ベレス先生が我が金鹿の学級の専任担任として着任した、その翌日。
大修道院の中央校舎、金鹿の教室には、朝から独特の緊張感と、どこかそわそわとした空気が漂っていた。
「おい、マイルズ。聞いたか? 今日の最初の講義は、座学じゃなくて『戦術実践』だそうだ。
あの先生が一体どんな教え方をするのか、同盟の未来を担う者として、僕が直々に品定めさせてもらうよ」
隣の席で、ローレンツがいつも通り髪をかき上げながら気取った声を上げる。
「あはは……。ローレンツくん、あんまり最初から先生を刺激しないでくださいよ。相手はあの『灰色の悪魔』なんですから、機嫌を損ねたらどんな過酷なシ練が待ってるか分かったもんじゃないです」
俺――マイルズは、引きつった笑みを浮かべながら、机の上に筆記用具を並べた。
実家でのクソバグスキル大暴走から戻り、昨日はクロードに根掘り葉掘り「あの夜の出来事」を聞かされ、俺の胃壁はすでに満身創痍だ。
今日からは、あの底知れない主人公の視界に入らないよう、教室の隅で完璧な「背景(モブ)」に徹する――はずだった。
ガララ……。
教室の重厚な扉が開くと同時に、私語を交わしていた生徒たちの口が一斉に閉じた。
教壇に現れたのは、昨日と変わらぬ、感情の抜け落ちた美しい顔を持つ女性――
ベレス先生だった。
今日の彼女は、昨日までの修道院の正装とは少し異なり、動きやすさを重視した漆黒の教官服を身にまとっていた。上着の裾から伸びるその脚は、細身のタイツに包まれている。
(……あ)
机に頬杖をつきながら何気なく前を見た俺の視線が、そのベレス先生の「脚」でピタリと止まった。
タイツに包まれたその太ももからふくらはぎにかけてのラインは、ただ細いだけの貴族の令嬢たちのものとは明らかに違っていた。無駄な脂肪が一切なく、しなやかな筋肉が引き締まった、まさに「極限まで鍛え上げられた戦士の脚」。
歩くたびに、タイツの生地の向こうで大腿の筋肉が微かに躍動するのが分かり、不覚にも、平民のモブ男子高校生(中身は転生者)としての本能がドギマギと激しく脈打ち始めた。
(待て待て待て、落ち着け俺! 相手はフォドラの運命を握る絶対的な主役だぞ! そんな不純な目で見ているのがバレて、【限界突破】の神速の回し蹴りでも食らったら、俺の頭部が教室の壁に精密複製されちまう!)
俺は慌てて視線を教科書へと落とし、激しく顔を振った。
「――始めるわ」
ベレス先生の、静かで抑揚のない声が教室に響く。彼女は黒板に向かうと、チョークを手に取り、驚くほど無駄のない手際で「レスター領内における地形と部隊展開」の図を書き始めた。
「今日の講義は、戦術論。……ただし、教科書に書いてある高貴な騎士道の話は、しない。戦場で生き残り、確実に敵を無力化するための……『傭兵のやり方』を教える」
彼女のその一言で、教室の空気がガラリと変わった。
「例えば、この平原の隘路で、倍の数の敵に包囲されたとする。大貴族の戦術書なら、『正々堂々と陣を構え、騎士の誇りを賭けて突破せよ』と書かれている。……でも、それは間違い。傭兵なら、そんな真面目な戦い方はしない」
ベレス先生はチョークを置き、じっと生徒たちを見つめた。
「まず、自軍の荷馬車をわざと道に転がして、敵の進軍ルートを狭める。それから、一番足の速い者が敵の総大将に向かって『悪口』を叫び、敵の頭を血にのぼらせて、陣形を崩させる。……名誉を捨てて、敵の『感情』を動かす。それが、最小の被害で勝つための、一番確実な方法」
「……!」
その解説を聞いた瞬間、俺の脳裏に電撃が走った。
分かりやすい。不気味なほどに、合理的で、実戦的だ。
大貴族出身の騎士たちが書く戦術書は、やれ「名誉」だの「神祖の加護」だの、抽象的な精神論が多くてモブの俺にはいまいちピンとこなかった。
だが、ベレス先生の教えは違う。
