噂によると / Legend Has It [CP2077 × NIKKE] 作:Narrenschiff
1.シルバードーンの命により / By Order of the Silver Dawn
目が覚めた時には、周囲は銃撃戦とは無縁の静寂が流れていた。
「…はぁ…っ、はぁ…!」
地に伏し、頬を地面につけたまま、アマレットは浅い呼吸を繰り返す。胸の奥でコポコポと小さな音がする。それが何の音か、確かめる余裕はなかった。
ゆっくりと頭を持ち上げる。
肘を使って上半身を起こす。
顔についていた砂を全て取り払った後も、視界の半分がない。右目は完全に潰れていた。
(……!)
(……、……
(片目の
──強がれたのは、そこまでだった。
(やっぱり……こわい……)
周囲を見回す。瓦礫と捻れた鉄骨。倒れているのは自分だけだった。仲間の姿も、
(……あったところで、この腕じゃ持てないけど)
既にわかりきっていたことだが、残った片目で左下に目を落とす。
──左腕がない。
武器を持つ手は、もう、ない。軍人として、それがどういう意味かは分かっていた。
アマレットは小さく息を吐いた。映画なら、ここで気の利いたセリフを一つ二つ。だが頭は綿に包まれたようで、何も浮かばなかった。
だが、そういう時でさえ、出来ることをやらなければ生き残れないのが地上だ。先ずは自身の負傷状況を確認しなくてはならない。
左腕──肘の少し上で千切れていた。出血は止まっている。だが、自分で処置した記憶はない。残った右の方は、指先がほとんど動かない。手首から先が押し潰されたように歪んでいる。両脚は、見た目には問題なかった。だが、あまり力が入らない。歩いて
──そして、胸の中央付近には、親指の倍ほどの太さの穴。そこからじわじわと赤い血が流れ、服にシミを作る。よく見ると、細い銀の繊維と灰色の合金の破片が覗いていた。普段見ている映画の影響か、機械の身体だということを突きつけられても、不快感はなかった。
(教本だと、思考転換の原因になるから確認は最小限にしろって書いてあったっけ……)
立たないと。
立って、隠れる場所を探さないと。
膝が砂利の上で空回りした。三度目でようやく腰が浮いた。十メートルほど先に暗がり──廃ビルの入口が見えた。
(……あそこだ)
あそこまで歩ければ、たぶん、少しは休める。日差しを避けて、少し眠れば脚も良くなるかもしれない。
一歩、二歩。右脚を引きずる。もう片方は足首から先の感覚が麻痺していた。それでも暗がりは少しずつ近付いてくる。半ば外れかけた扉を肩で押し開け、崩れる身体を支えるように、すぐさまコンクリートの壁に背を預ける。膝が抜けた。同じ姿勢のまま、ずるずると壁を擦り、床に滑り落ちる。
眠る直前、もう一度、頭の中で映画のセリフを探してみた。こんな時、
──やっぱり見つからない。
代わりに浮かんだのは、ジェリー隊長の声。
(全員、生きて帰るぞ)
いつもの低い声。
(……みんな、無事でいてください)
(……ごめんなさい、隊長。私は──)
意識が薄く、薄く、引いていった。
せめて、この一言だけでも、伝えられたなら。
────────────────
……、……何かが、低く震えている音がする。
規則的な、機械の動作音。
(……あれ)
(……あれぇ……?)
頬を擦るような感覚で、ゆっくりと意識が戻ってきた。
目を開ける。
崩れかけた天井の梁が、斜めに横切っていた。日差しが弱く差し込んでいる。昼過ぎ、らしかった。
(私……生きてる?)
体を確認する。左腕は無いままで、残った右腕は指がほとんど動かない。これは知っていた。
胸の中央。──親指の倍ほどの穴があったはずの場所。
穴は塞がっていた。
(え……?なんで?)
じっと見つめる。色も質感も、周囲の肌とよく似ている。だが、何かが違う。触ろうとして、指が動かないことを思い出した。
(なにこれ……綺麗に塞がってる。見た目は、皮膚みたいだけど……なんか、作りモノっぽい?)
(……私達の肌も、作りモノだけど。あ、そうだ……!)
