噂によると / Legend Has It [CP2077 × NIKKE] 作:Narrenschiff
月の光は薄く、地表の凹凸を照らすほどの仕事はしない。シルバードーン部隊の先頭で、ジェリーは
後ろのノチェロも同じ動作をしている。シャルは元から覆っている大型バイザーの暗視機能を呼び出したようだ。
目の前の景色を見渡した。ここを戦場と呼ぶには、あまりに荒涼としていた。元々、ここには廃ビル群があったはずだった。それが今は、ほぼ平地になっている。一部が瓦礫の山となって残っていなければ、彼らもそこが元ビル群だと気づけなかっただろう。
その上に、ラプチャーの残骸が転がっている。脚部、装甲の欠片。コアを撃ち抜かれて停止した個体もいれば、木っ端微塵に砕かれた個体もあった。特に目を惹くのは、力任せに叩き潰された残骸。ニケの銃火器で起こせる結果ではない。
「……隊長」
シャルが、抑えた声で報告する。
「あれを、見てください……」
ジェリーは小さく頷いた。視線をその巨体に向ける。胴体の中央が大きく弾け、ラプチャーコアがあった部分は、最早赤い晶片が僅かに散らばるだけとなっていた。よく見ると、弾けた穴の縁が外側に突き出ている。何かが装甲内部で爆発したかのような跡だった。
タイラント級ラプチャー『ブラックスミス』は複数の部隊で総力を挙げて、ようやく仕留められる相手だ。それが、こうなっている。
「隊長〜、こっちこっち!」
ノチェロが、小柄な体を屈めて地面を指した。彼女は他の隊員と比べても頭一つ以上小さい。ゴーグル越しに見上げてくる視線の角度が、彼にはいつもより低く感じられた。
ノチェロの指先には、跡があった。地表に擦れた血の筋が、一定の幅で続いている。それがアマレットのものだ、とは誰も口にしなかった。それを口にしてしまえば、彼女が生きていることを前提にできなくなる。
「……もう、一日近くなりますね」
シャルが、半ば自分に言い聞かせるように呟いた。語尾が掠れる。生存の可能性を、声に出さずに数え直した跡だった。
彼女の言う通り、アマレットと逸れたのは一日前のことだった。廃ビル群でなら身を隠して動ける──その判断が、浅はかだった。
約八メートル級の巨体が休眠していたことに、誰も気づけなかったのだ。接近を感知した個体は、身の丈の数倍の高さまで跳ね上がり、部隊を分断した。
ジェリー達三人にできることは、『ブラックスミス』を出来る限り惹きつけながら東へ撤退することだけだった。
「急ぎましょ〜よ、隊長。急ぎましょう!」
ノチェロの声が、いつもより半音高い。アマレットの生存に縋る熱が、その声に滲んでいる。
ジェリーは答えなかった。代わりに、短く両手を広げた。隊員が散開し、血痕を挟むようにして進行陣形を組んだ。後方を気にしつつ、即座に指揮を執れるよう、最後尾にはジェリーが付く。
月光の下、平らに均された地から見える向こう側。辛うじて崩れずに残った構造物が幾つか立っていた。その一つ。半ば壁を失った建屋に、血の点線は続いていた。
ジェリーは、その場から振り返って残骸の戦場を見た。一体誰がこれを、と問う余裕は、この三人にはなかった。
思いを巡らせる間もなく、ジェリーは血の跡が続く廃ビルへと視線を戻した。ゴーグルとバイザーの薄緑が、空間の輪郭を浮かび上がらせる。月光に照らされた血痕は、彼らを導く様に入り口の中へと続いている。三人は、無言で進んだ。
月光の帯が、壁から廃ビルの中まで伸びている。その陰に、アマレットがいた。見つけた瞬間は──ノチェロが息を呑む音だけが聞こえた。
シャルは動かなかった。バイザーの内側は誰にも見えなかったが、静かに感情を処理している。
ジェリーは数歩だけ進み、そこで止まった。彼は暗視機能を切り、ゴーグルを持ち上げる。選択の結果から、目を背けてはならない。彼は自身の信条を反芻したが、息が止まるような思いは薄まらなかった。
「……隊長」
シャルの声が、いつもより一段低い。
「死後……数時間は経っています。ブレインシェルターでも、もう……」
