トマシュという大修道院の重鎮が、その化けの皮を脱ぎ捨てて姿を消した夜。ガルグ=マク大修道院を包む静寂は、かつてないほどに重く、冷たいものへと変わっていた。
大聖堂の奥に位置する、一般の立ち入りが厳しく制限された大司教執務室。
高い天井から吊るされた燭台の炎が、部屋の主たちの影を壁に長く落としている。部屋の中央に置かれた重厚な机の前に立っていたのは、セイロス聖教会の最高権威である大司教レア、その補佐を務めるセテス、誠実な騎士アロイス、そして、かつて騎士団長を務め、今は傭兵として大修道院に滞在しているジェラルト・アイスナーであった。
少し離れた場所では、金鹿の学級の担任であるベレスが、感情の読めない瞳でじっと床の一点を見つめている。
「……まさか、トマシュ殿が我らを裏切り、敵の細作であったとはな」アロイスが頭を抱え呟く。
「彼がこの大修道院に仕えてから、すでに数十年が経ちます。その間、どれほどの教団の機密が、奴らの手に渡っていたというのだ。大司教、これはもはや、単なる一令嬢の誘拐事件では済まされません。教団の根幹を揺るがす大不祥事です」
セテスが苦渋に満ちた声をあげる。その端正な顔は焦燥に歪んでいた。
「セテス、落ち着きなさい。」
レアは静かに目を閉じ、胸の前で深く手を組んでいた。その神聖な面持ちには、怒りよりも深い憂慮の色が浮かんでいる。
「トマシュ――いえ、あの姿は、かつてフォドラの歴史の影で暗躍したという、古代の魔道士『ソロン』の特徴に酷似しています。彼らは人の姿を奪い、歴史の裏で糸を引いてきた不吉な者たち。トマシュ殿は、おそらくずいぶん前に……
すり替えられていたのでしょう」
「ずいぶん前、だと?」
それまで黙って腕を組んでいたジェラルトが、低く濁った声で割り込んだ。鋭い眼差しがレアへと向けられる。
「レア様。あんたは奴らの正体に心当たりがあるようだな。二十年前、俺が大修道院を去る前から、トマシュはここにいた。もしその頃から奴らが入り込んでいたんだとしたら、この大修道院の防衛網なんてものは、とっくにザル同然だったってことだぞ」
「ジェラルト殿、大司教に対して無礼であるぞ」
「いえ、セテス。ジェラルトの言う通りです。」
レアは静かに制止し、ジェラルトへと視線を返した。
「彼らの全容は、未だ霧の向こうにあります。私たちが『闇に蠢く者』と呼ぶ彼らは、女神の秩序を憎み、フォドラを再び戦火へと突き落とそうとしている。モニカ殿を救出し、トマシュの正体を暴いたことは、奇跡的な大金星です。
ですが……これにより、奴らも次の段階へ進まざるを得なくなったでしょう」
レアの視線が、部屋の隅に立つベレスへと移動した。
「ベレス。あなた方が金鹿の生徒たちと共にモニカ殿を救い、この事態を白日の下に晒してくれたことに、心からの感謝を。
……ですが、あまりにも危険な存在に触れてしまいました。
奴らは、自らの計画を狂わせたあなたたちを、決して許さないでしょう」
ベレスは表情を変えず、淡々と答えた。
「生徒を守るのが、私の仕事。トマシュが敵なら、次に出会った時に斬るだけ」
傭兵上がりの冷徹さと、教師としての責任感が同居したその短い言葉に、レアはわずかに目を細めて微笑んだ。
しかし、その微笑みはすぐに消え、厳しい教団の長としての顔に戻る。
「セテス。直ちに全士官学校の生徒に通達を。大修道院はこれより、最高レベルの戦時警戒態勢に入ります。各国の級長たちには、早急にそれぞれの祖国へ連絡を入れさせなさい。フォドラ全体が、にわかに動き出すはずです」
「はっ、ただちに。アロイス、お前も騎士団の配置を見直せ」
「はっ、了解いたしました!」
セテスとアロイスは深く一礼すると、足早に執務室を出て行った。
重苦しい対話が一段落したところで、ベレスは無言のまま、自分の懐から何やら茶色い、くしゃくしゃになった紙包みを取り出し、レアの机の上にそっと置いた。
「……これは何ですか、ベレス?」
レアが首を傾げる。
「ソロンが逃げる時に落とした、古文書の一部。
……さっき、廊下で待機しているマイルズから受け取った」
ジェラルトが眉をひそめてそれを受け取り、レアの机の上に広げる。そこには、大修道院の地下構造を示す古い地図の断片と、不気味な古代の文字でいくつかの座標が記されていた。
「おいおい……これ、ただのゴミじゃねえぞ。大修道院の地下の、立ち入り禁止区域の警備配置図じゃないか」
ジェラルトが呆れたように呟く。
「……マイルズがこれを? 素晴らしい発見です」
レアの瞳に、鋭い光が宿る。
「奴が去り際にこれを見落としたということは、地下にまだ、奴らが仕掛けた未完成の術式か、あるいは持ち出し損ねた教団の機密が残されている可能性があります。直ちに地下の調査を行わせましょう」
レアの手放しの称賛に対し、ベレスは少しだけ視線を泳がせ、淡々とした口調のまま、廊下で待つ生徒から聞いた事情を付け加えた。
「……でも、マイルズが言うには。ソロンが転移する時、足元でバタバタと転んだ。その拍子に、持っていた鉄の盾の尖った角が奴のローブの裾に引っかかって、バリッと引きちぎれただけ、らしい」
室内が一瞬、奇妙な沈黙に包まれた。
圧倒的な暗黒魔力と転移魔法で、完璧な撤退を演じたはずの古代の魔道士ソロン。その完璧な逃亡劇の足元で、平民の少年が「転んだ拍子にローブを引きちぎり、機密書類を強奪していた」という事実に、ジェラルトは思わず額を押さえた。
「……あいつも、あの規模の魔力の中に巻き込まれながら、よく無傷でそんな真似ができたな」
「運が良いのだと思う。……でも、少し手が腫れていた」
ベレスはそう言って、執務室の重い扉の向こうを見つめた。
「ジェラルト、ベレス。今夜はゆっくり休んでください。これからのフォドラは、私たちの想像を超える速度で変革の渦に巻き込まれることになります」
レアの重々しい言葉を最後に、大司教執務室の会談は終了した。
執務室を出ると、廊下の長椅子に、ボロボロの鉄の盾を抱えたマイルズが小さくなって座っていた。
夜風が冷たく吹き抜ける中、ジェラルトは大きなため息をつきながら、マイルズの肩をポンと叩いた。
「おい、坊主。お前、生き残るために必死になるってのは傭兵の世界じゃ一番大事な素質だが……いくらなんでも、化け物のローブを引きちぎって帰ってくる奴があるか」
「いや、本当に死ぬかと思いました、ジェラルトさん。ただの事故なんです……」
マイルズは本気で青ざめながら、自分の盾をさすった。
ベレスがそんなマイルズの前に静かに歩み寄り、腕を組んだまま、じっと彼の手元を見つめた。
「マイルズ。手がまた少し赤くなっている。ソロンの魔力を、その盾でかすめたのね。……大修道院の医療棟へ行ったほうがいい」
「あ、はい。ベレス先生、ありがとうございます」
マイルズは、先生のいつもの淡々とした、しかし一線を画した生真面目な気遣いに感謝しながら、一礼した。
「学校の授業なんてのんきなものは、案外早く終わっちまうかもしれないな」
ジェラルトはそう呟きながら、夜空を見上げた。