(確認忘れてた……通信機)
腰のあたりに視線を落とす。通信機は半分に砕けていた。仲間への連絡は、できない。
肩を落とし、溜め息を吐く。
ふと、顔を上げた。
(誰か、いる)
すぐ近くから、規則的な機械音がする。意識が戻る前から聞こえていた、あの音だ。
視線を音の方へ向ける。
壁にもたれて座っている、男が一人。手の中の小さな機械が、青白い光を瞬かせていた。
(……誰?)
短い黒髪。無精髭。こめかみのあたりに、薄く光る何かが埋め込まれている。
そして最も注意を惹くのが──その両腕。
肘から手首までは、人間の肌のように見えた。だがよく見ると、関節のあたりにだけ、薄い継ぎ目が走っている。
(……あれって、私の胸を塞いでるのと同じ素材かな……?)
手は、普通の人間よりも一回り太い。拳から指の先までが暗色の金属で覆われている。指の関節と関節の間には肌と似た色のプレートが嵌っていた。
義手だ。
間違いない。だが、アマレットの知っているどの義手とも違う。アウトローが好んで付けるような無骨な金属義手でもなく、軍の支給品でもない。
着ているものも、アークでは見たことのないスタイルだ。
目が合った。
男は何も言わない。手の中の機械を、ゆっくりと床に置いた。
アマレットは口を開いた。声がかすれた。
「……ほんとに、人がいる?」
(私、まだ混乱してる……?)
男は答えない。表情も変わらない。観察するような視線だけが、こちらに向いている。
でも、確かに、いる。目の前に。
アマレットは、ゆっくりと息を吸った。
「えっと……処置してくれたんですか?」
「ありがとう、ございます……」
言ってから、しまった、と思った。
相手は何者かまだ分からない。指揮官かもしれないし、違法な地上探索者かもしれない。後者だったら、丁寧語で出るなんて舐められる。
「あ、いや、ありがと!」
無理やりタメ口に切り替える。
(……しまった、もう遅い)
男の表情は、相変わらず変わらない。
数秒の沈黙。
アマレットは、頑張って強気を装った。
「あんた……指揮官なの?」
男は、軽く目を細めた。
「指揮官?……いや、軍属じゃない」
短い。
じゃあ。
「……もしかして、違法探索者?」
男は少し間を置いてから答えた。
「違う。多分な。気づいたらこの場所にいたんだ」
(……多分?)
(気づいたらここにいた?)
聞くほど、わからなくなる。
会話が止まる。
男は、こちらをじっと見ている。何かを推し量るような視線。アマレットには、何を考えているのかまるで読めない。
しばらくの沈黙の後、男の方が先に口を開いた。
「……ここは何処なんだ」
アマレットは、目を瞬かせた。
「え、地上だけど……?」
答えながら、首を傾げる。地上以外に、何処があるというのか。
男の眉が、ほんの少しだけ動いた。
答えあぐねるような沈黙が、しばらく続いた。
男は、アマレットの「地上」という答えに納得したわけでも、怒ったわけでもない。ただ、考え込んでいるように見えた。
(……うーん)
(これ、ほんとに何も知らない感じ?)
(記憶喪失……とか?)
アマレットは軽く頭を整理した。
目の前の男は敵ではなさそうだ。少なくとも、自身を処置してくれた。指揮官でも違法探索者でもなく、気づいたらここにいた。
(つまり、本当に困ってる人)
だったら、こちらから自己紹介するのが筋だ。シルバードーンの先輩たちも「相手の信頼と情報を得たい時は、まずは自分から話すと良い」と言っていた。
アマレットは小さく息を整え、いつもの調子を意識して口を開いた。
「あの……自己紹介、しますね」
男は何も言わない。だが、視線はこちらに向いている。聞く気はあるらしい。
「私はアマレット。中央政府軍直下、シルバードーン部隊の所属です」
「……新人ですけど」
付け加えてから、ちょっと後悔した。わざわざアピールする情報ではない。だが男の表情は変わらなかった。
「隊長はジェリーって人で、すごく頼りになる人なんですよ。ムスッとした顔に見えるんですけど、たまに言うジョークが面白くて……あ、いえ、これは関係ない話でしたね」
話が逸れかけたのを、慌てて引き戻す。男は黙ったまま、視線を逸らさずにいる。表情が読み取れない。
最後に、一番大事なやつを言わないと。
「あと、もう一つ……」
アマレットは、できる限り低い声を作って、表情をキリッと引き締めた。
「──”ルースター”・アマレット」
「今は、そう呼べ……」
西部劇の保安官みたいに。
あの片目で、酒臭い。それでいて頼りになる、あのイメージで。
男は、しばらくアマレットを見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「ルースター……?」
「……西部劇みたいだな」
アマレットの背筋が、ぴしっと伸びた。
いや、伸ばそうとして、傷が痛んで、結局あまり伸びなかった。
でも、残った片目だけは大きく見開かれていた。
「あ、あんたっ、わかるの!?西部劇!?」
声が裏返った。
「片目の保安官の話!知ってる!?酒飲みで、自分の正義を曲げなくて──」
アマレットは前のめりになりかけて、痛みで止まった。でも、口は回り続けた。
「……ジェリー隊長たちは古臭いって言って、誰も話してくれないんだ、こういう話。み〜んな、新しい作品の方が好きだって」
男は、呆れているのか、面白がっているのか、判然としない表情だった。
(あれ、はしゃぎすぎたかな……?)