ニケは、ほぼ不滅の存在である。その技術的由来は神々から火を奪い、人間へ与えた神話を想起させる。彼らはラプチャーを神とは呼ばない。だが、その火を盗んだ事実は消えない。
そのおかげでニケは、頭部さえ無事であれば蘇ることができる。ジェリーがブレインシェルターを用意したのもそのためだ。
だが、既にその時期は逸したということを、“場数“を踏んできた彼は、見ただけで分かった。解ってしまった。ジェリーは、低く息を吐いた。
「それに、これは……、この遺体の状態は、普通ではありません……」
シャルの語尾が、僅かに揺れた。彼女は経験豊富な兵士だ。だが、その経験こそが、彼女が見ているものに対する戸惑いの原因だった。
「問題は……これを、誰が、何のためにやったのか」
「〜っ!う、ううっ……アマレット〜……っ!」
崩れ落ちるようにノチェロが膝を折った。膝が床にぶつかる音が鈍く反響する。向かう場所が分からなくなった腕が、力無く彼女の腿に落ちる。
「〜〜ッ!……ぅう…、……!」
だが、彼女も兵士だ。地上で騒ぐことの危険性は理解している。一度爆ぜてしまった
三人とも等しく、悲しみは胸の底から溢れんばかりだ。それでも、何が起きたのかを突き止めねばならなかった。
床に散らばった道具類。工具とも医療器具ともつかない、得体の知れない代物がいくつも転がっている。アマレットはこれらで
使い捨てられた道具とは裏腹に、アマレットだけが、安らかだった。まるで、眠っているだけのように。仰向けに横たえられ、両の手は、胸の上で静かに組まれている。
傍らには、封の切られた水と、手つかずの携行食。どちらも、アークの支給品ではなかった。
そして、ふと——この場にあるはずのない匂いが、鼻をかすめた。その時──
「……隊長!」
ノチェロが顔を上げた。涙の溜まった目が、アマレットの首元を見ている。
「アマレットの、ネックレスと、部隊章が……ありません……!」
シャルが屈み込み、遺体の周辺を確認した。床、衣服の中、瓦礫の隙間。数秒の後、シャルが静かに言った。
「……何処かで落としたか、……盗まれた、のでしょうか。誰かに……」
ノチェロが、ジェリーを見上げた。彼女は答えを求めている。シャルの言葉が指す『誰か』が、処置の施術者なのは明らかだったが、ジェリーは沈黙したまま首を振り、もう一度室内を見渡した。
散らばった道具。処置された遺体。なくなった遺品。どれも繋がらない。繋げるための何かが、足りていなかった。
これまでの情報を本部に送るため、ジェリーは通信を試みた。だが、応答はない。雑音さえ返ってこなかった。エブラ粒子の濃度による影響はないはずだったが——それでも、繋がらなかった。
ジェリーは口を開いた。
「ノチェロ」
短く、低い声だった。答えが貰えると思ったノチェロの表情が僅かに和らぐ。
「……アマレットの頭部とコアを、シェルターに収めろ」
「お前一人で、アークまで運ぶんだ。……エレベーターまでの道にはデコイを撒いておいたはずだ」
ノチェロが、ゴーグルの下で目を見開いた。
「……隊長」
「お前の隠密能力が、必要だ」
ジェリーは続けた。声のトーンは変わらない。だが、そこに感情がないわけではなかった。短い言葉の中に、選び抜いた重みがあった。
「俺たちは、ここに残る。まだ続きがあるはずだ」
「……っ、それは、……っ危険、です……!」
ノチェロの声が、震えた。隊長と、シャル。たった二人で、ラプチャーを壊した”怪物”に当たる——その意味を、彼女は誰より理解していた。
「だから、お前を行かせる」
ジェリーの返答に、迷いはなかった。
「ここで三人とも倒れれば、見たものすべてが消える。アマレットも、帰れなくなる」
反論の言葉は、見つからなかった。それが正しいと、分かってしまったからだ。
「俺たちが戻らなかった時のためだ。──アマレットを……頼む」
ノチェロは、もう一度だけ口を開きかけた。何かを言いかけて、飲み込んだ。鼻の奥で短く息を吸う。涙が、ゴーグルの縁から落ちる前に、ノチェロは目元を一度だけ拭った。
「……はい」
絞り出すような返事だった。
「了解、しました〜……隊長……」
