噂によると / Legend Has It [CP2077 × NIKKE]   作:Narrenschiff

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6.知れば知るほど、 / The _____ I Know the Better

 

────────────────

 

 ジェリーの声は低く、よく錆びた金属のように転がった。

 

「──つまり、お前の言うことを最初から整理すると、だ」

 

 食事と小休憩のため、三人が円を囲む。

 焚き火はない。地上で火を焚くのは、居場所を晒す行為に等しいと教わった。携行ランタンの冷たい光が、三人分の影を岩肌に貼りつけている。

 

「手足に走る主要な血管(エネルギーパス)をお前は切った。そして、縫った。頭と胴を生かすために」

 

 一度説明したことが、簡潔にまとまっていた。俺が並べた自罰の言葉は、淡々と削ぎ落とされている。残ったのは、事実だけだ。

 

「ああ……そうやって死ぬまでの時間を、引き延ばした」

 

 俺の言い直しに、空気が澱む。

 ジェリーが呆れ交じりに鼻から息を抜く。

 

「言っておくが、四発目は殴らんぞ。この歳だ、拳が保たん」

 

 言葉を聞いて、俺は肩をすくめた。

「お前は優しい方だ。俺がいた場所なら、蜂の巣になるまで撃たれてる」

 

 シャルが、バイザーの下で小さく口元を動かした。アンバー色の(ひさし)が、ランタンの光をぬるく弾いている。

 

「私やアマちゃんのような──ニケは、脳さえ無事なら、後で手足は元に戻せるんです」

 

 ジェリーが続きを引き取った。

「お前の出した判断は、正しかった。慰めじゃない。技術的な話だ」

 

 正しかった──その言葉を受け取る場所が、俺の中のどこにも残っていない。

 ジェリーが頭を下げた。深く、ゆっくりと。シャルもそれに倣う。

 

「礼を言う。あの子は、独りではなかった」

 

「やめてくれ……、俺だって続けて二度は泣きたくない」

 比喩じゃない。受け取ったものが、目の縁まで迫っていた。話を逸らす為に、缶から一匙掬って口へ運ぶ。

 

「やっぱり、不味い……地獄の味だ」

 途端に味を貶す。照れ隠しではなく、心の底からそう思う。

 

 配給は、二種類あった。

 一つは俺がアマレットのために持ってきていた缶タイプ。冷えた油脂の塊に、繊維が沈んでいる。噛むと蝋みたいに崩れて、ザラついた豆の舌触りがした。食い物の質には拘らない方だったが、その俺にとっても、これは下の下だ。

 三人で一匙ずつ、順番に回して啜る。

 

「腹に入れば同じ燃料だ。文句を言うな」

 ジェリーが、別の包みを寄越した。

 

 パッケージングされた、軍の携行食だ。

 携行型ピザだと言うが──違う。これはチーズとサラミっぽいものが乗っただけの板だ。

 板を齧る。塩気と、わずかな甘み。平時なら到底美味いとは思わないだろうが、地獄の缶に比べると星をつけてもいいと思ってしまった。

 

「断っておくが……普段はもう少し、まともなものを食ってた」

「……特に“ピザ”はな」

 俺は、愛憎の籠った目で板を見つめる。

 それを見ていたシャルが、喉の奥で小さく笑った。

 

「ふふ、少し意外です」

 

「食えりゃいい。だが、ピザは別だ。あれだけは、譲れない一線がある」

 

 それからしばらくは、誰も喋らなかった。強いて言えば缶が回ってきた時だけは、皆少し嫌そうな表情をしていた。冷えた油を回し、噛み、飲み下す。それだけの時間が流れた。

 

「ひとつ、訊いていいか」

 ジェリーの声が一段と低くなった。

「お前の過去に何があった?……全てを話せとは言わん。語る内容はお前が決めろ」

 

 缶の油が、喉の途中で固まった気がした。

 隠す話でもない。隠したところで、こいつらには関わりのない過去だ。俺は缶を膝に下ろした。

 

「俺は……あの街で傭兵をやっていたんだ。そしてある時、全てを失った。仲間も、サイバーウェアもだ」

 ランタンの光が、瞬きもせず俺たちを照らしている。

 

「……幻聴が聞こえるようになったのも同じ時期だ」

 

「幻聴……ですか」

 

 シャルが繰り返した。問うというよりは、驚きが隠せなかったという響きだった。

 

「ああ。亡くなった親友のな。いちいち俺に文句をつけてくる。本物じゃないのは分かってる。分かっていて……それでも、頼りたくなる瞬間がある」

 

