俺の人生は、だいたい最悪だった。
まず三十歳、無職、童貞、実家暮らし、昼夜逆転。
社会性はコンビニ店員に「袋いりますか?」と聞かれた時点で瀕死になる程度。
そんな俺にも、一つだけ誇れるものがあった。
鬼畜難易度RPG『レガリア・オブ・ヴァルハイト』の知識である。
初見殺し、理不尽エンカ、山盛りの隠しパラメータ、タイムスケジュールで管理しても回収しきれない取り返しのつかない要素、三十分もプレイすれば進行不能バグにぶつかるデバッグの甘さ、攻略本にすら嘘が書いてある疑惑のあるクソゲー。
とても令和に発売されたゲームとは思えない。
世間では「作った奴はバカ」とまで評され、逆に話題になっていた。
話題性の割にまともに攻略した人間が少なく、情報もまともになかった。
だから俺はそこに目を付けて、一万時間ゲームをプレイして攻略情報を己の手で開拓し、文句を垂れるプレイヤー達にネットでマウントを取って回っていた。
楽しかった。
そして俺はあることを思い付いた。
『レガリア・オブ・ヴァルハイト、クリアするまで眠りません!』
これを配信すればバズる、と。
結論から言うと、バズらなかった。
同接は最大三人。
一人はたぶん俺の母親。
一人は「まだやってて草」とだけコメントする謎の暇人。
もう一人は海外のスパムアカウントだった。
それでも俺は続けた。
なぜなら、ここでやめたら本当に何者にもなれない気がしたからだ。
そして七日目。
俺はラスダン手前の毒沼で全滅し、椅子からずり落ち、そのまま死んだ。
死因、クソゲー。
あまりにも救いがない。
普通、異世界転生するならトラックとか、通り魔とか、誰かを庇ってとか、もう少し物語的な死に方があるだろう。
なのに俺は、三人の視聴者に見守られながら、画面の中の毒沼に殺されたのである。
終わっている。
人類史に残す価値のない死に方ランキングがあったら、かなり上位を狙える。
そんな俺の前に、女神様が現れた。
『かわいそうに……あなたは本当に、報われない人生を送ったのですね』
白い空間、荘厳な光。
慈愛に満ちた眼差しの美女さんは、初対面ではまずあり得ないような失礼なことをぶつけてきやがった。
『あなたが命を懸けるほど愛した世界へ、転生させてあげましょう』
なるほどね、ああこれが女神転生テンプレって奴ですか。
そこまで考えて、頭に特大の疑問符が浮かぶ。
「えっ」
『あなたが命を懸けるほど愛した世界、レガリア・オブ・ヴァルハイトの世界へ』
俺は泣いた。
俺は別に命を懸ける程愛していたわけじゃない。
ただ知名度の高いクソゲーがあって、ネットでのマウンティングに丁度よくて、その延長で人が集められそうだったから手を付けただけだ。
あんなクソゲーの世界に放り込まれるくらいならそのまま成仏した方が幾分マシだ。
『泣く程嬉しいのですね』
女神様は俺の気持ちなど知らず、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
この人、本当に独り善がりだな。
そこで視界が眩み、歪んでいく。
薄れていく意識の中で考える。
レガリアの世界。
そこは危険だが、俺には知識がある。
初期村の裏山に出るレアスライム。
王都地下水路の隠し宝箱。
中盤まで使える壊れアクセサリ。
全部覚えている。
いや、そう考えてみれば案外悪くないかもしれない。
人生二周目、完全勝利ルートである。
そう思っていた時期が、俺にもありました。
目を覚ました瞬間、俺は石造りの天井を見上げていた。
やけに豪華な部屋だった。
黒い天蓋付きの寝台、壁に掛けられた禍々しい大剣、鏡台、香水瓶。
どう見ても貴族か何かの部屋。
俺はゆっくり起き上がる。
まず違和感があった。
身体が軽い。
いや、軽いというより、小さい。
布団の中で手を動かすと、指が細い。白い。爪が綺麗。
腕も細い。肩幅も狭い。
胸元に、明らかに前世には存在しなかった重みがある。
俺は数秒、脳の処理を停止した。
そして恐る恐る、鏡を見た。
そこには、銀色の長い髪を持つ美少女が映っていた。
黒い軍服、切れ長の紫の瞳、人形のように整った顔。
しかし表情は死んでいる。
俺はその顔を知っていた。
暗黒騎士リリス。
悪の帝国軍に所属する、四翼将直属の女騎士。
主人公ノアルと幾度も敵対し、やがて彼に惹かれ、しかし最後には帝国軍の外道魔術師マッドに捕まり、洗脳を受けて散々凌辱を受け、人体改造を施され、果てには化け物へと変えられる。
つまり、終盤の悲惨担当。
尊厳破壊のアンハッピーセット。
俺は鏡の前で固まった。
「…………」
声が出なかった。
いや、出せなかった。
正確には、喉まで「うわあああああああああああああああああああああ!」が来ていた。