ノチェロが、丁寧な手つきでアマレットに屈み込んだ。
────────────────
「アマちゃんのこと、頼みましたよ。ノチェロ……」
シャルの呟きを最後に、ノチェロの姿は闇へ消えた。情アマレットを連れ帰るという重大な任務と、情報を背負って。残った二人は得体の知れない技術と戦闘力を持つ”異邦人”を探すため、ビルを離れる。
周辺の探索は、慎重に進めるしかなかった。二人で四方を警戒しながら瓦礫の合間を縫い、街路をひとつひとつ確かめながら歩く。痕跡があるとすれば、この戦場の中だ。だが、アークの銃とは規格の異なる薬莢以外は見つからなかった。
時間だけが過ぎていく。体感十五分ほどが経った頃、シャルが歩みを止めた。互いの背を預け合う距離で歩いていたジェリーもほぼ同時に止まる。基礎的な戦術行動だが、誤差の小ささから信頼感が滲む。
シャルは右手を挙げ、ジェリーに待機を指示する。こういう時、彼女はバイザーの下で聴覚に意識を集中させている。首がほんの僅かに右へ傾き、そのままの姿勢で動かない。
ジェリーも同様に耳を澄ました。夜の地上は、驚くほど静かになる。風の音と、自分の呼吸音だけが残る。それ以上のものは、彼には捉えられなかった。
数十秒の沈黙の後、シャルが口を開いた。
「隊長」
声は抑えていた。
「音が……聞こえます」
「どんな音だ」
「規則的な、金属音です。間隔は一定ではありません。ですが……繰り返し、……生じています」
ジェリーは、もう一度耳を澄ました。何も聞こえない。彼女の聴覚を信じるほか、選択肢はなかった。
「方向は?」
シャルの挙げたままだった右手が、廃ビル群から遠く離れた地平を指す。
ジェリーは視線を辿る。だが、暗視機能では不自然な白飛びが見えるばかり。強い光源によって像が塗りつぶされている。一瞬、彼の思考が空転する。地上の光源は限られている。太陽、月、生き残った僅かな電気施設、ラプチャーの瞳。
戦術ゴーグルの望遠に切り替える。潰れていた光が、揺らめく輪郭を取り戻す。地上の光は、こうは踊らない。
──火だ。
視認した瞬間、眉間に刻まれた皺が深まる。地上で火を焚く。それが何を意味するか、
ラプチャーは熱に反応する。熱だ。目視圏外からであっても、相応の熱源があれば集まってくる。地上に於ける火の使用は、絶対の禁忌だ。緊急時の合図ですら、専用の発煙弾を使用する規定となっていた。
自然発火の可能性を、ジェリーは即座に切り捨てた。構造物も枯れ草もない平地の上で、あの規模の火が独りでに上がる理由はない。誰かが、意図的に焚いている。
ありえない、ことだ。
シャルが、火の方角を見たまま、低く呟いた。
「……隊長」
返事の代わりに、ジェリーは手信号で進路変更を指示した。誘蛾灯に吸い寄せられるかの如く、
火に近づくにつれ、ただの焚き火ではないと分かってくる。様相はまるで巨大なキャンプファイヤーであったが、火元で組まれていたのは薪ではない。
──ラプチャーの残骸だ。
千切られ、或いは歪められた灰色の装甲が不自然に燃やされている。本来であれば、
──カチ。
硬い金属音。シャルの情報と一致する特徴だ。間近で聞いたことで、ジェリーの中で一足飛びに像を結ぶ。あれが撃鉄の落ちる音だと先に気づいたのは、ジェリーだった。
残骸の影から覗き込むと、火のそばに人影が見つかる。
──引いた。
カチ、と乾いた音だけが鳴った。不発に終わった銃を下ろし、燃料を掴んで無造作にくべた。含まれる不純物により炎が弾け、破片が男の頬を掠めたにも関わらず、何の反応もなかった。見ていた二人の方が、心臓を震わせた程だ。
この男は自身を的としながら、火を燃やし続けている。死を望み、夜明けを待つ。その矛盾が、得体の知れない危うさとなって滲み出ていた。それでも、ジェリーは自身の選択が、アマレットに何を齎したかを確かめなければならなかった。
ジェリーはシャルに待機を命じ、一歩ずつ遮蔽物から出た。掌を向け、数歩近づく。刺激しないよう、言うべきことを頭の中で組み立て、口を開きかけた。その瞬間だった。
「──あんたが、ジェリー隊長か?」
