリと喉を鳴らしながら、椅子に座った。
マイルズが優雅な動作(【家事万能:S】による、一流の執事顔負けの完璧なサーブ)で、リシテアの前に紅茶を置き、クッキーを差し出す。
「リシテアさん、どうぞ。頭脳労働の疲れには、このハチミツの糖分と、ほんの少しの果実酒の香りが効きますよ」
「……ふん、私は子供ではありませんから、お菓子くらいで態度を変えたりは――」
リシテアは強がりながらも、我慢できずにクッキーを一口齧った。
その瞬間。
「――っ!?!?解(わか)る……!」
リシテアの身体が、ビクンと硬直した。
サクッ、という完璧な歯応えの直後、中からハチミツと果実酒によって極限まで滑らかになった濃厚な甘みが、じゅわりと口いっぱいに広がったのだ。さらに、かすかに仕込まれたミントの清涼感が、甘みのしつこさを完璧に消し去り、次の口へと誘う。
「な、何これ……! 外はサクサクなのに、中はまるで、出来立ての最高級チョコレートみたいにとろけるわ……! それにこの紅茶、古い茶葉の雑味が一切なくて、口に含んだ瞬間、バラの庭園が脳内に広がるような……!」
リシテアはあまりの美味しさに、言葉を失って、幸せそうに目を細めた。
「本当だ……! 美味しい……。こんなに美味しいお茶とお菓子、ゴネリル家でも食べたことないわー。マイルズくん、あんた本当に何者なの……?」
ヒルダも一口食べて、感動のあまり椅子からずり落ちそうになっていた。
「あ、あの……。心が、すごく穏やかになります……。まるで、光に満ちた平原にいるような……」
マリアンヌにいたっては、その美味しさのあまり、奇跡のような美しい笑みを浮かべていた。あのネガティブなオーラが完全に消え去り、聖母のような輝きを放っている。
「ふふふ、喜んでもらえて何よりです。さあ、俺はただの背景ですから、お気になさらず、女子会を楽しんでくださいね!」
俺は心の中でガッツポーズをした。よし、完璧だ。美味しいお茶とお菓子で女子たちの機嫌を最高にし、俺への敵対心を完全に緩和させる。これぞ、胃壁を守るためのモブの処世術!
だが、俺は致命的なミスを犯していた。
【限界突破】した調理技術によって生み出されたその「香気」は、薔薇の生け垣を軽々と越え、ガルグ=マク大修道院の広大な敷地へと、恐ろしい速度で拡散していたのだ。
「〜〜♪ お菓子をおいしく焼くおまじない〜、美味しくなあれ、ふがふがふん……って、わわっ! メーチェ、何これ! すっごく良い匂いがする!」
薔薇の生け垣を勢いよく割って、お菓子の自作歌を歌いながら飛び出してきたのは、青獅子の学級の元気印のアネットだった。彼女は小さな鼻をこれでもかと動かし、机の上のお菓子を指差して目を輝かせている。
「本当ね~、アネット。なんて甘くて、優しい匂いかしら~。私もつられて、歩いてきてしまったわ~」
アネットの後ろから、いつものようにおっとりとした笑顔を浮かべたメルセデスが続いて現れた。
どうやら、二人で大修道院の散歩中、俺の放った規格外の香気に引き寄せられてしまったらしい。
「あ、ご、ごめんなさい! 別に怪しいものじゃなくて……その、あまりにも美味しそうな匂いがしたから、ついつい! 私、アネットっていいます! ねね、その机の上のお菓子、もしかして手作りなの!?」
アネットが身を乗り出して尋ねてくる。
「あ、アネットちゃんたちじゃん、いらっしゃーい! すっごく良い匂いでしょ? 今マイルズくんが色々用意してくれてるから、よかったら一緒に席座ってお茶しよー?」
ヒルダは怒るどころか、楽しそうに笑って、空いている椅子を引いてアネットとメルセデスを歓迎した。
「わあ、いいの!? ありがとう、ヒルダちゃん! 私、お菓子作りにはちょっと自信があるんだけど……このクッキー、どうやって焼いたのかすっごく気になるな!」
「あら~、お誘いありがとう~。それじゃあお言葉に甘えて、お礼に私が持ってきたアミダのハーブティーと、特製のクグロフを差し上げるわね~」
メルセデスもおっとりとした動作で席に着く。
「あらあら? 随分と楽しそうな秘密の集まりをしてるじゃない。私も混ぜてもらってもいいかしら?」
そこへさらに、華やかな衣服を身にまとい、物憂げながらも優しく柔らかな笑みを浮かべた黒鷲の学級の歌姫、ドロテアが、生け垣の影から優雅に姿を現した。
「ガルグ=マクの退屈な日々に、こんな素敵な香りのプレゼントがあるなんてね。ねえ、そこの君? 私も、その素晴らしいお茶会に、参加させてもらえたら嬉しいのだけど」
ドロテアは親しみやすさを滲ませながら、俺に優しく微笑みかけてくれた。
「あ、ドロテアちゃんもいらっしゃーい! 席、まだ空いてるから座りなよー。マイルズくん、みんなの分もお茶淹れ直せるー?」
ヒルダが人懐っこくドロテアも招き入れる。
「もちろんですよ、ヒルダさん! ドロテアさんも、どうぞお座りください!」
(三学級の女子が、匂いだけで完全集結しちゃったよ!!! 終わった!!! 俺の静かな雑用係ライフが、今度は女子の社交界のハブ(中心地)にされようとしてる!!!)