 ジェリーは、しばらく黙っていた。

 それから、トーンを落として言った。

 

「全てを喪い、亡き者の声を連れ歩いている。身に刻んだ機械さえ、一度は失くした。……だが、今もそのサイバーウェアたちを、纏っていると」

 

「ああ、どういう理屈かは分からない。気づいたら、その状態でここにいた」

 俺は自分の腕──義手の継ぎ目を叩いてみせた。言い終えてみると、自分でも、ひどい話だと思う。

 缶を回す手が止まっていた。

 

「……これは、お前のものだろう。返しておく」

 ジェリーが、胸ポケットから何かをつまみ出した。一本の紙巻きタバコ。皺ひとつなく、丁寧に保たれている。

 あの晩、俺がアマレットに供えた一本だった。

 

「いや、俺のじゃない。アマレットにやったものだ……どうせなら、あんたが使ってくれ」

 

「……俺は、もう禁煙した」

 ジェリーは困ったように眉を寄せ、それでも指先で挟み直した。

「まあ……預かっておこう」

 

 シャルが、また喉の奥で笑った。何か言いたげな顔をした後、納得したように彼女がこくりと頷いた。

 ジェリーが立ち上がる。膝の関節が音を立てた。

 

「続きは、歩きながらだ。今のうちに距離を稼ぐぞ」

 

────────────────

 

 夜気は乾いて、冷たく頬を叩く。軽く空を見上げると、昔バッドランズで見た星空を思い出す。危険度でいえば、ここもあそこも大差はない。

 荒れた地表を、三人縦列で進む。

 先頭はシャル。キロシの義眼が闇を舐めるように、迷いなく道を選んでいく。俺は真ん中。最後尾にジェリーが付いて、全体を見ていた。

 

 その最後尾から、ジェリーが口を開いた。

 

「ひとつ、確かめておきたい。戦場跡で、見慣れん吸入器を拾った。お前のものだろう。あれは何だ」

 

「マックスドク」

 俺は振り返らずに答えた。

 

最高の医者(マックスドク)?」

 馴染みの薄い言葉に、ジェリーが鸚鵡返しに問いを重ねる。

 

「ああ、身体から痛みをとって、動けるようにしてくれる。その代わり、治療は何ひとつしちゃくれない。……最高だろ?」

 当然、皮肉だ。

 

「強力な薬ではある。副作用はどの程度だ?」

 軍人として気になるようで、珍しくジェリーの食いつきがいい。

 

「使い過ぎれば中毒を引き起こす。そこは麻薬と大差ない……だが、俺の世界では、使うか迷った瞬間に死が訪れる」

 

「物騒な世界だな」

 ジェリーの声に、咎める色はない。むしろ、共感に近い。

 

「ああ。ナイトシティは、迷いが命取りになる街だった」

 

 名を出すと、最後尾のジェリーがしばらく黙った。記憶の棚を、片端から検めるような沈黙だった。

 

「……やはり、ナイトシティという語には聞き覚えがない。地上にあるというエデンとも、違うようだな」

 

 楽園(エデン)。ここまで来ると笑えてくる。

 その単語が、あんまり俺の故郷から遠かったからだ。

 

「楽園が何かは正直知らないが、ナイトシティは地獄だ」

 

 夜の地表に、足音だけが続く。

 

「表向きは、ナイトシティは夢を叶える街と言われてた。なんだって揃ってる。金、名声、不死に近い身体。……頂点についてだけ言えばな」

 

 俺は自分の右手(ゴリラアーム)を少し挙げ、一度握って、手放すように開いた。

 

「下の連中には、糸の一本も垂れてこない。さらに下を見て気を紛らわせてる。そういう街だ」

 

 口に出して初めて気がついた。他人事のような言い方──俺はまた、自分(じごく)から目を逸らしていた。

 

「……そして、俺もその街の住人だ」

 

 ジェリーもシャルも、急かさなかった。ただ、夜が聞いていた。

 

「さっき、……親友が亡くなったと言ったよな。それは正確な言い方じゃない」

 

 俺は一度、言葉を切る。切らなければ、続けられなかった。

 

「──俺が殺した。この手でだ。事故でも……流れ弾でもない。俺が選んで、俺が終わらせた」

 

 右手の指が、強張りを見せた。数トンの握力。掴もうと思えば、なんだって掴める。握り潰せる。あの時だって、そうだった。

 

「あいつは納得して、笑ってた。礼まで、……言いやがった。……殺したことに変わりはない。アイツが納得しても、選んだ俺はそうじゃなかった」

 

