TS暗黒騎士は凌辱はお断りです!   作:八島港

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第三話

 結論から言うと、風呂は戦場だった。

 旧礼拝堂で《月喰い鼠》を狩り、《静謐の黒環》を手に入れ、魔剣の反動を軽減する。

 そこまでは、ひとまず予定通りに進んだと言っていい。

 

 いや、正直に言えば、予定通りとは言いがたい。

 現実のレアモン狩りは普通に怖いし、魔剣は痛いし、ミアにはなぜか聖人のように誤解されるし、帰り道では足が棒になるしで、わりと散々だった。

 それでも、まだ耐えられる範囲ではあった。

 

 問題は、その後に待っていた。

 

「リリス様、お召し物をお脱がせいたします」

 

 部屋に戻った瞬間、侍女が当然のようにそう言った。

 俺はその場で固まった。

 脱がせる、とは。

 

 誰を? 俺を?

 この俺を!?

 

 前世の俺なら、三十年物の部屋着を洗濯機に放り込むだけで済んだ。

 風呂だって深夜にこっそり入り、家族と鉢合わせないよう忍者のような足取りで廊下を移動していた。

 それが今や、貴族女騎士である。

 

 服は複雑で、鎧も複雑だった。

 紐があり、留め具があり、ベルトがあり、見たことのない金具まである。

 しかも身体は女だ。

 

 俺の処理能力は、ここで完全に限界を迎えた。

 

「……不要だ」

 

 俺はできる限り低い声で言った。

 頼む。

 これで引いてくれ。

 

 侍女は困ったように眉を下げる。

 

「ですが、リリス様。本日は森まで赴かれたとうかがっております。お身体もお召し物も、かなり汚れておりますので」

 

 正論だった。

 やめてほしい。

 正論はコミュ障に効く。

 

 確かに汗でひどい状態ではある。

 鎧の内側は蒸れているし、髪には森の葉っぱのようなものまで絡んでいた。

 このまま寝たら不潔なのは間違いない。

 

 だが、侍女に脱がされるのは無理だった。

 俺の中に残っている三十歳童貞の精神が、全力で赤信号を振っている。

 女の身体だからセーフ、という問題ではない。

 

 俺の精神が完全にアウト判定を出していた。

 

「一人でよい」

 

「ですが……」

 

「命令だ」

 

 便利な言葉である。

 命令と言えば、だいたいのことは押し切れる。

 権力はすごい。

 

 前世では家のWi-Fiすら親名義だった男が、いきなり命令権を持つとこうなる。

 侍女は一礼して下がった。

 

「承知いたしました。では、浴室の準備だけ整えてまいります」

 

 よし。

 第一関門は突破した。

 俺は内心でガッツポーズを決める。

 

 表情は無のままだ。

 無口クール美少女の皮は、本当に便利だった。

 ただし、第二関門はその比ではなかった。

 

 服が脱げない。

 

「…………」

 

 俺は自室で、黒い軍服と格闘していた。

 まず鎧を外す。

 これはまあ、なんとかなった。

 

 リリスの身体が覚えているのか、手順は自然にわかった。

 次に上着。

 これも、まだいい。

 

 問題はその下である。

 何だ、この紐は。

 何だ、この布は。

 

 何だ、この構造は。

 どこをほどけばいいのかもわからない。

 そもそも、ほどいていいのかもわからない。

 

 戻せなくなったらどうするのかという不安が、手を止めさせてくる。

 前世の俺は、服というものを「頭と腕を通す布」くらいにしか認識していなかった。

 女の服は複雑すぎる。

 

 人類の文明は、なぜここまで面倒な方向に進化してしまったのか。

 

 十分後。

 俺は半端に脱げた状態で椅子に座っていた。

 あまりにも情けない。

 

 暗黒騎士リリス、服に負ける。

 これがゲームなら即リセット案件である。

 だが、ここで諦めるわけにはいかない。

 

 侍女を呼んだら負けだ。

 何に負けるのかは知らないが、とにかく負けた気がする。

 俺は深呼吸した。

 

