女の子がイーブイになって、ポケモンと話せるようになっちゃいます!

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第1話

私の名前は王嶋みなも。ごく普通の、小学五年生だ。

 

好きなものは図書室の窓際の席。嫌いなものは、体育の時間のサッカー。だってボールがどこから飛んでくるかわからないし、当たるとすごく痛いんだもん。あと、男子がやたらと近くに寄ってきて、ボールを奪おうとしてくるのも好きじゃない。なんであんなにぎゃあぎゃあ騒げるんだろう。

 

私はどちらかというと、静かに本を読んでいる方が性に合っている。今日も放課後の図書室で、新しいファンタジー小説を借りてきたところだ。ハヤカワ文庫の背表紙を指でなぞりながら、昇降口へと向かう。靴を履き替えて、校舎の外に出ると、秋の空気がふわりと頬を撫でた。

 

十月の午後四時。日はまだ高くて、校庭ではサッカー部の声が響いている。私はそれを横目に、学校の裏門へと回る。ここからまっすぐ伸びる遊歩道は、街路樹が等間隔に植えられていて、歩いていて気持ちがいい。ドングリが落ちているのを見つけては、つい拾いたくなる。でも今日は、まっすぐ帰ろう。

 

そう思っていたのに。

 

遊歩道の途中にある、小さな公園のところで、私はそれを見つけてしまった。

 

ベンチの影。

 

なにかが、もぞりと動いた。

 

最初は落ち葉かと思った。でも、違う。あれは、生き物だ。淡い紫色の、輪郭のはっきりしない生き物。まるで、ゼリーが意思を持って動いているみたいな、そんな姿。

 

「メタモン……?」

 

私は思わず声に出していた。図鑑で見たことがある。変身ポケモン、メタモン。細胞を自在に組み替えて、どんなものにでも姿を変えられるらしい。でも、こんな街中の公園にいるなんて、聞いたことがない。

 

メタモンは、ゆっくりとこちらを向いた。目があるのかないのかわからない顔で、でも、確かに私を認識している。そんな気がした。

 

次の瞬間。

 

メタモンは、驚くべき速さで飛びかかってきた。

 

「えっ——」

 

反応する間もなかった。生暖かいゼリー状の塊が、私の顔面に覆いかぶさり、そして、開いた口の中に、一気に流れ込んできた。

 

「んぐっ——!?」

 

喉の奥を塞がれる感覚。呼吸が止まる。パニックで手足をばたつかせるけど、メタモンは構わずに私の口の中へ、食道へと、その身体を押し込んでくる。苦しい。気持ち悪い。なにより、怖い。

 

私は膝をついて、喉に手を当てた。えづくけど、吐き出せない。メタモンはどんどん奥へと進んでいって、やがて、食道を通り抜けて、胃の中へと達したらしい。

 

ストン、という感覚があった。

 

喉のつまりが消えて、私は激しく咳き込んだ。涙と唾液でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、必死に息を吸う。生きてる。とりあえず、まだ。

 

「なに……なに、今の……」

 

声が震える。立ち上がろうとして、自分のお腹に目を落とした私は、そこで硬直した。

 

膨らんでいる。

 

制服のブラウスの下で、お腹が、ぽっこりと。

 

まるで、妊娠したみたいに。

 

「うそ……」

 

私は恐る恐る、自分のお腹に手を当てた。硬くはない。柔らかい。でも、確かに膨らんでいる。ブラウスが少し突っ張っていて、スカートのウエストがきつく感じる。

 

中で、メタモンがいる。

 

その事実に、ぞっとした。今、私の胃の中に、ポケモンが一匹、すっぽりと収まっているのだ。考えただけで吐き気がする。でも、吐こうとしてもうまくいかない。メタモンは居心地よさそうに、私のお腹の中で丸まっているみたいだった。

 

「どうしよう……」

 

公園のベンチに座り込んで、私は膨らんだお腹を両手で抱えた。通りすがりの人がいないのが、唯一の救いだった。もし誰かに見られたら、なんて説明すればいいのかわからない。

 

五分ほど、そうしていただろうか。

 

ふと、お腹の膨らみが、引いていくのを感じた。

 

「え?」

 

見る見るうちに、お腹が平らに戻っていく。ブラウスの突っ張りが緩み、スカートのウエストも元通りになる。体中に染み渡っていくような、不思議な温かさがあった。

 

メタモンは——消えた?

 

いや、違う。消えたんじゃない。吸収されたんだ。そんな確信が、なぜかあった。メタモンは私の体内で、溶けて、私の一部になったんだ。

 

震える手で、もう一度お腹を触る。そこにはもう、異物感はなかった。なにもかも、元通り。さっきまでの出来事が、夢だったんじゃないかと思えるほどに。

 

でも、違う。あれは現実だ。

 

私は立ち上がった。足はまだ少し震えていたけど、もう大丈夫だった。とにかく、早く家に帰ろう。お母さんに、なんて説明しようか。いや、説明できない。とにかく、今日はもう寝よう。そうしよう。

 

そう決めて、私は公園を後にした。

 

歩き出してすぐ、身体に異変を感じ始めたのは。

 

 

最初は、本当に些細なことだった。

 

肩甲骨のあたりが、ムズムズする。

 

背中を掻こうとして手を回すけど、制服の上からじゃうまく掻けない。それに、ムズムズしている場所が、なんだか皮膚の表面じゃなくて、もっと奥の方——筋肉とか、骨とか、そういう部分のような気がした。

 

気のせいだと思おうとした。

 

でも、ムズムズはどんどん強くなる。肩甲骨だけじゃない。頭のてっぺんも、手足の先も、お尻のあたりも、体中が、内側からむずむずしている。

 