僅かに間を空けた後、男は短く言った。
「……
名乗ったらしい。名前と呼ぶには短すぎる、一文字のアルファベット。
「V……さん、ですか」
聞き返した直後、男はもう少しだけ、付け加えた。
「Vだけでいい」
「……“元”傭兵だ」
聞き間違いだろうか。
「元」のところだけ、わずかに声が硬かった。
(……名前も、職業も、覚えてる。完全な記憶喪失じゃないんだ)
なら、どうして『地上』が分からないんだろう。
再びの沈黙が流れた後、Vは静かに口を開いた。
「……何か、欲しいものはないか」
「水や保存食料ならある。美味くはないが」
Vの声に、明らかな気遣いが滲んでいた。
(ああ……気を遣わせちゃってるんだ)
その問いに、ふと、アマレットの脳に閃いた。
(あ。これ、今こそ使いたかったやつ)
「いえ、喉も渇いてませんから大丈夫です」
「その代わりと言っては、なんですけど──」
もう一度、格好良く決めてやる。
アマレットは、できる限り低い声を作った。表情も、できる限り鋭く。
「……あんたに、決して断れない申し出をする」
Vの口の端が、ほんのわずかに動いた。
「それ……映画の引用だろ」
「……というか、申し出って何だ?」
アマレットは、目を細めて笑った。
「えへへ……それは、まだ内緒」
Vは小さく息を吐いた。何か言いかけて、やめたように見えた。しばらくの間を置いてから、ぽつりと呟く。
「……まるで、友人と話してるみたいな距離感だな」
アマレットは目を瞬かせた。
距離が近すぎる、と言う意味だ。
普通なら謝るところだが、今は、なんだか、嬉しかった。
「えへへ、友達……」
言いかけて、慌てて口を閉じた。
初対面の相手に、しかも自分を助けてくれた相手に、距離を詰めすぎていた。アマレットは慌てて頭を下げかけて、首がうまく動かないことを思い出した。
「あ、いえ、ごめんなさい……」
「いや、いい……気にするな」
照れ隠しに、別の話題を探した。何かないか、何か。
あった。
最高に格好いい奴だ。
「あ、そういえば──マフィア映画って、ボスとかが格好よく
Vは、軽く首を傾げた。
「そうか?どちらかと言えば……
アマレットは、きょとんとした。
「……それって何か違うんですか?」
Vは一瞬、片眉を持ち上げ、本気で言葉に詰まったような顔をした。
「……シガーは葉巻。シガレットは紙巻きだ」
「葉っぱを丸ごと巻いたのと、刻んで紙で巻いたの。全然別物だぞ」
「……知らなかった!」
アマレットは、できる限り目を見開いた。
残った片目で、できる限り大きく。
(えっ、えっ。それじゃあ、私が憧れてたのはどっちなんだろう)
「あの、こう、口にくわえて、煙をふぅ〜って吐いて、黙ったまま相手を見るだけで、空気が変わるみたいな──」
言いながら、アマレットは想像の中で、その「あの主人公」の姿を思い浮かべていた。
あの帽子とコート。あの目線。沈黙で重圧を与えて、語らずして語る、あの感じ。
「あんな感じの人にね、いつか、なりたいんですよ」
Vは、軽く目を伏せた。
「……そうか」
短い相槌だった。
呆れとは違う、何か別の温度がそこにあった。
その気まずさを申し訳なく感じたアマレットは、自分から口を開く。
「あの……ジェリー隊長、すごく良い人なんですよ」
もはや、先程までの勢いはなかった。
ただ穏やかに、話したいだけだった。
「いつもムスッとしてるって、言いましたけど」
「何かにつまずいた時、必ず手を貸してくれたのが、隊長で」
「言葉は、少ないけど、……最後まで、見守ってくれて」
ゆっくりと喋るアマレットの話を、Vは黙って聞いていた。
「私、新人だから、隊長の役に、立てないんですけど」
「いつか、ちゃんと、頼られる隊員に、なりたかった……」