「ちょっと! あなたたち、ここは金鹿の女子会のエリアなのよ! 簡単にホイホイと……」
リシテアがクッキーを口に詰め込んだまま、不満そうに呟くが、ヒルダの楽しげなペースに巻き込まれてしまっている。
「言い訳はいいから、マイルズ。早く彼女たちの分のお茶とお菓子も用意しなさい。……これだけの技術を前にして、お預けを食らうのは、一人の女の子としても耐え難いわ」
リシテアが、紅茶のカップをトントンと叩いて催促する。その目はすでに、「美味しいものをたくさん出してくれる便利なマシーン」として俺を見始めていた。
(アッ、これ、ブラック厨房労働の始まりだ……!)
三学級の女子という、フォドラのパワーバランスを別の意味で揺るがしかねない濃いメンバーが揃ってしまった以上、ここで「もう材料がありません」と断れば、どのような社会的(あるいは物理的)抹殺が待っているか分からない。
【家事万能:S】と【茶葉同調:S】、(調合)の【限界突破】が、俺の生存本能と連動してフル稼働を始めた。
「分かりましたよ! 淹れればいいんでしょう、淹れれば!! ただし、俺はただの背景ですからね! 終わったらすぐに空気になりますから!!」
俺は再び調理場へと飛び込んだ。
今度は人数が倍以上だ。しかも、メルセデスが持ってきたハーブや、アネットが
「これ、私が新しく調合した特製の木の実の粉なの!」
と差し出してきた謎のスパイス、さらにはドロテアが持っていた帝国風の高級砂糖など、雑多な素材が次々と俺の前に積み上げられていく。
通常なら、それぞれの素材の相性を考え、調合比率を決めるだけで何時間もかかる作業だ。
だが、今の俺の脳内にとっては、すべての素材の分子構造が、一瞬で「最適解」の方程式として出力されていた。
シュババババババババババババババッ!!!!!