なにこれ。

 

立ち止まって、自分の両手を見つめる。指先が、ほんの少しだけ細くなっているような気がした。それに、爪が——気のせいかもしれないけど、少し鋭くなっているような。

 

怖くなって、私は走り出した。とにかく家に帰らなきゃ。このムズムズを、お風呂で洗い流さなきゃ。そうすればきっと、治るはずだ。

 

でも、ムズムズは走っても治らない。むしろ、心臓がドキドキして血流が速くなるにつれて、もっとひどくなっていく。

 

遊歩道を抜けて、住宅街に入る。私の家は、この先を右に曲がったところだ。あと少し、あと二分も走れば着く。そう思った時だった。

 

「……きゅう……」

 

か細い鳴き声が、聞こえた。

 

私は足を止めた。声のした方を見ると、塀の陰に、茶色い小さな生き物がうずくまっている。

 

イーブイだ。

 

ふわふわの体毛に、大きな耳。そして、首のまわりを囲む、クリーム色のふさふさした毛。しんかポケモンと呼ばれる、かわいらしいポケモンだ。

 

でも、そのイーブイは今、かわいらしいとは言えない状態だった。右脚をかばうようにして座り込んでいて、よく見ると、足の裏から血が滲んでいる。ガラスの破片でも踏んだのかもしれない。

 

「大丈夫……?」

 

私はしゃがみ込んで、イーブイに声をかけた。イーブイは警戒したように耳を伏せたけど、逃げ出す元気はないみたいだった。黒い瞳が、不安そうに私を見上げている。

 

「見せて。痛いの、わかるから」

 

ゆっくりと手を差し伸べる。イーブイは一瞬ためらったけど、やがて観念したように、怪我した脚を少しだけ前に出した。

 

その時だった。

 

 

尾てい骨が、どくんと脈打った。

 

 

「ひっ……!?」

 

突然の感覚に、私はバランスを崩して、その場に四つん這いになった。両手を地面について、尻を突き出すような格好。スカートが乱れて、太ももが露わになる。

 

なに、なに、なに。

 

尾てい骨のあたりが、熱い。熱くて、そして、ものすごくムズムズする。さっきまでの全身のムズムズが、全部そこに集中したみたいだ。

 

お尻の奥の方——背骨の一番下の部分が、内側から押し出されるような感覚。

 

「やだ……なにこれ……!」

 

私は必死に、お尻に手を回した。スカートの上から、尾てい骨のあたりを押さえる。

 

そこには、あってはならないものがあった。

 

膨らみ。

 

お尻の上の方、背中の終わりとお尻の始まりの中間あたり。その辺りが、確かに、内側から持ち上がってきている。

 

スカートの布地が、押し上げられているのが自分でもわかる。プリーツの入った制服のスカートが、お尻の部分だけ不自然に膨らんで、プリーツが引っ張られて歪んでいる。

 

「うそ……うそでしょ……」

 

私は震える手で、スカートの膨らみを押さえつけようとした。でも、内側からの圧力はどんどん増していく。手のひらに感じる、スカートの布地の張り。その下にある何かが、少しずつ、少しずつ、大きくなっている。

 

ダメだ、止められない。

 

私はスカートの下に手を差し入れて、直接、その膨らみを触ろうとした。指先が、履いているスパッツの表面をなぞる。太ももの付け根からお尻にかけて、黒いスパッツがぴったりと肌に貼りついている。スカートの下は、体育がある日はいつもこうだ。暑い季節はスカートだけの時もあるけど、今日は朝が涼しかったからスパッツを履いてきた。

 

そのスパッツが、今。

 

お尻の上の方で、確かに、盛り上がっている。

 

指で押さえても、へこまない。それどころか、触れている指の先にも、内側から何かが育っていく感触が伝わってくる。尾てい骨が、じわじわと伸びていくような感覚。骨そのものが形を変えて、新しい器官を作り出そうとしている。

 

「あ……ああ……」

 

怖い。怖いけど、目が離せない。私は四つん這いのまま、自分のお尻の変化を、スカートをたくし上げて凝視した。

 

スパッツが、限界を迎えつつあった。

 

ただでさえぴったりしたスパッツが、内部からの膨らみに耐えきれずに、縫い目がギチギチと音を立て始めている。特に、尾てい骨の真上あたり——いちばん膨らみが大きい部分の布地が、悲鳴を上げている。

 

スパッツの表面に、細かい皺が寄って、それがピンと張り詰めていく。布の繊維が一本一本、限界まで引き伸ばされているのが、手に取るようにわかった。

 

「破れる……!」

 

私がそう呟いた瞬間だった。

 

ビリッ。

 

小さな裂け目が、スパッツの中央に走った。黒い布地の下から、見たことのない肌色——いや、違う。これは、肌色の、産毛のような細かい毛に覆われた、なにか。

 

裂け目はどんどん広がっていく。スパッツの繊維が、内側からの圧力に耐えきれず、次々と千切れていく音が、自分のお尻から聞こえてくる。ビリビリビリ。布が裂ける音はどんどん大きくなって、やがて、彼方のパンツの縫い目まで達した。

 

その時。

 

ふわり、と。

 

スカートが、内側から大きく持ち上がった。

 

まるで、強い風がスカートの中に吹き込んだみたいに。プリーツスカートがふわりと舞い上がって、ばさりと捲れ上がる。

 

そして。

 

「きゃあっ……!」

 

私の尻尾が、勢いよく飛び出した。

 

ふさふさの、茶色い毛に覆われた、大きな尻尾。先端のあたりがクリーム色で、イーブイの尻尾そのものの形をしている。

 

それが今、私のお尻から、確かに生えている。

 