最初に声をかけたのは、男の方だった。顔はジェリーに向けられていたが、視線は定まっていない。火明かりが、その顔を照らす。短い黒髪。伸びかけた無精髭。こめかみと目元に、機械の埋め込みが覗いている。
男がなぜ、自分の名を知っているのか——その問いより先に、眉間の皺が自然と深くなった。男が、ジェリーの渋面を見て息を吐いた。笑った、ようにも感じる仕草。
「……は、……いつもムスッとした顔してるって、言ってたもんな」
『誰が』言っていたのか。ジェリーは、その答えが間近にあることを直感していた。
静寂が続く月夜で、炎だけが騒がしく踊っていた。やがて、男が動いた。火に向けていた体を、ジェリーの方へ向ける。
土埃にまみれ、装いの随所には乾いて黒く固まったラプチャーの体液がこびりついていた。無精髭の浮いた頬は痩せこけ、唇は乾いてひび割れている。
「アマレット……、いや、あんたらの隊員から……預かってたものが、ある」
始めにジャケットの裏地で手を拭い、懐から取り出したのは、汚れた男とは対照的な物だった。柔らかく、清潔で、強度に優れた大きな白布。それに包まれた『何か』を、男は左掌に載せる。決して、指で触れようとはしない。それを、ジェリーの方へ差し出した。
声は、ひどく乾いていた。掠れて、ところどころ音が抜ける。月が雲に隠れ、火だけが頼りとなった。
両手で掬うように受け取ったジェリーの指に、硬いものの感触が伝わる。この、清らかな布を開く。チェーンネックレス。認識票と、部隊章を象ったコイン。間違いなく、すべてアマレットのものだ。
失われたと思っていたもの。盗まれてなどいなかった。清潔な布に包まれ、保管されていたのだ。ジェリーは、布ごとそれを握り込んだ。
「……それと……
言葉を探しているようには見えなかったが、男の言葉には長い間があった。
「伝えてくれと、頼まれた……」
手の中のネックレスに目が行き、ジェリーは男の言葉にすぐには応じることができない。この掌に収まる、小さな金属板の重さに堪える。
「……待て」
短く、深く呼吸して息を整える。
「その言葉を聞く資格のある者が、……この場にもう一人いる。……呼んでいいか」
男の目に拒む色はなかった。ただ、その目線は所在なく泳いでいる。自分がこの役目を果たせるとは、思ってもいなかったような——そんな空白が、そこにあるだけだった。男は、何も言わずに頷く。
ジェリーは、背後の闇に向けて短く合図を送る。瓦礫の陰からシャルが現れる。足音を殺し、ゆっくりと近づいてくる。男から数歩の距離で立ち止まり、何も言わず、ただそこに立った。
火が、燃材を噛んで低く唸る。だが、そこにいる者たちは誰一人気づかない。
「……最後まで、戦えなかったことを」
「あんたに、……ジェリー隊長に、謝っていた」
男は粛々とアマレットの言葉を代弁する。乾いた声が、可能な限りの誠実さを纏って紡がれる。
「……彼女は、立派だった」
一度言葉が途切れる。
「彼女は戦っていた。……最後まで、勇敢に戦った。……そう、思う……」
掠れて消えていった、最後の『思う』だけが、ほかのどの言葉よりも明瞭に聞こえた。
男の唇が、まだ何かを形にしかけて——止まった。
燃料が切れて炎が翳る中、雲の切れ間から月明かりが戻る。乾いて、涸れ果てたはずの場所から、それでも滲み出てくるものが奥で揺れている。そこで見えたのは、感情の宿った瞳だ。そして、ジェリーは確信した──何があったのかは、まだ分からない。だが、少なくとも、この男はアマレットの最期に、悪意で関わったのではない。
──隣で音がした。シャルが拳を握る音だ。手袋の革が軋むほど、強く。彼女は前を直視できずにいた。顔を上に向け、下に向け、完全に行き場を失っている。バイザーの下で、何かを必死に押し殺していた。握りしめた拳を震わせたまま、彼女は、声を絞り出す。
「……あの、アマちゃんを、アマレットを、治療してくださったんですよね」
その言葉が、男に届いた瞬間──先程、奥で揺れていたもの。感情の灯りとも呼べたそれが、別の色に塗り替わった。
「──あれは、治療なんかじゃない!」
