学園生活を満喫したいだけのモブ(チート)   作:ハスバル

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第7章:神速の包丁と、小さき美食家

大修道院の夕暮れは、驚くほどに足早だ。

西の空を血のような茜色に染め上げた太陽は、フォドラの大地を包み込む険しい山々の稜線へとあっけなく没し、代わりに冷涼な夜の気配をガルグ=マクへと送り込んでくる。

だが、俺の心の中に渦巻いているのは、そんな情緒ある夜への哀愁などでは断じてなかった。

あるのは、ただ純粋な、破滅への恐怖と、尽きることのない胃の痛みだけである。

 

「終わった……。いや、本当に終わっただろ、これ……」

 

自室の木製のベッドに横たわり、天井の染みをじっと見つめながら、俺――金鹿の学級(ヒルシュクラッセ)の平穏を愛する下級貴族マイルズは、本日何度目になるか分からないため息をついた。

 

思い返せば、この一週間は文字通りの『激動』だった。

士官学校に入学し、目立たぬように、空気のように、卒業アルバムの集合写真で「これ誰だっけ?」と言われるレベルの完璧なモブ生徒として生涯を終える計画だった。それがどうだ。

理学の授業で手元が狂って(潜在能力Sの暴走によって)中庭の石壁をドロドロに溶かしたのがすべての始まりだった。

 

あの紋章学者ハンネマン先生に「紋章なき奇跡の天才」と大騒ぎされ、その噂は瞬く間に修道院内を駆け巡った。翌日には大司教レア様に呼び出され、あの慈愛の微笑みの裏にある「フォドラの秩序を乱すなら、いつでも魂を主の元へ還して差し上げますね?」という強烈な圧に晒されて心臓が止まりかけた。

 

それだけではない。

「無詠唱の魔道兵器がいる」という誇大広告めいた噂を嗅ぎつけたエーデルガルト、ディミトリ、クロードの三級長に合同戦術論の講義で完全に包囲され、そのプレッシャーから逃れるために発動した【隠密:S】のせいで、逆に「目の前にいるのに存在が知覚できない暗殺術の達人」としてエーデルガルトの目をさらにギラつかせる結果となった。

 

放課後には青獅子の学級の戦闘狂フェリクスに絡まれ、防衛本能で放った【剣術:S】により、彼の渾身の一撃を木剣ごと夜空へ弾き飛ばしてしまった。

そして、極めつけは先ほどだ。

 

級長たちの包囲網から物理的に距離を置くため、裏方の雑用なら安全だろうと志願したレオニーの「物資調達」のお手伝い。

夕暮れの物資置き場で、猟師の娘である彼女に誘われるがまま、凡人を装ってわざと外そうと放った矢が、あろうことか【弓術:S】の自動補正によって、レオニーが放った矢の真後ろを完璧に捉え、それを縦に真っ二つに引き裂いて的に突き刺さるという『ロビン・フッドも裸足で逃げ出す神業』を披露してしまった。

最悪なことに、それを金鹿の級長クロードにバッチリ目撃された。

 

彼は琥珀色の瞳を怪しく光らせながら、「お前、明日から俺の特訓の付き合いな。化けの皮、剥ぎ取ってやるよ」と不敵に笑っていた。レオニーもそれに大賛成して拳を鳴らしていた。

 

「……逃げ場がない」

 

俺はベッドの上でゴロゴロと転がり、頭を抱えた。

武力、魔力、隠密。士官学校において評価されるすべてのステータスにおいて、俺の肉体に眠る『潜在能力S(しかも限界突破・常時発動)』というクソバグ仕様は、俺の「目立ちたくない」という精神的願いをすべて燃料にして、最高精度の「最適解」として出力し続けている。

このままでは、近いうちにクロードに「どこの隠密組織の回し者だ」と本格的に裏を洗われるか、フェリクスに真剣を持たされて果し合いを申し込まれるか、あるいはレア様に不穏分子として信仰の炎で蒸発させられるかの三択だ。

 

「……いや、まだだ。まだ諦めるな、俺」

俺はがばっとベッドから起き上がった。

まだ戦える。いや、戦うのではない。徹底的に逃げるのだ。

戦いや学問、訓練といった『士官学校の表舞台』で目立つからいけないのだ。ならば、もっと誰も注目しない、評価の対象にすらならない『完全な裏方の雑用』に身を投じればいい。