だが出てきたのは、かすかな吐息だけだった。
鏡の中のリリスは、青ざめた顔で唇を引き結んでいる。
傍から見れば、冷静沈着な女騎士が何か深い決意を固めているように見えただろう。
違います。
中身はキモオタニートが人生最大級のバグに直面してフリーズしているだけです。
しかも女。
女である。
いや待て。落ち着け。
ここでまず確認すべきことは一つ。
俺は震える手で、自分の身体を確かめた。
自身のスカートの奥、パンティを捲り手を入れる。
やめろ。
これは必要な確認だ。
決してやましい意味ではない。
医学的、いや、存在論的な確認である。
結果。
完全に女だった。
「……っ」
声にならない悲鳴が漏れた。
俺の息子がいない。
三十年間、何一つ社会的成果を残さなかったとはいえ、確かにそこにあったはずの相棒が、影も形もない。
代わりに、知らない柔らかさと丸みと、扱いに困る身体がある。
いや待て待て待て。
転生先が女なのは百歩譲ろう。
最近の流行りだ。TSだ。ジャンルとしては理解している。
だが俺は読む側であって、なる側ではない。
それにリリスはまずい。
よりによってリリスはまずい。
だってこいつ、未来が終わっている。
敗北、洗脳、凌辱。
敗北、改造、凌辱。
敗北、モンスター化、最期は想い人に殺される。
いや制作陣、お前らリリスに何の恨みがあるんだよ。
エロゲーじゃねえんだから。
俺は寝台の上で頭を抱えた。
だが、絶望している暇はない。
原作開始まで、まだ時間はあるはずだ。
リリスが主人公ノアルと初めてぶつかるのは、辺境都市グランベルクでの帝国軍による徴税イベント。
街で横暴を働く帝国騎士を止めに入ったノアルが、リリスと敵対する。
たしか、リリスはそこで圧倒的な実力を見せるが、ノアルの謎の光属性に押し返される。
つまり現時点の俺は、まだ原作序盤のリリス。
やりようはある。
帝国から逃げる?
無理だ。
帝国軍は裏切り者を地の果てまで追う。
しかもリリスは暗黒騎士としてそれなりに地位がある。
下手に逃げたら即座に追手が来る。
捕まれば人体実験室送り。おはマッド。
はい終了。尊厳さようなら。二度目の人生、閉廷。
ならどうするか。
答えは一つだ。帝国を潰す。
いや、俺が直接潰すのではない。
そんな主人公ムーブができるなら前世でニートなどやっていない。
潰すのはノアルだ。
原作主人公。
王道熱血青年、光の加護持ち。
最終的に帝王を倒す男である。
俺は彼が勝てるように、裏でコソコソ援護する。
ついでに自分も鍛える。
マッドに捕まらない。
帝国が崩壊したタイミングで自然に離脱。
あとはどこか遠い田舎で、名前を変えて静かに暮らす。
完璧な計画である。
前世で確定申告もしたことがない男が考えたにしては、かなり上等ではないか。
俺は立ち上がった。
その瞬間、身体がぐらりと揺れた。
軽い。
足が細い、腰の位置が違う。重心が違う。
怖い。
あまりにも身体の感覚が違いすぎて、床が遠く感じる。
前世の俺より背は少し低いだけのはずなのに、身体の芯が頼りない。
いや、リリスは鍛え上げられた騎士だ。
実際、筋力も魔力も高い。
だがそれでも「男の身体ではない」という事実が、俺の脳に変な恐怖を流し込んでくる。
もし今、体格のいい男に腕を掴まれたら?
もし逃げられなかったら?
想像しただけで背筋が冷えた。
俺は前世、男だった。
自分が性暴力の対象になる可能性なんて、ほとんど考えたことがなかった。
いや、引きこもっていたので社会全体が怖かったが、それとは違う種類の恐怖だった。
「……鍛えなきゃ」
思わず呟く。
声は低めだが、澄んだ女の声だった。
鏡の中のリリスが、静かに瞳を細めている。
いや、違う。
中の俺は半泣きである。
鍛えなきゃ。
本当に鍛えなきゃ。
この世界、俺に優しくない。
女神様、たぶん善意でやったんだろうが、転生先の選定が雑すぎる。
せめて村人Aにしてくれ。
いや村人Aもレガリア世界だと序盤で村ごと焼かれる可能性があるな。
終わってるなこのゲーム。
俺は壁に掛けられた大剣を見た。
黒鋼の魔剣《ノクス・グレイヴ》。
リリスの初期装備にして、中盤まで通用する暗黒剣。
ただし原作では、呪いの反動でHPを削る地雷武器でもある。
ゲームでは「攻撃力が高いからヨシ!」と使っていたが、今は現実だ。
HPが減るということは、普通に痛いし、普通に死ぬ。
ふざけるな。
俺は痛いのが嫌いなんだよ。
注射ですら目を逸らす男だぞ。
そんな奴を暗黒騎士にするな。
しかし、知識はある。
この魔剣の反動を抑えるアクセサリが、グランベルク近郊の旧礼拝堂に隠されている。
入手条件は、夜間にだけ出現するレアモンスター《月喰い鼠》を倒し、そのドロップアイテムを祭壇に捧げること。