 ジェリーも、シャルも、静かに俺の言葉を待っていた。

 俺は、自分の頭を軽く指で叩いた。

 

「地獄は、ここにある。街を離れたところで、なくなりはしない」

 

 指で叩いた、その奥を意識する。クロームに囲まれてなお、生身で残っている脳を。

 

「毎晩、夢を見ていた。山盛りのクロームを使って人助けをしたり、馴染みの店でお袋の味って奴を懐かしんだり……だが、最後の方には、決まって笑いながら何もかも壊して回る」

 

 言葉にすると、寒気がした。あれは悪夢のはずだ。なのに夢の中の俺は、心底楽しそうにしていた。

 

「殺して、殺して、それでも足りない。もっと強い手応えを探してる。……目が覚めるたびに思う。あれは、俺じゃない。だが、そうなりかけてる……そんな気がする」

 

 夜明けには、まだ間があった。

 しばらくは足音だけが続いた。先に口を開いたのは、俺の方だ。

 

「クロームは万能じゃない。入れるほど、人間と機械の境界線(エッジ)に近づいていく。そこを越えれば、別の何かに成り果てる」

 

 俺は自分の身体を一瞥した。どこが生身で、どこが機械か、もう自分でも判じかねる手だ。

 

「俺はまだ、踏み越えちゃいない。……だが、ここに来てから、その境界線がはっきり見えるようになってきた」

 

 先頭のシャルが、足を緩めた。バイザーの庇が、わずかにこちらへ傾く。

 

「……それは、私たちの言う“思考転換”に、近いのかもしれません」

 

「思考転換?」

 

「ニケの脳が、強いショックを受けた時に起きる現象です。性質そのものが、作り変えられてしまう。記憶や情の一部が削げ落ちて……変わったものは、元には戻りません」

 

 人間性をすべて振り落として、火の海で一人笑う。夢の中のアレと、よく似ている。

 シャルは淡々と続けた。

 

「もう一つ、似て非なるものもあります。“侵食”です」

 

 聞き慣れない響きに、俺は先を促す代わりに黙った。

 

「原因は、ラプチャーが作った、ニケ専用のウイルスです。脳に流し込まれると、眼が赤く光り、制御を内側から奪われる。本人の意思とは関係なく、人類を狩る側へ回される」

 

 シャルは一拍置いて、付け足した。

 

「思考転換が壊れることなら、侵食は……乗っ取られることです」

 

 壊れるか、乗っ取られるか。

 どちらも、覚えがありすぎた。前者は、俺が毎晩なりかけているものだ。後者は──頭に他人を住まわせた、あの感覚に似ている。

 どちらがまだマシなのか。いや、と思い直す。どちらにせよ、最後に残るのは俺の形をした別物だ。

 

「……どこもかしこも、行き着く先は似たようなもんだな」

 

 シャルは、ゆっくりと頷いた。同意というより、その重さを受け止めるような頷き方だった。

 

「ええ。……私たちは、壊れた仲間も、奪われた仲間も見てきました」

 

 声は、いつもの落ち着きを保っている。だが、その下に、薄く別の温度が滲んでいた。

 

「自分がいつか、そのどちらかになるかもしれない。狩る側に回って、誰かに引き金を引かせてしまうかもしれない。……ニケなら、誰でも一度は、それを思います」

 

 バイザーの庇が、夜の先へ戻る。

 彼女がこれまで見てきたもの。それを推し量ることは、俺にはできない。

 

「だから、あなたの言うことは、わかる気がするんです。境界線が見える、という話は……他人事ではありませんから」

 

 俺は、何も返せなかった。

 肉体が死ぬか、精神が壊れるか、意思を奪われるか。その怖さと、こいつはまっすぐ向き合おうとしている。──俺が、目を逸らし続けているものに。

 

 やがて岩棚が途切れ、窪地に出た。岩に遮られて風が止み、途端に寒さが弱まる。ジェリーはその場で足を止め、周囲の地形をぐるりと見まわしている。

 

「今日は、ここまでだ」

 

 提案ではなく、指揮官としての決定を告げる声だった。

 

「明日の早朝に出れば、昼前にはあのエレベーターに着く。ノチェロが使ったやつだ。──夜通し歩いて、消耗した足で着いたところで、いいことはない」

 

 俺は異論を挟まなかった。理にかなっている。眠れるとは思わないが、座れるだけでも違う。

 

「ノチェロは……無事に、降りられたでしょうか」

 