調理場から、もはや人間業とは思えない、超高速の金属音が鳴り響く。
お湯を沸かす魔導火力を極限まで高め、蒸気の圧力を手動で調整しながら、ハーブの香りを一瞬で抽出する。
メルセデスが持ってきたパサついたクグロフを、神速の包丁捌きで極薄にスライスし、アネットの木の実の粉で作った特製のハニーシロップを染み込ませて、表面をカリッと焼き上げる。
「ちょっと、メルセデス……。あの金鹿の男の子、何者かしらね?」
ドロテアが、調理場から聞こえる「シュバババ!」という音を聞きながら、少し圧倒されつつも、面白そうにメルセデスに囁いた。
「手の動きが速すぎて、まるで、剣の達人が無数の敵を切り伏せているような音が出ているのだけど……」
「わあああ、すごい! すごいよメーチェ! 粉の混ぜ方とか、火の通し方が完璧すぎる! 私があんなに苦労して失敗するのに、なんであんなに速くできるの!?」
アネットは調理場の前に張り付き、その超絶技巧に完全に圧倒されつつ、大興奮していた。
「お待たせしました!!」
俺は、数個のティーポットと、美しく盛り付けられたお菓子の皿を、両手と両腕、さらには【精密複製:S】による完璧なバランス感覚で頭の上にも乗せるという、"大道芸人でも不可能な神速のアクロバティック給仕"で、全員の前に配膳した。
「メルセデスさんのハーブをベースに, アネットさんの木の実の粉で香ばしさを加えた『三級合同・白銀の癒やし(ハーブティー調製)』。そして、ドロテアさんの帝国砂糖をキャラメリゼした『至高のハニークグロフ・サクサク仕立て』です!!」
全員の前に、一糸乱れぬ完璧なタイミングで、極上の紅茶とお菓子がサーブされた。
「……はぁ, はぁ, はぁ。さあ、どうぞ……。食べて、早く満足して、解散してください……」
俺は机の端で、魂が口から出かけた状態で息を切らせていた。
配膳されたお茶とお菓子を、他学級の女子たちが一斉に口にした。
その瞬間、庭園の円卓の周囲に、完全な「沈黙」が訪れた。
「――っ!」
最初に叫んだのは、アネットだった。
「おいしーーーい!!! なにこれ、信じられない! クグロフのパサパサ感が全くなくて、口の中で香ばしいハチミツがジュワって広がるの! 私の木の実の粉、こんな風に使えるなんて知らなかった! マイルズくん、天才だよ! 天才中の天才だよ!」
アネットは椅子から跳び上がりそうになりながら、大感動で頬を上気させている。
「本当ね~、アネット。これは、本当に素晴らしいわ~」
メルセデスも、あまりの美味しさに顔を輝かせ、何度も頷いていた。
「私の実家でも、たくさんのお菓子を食べてきたけれど、こんなに優しくて、それでいて奥深い味は初めてよ~。マイルズくん、あなた、今すぐ青獅子の学級に来て、私やアネットと一緒にお菓子作りの研究をしましょうよ~。ディミトリやドゥドゥーも、あなたのこのお茶を飲めば、きっと日頃の肩の荷が下りると思うのよ~」
「本当に、宮廷の菓子職人が作ったものすら、このお菓子の前では霞んでしまうわね……」
ドロテアがそっと息を漏らし、その瞳で熱っぽく俺を見つめた。
「それにこのお茶、私の喉の疲れを、魔法みたいに優しく癒やしてくれるの。ねえ、マイルズくん。我が黒鷲の学級のエーデルガルト様も、毎日の激務でとてもお疲れなのよ。あなたのこのお茶があれば、彼女の冷たい心も、きっと優しく解きほぐされるわ。ねえ、一度、私たちの学級の談話室へ遊びに来てくれない? 歓迎するわ」
「ちょっとちょっとー!」
ヒルダが楽しそうに笑いながら、マイルズを庇うように両手を広げた。
「みんな、マイルズくんのことが気に入りすぎじゃないー? マイルズくんは金鹿の学級の、私たちの頼れる雑用係(?)なんだから、他学級に簡単には渡せないなー。ねえ、マイルズくん、これからも毎日これ作ってくれたら、私、あんたの言うことなんでも聞いちゃうかも~?」
「ダメです、絶対に渡しません!」
リシテアが、ハーブティーを飲み干しながら、毅然とした態度で割り込んできた。
「マイルズは、昨日の魔力解読の件も含めて、我が同盟、そして私の重要な『研究対象』です! 青獅子にも、黒鷲にも、彼の至高の技術を渡すわけにはいきません! 明日からは、朝の魔道講義、昼の翻訳作業、夕方からはこの『脳力回復甘味の調製義務』を彼のスケジュールに組み込みます!」
「あ、あの……」
マリアンヌが、そっと手を挙げた。その瞳は、これまで見たこともないほど潤んでおり、真っ直ぐに俺を見つめていた。