スカートを完全に捲り上げて、壊れたスパッツの裂け目から勢いよく飛び出した尻尾が、私の背中側で、ふわりふわりと揺れている。

 

「し、しっぽ……」

 

自分の口から出た声は、ほとんど悲鳴だった。

 

私は右手を後ろに回して、恐る恐る、その尻尾に触れた。指先が、ふわふわの毛に触れる。温かい。そして、感覚がある。触られているのが、ちゃんとわかる。

 

これ、私の身体の一部なんだ。

 

その事実に、頭がくらくらした。

 

でも、変化はそれで終わりじゃなかった。

 

尻尾が生えたのをきっかけにしたみたいに、体中のムズムズが、一気に加速する。

 

「あ……あああ……!」

 

私は四つん這いのまま、全身を襲う変化に耐えた。

 

手のひらと膝が、地面にぴったりくっついている。その手足が、じわじわと短くなっていく。指が丸まって、爪が鋭くなって、肉球のような感触が手のひらに発生していく。

 

腕と脚も、形が変わっていく。人間の肘や膝とは違う、もっと獣に近い関節のつき方に。制服の袖や裾が、変化する手足に合わせてずり上がっていく。

 

耳のあたりがムズムズして、頭のてっぺんから両側に、ふわふわの耳が生えてきた。人間の耳はそのままなのに、その上にもう一対、イーブイの大きな耳が出現している。そのせいで、周囲の音がさっきよりずっと鮮明に聞こえた。風の音、遠くの車の音、それから、目の前のイーブイの呼吸音まで。

 

次に、全身の皮膚がムズムズし始めた。毛穴という毛穴から、茶色い柔らかな体毛が生えてくる。腕も、脚も、お腹も、背中も、見る見るうちに体毛に覆われていく。ブラウスの下で、セーラー服の下で、体毛がどんどん伸びて、布地を内側からふわふわに膨らませる。

 

そして顔。

 

鼻の奥がツンとして、嗅覚が急激に鋭くなった。アスファルトの匂い、草の匂い、それから、イーブイの怪我から滲む血の匂いまではっきりとわかる。顔つきも変わっていっているのが自分でもわかった。口元が前に突き出して、歯の並びが変わる。目も、視界が広くなったような気がする。

 

「は……はあ……はあ……」

 

変化が収まった時、私はもう、完全にイーブイの姿になっていた。

 

自分の手を見下ろす。いや、手じゃない。前足だ。イーブイの小さな、ふわふわの前足。肉球があって、鋭い爪が地面を掴んでいる。

 

制服は、ぶかぶかになって私の身体から滑り落ちていた。ブラウスもスカートも、スパッツもパンツも、全部地面に脱ぎ散らかしたみたいになっている。人間用の服を着られるような体型じゃ、もうなくなってしまったから。

 

「うそ……夢だ……これ、絶対に夢だ……」

 

そう呟いたつもりだったけど、口から出てきたのは。

 

「きゅ、きゅう……」

 

イーブイの鳴き声だった。

 

言葉が喋れない。

 

その事実に、私は本当の意味で恐怖した。さっきまでは、身体が変わっても心は人間のままだった。でも、言葉を失ったことで、自分という存在の境界線が、ぼやけてしまったような気がする。

 

「きゅう……きゅうう……」

 

パニックになって、その場でくるくる回る。地面に落ちた自分の制服を見て、これが夢じゃないことを思い知る。

 

どうしよう。

 

もう、家に帰れない。

 

この姿じゃ、お母さんにもお父さんにも、私はみなもだってわかってもらえない。ただの野生のイーブイだと思われて、外に追い出されてしまうかもしれない。

 

いや、そもそも、元に戻れるのか。

 

このまま、ずっとイーブイのままだったら——。

 

涙が溢れてきた。イーブイの顔で泣くと、どんなふうに見えるんだろう。でも、悲しいという感情は、形が変わってもちゃんとあって、目の奥が熱くなって、視界が滲んだ。

 

そんな時だった。

 

「……きゅい」

 

声が、聞こえた。

 

はっとして顔を上げる。そこには、さっきのイーブイがいた。怪我をした脚をかばいながら、黒い瞳でじっと私を見つめている。

 

「きゅい、きゅきゅい」

 

イーブイが、なにかを話しかけてきた。

 

そして、私は。

 

「——痛いの、わかるよ」

 

その声が、ちゃんと、言葉として聞こえた。

 

 

驚きのあまり、言葉を失った。

 

いや、今の私はもともと言葉を喋れないんだけど。

 

「え、なに……今の、聞こえた……?」

 

私は混乱しながら、イーブイに問いかけた。

 

「きゅい。きゅきゅい、きゅーい」

 

『聞こえるもなにも、こうして話してるじゃない』

 

イーブイの鳴き声が、頭の中で、ちゃんと日本語に変換されて理解できる。不思議な感覚だった。耳で聞いているのは確かに「きゅいきゅい」っていう鳴き声なのに、それが意味を持った言葉として、すとんと胸に落ちてくる。

 

「なんで……どうして……」

 

『それはこっちの台詞だよ。いきなり人間がイーブイに変身するんだもん。びっくりした』

 

イーブイは、痛む脚を少し引きずりながら、私に近づいてきた。その動きはぎこちなくて、見ているだけで痛々しい。

 

「あなたの言葉がわかる。どうしてだろう。さっきまでは全然わからなかったのに」

 

『あなたがイーブイになったからじゃない? ポケモン同士なら、言葉が通じるんだよ。種族が違ってもね』

 

イーブイはそう言って、ぺたりとその場に座り込んだ。怪我した右脚を、庇うように浮かせている。よく見ると、肉球のあたりにガラスの破片が刺さっているみたいだった。

 

「脚、痛そうだね」

 