 シャルが、誰にともなく言った。さっきまでの硬い声とは違う、仲間を案じる響きだった。

 

「出てから、丸一日が経つ。あの距離だ、とうに着いていなければおかしい」

 

 ジェリーの声が、不安の側に傾いているのが分かった。

 

「本来なら、着いた時点で報せが入る。……だが、昨日から通信が死んだままだ」

 

「繋がらないのか」

 俺が訊くと、ジェリーは頷いた。

 

「ああ。ノチェロが無事に降りられたかどうかも、こちらからは確かめようがない。……だが、あいつは隠れるのが、誰よりも上手い」

 

 だから心配ない、とは言わなかった。代わりに、そう信じている、という願いだけが残った。

 

「……必ず、無事です」

 彼女が静かに言い添えた。仲間に向けるというより、自分に言い聞かせるような声だった。

 

 ジェリーは頷くと共に小さく息を吐き、声の調子を変えた。

 

「……シャル。夜更け前に、デコイを頼む。範囲は、いつも通りでいい」

 

「はい……」

 

 シャルは短く応じると、装備袋から何かを取り出し、迷いのない足取りで闇へ溶けていった。何を撒くのか、どういう理屈で機能するのか、俺には分からない。だが、あれを置けばラプチャーが寄ってこないらしい。この世界の流儀だ。いちいち訊くのはやめておいた。

 

 残ったのは、俺とジェリーの二人だった。

 

 しばらく、どちらも口を開かなかった。ジェリーは岩に背を預け、夜の一点を見ている。何かを、決めかねているような沈黙だった。

 

 やがて、よく響く声がした。

 

「お前は、自分の地獄を見せた。頼んでもいないのに、洗いざらいだ」

 

「飯を不味くさせたか? ……いや、あの味は元からだったな」

 

 ジェリーが、鼻で軽く笑った。それから、その笑みを夜気にゆっくり溶かすように、声を低くした。

 

「だから、こちらも一つ、見せておくのが筋だと思ってな」

 

 俺は、先を急かさなかった。さっき、こいつらが俺にそうしてくれたように。

 

「兄がいた。ナサニエルという」

 

 夜の底で、ジェリーの声だけが続く。

 

「俺が軍に入ったのも、元はと言えば兄を追ってのことだ。だが、その兄は──任務の途中で、消えた」

 

「最初は、行方不明だと報された。任務先で連絡を絶って、それきりだとな」

 

 ジェリーの声に、抑揚はない。何度もなぞって、角の取れた語り方だった。

 

「俺は信じて、待った。あれだけの男が、そう簡単にくたばるものかと。……半年だ。半年待って、報せが書き換わった。行方不明から、戦死へとな」

 

 夜気が、わずかに重さを増した気がした。

 

「地上で死ねば、遺体が戻らんことは珍しくない。それは、いい。俺が呑み込めなかったのは、順序の方だ」

 

 ジェリーは、首から下げた部隊章のメダルに、無意識のように指を触れさせた。

 

「遺体もない。最後の任務記録がごっそり抜けている。誰と、どこで、何をしていたのか──足取りが、ある一点でぷつりと切れていた。なのに、結論だけが確定した。証す材料が、何ひとつ残っていないのにだ」

 

 そして、と続けて、ジェリーは一度言葉を切った。

 

「問い合わせるたびに、扉が一枚ずつ閉まっていった。やがて、記録そのものに触れられなくなった。──もう済んだ話だと、上は言う。とうに、閉じた案件だとな」

 

 俺は、すぐには答えなかった。

 

 聞いた話の形を、頭の中で何度か裏返す。死体がない。記録が抜けている。結論だけが先に立っていて、問い合わせも無駄。──覚えのある形だった。あまりにも、覚えがありすぎる。

 

 誤解を恐れずに口を開く。

「俺のいた街じゃ、珍しくもない消え方だ」

 

「人が一人いなくなると、それは事故や失踪ってことになる。余程の人物じゃなければ、警察も探さない」

 

「記録ってのは、結局は書く側の都合で書かれるもんだ。やろうと思えば、まるごと無かったことにできる……」

 

 俺は一度、口を閉じた。これ以上の発言は全部憶測になる。それは──誠実な態度じゃない。

 

「ここから先は、俺にはわからない。誰がやったか、何のためか。資料も、現場も、見ちゃいないからな。当てずっぽうで、お前の兄貴の死を語るわけにはいかない」

 

 ジェリーは、何も言わずに俺を見ていた。

 