 

「調理場だ……!」

俺は閃いた。

 

大修道院の食堂を支える厨房。そこは毎日、膨大な数の生徒や騎士たちの胃袋を満たすため、裏方中の裏方として稼働している場所だ。

重い食材の運搬、山のような野菜の皮剥き、油ギトギトの鍋の皿洗い。

 

そんな、誰もが嫌がる泥臭い雑用に自ら志願し、エプロン姿で汗を流していれば、クロードたちも「なんだ、あいつはただの器用貧乏な雑用体質なだけか」と興味を失ってくれるに違いない。料理なんて、戦場での強さとは何の関係もないのだから。

 

「よし、今すぐ行こう。夜の食堂の手伝いなら、今からでも滑り込めるはずだ」

 

俺は自分の天才的な現実逃避計画に自画自賛しながら、制服の上から簡素な麻のエプロンを羽織り、小走りで部屋を飛び出した。それが、新たなる地獄への扉を開くことになるとも知らずに。

 

 

 

ガルグ=マク大修道院の食堂の裏手にある厨房は、石造りの頑丈な構造をしており、中央には巨大な鉄製の調理台がいくつも並んでいる。壁際には大小様々な鍋やフライパン、そしてフォドラ各地から集められたスパイスの小瓶が整然と並べられていた。

普段であれば、教会の雇った専属の料理人や町からの手伝いが忙しなく立ち働いている時間帯だが、今日の夜番は少し様子が違っていた。

 

夕食のピークタイムをわずかに過ぎた厨房は、薄暗いランプの光に照らされ、静まり返っている。

だが、その中央にある大きな木製の調理台の前に、一人、猛烈なオーラを放ちながら立つ人影があった。

 

「ふんぬぬぬぬ……! これでもか、これでもか……っ!」

白く細かい粉――小麦粉が舞い散る中、小さな体をいっぱいに使って、ボウルの中の生地をもの凄い形相でこねくり回している少女。

 

金鹿の学級の同級生であり、魔道において圧倒的な天才と称される少女、リシテア・フォン・コードリアだった。

 

彼女はいつも以上に眉間にしわを寄せ、まるで親の仇でも殴るかのように、目の前の生地を全力で捏ねていた。その周囲には、砂糖の袋やベリーのシロップ、バターの塊が散乱している。

どうやら、彼女は大好物である「甘味(お菓子)」を、ストレス発散を兼ねて自作しているらしい。

 

「あ、あの……リシテアさん?」

 

俺が恐る恐る勝手口から声をかけると、リシテアはビクッと肩を跳ね上げ、もの凄いスピードで振り返った。その顔には、白く小麦粉が点々とついており、怒りとも気恥ずかしさとも取れる複雑な表情で俺をギロリと睨みつけてきた。

 

「……あら。マイルズ、あなた何をしにここへ来たのですか? 人が神聖な研究……ではなく、調理をしているというのに、無作法に立ち入らないでください!」

 

「い、いや、邪魔をするつもりは全くないんだ。ほら、今日の夜の厨房の手伝いというか、皿洗いや野菜の皮剥きに志願したくて。ほら、俺、最近色々やらかしちゃったから、その反省を込めて裏方で社会奉仕をしようと思ってさ」

 

俺は両手を上げて、敵意がないことを必死にアピールした。

リシテアは、昼間の食堂で俺が級長たちに囲まれていた一件や、レア様に呼び出された一件について、誰よりも強い猜疑心を抱いている。子供扱いされるのを極端に嫌う彼女からすれば、どこか飄々としていて本性が見えない俺のような存在は、神経を逆撫でする対象でしかないのだろう。

リシテアはフンと鼻を鳴らし、袖で顔の粉を拭った。

 

「雑用ですか。ふん、勝手にすればいいです。私は私の仕事(お菓子作り)に集中しますから、絶対に私のテリトリー(製菓スペース)に入ってこないでくださいね。あと、私のことを子供だと思って、お菓子作りの手伝いなんて申し出たら、ただじゃおきませんから!」

 

「分かってる、分かってるよ。俺は本当に、その辺に積んにあるジャガイモの皮でも剥いてるから。リシテアさんは存分に最高のお菓子を作ってくれ」

 