私は自分もイーブイの姿になっていることをなんとか受け入れて、四つ足でイーブイに近づいた。二本足で歩くより、こっちの方がずっと自然に動ける。それもなんだか悔しいけど。

 

『さっき、公園でガラスの瓶が落ちててね。気づかずに踏んじゃったんだ』

 

「どうして公園なんかにいたの? ここ、街中だよ。こんなところに野生のイーブイがいるなんて、変だよ」

 

私がそう言うと、イーブイは少し寂しそうに耳を伏せた。

 

『……群れから、はぐれちゃったんだ』

 

「群れ?」

 

『うん。私たち、本当は裏山の奥の方で暮らしてるの。でも昨日、人間の子どもが山に遊びにきて、花火をしたんだ。その音に驚いて、みんなバラバラに逃げちゃって。それで、気がついたら一人で、こんな街中に……』

 

イーブイの声は、どんどん小さくなっていった。尻尾もだらりと垂れて、全身で落ち込んでいるのがありありとわかる。

 

「そうだったんだ……」

 

私はなんて言っていいかわからなくて、無意識に、自分の尻尾を自分の方に巻きつけていた。もふもふした感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。

 

「群れのみんな、心配してるだろうね」

 

『……うん。でも、山に帰る道がわからないの。街中は匂いが多すぎて、みんなの匂いを辿れなくて。それに、この脚じゃ、遠くまで歩けないし……』

 

イーブイの黒い瞳が、うるうると潤んでいる。今にも泣き出しそうなのを、必死に堪えているみたいだった。

 

私には、その気持ちが痛いほどわかった。

 

家に帰りたいのに帰れない不安。誰にも自分の存在を認めてもらえない孤独。そして、自分の身体が言うことを聞かないもどかしさ。

 

それって、今の私と同じじゃないか。

 

「——ねえ、私が連れて行ってあげる」

 

気がつくと、私はそう言っていた。

 

イーブイが、ぱっと顔を上げる。

 

『え?』

 

「裏山でしょ? 私、知ってるよ。この街で生まれ育ったから、地理は詳しいんだ。それに……今の私なら、山の中でも平気だと思う」

 

自分の身体を見下ろす。ふわふわの体毛に覆われた、小さなイーブイの身体。人間だった時よりずっと小さいけど、地面を駆ける力は、むしろ今の方が強い気がする。野生のポケモンの身体は、自然の中で生きるためにできているんだ。

 

『でも……あなた、人間だったんじゃ……』

 

「うん。人間だった。たぶん、今も心は人間のままだと思う。自分のこと、まだイーブイになった実感もないし」

 

私は前足で、落ちている制服をつついた。

 

「でも、放っておけないよ。困ってるポケモンが目の前にいるのに、知らんぷりなんてできない。だって私——」

 

言葉が、自然に出てきた。

 

「ポケモンの言葉がわかる、特別な人間なんだから」

 

イーブイは、じっと私を見つめていた。それから、ゆっくりと立ち上がる。

 

『……ありがとう』

 

その声は、震えていた。だけど、さっきまでの悲しみだけじゃない。希望の光が、その声には混ざっている。

 

「脚、大丈夫? 歩けそう?」

 

『うん。ゆっくりなら。我慢できないほどじゃないよ』

 

「なら、まずは安全な道を選んで行こう。表通りは人が多いから、裏道を通って、川沿いの土手を目指すの。そこから山の方に上がっていけるから」

 

私は頭の中で街の地図を組み立てながら、歩き出した。四つ足での歩き方は、まだぎこちなかったけど、歩いているうちにだんだんコツが掴めてきた。人間の時より重心が低いから、安定感はむしろこっちの方が上だ。

 

イーブイが、とことこと私の隣に並ぶ。

 

裏道は、思った通り人通りが少なかった。夕方の日が傾き始めて、塀の影が長く伸びている。もし誰かが見たら、イーブイが二匹で歩いているように見えるだろう。それでいい。今は、人間に見つからないことが一番大事だ。

 

「そういえば、あなたの名前、なんていうの?」

 

歩きながら、私は尋ねた。

 

『名前? とくに決まってないけど……群れのみんなは、クリームって呼んでた』

 

「クリーム?」

 

『うん。尻尾の先がクリーム色で、他の子よりちょっと白っぽいから』

 

そう言われて、私はクリームの尻尾を見た。確かに、尻尾の先端と首のまわりのふさふさした毛が、きれいなクリーム色をしている。他の部分の茶色い毛とのコントラストが、とてもかわいらしい。

 

「いい名前だね。私はみなも。王嶋みなも。今はこんな姿だけど、本当は人間なんだよ」

 

『みなも……変わった名前だね』

 

「そうかな。普通だと思うけど」

 

『ポケモンの名前は、見た目や特徴からつけることが多いから、人間の名前って不思議な感じがする』

 

そういうものなのか。ポケモンの世界にも、ちゃんと文化があるんだな。

 

私はなんだかくすぐったい気持ちになりながら、塀の陰を進んでいった。時々、遠くで人の話し声がすると、立ち止まって息を潜める。クリームもそれに合わせて、ぴたりと動きを止めてくれる。言葉は通じるけど、人間に見つからないことへの警戒心は、私の方がずっと強い。野生で生きてきた割に、クリームはけっこうおおらかな性格なのかもしれない。

 

小さな路地を抜けて、川沿いの土手に出る頃には、日がだいぶ傾いていた。空がオレンジ色に染まって、川の水面がきらきらと光っている。

 

「ここまで来れば大丈夫。土手沿いに歩けば、裏山の入り口に着くよ」

 

『うん……』

 

