中庭の石壁をドロドロに溶かしたあの
「ファイアー(物理)」の一件から、わずか数時間後。
俺の『地味なモブ生徒Aとして卒業する計画』は、完全に
消し炭となってフォドラの空へと消え去っていた。
おまけに、ハンネマン先生が「紋章のない奇跡の天才!」
と大騒ぎしながら大司教レア様に報告へ走ったせいで、噂に尾ひれがつきまくっている。
曰く、「無詠唱で禁忌の黒魔法を操る同盟の秘密兵器がいる」とかなんとか。
冤罪だ、ただの手元の狂い(能力Sの暴走)だと言いたい。
「はぁ……。もう実家に帰りたい……」
精神的な疲労が限界に達した俺は、ひとまずエネルギーを補給すべく、夕食時の大修道院の食堂へと逃げ込んでいた。
今日のメニューは、フォドラの伝統的な豆料理と白身魚のソテー。
(よし、こういう普通の飯を普通に食べて、普通に隅っこで縮こまっていれば、そのうちみんな忘れてくれるはず……)
そう願いながらスプーンを口に運んだ、その時だった。
「――失礼するわ。ここに座ってもいいかしら?」
凛とした、だけど有無を言わさない圧倒的な覇気をまとった声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには気品溢れる美貌に、燃えるような赤い礼服をまとった少女が立っていた。アドラステア帝国の次期皇帝であり、黒鷲の学級の級長――エーデルガルトだった。
「あ、は、はい……。どうぞ……(ゲッ、エーデルガルト!?)」
「ありがとう。私は黒鷲の学級の
エーデルガルト・フォン・フレスベルグ
単刀直入に言うわ。
今日の理学の授業での君の噂を聞いたの。
紋章を持たずして、魔導式を最適化し、初級魔法で石壁を溶かしたそうね」
エーデルガルトは、紫色の瞳で俺を射抜くように見つめながら、静かにスープに手を付けた。
「フォドラの現体制は、紋章の有無ですべてが決まる歪んだ世界よ。けれど君は、紋章という『血の枷』を持たずして、自らの才覚だけでその壁を壊してみせた。……マイルズ、君のような人材こそ、私の……いいえ、これからの新しい帝国に相応しいわ。黒鷲の学級へ移籍する気はないかしら?」
(直球のスカウトキターーーー!! しかも目的が重い! 思想がガチすぎるだろ!!)
「い、いやいや! エーデルガルトさん、あれは本当にたまたま部屋の湿度と風向きがアレで、実家での薪割りの要領でちょっと力んじゃっただけでして! 移籍だなんて、俺みたいな凡人には滅相もないです!」
必死に手を振って辞退する。
だが、嵐はこれだけで終わらなかった。
「すまない、少し席を詰めてもらえるだろうか?」
今度は、爽やかな青いマントを翻した、非の打ち所がない美丈夫が俺の反対側の席に腰掛けた。ファーガス神聖王国の王子であり、青獅子の学級の級長――ディミトリだった。
「ディミトリ……? 君まで何の用かしら」
エーデルガルトがわずかに眉をひそめる。
「いや、他意はないよ、エーデルガルト。ただ、俺もそのマイルズ殿の噂を聞いてね。無詠唱であれほどの威力を放つ魔力制御を持ちながら、同時に、フェリクスが『あれはただの魔道士の身こなしてではない、命のやり取りを知る者の気配だ』と酷く興奮していたんだ。剣や槍の腕前も相当なものなのだろう?」
ディミトリは誠実そうな、だけどどこか底知れない怪力を隠し持った手で俺の肩にぽんと手を置いた。
「我が祖国ファーガスは、常に北の脅威と戦う騎士の国だ。マイルズ殿、君のような『陰の努力によって力を培った本物の強者』を、俺たちは心から歓迎する。もしよければ、青獅子の学級で共に騎士道を歩まないか?」
(こっちもガチのスカウトだ!! 筋肉戦闘狂のフェリクスが余計なこと吹き込みやがったな!?)
「ディミトリさん、フェリクスくんの目は完全に節穴です! 俺の身のこなしは、実家で夜中に親に見つからないように厨房のつまみ食いをしてたから、その癖がついちゃっただけなんです!」
「つまみ食いで魔獣のような足捌きが身につくだろうか……? はは、君は謙虚だな」
ディミトリが爽やかに笑う。通じてない、全く通じてないぞこの王子様。
食堂の片隅の席で、帝国と王国の次期指導者たちが、俺を挟んでパチパチと視線で火花を散らし始めている。周囲の生徒たちも
「おい、あの金鹿のモブ、なんで級長2人に囲まれてるんだ……?」
とヒソヒソ話を始めて、目立ちまくりだ。
胃が痛い。せっかくの白身魚のソテーの味が全くしない。
この場から全力で逃げ出したいと思った、その瞬間――。
「やあやあ、他所のクラスのトップが、揃ってウチの生徒を囲み込んじゃってさ。一体何の話をしてるんだい?」
ひょっこりと、トレイを持ったクロードが俺の隣の席に滑り込んできた。彼は飄々とした、だけど絶対に獲物を渡さないような油断のない笑みを浮かべ、エーデルガルトとディミトリを見据えた。
「クロード……」
「おっと、そんな怖い顔しないでくれよ、エーデルガルト。マイルズはレスター諸侯同盟の、れっきとした金鹿の学級の生徒だ。他クラスの2人が寄ってたかって勧誘するなんて、同盟の手前、俺としても見過ごせないなぁ?」
クロードが俺の肩に腕を回し、琥珀色の瞳を悪戯っぽく細めてニヤリと笑った。
「こいつはさ、これから俺の『お茶会係』兼、金鹿の『大事な隠し玉』として、のんびりやってもらう予定なんだ。国を背負うような重い話は、ちょっと勘弁してやってほしいね」
「……フン、引き下がるつもりはないわ。マイルズ、気が変わったら、いつでも黒鷲の教室へ来なさい」
エーデルガルトは凛とした足取りで立ち去り、
「すまない、取り込み中だったな。だがマイルズ殿、訓練場はいつでも歓迎するよ」
ディミトリも一礼して去っていった。
嵐が去り、ようやく生きた心地がした俺は、ガクッとテーブルに突っ伏した。
「はぁ……助かりました、クロードさん……」
「あはは、お安い御用さ。……でもさ、マイルズ」
クロードはトレイからリンゴを齧りながら、声を低くして俺の耳元で囁いた。
「帝国と王国の級長を初手で本気にさせるなんて、お前、やっぱりただの下級貴族じゃないだろ? ――本当は、どこの隠密なんだい?」
「だから、ただのつまみ食いと薪割りの達人だって言ってるじゃないですかぁぁぁ!!」
食堂の喧騒の中、俺はクロードの油断ならない視線から逃れるように頭を抱えるのだった。
まだ赴任してこない「先生」の姿を思い浮かべながら、「早く来てくれ、そしてこの級長どもの興味を全部持って行ってくれ!」と、心の中で切実に願うマイルズであった。