「ただ、ひとつだけ。“事実”として言えることがある」

 

 俺は、まっすぐにその目を見返した。

 

「死体も証拠も残さず人を消して、記録を綺麗に書き換える──そういう連中も、そういう手口も、嫌ってほど見てきた……言うか迷ったが、俺も其方側だった時期がある」

 

「だから、お前は間違ってない。答えは、きっとその道の先にある。……少なくとも、俺はそう思う」

 

 言い終えて、俺はジェリーから目を逸らした。

 

 逸らした視界の端で、その肩が、一度だけ小さく震えたように見えた。

 俺は、それ以上は見なかった。月が隠れ、星の光だけが照らす夜景へ顔を向けて、ただ、隣にいた。

 

────────────────

 

 シャルが戻ったのは、それから半刻ほど後のことだった。

 

 闇の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてくる。デコイの設置を終えた、いつもの帰投の足取りだ。俺は岩に背を預けたまま、その音をぼんやりと聞いていた。警戒は、しなかった。する理由が、どこにもなかった。

 

 さっき同じ釜の不味い飯を分けた仲間が、夜の見回りから帰ってくる。ただ、それだけのことだった。

 

「設置、完了しました。周囲に異常はありません」

 

 シャルの声は、いつも通り落ち着いていた。バイザーの庇が、星明かりをぬるく弾いている。

 

「ご苦労だった」

 ジェリーが、低く労う。さっきまでの重い話の気配は、もう声に残していなかった。指揮官の顔に戻っている。

 

 その時だった。

 

 ジェリーの襟元で、通信機が、ぶつりと音を立てた。

 

『──こちら本部、シルバードーン応答せよ。繰り返す──』

 

 昨日から死んでいた回線が、唐突に息を吹き返した。ノイズの向こうから、本部の声が漏れてくる。ジェリーの表情が、わずかに動いた。安堵、と呼べるものだったかもしれない。

 

「繋がったか。──ノチェロの件を、確かめられる」

 

 ジェリーが、通信機に手を伸ばした。

 その背後で、何かが動いた。

 

 俺の眼が、それを捉えた。同時に、考えるより先に、サンデヴィスタンが起動する。世界が飴のように粘つく。──引き延ばされた時間の中で、何者かを止めに入ろうとした。いける。この距離なら──

 

 だが、遅かった。

 

 引き伸ばされた視界が捉えたのは、もう終わっている光景だった。短く鋭い刃が、既にジェリーの背を割り、腹を貫いて、前へ抜けている。俺以外の全てが歩みを遅める世界にあって、その動きのスピードと滑らかさは異様だった。

 

 時が歩みを取り戻す。

 

「が……!」

 

 ジェリーの口から、声にならない息が漏れた。通信機が、地面に落ちる。

 

 俺は、その場から動けなかった。時間を歪めるこの力で、なお届かなかった。さっき隣にいた男を、守れなかった。

 ジェリーが、その場でゆっくりと倒れ伏す。出血がひどい。ショックで意識が朦朧としている。

 

 血に濡れた刃を引き抜き、静かに見下ろす影。星明かりが、その輪郭を縁取る。銀のショートボブ。端正に着こなした隊員服。首から下げた、部隊章。

 

「……シャル?」

 

 その名を呼んだのは、俺だった。

 声は掠れていた。

 

 ついさっき、同じ釜の飯を分け合った。互いの恐怖を共有した。ノチェロの無事を、自分に言い聞かせるように祈っていた。その女が今、隊長の血を刃に乗せて、表情ひとつ変えずに立っている。

 

 シャルは、答えなかった。

 

 濃いアンバーのバイザー。その奥が、灯っていた。光に過敏だと言って、片時も外さなかったあの庇の向こうで、彼女の眼が、確かに発光している。じわりと、内側から滲むように。

 一瞬、何も考えられなかった。戦闘は既に始まっているのに、頭が切り替わらない。脳は処理を止めて、眼は、ただその発光だけを映している。

 

 侵食。

 

 さっき聞いたばかりの言葉が、頭をよぎった。脳の制御を外から奪われる。これなのか──俺には判じられない。この世界のことなど、俺は何ひとつ知らない。

 

 だが。

 

 ひとつだけ、知っているものがあった。

 

 あの、迫り出した刃の速度。サンデヴィスタン中ですら防げなかった、あの動き。あれは──

 

 脳内ログを遡る。

 あの速度の該当項目は、ひとつきりだ。

 乾いた声が、自分の喉から漏れた。

 

「俺と、同じ──?」

 

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