 これはただの布だ。

 布ごときに怯えるな。

 俺は《月喰い鼠》を倒した女だぞ。

 

 いや、女ではない。

 中身は男だ。

 だが身体は女だ。

 

 この辺りを深く考え始めると脳が熱暴走するので、いったん棚上げにする。

 さらに数分かけて、俺はなんとか脱衣に成功した。

 そして鏡を見て、二秒で後悔する。

 

 そこには、知らない美少女の身体があった。

 いや、俺の身体なのだが、俺の身体ではない。

 白く、細く、華奢で、それでいて騎士らしく鍛えられている。

 

 薄く締まった腹に、無駄のない肩から腕の筋肉。

 肌には、いくつかの傷跡も残っていた。

 客観的に見れば、かなり美しい身体だと思う。

 

 しかし、俺は猛烈に怖くなった。

 この身体は強い。

 だが、前世の俺が当然のように持っていた、雑な頑丈さとは違っている。

 

 手首は細く、腰は薄い。

 胸は邪魔で、肌は知らないくらい柔らかかった。

 もし、原作通りマッドに捕まったら。

 

 もし、下衆な男に力で押さえつけられたら。

 想像が勝手にそこへ向かい、喉が詰まった。

 

「……っ」

 

 情けないことに、膝が震えた。

 俺は慌てて身体を抱える。

 怖かった。

 

 男だった時には、まともに想像したことのない種類の怖さだった。

 女の身体になったからといって、急に清らかな魂に目覚めたわけではない。

 中身は相変わらずゴミのままだ。

 

 けれど、ゴミなりに理解してしまった。

 この身体は、狙われる側にもなり得る。

 それが、たまらなく怖い。

 

 泣きそうになった。

 いや、泣くな。

 ここで泣いたら本当に終わりだ。

 

 暗黒騎士が鏡の前で全裸のまま半泣きになるなど、絵面が事故すぎる。

 俺は逃げるように浴室へ向かった。

 

 湯は、広い石造りの浴槽に張られていた。

 帝国軍は悪の組織のくせに、風呂設備だけは妙にいい。

 そこだけは評価してもいいかもしれない。

 

 俺は身体を洗いながら、なるべく無心になろうとした。

 しかし無理だった。

 どこを洗っても情報量が多い。

 

 髪は長い。

 胸は邪魔だ。

 腰は細い。

 

 肌は敏感すぎる。

 全部が知らない感覚で、前世の俺なら五分で終わっていた風呂が、今では完全に精神修行になっていた。

 

「女の人って……毎日これやってんのか……?」

 

 思わず小さく呟いた。

 素直に尊敬した。

 人類の半分はすごい。

 

 俺なら一週間で風呂嫌いになる自信がある。

 ようやく湯に浸かると、疲労がどっと抜けていった。

 気持ちいい。

 

 悔しいが、かなり気持ちいい。

 筋肉の痛みが溶け、魔剣の反動で残っていた腕の痺れもやわらいでいく。

 俺は浴槽の縁に頭を預けた。

 

 この世界で生き残る。

 そのためには、もっと強くならなければならない。

 《静謐の黒環》は手に入れた。

 

 次に必要なのは金だ。

 装備を整えるにも、薬を買うにも、とにかく金がいる。

 序盤で効率よく金策するなら、グランベルクの地下水路にある《錆びた王冠》を換金するのが早い。

 

 ただし、あそこには毒持ちの魔物が多い。

 毒対策には《白銀草》が必要で、その白銀草は帝都外れの薬師が裏で売っている。

 薬師に接触するには、街の下層区へ行かなければならない。

 

 下層区。

 ゲームでは治安の悪いマップだった。

 酔っ払い、チンピラ、闇商人、違法闘技場。

 

 そんな場所に、リリスの見た目はあまりにも目立つ。

 女の身体でそこへ行くのは、正直怖い。

 だが、行くしかなかった。

 

 装備。

 金。

 経験値。

 