クリームの歩みが、いつのまにか遅くなっていることに気がついた。よく見ると、怪我した右脚を着くのをなるべく避けて、三本足で歩こうとしている。

 

「無理しちゃダメだよ。ちょっと休憩しよう」

 

私は土手の草むらを選んで、ふわりと座り込んだ。人間の時はお尻で座ってたけど、イーブイの身体だとお腹を地面につけて伏せるような形になる。それが自然で気持ちいいから、不思議だ。

 

クリームも、どさりと私の隣に伏せた。

 

「脚、見せて。私、応急処置くらいならできるかもしれない」

 

『え? でも……』

 

「私、図書室で本を読むのが好きでさ。ポケモンの怪我の手当てについて書いてある本も、前に読んだことがあるんだ。うろ覚えだけど、ガラスが刺さったままは危ないから、まず取らないと」

 

私は前足を伸ばして、クリームの右脚をそっと引き寄せた。肉球の間に、小さなガラスの破片がキラリと光っている。思ったより深くは刺さっていない。これなら、私の歯で引き抜けるかもしれない。

 

「少しだけ、我慢してね」

 

『う、うん……』

 

クリームはぎゅっと目を閉じた。私はガラスの破片にそっと歯を当てて、一気に引き抜いた。

 

「きゅっ……!」

 

クリームが小さく悲鳴をあげる。でも、破片はちゃんと抜けた。肉球からじわりと血が滲んだけど、大した出血じゃない。

 

「よし、取れたよ。それから、この葉っぱ——」

 

私は近くに生えていたオオバコの葉をちぎって、クリームの肉球に押し当てた。図書室で読んだ本に、オオバコの葉には止血効果があるって書いてあったのを覚えている。人間にもポケモンにも効果があるかはわからないけど、やらないよりはマシだ。

 

『あ……冷たくて、気持ちいい……』

 

「しばらくしたら血も止まると思う。山に着くまでは、なるべくゆっくり歩こう」

 

『みなもは、すごいんだね。ポケモンのことも詳しいし、道もよく知ってるし』

 

「そんなことないよ。ただ、本で読んだことを覚えてただけで——」

 

そこまで言って、私ははたと気づいた。

 

私、今、すごく落ち着いてる。

 

ついさっきまで、自分がイーブイになったことにパニックになって、泣きそうになってたのに。今は、クリームの怪我を手当てして、山までの道案内をして、なんならこの状況をちょっと楽しんでさえいる。

 

なんでだろう。

 

クリームが、私の顔をじっと見つめている。黒い瞳が、夕日を反射して金色に輝いていた。

 

『ありがとう、みなも。あなたが来てくれなかったら、わたし、どうなってたかわからない』

 

「そんな大げさな——」

 

『大げさじゃないよ。ひとりぼっちで、脚は痛いし、道はわからないし、本当に怖かったんだ』

 

クリームは、ふわふわの尻尾をゆっくりと振った。それは嬉しさの表現なのかもしれない。少なくとも、警戒や恐怖の感情じゃないことだけは、私にもわかった。

 

「……私も、怖かったよ」

 

気がつくと、私は自分の気持ちを言葉にしていた。

 

「突然メタモンが口の中に入ってきて、お腹が膨らんで、それから身体が変わり始めて。自分が自分じゃなくなるのが、すごく怖かった。もう人間に戻れないかもしれないって思って、泣きそうだった」

 

『それなのに、どうしてわたしを助けてくれたの?』

 

「助けてほしそうな顔してたから」

 

私は即答した。だって、それ以外に理由なんてない。

 

「人間の時から、ポケモンが何を考えてるのかなって、ずっと思ってた。野生のポケモンを見ても、ただ逃げるだけで、何もできない自分がもどかしかった。でも今、こうして話せて、力になれるなら——」

 

私は立ち上がって、土手の向こうに見える山を見上げた。夕焼けに染まった山の稜線が、くっきりと浮かび上がっている。

 

「この姿になったことも、ちょっとは意味があるのかもね」

 

クリームはしばらく黙っていたけど、やがてゆっくりと立ち上がった。

 

『みなもは、やっぱり変わってる』

 

「え、それって褒めてる?」

 

『わかんない』

 

そう言って、クリームは少し笑ったように見えた。イーブイの顔が笑うなんて初めて見たけど、どういうわけか、それが笑顔だってわかった。目の細め方とか、耳の傾け方とか、きっとそういう小さなサインを、今の私は読み取れるようになっているんだ。

 

「さあ、行こう。日が暮れる前に、山に入りたいから」

 

『うん』

 

私たちは再び歩き出した。クリームの脚は、さっきよりだいぶ良くなっているみたいで、歩調も軽やかになっている。オオバコの葉が効いたのかもしれない。

 

土手沿いの道は、だんだんと街から離れて、田んぼや畑が広がる風景に変わっていく。人通りもめっきり減って、聞こえてくるのは川のせせらぎと、遠くで鳴く鳥の声だけだ。

 

『みなもは、人間に戻りたい?』

 

不意に、クリームがそう尋ねた。

 

「そりゃあ……戻りたいよ。家族もいるし、学校もあるし。ずっとイーブイのままってわけにはいかないでしょ」

 

『そっか』

 

「でも、今この瞬間だけは、ちょっと楽しいかも」

 

本音だった。

 

ポケモンになって、ポケモンと喋って、ポケモンの気持ちがわかって。それは、図書室でどんな本を読んでも味わえない、特別な体験だった。

 

『もし人間に戻れても、わたしのこと、覚えててくれる?』

 

「忘れるわけないよ。こんな体験、一生忘れない」

 

『なら、約束して。また会えるって』

 

「うん。会えるよ。絶対」

 

そう言った時、私の身体が、かすかにムズムズした。

 

