あなたはえりーと。 作:どろーをとがめるめがね
( ΦωΦ)σ ヨシ!
そうして案内役の職員──
扉をくぐると、数人の職員がこちらを見たが、次の瞬間には、誰もが端末や資料へ視線を戻していた。歓迎的なムードは特になく、しょぼしょぼとあなたは心の中のクラッカーを片づけた。
「浮かれているところ悪いですが」
久瀬が、手元のタブレットを見たまま言った。
「まずは支給される個人端末の設定を行ってください。今後あなたのデッキや活動記録を管理する大切なものです。それが済み次第、研修のために第二棟の記録閲覧室へ向かいます」
案内だけでなく、他のことまで面倒を見てくれるらしい。仕事ができる人というのは色々なことができるのだろう。この人の正式な職務範囲は、いったいどこからどこまでなのだろうか。
あなたが感心していると、ジロジロと見ていたせいか、久瀬が目だけをこちらへ向けた。
「何かご不満でも?」
いや、むしろ手厚いサポートで親切だなと。
さすがエリート研究機関である。人材育成にも抜かりがない。
「親切……?」
久瀬は、その言葉を確認するように繰り返した。
どうやら、あまりしっくり来ていないらしい。何か言葉を選んでいるようにも見えた。
やがて、久瀬は、タブレットに視線を落としたまま淡々と言う。
「あなたの面倒……世話……いや、指導を、他の職員の手を煩わせてまで引き継ぐよりは、このまま私が見た方が早いと判断しました」
なるほど。教育係がつくというのは悪くない。
入ったばかりの新人に、専属の先輩がつく。言い方さえ選べば、かなり良い待遇である。いやあ、それほどでも。
「何を以て前向きに解釈したのか分かりませんが……」
久瀬はそれ以上追及せず、机の上に置かれていた端末をあなたの前へ差し出した。
支給された端末は、思っていたより平凡な姿をしていた。
あなたはもっと専用の独自規格らしい装置を想像していたが、見た目だけなら市販のタブレット端末と大差ない。ただ、背面に刻まれた管理番号と、起動画面に表示された東応研のロゴが、これがあなたの私物ではないことを主張していた。
「落とさないでくださいね」
言われなくとも大丈夫、大丈夫。
「いや、言わないとあなた、実際落と……落としそうだったので」
そうだろうか。
あなたが両手でしっかり持ち直すと、久瀬はひとまず満足したらしく、初期画面を開いて必要な項目を順に示していった。
「職員証を読み込ませてください。首に掛かってるそれです。そう。仮パスワードはこちらです」
仮パスワードを入力し、新しいパスワードの設定欄を開く。
あなたはそこで、少し考えた。
覚えやすくて、それでいて、できれば自分らしさもある文字列。
好きなカード名? デッキ名?
「言っておきますがこれは業務端末ですので、趣味だとか、デッキやカードの名前といった、個人的な文字列は避けるものですからね」
なんてことだ。やろうとしていたことを、全部先回りされてしまった。
うーん……じゃあ、sugoi-eliitoとかでいいか。
「それもやめてください」
えっ、まだ何も入力していないのに……そんなに分かりやすい?