言葉の最後が、少しだけ尻すぼみになった。
Vが、口を開いた。
何かを言いかけて、すぐに閉じる。
しばらくの間、重い沈黙が流れた。
「……あれ」
アマレットは、自分の声がかすれていることに気付いた。
こちらに向かって伸ばしかけたVの手は、宙で止まる。
Vは軋む音が聞こえそうなほど歯を強く噛み締めた。鼻先がわずかに震える。
一瞬、顔ごと逸らした目線は、すぐにアマレットを見据える。
(えへへ、怪我もしていないのに、Vの方が苦しそうな顔してる)
(……あ)
(私のせいか)
謝ろうとした。
でも、口が思うように動かない。
代わりに、別の言葉が頭の中に浮かんだ。
(さっきよりも……眠い……)
でも、まだ眠ってはいけない気がした。
残った片目で見える光景が、ぼやけていく。
Vの顔も、輪郭が薄くなっていた。
その時、ふと思い出した。
(……「申し出」、まだ言ってなかった)
アマレットは、残った右腕を動かそうとした。
まずは首のチェーンを外さないと。
でも指先が震えるだけで、腕は全く上がらなかった。
(……あれ、さっきまでは動いてたのに)
もう一度、力を入れてみる。
胸の中で何かが軋んだ音を立てた。
何度試しても、腕は上がらなかった。
アマレットはVを見た。
「V……さっき言ってた、『申し出』、受けて、くれますか?」
Vは優しさの篭った目線を向けたまま、短く答える。
「……言ってみろ」
「外して、ほしいです。……首の、ネックレス」
Vは何も言わずに頷く。
無骨な義手のぶ厚い指が、アマレットの首元に近付いた。
あの大きな手が、こんな風に動くことには驚いたが、怖いとは思わなかった。
チェーンの留め金を、指先でそっとつまんで、外す。ガラス細工でも扱うような、繊細な動きだった。
Vの手の中に、銀のチェーンと、二つの小さな金属片が乗った。
一つは
どちらも安価ながら、大切にしてきた宝物だ。
アマレットは、できるだけ深く息を吸った。
「それ──」
「もしも、ジェリー隊長に、会えたら」
どれだけ声がかすれても、止まらない。
「渡して、ください。きっと、力になってくれる、筈……」
「……わかった」
「あと──伝えて、ほしい、ことが」
「……最後まで、戦えなくて、ごめんなさい、って」
途切れ途切れになってしまった。
それでも、伝えたいことは確かな言葉になっていた。
これで、伝えるべきことのほとんどは言えた。
(でも、後もう少し……)
できる限りの息を整えた。本気の覚悟だ。
やっぱり、こういう時は“あの”一番のお気に入りセリフが言いたい。
「……シルバードーンの命により」
「あなたに、託しました」
Vが、ゆっくりと、頷いた。
「……ああ」
言葉を託し終えた直後、視界のもやが酷くなる。
はっきりとはVの顔を識別できなくなっていた。それでも、その表情だけは見える気がする。
眉間に深い皺が寄っている。
ああ、まただ。
またVが、苦しそうな顔をしている。
怪我もしていないのに。
血を流してもいないのに。
アマレットは口を開いた。
「あんた……そんな顔、しないでください」
声が出るのがやっとだった。
でも、Vには届いたらしい。
眉間の皺がさらに深くなった。
(……逆効果だった)
でも本当にそう思ったのだ。
Vが苦しそうにしているのは私のせいだ。
「……もう一つだけ、お願いが……」
Vは静かに頷く。
「あんたは、生きて、ください」
Vの肩がわずかに動いた。
「せっかく、友達になったんだから」
声はもう、ほとんど出なかった。
それでもVは聞き取ってくれたらしい。
しばらくの沈黙の後、Vはゆっくりと頷いた。
「……ああ」
短い相槌。
でも、今度は確かに受け取ってくれたように聞こえた。
アマレットは安心した。