尾てい骨のあたりが、小さく疼くような感覚。

 

でも、さっきまでとは違う。これは変化の予兆なんかじゃない。ただ、自分の尻尾の存在を、意識しただけだ。

 

私は自分の尻尾を、くるりと巻き上げてみた。ふわふわの感触が、自分の身体なのにくすぐったい。

 

クリームが、それを見て同じように尻尾を巻き上げる。

 

なんだかそれがおかしくて、私たちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。

 

夕日が、二匹のイーブイの影を、土手の上に長く伸ばしていた。

 

 

山の入り口に着いた時には、あたりはもう薄暗くなり始めていた。

 

街灯のない山道は、夜になると本当に真っ暗になる。急がないと、クリームを群れに返すどころか、自分たちが迷子になってしまう。

 

「山の中は、やっぱり勝手が違うね」

 

地面はアスファルトから土と草に変わって、木々の匂いが濃くなる。街中では嗅げなかった自然の匂いが、私の鋭くなった嗅覚をくすぐった。土の匂い、木の葉の匂い、どこかで咲いている花の匂い。そして——。

 

『この匂い……!』

 

クリームが、ぱっと顔を上げた。

 

『みんなの匂いがする! 群れの匂いだ!』

 

クリームの声が、一気に明るくなる。怪我した脚のことも忘れたみたいに、ぴょんぴょん跳ねながら匂いの方向を確かめている。

 

「本当? よかった……!」

 

『こっちだよ、みなも! こっちから匂いがする!』

 

クリームはもう待ちきれないという様子で、山道を奥へ奥へと進んでいく。私はその後を追いかけながら、ふと立ち止まって、自分の身体を見下ろした。

 

イーブイの身体。

 

短い手足に、ふわふわの毛。ふさふさの尻尾に、大きな耳。

 

この身体がなければ、私はクリームをここまで連れて来られなかった。クリームの言葉もわからなかったし、山道を一緒に歩くこともできなかった。

 

あの時、メタモンが私の口の中に入ってこなければ、今の私はなかった。

 

でも——あのメタモンは、なんだったんだろう。ただの偶然? それとも、なにか理由があったの?

 

わからない。

 

でも、今はそれでいいと思える。

 

『みなも、早く!』

 

「うん、今行く!」

 

私は四つ足で地面を蹴って、クリームの後を追った。イーブイの身体で走るのは、もうすっかり慣れた。風を切って走る感覚が、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。

 

木々の間を抜けて、小さな沢を越えて、傾斜を少し登ったところ。

 

そこに、彼らはいた。

 

三匹のイーブイと、一匹のブラッキー、それから一匹のリーフィア。ブラッキーは夜空みたいな黒い体に、金色の輪っかが光っている。リーフィアは、草むらに紛れるような緑色の身体で、耳や尻尾が葉っぱの形をしている。どちらもイーブイの進化形だ。

 

『クリーム!』

 

ブラッキーが、真っ先に気づいて駆け寄ってきた。その声は、低くて落ち着いているけど、今は安堵と喜びで震えている。

 

『よかった、無事だったんだね! どこに行ってたの? 昨日からずっと探してたんだよ』

 

『ごめんね、ブラック。街の方に迷い込んじゃって……それで、脚を怪我して動けなくなってたの』

 

クリームはうつむきながら、右脚を見せた。

 

『でも、この子が助けてくれたんだ。人間の街から、ここまで連れてきてくれたの』

 

『この子……?』

 

ブラッキーが、赤い瞳で私を見つめる。他のイーブイたちも、リーフィアも、みんな私の方を見ている。初対面のポケモンたちに注目されて、私はなんだかもじもじしてしまった。尻尾が無意識に、くるんと丸まる。

 

『……お前、群れの子じゃないな。この山のイーブイじゃない。そもそも、匂いが違う』

 

ブラッキーは警戒したように、私の周りをゆっくりと回った。大きな身体で間近に迫られると、さすがにちょっと怖い。

 

「あ、あの……私は——」

 

『この子は、みなもっていうの! 人間なんだよ!』

 

クリームが、私の前に出て言った。

 

『人間?』

 

『うん。メタモンが体の中に入って、それでイーブイの姿になっちゃったんだって。それで、わたしの言葉がわかるようになって、ここまで連れてきてくれたの』

 

ブラッキーは驚いたように耳を立てて、もう一度私をじっくりと見つめた。

 

『……なるほど。それで、お前の匂いには人間の匂いが混ざっているのか』

 

「私の匂い、人間の匂いがするんですか?」

 

『ああ。ポケモンの匂いの中に、かすかに人間の匂いが混じっている。不思議な匂いだ』

 

他のイーブイたちも、興味津々で私に近づいてきた。ある子は私の尻尾を鼻でつついてきて、私は思わず飛び上がった。

 

「きゃっ! くすぐったい!」

 

『ご、ごめんなさい! 珍しい匂いだったから、つい……』

 

小柄なイーブイが、恥ずかしそうに言った。

 

リーフィアが、優雅な足取りで私の前に歩いてくる。葉っぱの形をした尻尾が、さらさらと揺れていた。

 

『クリームを助けてくれて、ありがとう。おかげで、群れがまた揃ったよ』

 

リーフィアの声は、静かで、それでいて温かみがあった。森の木漏れ日みたいな声だと思った。

 

「いえ……私、助けるっていうか、ただ一緒に歩いただけで……」

 

『それで十分だよ。ひとりで怪我をしていたら、どうなっていたかわからない。あなたはクリームの命の恩人だ』

 

命の恩人。

 

そんな大げさな言葉に、私はますますもじもじしてしまった。

 

ブラッキーが、私の前に座る。金色の輪っかが、夕闇の中でほのかに輝いている。

 