乾いた喉が、火を噴くように張り上げられた。夜の静寂を引き裂く。シャルが、小さく息を呑んで身を引いた。自分の言葉が、この男の中の何かを突いてしまったことを、彼女は一拍遅れて理解した。
男は肩で息をしていた。だが、激情は長く続かない。急速に力が抜けていく。次に口を開いた時、声はもう、低く掠れたものに戻っていた。
「俺がやったのは、治療なんてものじゃない」
男は、自分の両手を見下ろした。
「俺がやったのは『救命』じゃない。ただの……『延命』。少し、先延ばしにしただけだ」
手の中に、ありもしないものを見ているようだった。
「安らかな眠りから目を覚まさせて……それで、どうなった。もう一度、自分が死ぬしかないってことを、突きつけて……」
その声には悔いしか乗せられていなかった。
「俺があいつに与えたのは、苦痛だけだ」
長い時間をかけて、自分に刻み込んできた結論だった。
「最後に、時間を押し付けて。余計に苦しませて。それだけだ。それ以外の、何でもない」
男は、口を閉じた。
突如、ジェリーの拳が男の顔を打った。鈍い音がして、頭が横に流れる。だが、それだけだ。倒れもせず、よろめきもしない。痛みは殴ったジェリーの方がずっと酷い。拳に痺れるような鈍痛が走る。到底、人を殴った感触ではなかった。
男は殴られるに任せ、ゆっくりと顔を戻す。打たれた頬には変化一つ見られない。その口が、動いた。
「……あんたが怒るのも、当然だ」
乾いた声で、男は言った。
「俺は、アマレットの最期を汚した。だから──」
躊躇なく、ジェリーは拳で同じ場所を打つ。今度は、身体がわずかに揺れた。物理的な衝撃のせいではない。打たれた瞬間、男は胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
「黙って、聞け」
ジェリーの声は、低かった。怒鳴ってはいない。だが、有無を言わせぬ重さがあった。
「お前は、何も見えていない。見ようとしていない」
そこで初めて、男とジェリーの視線に焦点が合った。ジェリーが、痺れる拳とは反対の手でネックレスを握る。
「あの部屋に入った時、彼女の衣服にはまだ煙草の匂いが残っていた。アークでも中々手に入らない、本物の匂いだ」
男の表情が、固まる。
「あの子が煙草に憧れていたのは知っている。微笑ましい夢の一つだと、聞き流していた。今ほど、それを悔いている時はない」
火が、爆ぜた。
「だが、あの子は最期にそれを叶えた。お前が、吸わせてやったからだ」
ジェリーの目は赤く充血し、今にも悲しみが溢れそうだった。
「それを……苦痛と呼ぶのか」
男は、答えられなかった。
「俺は、それが許せん……」
「……だが、何より許せんのは──お前の選択が作った時間に、我々が……俺が、間に合わなかったということだ……!」
沈黙が落ちた。
その時、シャルが、口を開いた。ずっと黙っていた彼女が、震える声で、しかし確かに言った。
「……遺体が、綺麗に、整えられていました」
男の肩が、跳ねた。
「ちぎれた腕も、汚れも……丁寧に、直されていて……あんなこと、苦痛だけを与えた人間が、するはずがありません」
男は、何も言わなかった。言えなかった。シャルが潤む声で続けた言葉は、夜に溶けていった。
そして──男が崩れた。膝が地につく。背が折れ、両手が顔を覆う。喉の奥から、堪え切れず声が漏れた。最初は、軋むような、掠れた音だった。それが、次第に大きくなる。乾いて、涸れ果てたはずの身体から、嗚咽が溢れ出した。
子供のように、声を上げて泣いている。
飲まず、食わず、死ぬことすら許さない。人であることすら、自らに禁じる。絶えず己を罰してきた。その男が、初めて泣いている。
ジェリーは膝をついた。立ったまま見下ろすのではなく、同じ高さに降りる。厚みのある手を、泣き崩れる男の方へ、ゆっくりと差し伸べた。
火はとっくに消えていた。あれほど夜を焦がしていた狂気の灯りも、燃料を失い、尽きていた。
それでも、もう暗くはない。地平の向こうから、柔らかな銀の光が、ゆっくりと世界の輪郭を取り戻していく。