俺はホッとして、厨房の隅にある、麻袋から溢れんばかりに積まれた大量の根菜――フォドラ風ポテトの前に腰掛けた。

今日の夕食の残りと、明日の朝食の仕込み用だろう。ずっしりと泥のついたジャガイモが、文字通り山のように積まれている。

(よし……完璧だ。これだよ、これ。この薄暗い厨房の隅っこで、泥だらけの芋と向き合う地味な時間。これぞモブの真骨頂だ)

 

俺は木箱から古びた包丁を一本取り出し、一本のジャガイモを左手に持った。

目標は、一時間かけてこの麻袋の半分を、ダラダラと不器用そうに剥くことだ。あえて途中で手を滑らせそうになったり、皮を厚く剥きすぎて無駄にしたりして、「あいつは手先が不器用なやつだな」と思わせる。調理技術の低さを周囲にアピールできれば、これ以上の隠れ蓑はない。

 

「よし、まずは一個目。トントン、と、ゆっくりな……」

 

俺は包丁の刃を、ジャガイモの丸い肌へと当てた。

その瞬間だった。

 

ピコン。

 

頭の芯が冷たく凍りつくような、あの聞き慣れた、そして世界で一番絶望的な「システム音」が脳裏に響き渡った。

【調理・包丁術:S(潜在)】

【空間認識・食材構造把握:S(潜在)】

【限界突破:常時発動】

(ま、待て……! 嘘だろ!? 調理にまでステータス補正があるのかよ!?)

心の中で叫んだ悲鳴は、肉体には一切反映されなかった。

俺の意思とは裏腹に、右手に持った古びた包丁が、まるで意思を持ったかのように、恐ろしい速度で微振動を始めたのだ。

ジャガイモの表面にある微細な泥の凹凸、皮の厚み、芽の位置、それらすべての「構造データ」が、脳内に三次元の透過図として完璧にフラッシュバックする。

俺の右腕の筋肉が、最小限のエネルギーで、最高効率の円運動を行うための「神速の駆動モード」へと強制移行した。

 

――トトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトタタン!!!

 

「……はえ?」

俺の口から、情けない間抜けな声が漏れた。

手元が、本当に残像で見えなかった。

俺が左手でジャガイモを軽く回した瞬間、包丁の刃がジャガイモの曲面に沿って滑らかに、かつ超高速で滑り、わずか一秒足らずで、一枚の途切れることのない美しい螺旋状の皮が床へと舞い落ちた。

 

しかも、それだけで終わらない。

右腕の暴走は止まらなかった。俺の右手は、皮を剥き終えたジャガイモをまな板の上へと叩きつけると、目にも留まらぬ速さで包丁を上下に乱舞させ始めた。

 

――チチチチチチチチチチカカン!!!

まな板を叩く音が、まるで熟練のドラマーが刻む高速のロールのようにつなぎ合わされて厨房に響く。

ジャガイモがまな板の上を一度通過するたびに、一分の狂いもない、完全に均一な厚さ――正確に1.5ミリメートルにスライスされたポテトの山が、芸術的な放物線を描いて、隣に置いてあった空のボウルへと次々と吸い込まれていった。

 

「な、何事ですか!?」

 

背後で、リシテアが悲鳴に近い声をあげて振り返った。

彼女が目にしたのは、厨房の片隅で、エプロン姿のモブ生徒が、まるで千手観音のように腕を残像させながら、凄まじい速度でジャガイモの山を「消滅」させていく異常な光景だった。

一個、二個、三個……。

俺の左手が麻袋から芋を掴み、空中に放り投げ、右手の包丁が空中でそれをキャッチしたかと思うと、着地した時にはすでに美しいスライスに変わっている。そんな、フォドラの常識を遥かに逸脱した『暗殺術としての包丁捌き』が展開されていた。

(止まれ! 俺の右手、止まってくれ! 腕の筋肉が勝手に最適解を求め続けてる! 誰だこれ設計したやつ! バグなんてレベルじゃねえぞ!!)