──もう、眠ってもいいかもしれない。
その時Vが動いた。
胸ポケットから何かを取り出している。
古びたタバコケースだ。
使い込まれた金属の表面に何かの紋様が刻まれている。Vが大事そうに扱う様子に、それが彼にとっても特別な物だと察せられた。
「……一本、どうだ」
Vはぽつりと言った。
「もっと、早く出してやればよかったな……」
アマレットは残った片目を見開こうとした。
もう、先程の半分ほどしか開かない。
(……うそ、本物だ)
Vがケースを開けて一本取り出す。
少し細めの紙巻き
Vはゆっくりと、アマレットの唇にそれを挟んだ。
唇に紙の感触。
乾いた葉っぱの微かな匂い。
(……えへへ)
(……本物だ、本物のタバコ)
唇に乗った、ほんの少しの重さ。
憧れていた感覚が今自分の口にあった。
徐々に目の前から光が消え、何も見えなくなる。タバコの紙の感触だけがまだ残っていた。
「あんた……お人よしですね」
「いい人、だ」
Vは何も言わなくなってしまった。
(……あれ?)
「いい奴だな」と言われると、誰だって満更でもない顔をする。先輩や隊長たちだって、そうだった。
でも、Vは違う。『その言葉』を受け入れたくないみたいだ。
ただ、それを聞く時間はもうない。
(あ、記憶喪失じゃなさそうだったし……結局、『地上』のどこに引っかかったか、聞きそびれちゃった)
嗚呼、最期まで、いい人で、変な人だった。
私の最後の、お人よしの、友達。
────────────────
目を瞑ったまま、唇に挟まれた紙巻きが、ほんのわずかに揺れている。
ただ、風で揺れているだけだ。
Vは、ライターを取り出した。
古びた金属製のジッポー。何度も地面に取り落とし、何度も親指で蓋を弾いてきたせいで、表面には細かなへこみと擦り傷が無数に走っている。
静寂の中、火打石が小さな音を立てて、小さな炎が立ち上がる。
Vは、ライターを彼女の煙草に近付けた。
火が先端に触れる。だが、火は移らなかった。
Vは、軽く息を吐いた。
「……っは、タバコの吸い方は、知らないか……」
「火をつける時は、息を吸うんだ」
「なあ、“ルースター”」
返事はなかった。
Vは、ライターを離して炎を消した。
建物の外とは対照的な暗がりに、細い煙の筋だけが残る。
しばらくの間、Vは彼女を見ていた。
……俺は、そんなんじゃない。
お人よしでも、いい人でもない。
彼女は見間違えただけだ。
俺が今まで殺してきた人間の数を、彼女は知らない。何を選んだかも、知らない。
知っていたら、あんな言葉は出てこなかった筈だ。
ジョニーの声が、頭の中で響いた。
(おい、V……最後の願いだ。叶えてやれよ)
彼女の代わりに、火を。
一瞬、敬虔な信徒かのように目を瞑る。
彼女の唇から、指先でそっと煙草を抜きとり、柔らかく咥えた。
ライターの炎を煙草の先に当て、──ゆっくりと息を吸い込んだ。
胸の奥に、乾いた葉の煙が広がり、頭の芯がじんわりと痺れた。甘く苦い、懐かしい味。
肺が少し熱い。喉がざらつく。
久しぶりの辛い煙の味だ。
肺の中に溜まった何もかもを乗せて、煙を吐き出した。
紙巻きタバコの先端が、赤く灯る。
Vは、それをもう一度、彼女の唇に挟んだ。
彼女はもう、何も言わなかった。
ただ、紅い火が唇の先で、静かに燃えていた。
燃えるものがなくなれば、火は消える。
後は、緩やかに自分の灰に埋もれていくだけだ。
Vは、片膝を立てて、壁に背を預けた。
立てた膝に、肘をつく。額に、指先を当てる。
俺に、頭を抱える資格はない。
煙草の先端が、ゆっくりと灰色に染まっていく。赤い光が、小さくなる。
最後に、細い煙が一筋、空気の中に立ち上った。
その一筋が、溶けて消えさるまで。
Vは、動かなかった。