あなたは、そっと入力欄から視線を外した。
むむむ。
パスワード作成とは、思っていたより創造的な作業だ……。
端末設定は、思っていたより早く終わった。
というより、見かねた久瀬がだいたいやってくれた。途中、何度か説明を受けた気もするが、最終的に残った理解は「押していいところを押した」という事実だけだった。
そうしてあなたが設定のほとんどを理解しないまま終えた後、久瀬は歩き出した。
「では、第二棟へ」
第一解析部を出て、廊下を進む。
その途中で、久瀬は思い出したように言った。
「記録閲覧室では、過去事例の報告書を読んでもらいます……が、読んだ後に現場へ行こうとしないでください。関係者を探すのも、関連資料を勝手に申請するのも禁止です」
何も言っていないのに、さっきから行動予定を潰されてばかりな気がする。
「余計なことをしないでください。報告書は冒険の地図ではありません」
それは少し残念だった。
「繰り返しますが、今日は読むだけです。読めるところを読み、分からないところを分からないまま残す。それだけ覚えてください」
分からないところを、分からないままに。
研究とは、分からないことを分かるようにするものでは。
「今の段階では、です。そもそも、まだノウハウも何もないでしょうに、初日から何ができるつもりなんですか」
それもそうだ。
言い方は少しきついが、内容としては正しい。
「最初から分かろうとすると、だいたい間違えますよ」
久瀬の声は淡々としていたが、その言い方には妙な実感があった。
あなたは神妙に頷く。エリートとは、好奇心を制御できる人間のことなのだろう。
あなたには少し難しそうだった。
「できなければ困るのはあなたなんですからね……」
久瀬はため息混じりに言った。
あなたは、もう少し内面を秘匿できるようになるべきかもしれない。
そうして、先ほどの施設案内で通った道を少し戻り、渡り廊下を抜けると、第二棟に入った。
第一棟より、人の気配が少ない。話し声より、空調の低い音と、どこか遠くで動いている機械の気配の方が耳につく。
記録閲覧室は、やや奥まった場所にあった。
扉の横には、控えめなプレートがひとつ。
室内には閲覧用の机と端末、壁際の資料棚。余計な装飾はない。
久瀬は入口近くのセキュリティ端末に職員証をかざし、短く何かを入力した。
それから、近くの閲覧席へあなたを促す。
机の上には、あらかじめ薄い紙束が用意されていた。
「今日のところはこの報告書を読んでもらいます」
久瀬は向かいの席に座り、紙束をあなたの前へ滑らせた。
「初めのうちは、まず目の前の記録に集中すること。記録の外の文脈にまで頭を回すことは必要とされていません」
久瀬は、紙束の一枚目を指先で軽く叩いた。
「まずは、これです」
あなたは頷いた。
余計な想像をせず、書かれていることを読む。
新人らしく、堅実に、慎ましく。
あなたはそう心に決めて、紙面へ視線を落とした。
……読めない。
いや、正確には、ところどころ読める。
しかし、肝心そうな部分ほど黒い。
これは、報告書というより〝報告書だったもの〟ではないか。
しかし、久瀬は真面目な顔をしている。
この、黒インクの試し書きみたいなものを?
読む、という行為は、文字があることを前提としているのではないだろうか。
「大部分が読めないセクションは飛ばして構いませんよ」
そもそも読める所を数えるほうが早いくらいなんだけど……。
あなたはしぶしぶ資料に目を落とした。
事例番号、発生日、発生場所。
初期通報者、観測対象、被影響者数。
少なくとも項目名は、それなりに読めるようになっているらしい。
ただ、並んでいる言葉は、あなたが想像していた研究資料のそれとは少し違っていた。
どちらかといえば、事故の記録に近い。あるいは、事件の記録か。
「どうかしました?」
久瀬が言った。
いや。まるで研究所の資料というより、警察の調書か何かみたいで意外だな、と。
あなたは資料を指先で軽く押さえながら首を傾げた。
「意外、ですか?」
久瀬が言った。
責めるような声ではなく、ただ、確認するような響きがあった。
「安全性を扱う以上、こういった記録は必要になるでしょう。不思議なことでもないと思いますが……」
なるほど?
安全を研究するなら、危険だった例も調べる。事故を防ぐなら、事故が起きたときの記録も読む。言われてみれば、たしかに普通のこと、かも……?
あなたが納得しかけたところで、久瀬のタブレットの上を滑っていた指が、ぴたりと静止する。
「……妙な反応をしますね。第一解析部に配属される職員には、業務範囲に関する情報が事前に開示されているはずですが」
業務といえば……カード競技の安全チェックとか、次世代媒体の研究とか、そういう感じでは。
あなたは、パンフレットに載っていた文言を思い出しながら答えた。
久瀬は、あなたを見た。
数秒、黙る。
「それは一般向けの説明でしょう」
当然のことを確認するような口調だった。
「そこから先の説明を受けたはずです。少なくとも、ここにいるということは、霊的試験で落とされていないんですから」
なにそれ。
「……えっ」
えっ。
あなた:
パスワードは忘れて都度作り直しちゃうタイプ。
保護フィルムを貼ると、新品感が薄れてちょっと惜しい。
久瀬:
パスワードは使い回さないタイプ。
気泡を作らずに一発で保護フィルムを貼れる特技がある。
第一解析部:
新人歓迎会の文化は特にない。歓迎していないわけではなく、全員が「あとで挨拶すればいいか」と思っている。その「あとで」は、だいたい忘れられる。