「マイルズさんの淹れてくれたお茶を飲むと、私の中にいる悪い何かが、綺麗に消えていくような気がするんです。
……もし、もし許されるのであれば、私も、マイルズさんのお手伝いを……その、近くで、させていただけたら、嬉しい、です……」
庭園の円卓は、もはやお茶会ではなく、「マイルズという超一級の利権(甘味・魔道・戦術のマルチ天才)」を巡る、三学級女子の熾烈な外交交渉の場(魔境)へと変貌していた。
お茶会が大炎上のうちに幕を閉じた、その日の夜。
大修道院の食堂の裏手にある、静まり返った勝手口。
マイルズが女子たちに振る舞った「特製ハニークグロフ」の残りを、小さな包みに入れて大事そうに抱えた**メルセデス**が、青獅子の宿舎へと戻ろうと歩いていた。
「あら~、本当においしかったわね~。ドゥドゥーにも一口、食べさせてあげたいわ~」
彼女が鼻歌を歌いながら角を曲がろうとした、その時。
暗がりの壁に背を預け、腕を組んでじっと待っていた一人の人影があった。
長い黒髪をきっちりと結び、鋭い眼光を放つ黒鷲の学級の副官――ヒューベルトだった。
「おや。青獅子の学級のメルセデス殿。随分とご機嫌な様子ですな」
ヒューベルトの地を幾分這うような低い声に、メルセデスは驚く風もなく、おっとりと微笑みかけた。
「あら~、ヒューベルトくん。こんなところでどうしたの~? 暗いところにいると、風邪をひいてしまうわよ~」
「くくく……ご忠告、痛み入ります。……時に、メルセデス殿。先ほど、南の庭園にて、金鹿の学級の平民……マイルズなる者が開いたお茶会に、貴殿も参加していたとか」
ヒューベルトの細い目が、冷徹に光った。
「ドロテアから報告を受けましてね。その平民が淹れたお茶と菓子は、人の精神を一時的に弛緩させ、警戒心を無力化する『未知の精神操作術』の類ではないか、と。我が主、エーデルガルト様への脅威になり得る異分子であれば、今のうちに排除の算段を立てる必要がありますが……」
ヒューベルトの放つ、ガチの裏工作員の気配に、普通の生徒なら腰を抜かすところだが、メルセデスはふふっ、と優しく笑って、手元のお菓子の包みを差し出した。
「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫よ~、ヒューベルトくん。マイルズくんは、とっても優しい男の子だわ。このお菓子を食べれば、あなたの中のトゲトゲした気持ちも、きっと綺麗になくなってしまうわよ~? はい、一口どうぞ~」
「な……ッ!? 私に毒見もしていない不審な菓子を食べろと!? くだらん、私はそのような誘惑には――」
「はい、あーん~」
メルセデスのおっとりとした、だが"一切の拒絶を許さない絶対的な包容力の圧力"に押され、ヒューベルトは本能的な不気味さを感じつつも、思わず口を開けてしまった。
サクッ、と、クグロフの破片が彼の口内に放り込まれる。
その瞬間。
「――っ!」
ヒューベルトの顔面が、驚愕のあまり僅かに歪んだ。
脳内に広がる、圧倒的な糖分の効率的なエネルギー変換。日頃の主君への忠義と裏工作のストレスで凝り固まっていた彼の脳細胞が、マイルズの【調理技術:S】によって生み出された奇跡の甘味によって、強制的に効率よくリラックスさせられていく。
「くっ……! な、なんだこれは……! 脳の疲労が、一瞬で消え去るというのか……。馬鹿な、この私が、ただの平民の菓子ごときに、これほどの効果を認めざるを得んとは……」
ヒューベルトは壁を背に、顎に手を当てて鋭い思考を巡らせ始めた。
「ね? 美味しいでしょう~?」
メルセデスは満足そうに微笑むと、じゃあね~、と手を振って、のんびりと去っていった。
暗がりに一人残されたヒューベルトは、自身の思考の明晰さを確認しながら、冷徹に呟いた。
「マイルズ……。恐ろしい男だ。力による支配ではなく、甘味とお茶によってガルグ=マクの人間を精神から完全に懐柔しようというのか……。クックク、これほどの『特異点』、エーデルガルト様へ早急に報告せねばなるまいな……」
ヒューベルトの中に、マイルズに対する
「最大級の警戒(とんでもない精神懐柔の黒幕)」が完璧に定着した瞬間だった。
大司教レア、補佐官セテス、三学級の級長たち、そして教会の闇を暗躍する副官にまでその存在を「フォドラの特異点」として観測されてしまったマイルズの、明日の生存確率は、限りなくゼロに近づいていくのだった。