「生き残るため」「勝つため」に必要な要素が、極限までシンプルに削ぎ落とされ、誰の目にも明快なロジックとして組み立てられている。
(すごいな……。これが、数々の死線をくぐり抜けてきた、本物の傭兵の思考か。教科書の綺麗事なんかより、何百倍も説得力がある)
俺は気づけば、ドギマギしていたことも忘れ、ベレス先生の言葉をノートに猛烈な速度で書き留めていた。
「クロード、あなたならどうする?」
ベレス先生が、不意に級長に話を振る。
「へえ、面白いね、先生」
クロードは琥珀色の瞳を輝かせ、ニヤリと笑った。
「俺なら、その悪口を言う役に、さらに『嘘の降伏文書』を持たせるね。敵が油断した瞬間に、後ろから弓兵で一斉に射抜く。
名誉なんて、勝った後にいくらでもでっち上げればいいからさ」
「ええ。それでいい。……合理的」
ベレス先生はほんの僅かに、満足そうに頷いた。
「ちょっと待ってください、クロードくん! 先生もそれを肯定してはいけません!」
ローレンツが慌てて立ち上がる。「そんな騙し討ちのような真似、我がグロスタール家の騎士道が許しません! 貴族たるもの、正々堂々と――」
「ローレンツ。……死んだ貴族は、領民を守れない」
ベレス先生の冷徹な一言が、ローレンツの言葉を遮った。
「戦場で一番価値があるのは、騎士のプライドではなく……『生きて次の朝を迎えること』。マイルズ、あなたはどう思う?」
「えっ!? ――あ、俺ですか!?」
突然、教壇からの鋭い視線が、教室の隅にいた俺へと向けられた。
ベレス先生の感情のない瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いている。さらに、その立ち姿のおかげで、再び彼女の美しく引き締まった脚のラインが強調され、俺の心臓が再び跳ね上がった。
「あ、あの……! 自分も、先生の意見に大賛成です! 名誉でお腹はいっぱいになりませんし、実家の親父も『痛風で死ぬくらいなら、かっこ悪くても生きて美味い酒を飲め』って言ってましたから! 生きて帰って、次の日常を過ごすことこそが、モブ……じゃなくて、兵士の最大の勝利だと思います!」
俺が半分パニックになりながらそう叫ぶと、教室の中に一瞬の静寂が訪れた。
「……モブ?」
ベレス先生は不思議そうに小首を傾げたが、すぐにその瞳の奥に、小さく温かい光を宿した。
「ええ。その通り。……生きて、美味しいものを食べる。日常に戻る。そのために、私の技術をすべてあなたたちに教える。……今日の講義は、ここまで」
キーンコーン、と講義の終了を告げる大聖堂の鐘の音が、タイミングよく響き渡った。
「ありがとうございました、先生」
生徒たちが一斉に礼をする中、ベレス先生は資料をまとめ、静かに教室を去っていった。
「ふぅ……。終わった……」
俺は机に突っ伏し、今日何度目か分からない大きな溜息を吐き出した。
ベレス先生の圧倒的に分かりやすい実戦講義への感心と、その美脚にドギマギさせられた精神的疲労で、俺のライフはすでにゼロだ。
「マイルズ、お前さ、朝から先生の脚とノートを交互に見すぎだろ。目のやり場に困ってたのが、後ろから見てて丸分かりだったぜ?」
背後から、クロードが楽しげに俺の肩を小突いてくる。
「なっ!? チョ、クロードくん! 変な言いがかりはよしてください! 俺は純粋に、先生の素晴らしい傭兵戦術に関心してただけです!」
「ハハハ、そういうことにしておいてやるよ。さーて、次の時間は戦術の居残り雑用だ。頼んだぜ、我が学級の優秀な三男坊!」
俺は真っ赤になった顔を隠すように、再びノートに顔を埋めた。
分かりやすくて頼もしい、だけど色んな意味で刺激が強すぎる新任教師の元で、俺の「平穏なモブライフ」への道筋は、早くも修正を余儀なくされているようだった。
あの網タイツはズルいと思うんですよ