ものの2分で、山のようにあった麻袋のジャガイモはすべて、光にかざせば向こう側が透けて見えそうなほど完璧な、極薄のポテトスライスへと姿を変えてボウルに収まっていた。

まな板の上に包丁をピタリと止め、俺は肩で息をしながら、冷や汗を流した。

 

「あ、アハハ……。なんか、実家が本当に大家族でさ。毎日、何百個って芋の皮を剥かされてたから、なんか、手が勝手にリズムを覚えちゃってて……」

 

「……そんなリズムがあるわけがないでしょう!!」

リシテアが、粉まみれの泡立て器を握りしめたまま、目をこれ以上ないほど丸くして叫んだ。

 

「あなた、今、手元が完全に見えませんでしたよ!? それに、そのポテトの厚み……! 定規で測ったかのようにすべて同じです! どんな魔道を使ったのですか!?」

 

「魔道なんて使ってないよ! ただの筋肉の記憶というか、生活の知恵の延長だよ!」

 

必死に言い訳をするが、リシテアの疑心の目はさらに深まるばかりだ。

だが、俺の『潜在能力S』の暴走は、ジャガイモの皮剥きごときで満足してくれるほど優しくはなかった。

 

 

【調理・火加減制御:S(潜在)】

【調味・スパイス調合:S(潜在)】

脳内でさらに追加のスキルが発動する音がした。

(あ、これ、フルコース作るまで止まらないやつだ)

 

俺の肉体は、完全に「一流の宮廷料理人」の魂に乗っ取られていた。

俺の足は勝手に動き出し、厨房の棚に並ぶスパイスの小瓶や、保存庫に眠っていた食材へと手を伸ばした。

棚の隅で埃を被っていた、少し鮮度の落ちた白身魚の切り身。普通の料理人なら、臭みを消すために濃いソースで誤魔化すところだ。だが、俺の脳内には、その白身魚の脂肪分と、修道院の温室で栽培されている特定のハーブ(エルブドレ)が持つ揮発性オイルの組み合わせが、最も互いの旨味を引き立て合うという『究極の化学反応式』が浮かび上がっていた。

 

「ちょっと火を借りるよ」

 

「え? ちょっと、マイルズ、何を――」

 

リシテアの制止も聞かず、俺は厨房にある五つの魔道コンロに一斉に火をつけた。

普通なら、一つのフライパンに集中しなければ火加減を誤る。だが、俺の【空間認識:S】と【理学:S】の合わせ技は、五つのコンロの熱量と、フライパン内の油の温度変化を、リアルタイムで完全に把握していた。

 

昼間、中庭の石壁を溶かしたあの精密すぎる魔力制御。それが今、コンロの「極上のトロ火」および「絶妙な強火」のコントロールとして、信じられない形で応用されていた。

バチパチと、小気味よい音が厨房に響き渡る。

俺は両手にフライパンを持ち、交互に、かつ完璧なタイミングでリズミカルに煽った。

 

ジャガイモのスライスは、余分な水分が一瞬で飛び、外側はパリッと香ばしく、内側はホクホクとした黄金色のフォドラポテトへと変貌していく。

隣のフライパンでは、白身魚の切り身が、皮目はパリパリのクリスピー状に、身は水分を一切逃さずにふっくらとした状態で焼き上げられていた。

 

「な、何が起きているのですか、これは……」

 

リシテアはもう、突っ込むことすら忘れて、呆然とその光景を見つめていた。

彼女の目の前で、エプロン姿の少年が、まるでオーケストラの指揮者のように優雅に、かつ神速の動きで五つの鍋を操っている。

調味料を量る目盛りなんて見ていない。ハーブの束を素手で千切り、パラパラと空中から振りかけるその量は、分子レベルで計算された「完璧な分量」だった。

 

厨房の中に、それまでの薄暗い空気を一変させるような、凄まじい香りが立ち込め始めた。

魚介の濃厚な旨味と、焦がしバターの芳醇な甘み、そして鼻腔を心地よく刺激するハーブの清涼感。それは、大修道院の単調な食堂メニュー(豆のスープや硬いパン)とは完全に一線を画す、帝国や同盟の最高級宿場ですらお目にかかれないレベルの『至高の香り』だった。

 

「はい、おまちどうさま」

 

調理開始からわずか10分。

俺の前の調理台には、芸術的な美しさで盛り付けられた『白身魚のエルブドレ風・フォドラポテト添え』が、五人前、完璧な状態で完成していた。

 

黄金色のポテトの上に、純白の白身魚が鎮座し、その上からエメラルドグリーンの特製ハーブソースがとろりと輝いている。

俺は自分の手が犯したあまりの暴挙に、遠い目をしながらエプロンで手を拭った。

 