『人間がポケモンの姿になるなんて、聞いたことがない。お前の身に、一体何が起きているんだ?』

 

「私にもわからないんです。ただ、放課後にメタモンが飛び込んできて、それで……」

 

私は、今日の出来事を最初から話した。公園でメタモンが口の中に入ってきたこと。お腹が膨らんで、それから引っ込んだこと。身体がムズムズして、尻尾が生えて、全身がイーブイに変わったこと。それから、クリームに出会って、言葉がわかるようになったこと。

 

『メタモンの変身能力が、人間に作用したのか……』

 

ブラッキーは考えるように、金色の輪っかをゆっくりと瞬かせた。

 

『メタモンは本来、自分の細胞を変えることはできても、他の生物を変えることはできないはずだ。でも、もしお前の体内でメタモンが溶けて、その細胞が人間の細胞と混ざったとしたら——』

 

「私の身体、どうなっちゃうんでしょう」

 

『わからない。ただ、今はまだ変化が安定していないように見える。さっきから、お前の体の匂いが、微妙に揺らいでいる』

 

「匂いが、揺らぐ……?」

 

自分の身体の匂いを嗅いでみるけど、よくわからない。ポケモンの嗅覚になっても、自分の匂いを客観的に判断するのは難しいようだ。

 

『みなも、もうすぐ暗くなる。よかったら、今夜は私たちの巣穴に泊まっていかないか?』

 

リーフィアが提案してくれた。

 

『人間の姿に戻るにしても、夜の山道を一人で歩くのは危険だよ』

 

「でも、私——」

 

家族が心配する。

 

そう言おうとして、私は言葉を詰まらせた。

 

家族。

 

お母さんとお父さん。今頃、私が帰らないのを心配しているだろうか。それとも、まだ気づいていないだろうか。時計はないけど、たぶんもう六時は過ぎている。いつもなら、とっくに家に帰っている時間だ。

 

でも、この姿で家に帰ったら、それこそ大騒ぎになる。

 

私はどうすればいいんだろう。

 

『みなも、大丈夫?』

 

クリームが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

 

「……うん。今日は、お言葉に甘えようかな」

 

私は小さく頷いた。

 

「どうせこの姿じゃ家に帰れないし……それに、もう少しだけ、ポケモンの世界を体験してみたい」

 

『やった!』

 

クリームが嬉しそうに跳ねた。

 

『それじゃあ、巣穴に案内するよ! みんな、行こう!』

 

クリームはもうすっかり元気になって、群れの先頭を歩き出す。怪我した脚も、ほとんど気にならないみたいだった。他のイーブイたちも、リーフィアも、ブラッキーも、ゆっくりとその後を追う。

 

私も、四つ足でそれに続いた。

 

 

群れの巣穴は、山の中腹にある小さな洞窟だった。

 

入り口はツタで覆われていて、外からはほとんどわからないようになっている。中は意外と広くて、六匹のポケモンが寝転んでもまだ余裕があった。

 

地面には柔らかい枯れ葉が敷き詰められていて、座り心地は抜群だ。壁際には、木の実やキノコが小さく積まれている。

 

『ここが私たちの家だよ』

 

クリームが得意げに言った。

 

『夜はブラックが入り口を見張ってくれるから、安心して眠れるんだ』

 

ブラッキーは、言われた通り入り口近くに伏せて、外を警戒している。月明かりに照らされた黒いシルエットと、金色の輪っかの輝きが、とても神秘的だった。

 

『さあ、お腹すいたでしょ。木の実、食べる?』

 

リーフィアが、積まれた木の実の山から、赤くて小さな実をいくつか取り出してくれた。

 

「いただきます」

 

私はその実を口に含んだ。人間だった時は気持ち悪くて食べられなかった野生の木の実も、イーブイの身体だとびっくりするほど美味しく感じる。甘くて、少し酸っぱくて、口の中でほろりと崩れる食感が心地いい。

 

『ねえ、みなもは学校で何を勉強してるの?』

 

食事をしながら、クリームが興味津々で尋ねてきた。

 

『人間の世界って、魔法みたいなものがいっぱいあるんだよね?』

 

「魔法? そんなものはないよ。でも、テレビとかスマホとか、ポケモンから見たら魔法みたいに見えるかもね」

 

『テレビ……スマホ……』

 

「動く絵が見られたり、遠くの人と話せたりする道具だよ」

 

私が説明すると、イーブイたちは目を丸くした。

 

『ポケモンセンターの通信機みたいなもの?』

 

ブラッキーが振り返って尋ねる。

 

「ああ、それに近いかも。でも、スマホはもっと小さくて、手の中に入るんだ」

 

『手の中に……!』

 

ポケモンたちがざわざわと騒ぎ出す。どうやら、人間のテクノロジーは彼らにとっても興味深いらしい。

 

それから私は、学校のこと、友達のこと、好きな本のこと、家族のこと——いろんな話をした。ポケモンたちは、みんな熱心に聞いてくれた。時々質問が飛んできて、それに答えるたびに、また新しい驚きの声が上がる。

 

『人間の世界って、大変なんだね』

 

一通り話し終えた後、クリームがぽつりと言った。

 

『学校に行って、勉強して、友達と仲良くして……それで、将来のことも考えなきゃいけないんでしょ?』

 

「そうだね。でも、それはそれで楽しいよ。本を読んで新しいことを知るのは好きだし、友達と話すのも好き。将来のことは……ちょっと怖いけど」

 

『怖い?』

 

「何になりたいか、まだ決まってないから。みんなは、もう将来の夢を考えてるのに、私だけ漠然としてて……」

 