 原作知識。

 それらを積み上げていかなければ、俺は未来に殺される。

 

「……やるしかない」

 

 呟いた瞬間、浴室の外から声がした。

 

「リリス様、お背中をお流ししましょうか?」

 

「不要だ!」

 

 反射的に叫んでしまった。

 沈黙が落ちる。

 やってしまった。

 

 完全に声が裏返っていた。

 暗黒騎士の威厳は、今の一声で見事に死亡した。

 数秒後、侍女の遠慮がちな声がする。

 

「し、失礼いたしました。ですが……その、普段より少しお声が……」

 

「……修練で喉を痛めた」

 

 苦しい。

 あまりにも苦しい言い訳だった。

 

「まあ……そこまでご自身を追い込まれて……」

 

 通った。

 この世界の人間は、リリスを過大評価しすぎである。

 

 風呂から上がった後も、地獄は続いた。

 下着も、服も、髪も、すべてが面倒くさい。

 特に髪がひどい。

 

 長い。

 乾かない。

 絡まる。

 

 これを毎日管理しているリリスは、もはや騎士ではなく美容戦士なのではないかと思う。

 結局、髪だけは侍女に任せることにした。

 俺は椅子に座り、背後で侍女が櫛を通す感覚に耐えていた。

 

 くすぐったくて、落ち着かなくて、それでいて少し気持ちいい。

 いや、気持ちよくなるな。

 俺の精神、しっかりしろ。

 

「リリス様の御髪は、本当に美しいですね」

 

「……そうか」

 

「はい。まるで月光のようです」

 

 褒められているのは俺ではない。

 リリスの身体である。

 それなのに、少しだけ頬が熱くなった。

 

 違う。

 これは慣れていないだけだ。

 前世で褒められた経験が、せいぜい「意外とタイピング早いね」くらいしかないからだ。

 

 女として褒められて喜んだわけではない。

 そこを間違えると、戻れなくなる気がした。

 

 翌朝。

 俺は訓練場にいた。

 風呂と服と髪に精神を削られたとはいえ、鍛錬を休むわけにはいかない。

 

 訓練場では、帝国兵たちが剣を振っていた。

 俺が入ると、一斉に空気が張り詰める。

 

「リリス卿だ……」

 

「黒翼の剣姫が朝稽古に……」

 

「見学してもよいのか?」

 

 やめてほしい。

 見世物にしないでくれ。

 俺は人に見られながら何かをするのが苦手なのだ。

 

 前世の体育の授業では、跳び箱の前で固まり、教師にため息をつかれた男である。

 だが、ここで引き返すわけにもいかない。

 俺は無表情で木剣を取った。

 

 魔剣ではなく、木剣だ。

 反動なしで身体操作を練習するためである。

 その時、背後から軽薄な声がした。

 

「おやおや。天下のリリス卿が木剣とは。随分と可愛らしい稽古ですねえ」

 

 振り返ると、金髪を撫でつけた男が立っていた。

 帝国軍上級騎士、グレイル。

 原作序盤、グランベルクの街で横暴を働き、主人公ノアルに叩きのめされる雑魚ボスである。

 

 リリスと同じ軍にいるが、能力はそこそこ。

 人格は終わっている。

 出たな、と思った。

 

 街中で民に絡み、女性NPCに下品な台詞を吐き、プレイヤーから「早く倒させろ」と言われるタイプの男だ。

 グレイルは俺の身体を舐めるように見た。

 

「その細腕では、剣より舞でも習った方が似合うのでは? いや、リリス卿なら夜会の花としても十分通用しましょう。なんなら私が、直々に作法を教えて差し上げても――」

 

 ぞわり、と肌が粟立った。

 台詞だけなら、ゲームで見た時は「うわ、キモい敵だな」で済んでいた。

 だが今、その視線を向けられているのは俺だ。

 

 俺の身体に、俺の顔に、俺の胸元に、視線が這う。

 怖い。

 気持ち悪い。

 

 手が震えた。

 前世の俺なら、ネットで「こういうキャラ嫌いだわ」とコメントして終わりだった。

 だが今は、画面の外から安全に見ているわけではない。

 