(……どうしてこうなった。俺はただ、皿洗いがしたかっただけなのに。これじゃあ、ただの『厨房を不法占拠した謎の天才シェフ』じゃないか……)

 

リシテアはゴクリと、小さく喉を鳴らした。

彼女のプライドは「こんな怪しい男の作った料理なんて認めない」と言っている。だが、彼女の研ぎ澄まされた五感(特に鼻)は、目の前にある料理が、自分の大好きな甘味(お菓子)の領域すら脅かすほどの圧倒的な傑作であることを理解していた。

 

「リシテアさん」

 

俺は、自分のやらかしを少しでも誤魔化すため、そして彼女の機嫌をとるために、一皿を彼女の前に差し出した。

 

「もしよかったら、味見してくれないかな? 俺、自分の料理の腕に全然自信がなくてさ。士官学校の優秀なリシテアさんに、毒が入ってないか、味が薄くないか、厳しくチェックしてほしいんだ」

 

「な、何をおっしゃるのですか!」

 

リシテアは顔を真っ赤にして、ツンと上を向いた。

 

「私を子供だと思って、料理で釣ろうとしても無駄です! ……ですが、そうですね。あなたがそこまで言うのでしたら、大修道院の平穏を守るため、そしてあなたの調理技術を客観的に評価するため、仕方がなく、本当に仕方がなく味見をしてあげます!」

 

彼女はそう言い放つと、調理台の上のフォークを、まるで聖剣でも抜くかのような厳かな動作で手にした。

そして、白身魚の身を小さく切り分け、黄金色のポテトと共に口へと運んだ。

 

「――っ!?」

 

一口食べた瞬間、リシテアの小さな体が、まるで電流でも流されたかのようにビクッと跳ね上がった。

彼女の大きな瞳が、これ以上ないほど見開かれる。

 

(美味い……! 何ですか、これは……っ!?)

 

彼女の脳内で、味覚の爆発が起きていた。

皮目のパリッとした歯ごたえの後、口の中で白身魚の身が、信じられないほどのジューシーさでホロホロと解けていく。鮮度が落ちていたはずの独特の臭みは、ハーブの爽やかな香りと焦がしバターのコクによって、むしろ深みのある旨味へと完全に昇華されていた。

 

そして、付け合わせのポテト。1.5ミリの極薄スライスが絶妙な層を成しており、噛むたびにパリパリとした小気味よい音が脳を揺らす。塩加減は、多すぎず少なすぎず、魚の旨味を極限まで引き立てるためだけの、まさに『奇跡のバランス』だった。

あまりの美味さに、リシテアの頬がふにゃりと緩みそうになる。美味しいものを食べた時の、あの子供らしい、至福の表情が顔に出そうになった。

 

「(ダメです、ここで緩んではマイルズの思う壺です……! 私は大人なのですから、冷静に……ふにゃあ……いや、ダメです!)――あ、味は、普通です! 少しハーブの主張が強すぎて、気品に欠けるというか、まぁ、食べられないことはないレベルですね!」

 

彼女は真っ赤な顔で、必死に厳しい言葉を並べ立てた。

だが、手元のフォークは完全に裏切っていた。彼女は「食べられないことはない」と言いながら、もの凄いスピードで二口目、三口目とソテーを口に運び、皿の上の料理はみるみるうちに消えていく。

 

「……でも、食材を無駄にするのはお行儀が悪いですし、私が責任を持って、全部処分(完食)してあげますから、そこに置いておきなさい!」

 

「あ、はい……(めちゃくちゃ気に入ってくれたな。よかった)」

 

リシテアが幸せそうに(本人は必死に隠しているつもりだが)ソテーを頬張る姿を見て、俺は心の底からホッとした。

よし、リシテアの胃袋を掴んだ(?)ことで、彼女からの猜疑心は少し和らいだはずだ。これで今日の目的である「裏方での平穏」は達成――

 

そう思った、まさにその瞬間だった。

厨房の重厚な木製の勝手口が、音もなく、静かにスライドした。

 

「へえ……。良い匂いがすると思ったら、やっぱりここにいたか。マイルズ、お前今度は『宮廷料理人』の真似事かい?」

 

暗闇からぬっと現れたのは、鼻をピクピクとさせながら、最高に不敵な笑みを浮かべた男。

金鹿の学級の級長、クロード・フォン・リーガンだった。

 