ゲームなら面倒なだけの隠し要素だが、今の俺にとっては生命線だ。
経験値も稼げるし、金も手に入る。
装備も整えられる。
よし。
まずは隠密レベリングだ。
その時、扉がノックされた。
「リリス様。入室してもよろしいでしょうか」
若い女の声。
俺の心臓が跳ねた。
人だ、人が来た。
無理だ。
前世でも宅配便のチャイムを居留守でやり過ごしていた男に、いきなり女騎士の部下対応は無理。
だが返事をしないわけにもいかない。
「……入れ」
短く言う。
おお、すごい。
声だけなら完全にクール系女騎士である。
中身は「帰ってくれ頼むから帰ってくれ」という念でいっぱいだが。
扉が開き、金髪の少女騎士が入ってきた。
名前は確か、ミア。
リリスの副官。
原作ではリリスに心酔している部下で、たぶんそっちの気がある。
ノアルに対してやたら敵意が強かったのは、リリスを取られたと思っていたからではないか、と一部界隈で考察されていた。
そのミアが、俺を見るなり頬を染めた。
「お、おはようございます、リリス様。本日も凛々しく……いえ、その、昨夜はよく眠れましたか?」
距離が近い。
なぜ近づく。
報告ならそこからでいいだろう。
なぜベッド脇まで来る。
なぜ俺の髪を見てうっとりしている。
「……問題ない」
俺は最小限の言葉で返す。
コミュ障の処世術。
喋らなければボロが出ない。
するとミアは、感極まったように胸に手を当てた。
「さすがです。昨夜、あれほど遅くまで訓練なさっていたのに、弱音一つ吐かれないなんて……」
いや、違う。
弱音は内心でめちゃくちゃ吐いている。
今も「助けて」「帰りたい」「性別戻して」の三本柱で脳内が埋まっている。
だがミアは、そんなことなど知る由もなく、さらに目を輝かせた。
「私も、リリス様のように強く、美しく、誇り高い騎士になりたいです」
やめろ。
その純粋な目で俺を見るな。
中身、三十歳無職童貞だぞ。
昨日まで母親に「ご飯、部屋の前に置いとくからね」と言われていた生き物だぞ。
「……鍛錬を怠るな」
俺はそれっぽいことを言った。
便利だ。
無口クールキャラは便利すぎる。
何を言っても名言っぽくなる。
ミアは背筋を伸ばした。
「はいっ!」
そして、少し躊躇うように視線を泳がせる。
「あの……リリス様。髪が少し乱れています。よろしければ、私が……」
「不要だ」
即答した。
無理。
女の子に髪を触られるとか、前世の俺ならイベントCGものだが、今は違う。
この身体が俺の身体である以上、触られると脳がバグる。
しかもミア、明らかに距離感が近い。
善意なのはわかる。
わかるが、怖い。
ミアは一瞬しゅんとした。
胸が痛む。
俺は慌てて言葉を足した。
「……今は、剣を握る時間だ」
それっぽい。
非常にそれっぽい。
つまり「身支度より鍛錬を優先する孤高の騎士」みたいな感じになったはずだ。
ミアは目を見開いた。
「リリス様……! そこまでご自身を律して……!」
違う。
俺はただ髪を触られたくなかっただけだ。
しかしミアは勝手に感動している。
なるほど、これが勘違いものというやつか。
読者として見ている分には面白かったが、当事者になるとただ胃が痛い。
俺は魔剣を手に取った。
重い……だが、不思議と持てる。
リリスの身体が覚えているのだろう。
剣の柄を握ると、黒い魔力が指先に馴染むように流れた。
怖い。
だが、同時に少しだけ安心した。
力はある。
なら、生き残れる可能性もある。
俺はミアに背を向け、窓の外を見た。
帝国軍の黒い城塞。
遠くに見える、灰色の空。
そのさらに先に、主人公ノアルが旅立つ小さな村がある。
俺はこの世界を救いたいわけではない。
正義のためでもない。
誰かを守るためでもない。
ただ、悲惨な目に遭いたくない。
捕まりたくない。
弄ばれたくない。
犯されたくない。
改造されたくない。
モンスターになんかなりたくない。
生き延びたい。
そのためなら、原作知識だろうが主人公だろうが、使えるものは全部使う。
「……行くぞ」
俺は短く告げた。
ミアが恭しく頭を下げる。
「はい。どこまでもお供いたします、リリス様」
やめて。
一人でコソコソ隠しダンジョン行きたいだけなんだけど。
だが、今さら「やっぱ来ないで」と言えるコミュ力は俺にはない。
俺は無言で歩き出した。
黒衣の美少女騎士が、冷たい決意を胸に進む。
周囲には、そう見えただろう。
実際の俺の胸中はこうだ。
旧礼拝堂ってトイレあったっけ。
この身体で野宿とか無理なんだけど。
あと女の鎧、なんか擦れて落ち着かない。
胸当ての位置これ合ってる?
下着どうなってんの?
ていうか、俺、風呂どうすんの?
転生一日目。
人生最大の敵は魔物でも帝国でもなく、まず自分の身体だった。