 こいつの視線の中に、自分がいる。

 胃の奥が冷えた。

 泣きそうになる。

 

 しかし同時に、それ以上に強い感情が湧き上がってきた。

 ふざけるな。

 俺はお前にビビるために、昨日あんな思いをして風呂に入ったんじゃない。

 

 いや、風呂は関係ないな。

 とにかく、ふざけるな。

 グレイルはさらに一歩近づいてくる。

 

「どうされました? 黙っていてはわかりませんよ。ああ、その冷たい目も悪くない。ですが女というものは、少し隙がある方が――」

 

 俺は木剣を振った。

 リリスの身体が、勝手に最短距離を選んだ。

 乾いた音が響く。

 

 次の瞬間、グレイルの木剣が宙を舞っていた。

 本人は何が起きたのかわからない顔で、自分の手元を見ている。

 訓練場は静まり返った。

 

 俺も内心では固まっていた。

 今の、俺がやったのか。

 強い。

 

 リリスは、怖いくらいに強い。

 

「……拾え」

 

 俺は低く言った。

 本音を言えば、「もう話しかけないでください」だった。

 だが、周囲にはまったく別の意味で響いたらしい。

 

 兵士たちが息を呑む。

 

「一撃で……」

 

「しかも、殺気すら見せずに」

 

「グレイル卿の慢心を戒めたのか……」

 

 違う。

 ただキモかったから、反射で叩いただけです。

 グレイルの顔が赤くなる。

 

「き、貴様……! 女だからと手加減してやれば――」

 

 女だから。

 その言葉が、妙に深く刺さった。

 怖さと怒りと情けなさが、ぐちゃりと混ざる。

 

 俺は木剣を構え直した。

 

「……次は、手ごと落とす」

 

 言ってから、自分でビビった。

 怖いことを言ってしまった。

 ネット弁慶時代の悪い癖が出たのかもしれない。

 

 だが、声と顔がリリスなので、洒落にならない迫力がある。

 グレイルは顔色を変えた。

 

「ちっ……覚えていろ」

 

 捨て台詞を吐き、彼は訓練場を出ていった。

 俺は木剣を下ろす。

 手が震えていた。

 

 勝った。

 けれど、怖かった。

 下品な視線も、言葉も、近づかれる感覚も、思っていた以上にきつい。

 

 俺は奥歯を噛んだ。

 あんな雑魚ボス相手でこれだ。

 この先、もっと危険な連中が出てくる。

 

 やはり鍛えるしかない。

 力がいる。

 逃げるための力。

 

 拒むための力。

 泣かずに済むための力。

 すると、訓練場の端で見ていたミアが、震える声で呟いた。

 

「リリス様……」

 

 まただ。

 また何かを誤解した顔をしている。

 

「侮辱されても怒りに任せず、ただ一太刀で慢心のみを斬る……。なんという高潔さ……」

 

 違う。

 めちゃくちゃ怒っていました。

 内心では「キモいんじゃボケ」と二百回くらい言っていました。

 

 だが、俺は何も言えない。

 無言で木剣を戻し、訓練場を後にする。

 背中に、尊敬の視線が突き刺さっていた。

 

 やめろ。

 俺は聖人ではない。

 ただ、生き延びたいだけの元ニートだ。

 

 けれど、一つだけはっきりしたことがある。

 原作序盤でノアルに倒されるはずだったグレイル。

 その男に、俺は先に目をつけられてしまった。

 

 物語は、少しずつズレ始めている。

 そして、その日の夕方。

 俺の部屋に、帝国軍上層部からの召集命令が届いた。

 

 書状には、短くこう記されていた。

 

『辺境都市グランベルクへの徴税任務に、暗黒騎士リリスを同行させる』

 

 俺はその文字を見て、血の気が引いていくのを感じた。

 グランベルク。

 主人公ノアルと、リリスが初めて敵対する街。

 

 原作イベントは、もう目の前まで来ていた。

 

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