「ひえっ!? ク、クロードさん!? なんで厨房に……っ!」

 

俺の心臓が、本日何度目か分からない非常事態を告げた。

なぜこの男は、俺が隠密行動(のつもりのやらかし)をする場所に、必ずと言っていいほどピンポイントで現れるのか。

 

「いやー、物資置き場でお前が逃げ出した後、どこに行ったか探しててさ。レオニーとお腹を空かせながら修道院を歩いてたら、食堂の裏から、天国みたいな美味い香りが漂ってくるじゃないか。導かれるように入ってきたら、お前がエプロン姿でフライパンを振ってるんだもんなぁ」

 

クロードの後ろから、同じくお腹を鳴らしたレオニーが「おう、マイルズ! 隠れて美味いもん作ってんじゃねえよ!」と顔を出した。

 

「クロード、レオニー! あなたたち、ここは厨房ですよ! 許可なく立ち入るなんて――」

 

リシテアが口の周りにソースをつけたまま怒鳴ったが、クロードはそれを軽くいなすと、調理台の上に並ぶ皿へと目を向けた。

 

「おっと、邪魔するつもりはないよ、リシテア。……だけどさ、こいつは見過ごせないな」

 

クロードは調理台の上のソテーをじっと見つめた。その琥珀色の瞳の奥に、昼間のお茶会で見せたような、鋭い「観察者」の光が宿る。

 

「マイルズ、お前さ。この白身魚、保存庫の隅にあった『売れ残り』だろ? 料理人が『これじゃあ客に出せない』って言ってたやつだ。……それを、ハーブの配合だけでここまで化けさせるなんて、並の料理人の技術じゃないぜ?」

 

クロードはそう言うと、躊躇なく手づかみでソテーを一切れ口に放り込んだ。

 

「――っ! ぶはっ、美味すぎるだろこれ!!」

 

クロードが、珍しく上品な仮面をかなぐり捨てて目を見開いた。

 

「何だこれ、身の柔らかさが尋常じゃない。それにこのソース……同盟の最高級宿でも、こんな味は出せないぞ!?」

 

「ちょっとクロード、ずるいよ! 私にも食わせな!」

 

レオニーも割り込んできて、フォークを奪い取るとポテトと魚をガブリとやった。

 

「うわ何これ!? 軽くてパリパリしてて、いくらでも食えちゃう! マイルズ、お前やっぱり、ただの貴族の坊ちゃんじゃないだろ! どんな特訓をしたらこんな飯が作れるんだよ!」

 

「だから、何度も言ってるじゃないですか! 実家で大家族の飯を毎日作ってて、手が手順を覚えてただけだって!」

 

俺の必死の抗弁を、クロードはニヤニヤと笑いながら聞き流した。彼は空になった皿を置くと、俺の肩にガシッと腕を回し、耳元で囁いた。

 

「はいはい、手が滑って石壁を溶かし、手が滑って矢を裂き、手が滑って至高の料理を作る、ね。お前さ、隠すのが本当に下手くそだな。それとも、俺たちを試してるのかい?」

 

「試してないです! 本気でモブになりたいだけです!」

 

「決めた」

クロードはポンと俺の肩を叩いた。

 

「マイルズ。お前、明日から俺の『専属シェフ』な。毎週末のお茶会、お前が焼いた最高の菓子と飯、期待してるぜ?」

 

「はあ!? クロード、ずるいよ! マイルズは明日から私とラファエルの特訓の後に、このポテトを作るって約束……はしてないけど、作ってもらうんだからね! 宿舎のまずい飯じゃ、もう満足できなくなっちまっただろ!」

 

「な……っ!? クロード、レオニー! 私が先にマイルズの料理の毒味(味見)をしていたのです! 横取りしないでください! そもそも、彼が作るべきは、私の生地を使ったお菓子です!」

 

リシテアまで参戦し、厨房の中で俺を挟んで金鹿のメンバーが大騒ぎを始めた。

 

(違うんだみんな……俺はただ、静かに皿洗いがしたかっただけなんだ……!)

薄暗い厨房の片隅で、自分の『潜在能力S』がもたらした最高傑作(料理)を級長たちに貪り食われながら、マイルズは完全に逃げ場を失ったことを確信し、天を仰ぐのだった。

モブへの道は、遠のくどころか、完全に消滅していた。

 

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