人間だった時、教室で将来の夢を発表する時間があった。みんなは「ポケモントレーナーになりたい」とか「ポケモン博士になりたい」とか、目を輝かせて話していた。でも私は、何も言えなかった。将来のことなんて、考えたこともなかったから。

 

『別に、今すぐ決めなくてもいいんじゃない?』

 

リーフィアが、静かに言った。

 

『この子たちだって、いつかどの道に進化するか、まだ決めてないよ。それぞれのタイミングがあるんだ』

 

進化。

 

イーブイは、進化の石を使ったり、特定の条件を満たしたりすることで、様々な姿に進化できる。ブラッキーは夜の絆で、リーフィアは森の力で、それぞれ違う進化を遂げている。

 

『わたし、まだ進化したくないんだ』

 

クリームが、自分の尻尾を抱えながら言った。

 

『進化しなくても、今のままでも、けっこう楽しいから。ブラックは早く進化しろって言うけど……』

 

『べ、別に、進化を急かしてるわけじゃないよ! ただ、クリームはすごく可能性があるから、早くその力を開花させたらいいのにって思ってるだけで……』

 

ブラッキーが、慌てたように言い訳を始めた。普段は冷静なブラッキーも、クリームのことになると調子が狂うみたいだ。その様子がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。

 

「そうだよね。私も、まだ決めなくていいよね」

 

『うん。いつか、なりたいものが見つかった時でいいんだよ』

 

リーフィアの言葉が、胸にすとんと落ちる。

 

将来のこと。自分が何者になるのか。

 

ずっと焦っていたけど、まだ答えを出す必要なんてない。今は、こうしてポケモンと言葉を交わせる自分を、素直に楽しめばいいんだ。

 

『そろそろ寝よう。明日は早いよ』

 

ブラッキーが巣穴の中を見回して言った。

 

『みなも、今日は本当にありがとう。クリームを連れ戻してくれて、それに、私たちに人間の話を聞かせてくれて』

 

「こちらこそ、ありがとう。私、ポケモンとこんなに話したのは初めてだったから、すごく楽しかった」

 

『明日、山を下りる時は、私が途中まで送っていくよ』

 

リーフィアが言った。

 

『夜のうちに、きっと身体も変化するかもしれないしね』

 

「うん。よろしくお願いします」

 

私は小さくお辞儀をした。四つ足でのお辞儀のやり方がよくわからなくて、ただ頭を下げるだけになってしまったけど、気持ちは伝わったと思う。

 

クリームが、私の隣にぴったりと寄り添ってくる。

 

『みなも、今日は一緒に寝よう』

 

「うん。そうだね」

 

私たちは寄り添って、枯れ葉のベッドに丸まった。ふわふわの体毛が触れ合って、クリームの体温が伝わってくる。すごく温かくて、安心する。目を閉じると、すぐに眠気がやってきた。

 

今日一日、本当にいろんなことがあった。

 

メタモンが口に入ってきて、自分がイーブイになって、クリームに出会って、群れのみんなと友達になって。

 

人生で一番、不思議な一日だった。

 

でも、悪くない。

 

むしろ、すごく良い一日だったかもしれない。

 

 

そう思いながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

 

 

朝。

 

小鳥のさえずりで目が覚めた。

 

巣穴の中は、柔らかな朝日が差し込んで、枯れ葉がキラキラと輝いて見える。空気はひんやりとしていて、吸い込むと肺の奥がきゅっとする。

 

私はゆっくりと身体を起こした。

 

あれ——なんだか、身体の感覚が違う。

 

自分の手を見る。いや、前足じゃない。ちゃんと五本の指があって、爪も人間のものだ。

 

「戻ってる……!」

 

私は自分の身体を見下ろした。イーブイのふわふわの体毛は消えて、元の人間の肌に戻っている。耳も、尻尾も、なくなっている。完全に、人間の姿に戻っていた。

 

ただ——服は、ない。

 

昨日、変化する時に全部脱げ落ちてしまったから、私は全裸で枯れ葉の上に座っていた。

 

「きゃっ……!」

 

とっさに身体を隠す。幸い、他のポケモンたちはまだ寝ているみたいだ。クリームも、私の隣ですうすう寝息を立てている。

 

どうしよう、このままだと、誰か起きた時にすごく恥ずかしい。

 

そう思った時、巣穴の入り口に、何かが置いてあるのに気づいた。

 

私の制服だった。

 

ブラウスに、スカートに、スパッツに、パンツ。それから、靴と靴下も。地面に落ちていたはずの服が、きちんと畳まれて、ここに置いてある。

 

誰が——?

 

入り口を見ると、ブラッキーがこちらに背を向けて座っていた。夜通し見張りをしてくれていたらしい。

 

「ブラック……?」

 

『……起きたか』

 

ブラッキーは振り返らずに言った。

 

『夜明け前に、お前の身体が人間に戻り始めた。服がないと困るだろうと思って、リーフィアと一緒に探しておいたんだ』

 

「ありがとう……!」

 

私は声をひそめてお礼を言うと、急いで服を着た。ブラウスを着て、スカートを履いて、スパッツを——ちょっと破けてるけど、履けないこともない。靴下を履いて、靴を履く。

 

久しぶりに人間の服を着た気がする。いや、たった半日くらいだったはずなのに、すごく懐かしい。

 

服を着終わったのを確認して、ブラッキーが振り返った。

 

『もう行くのか』

 

「うん。家族が心配してると思うから」

 

『そうか。……クリームには、声をかけていかなくていいのか?』

 

巣穴の奥で、クリームはまだ気持ちよさそうに眠っている。ふわふわのお腹が、寝息に合わせて上下に動いていた。

 

「……ううん。起こさないであげて。昨日、すごく疲れてただろうし」

 

それに、お別れを言うのは、なんだか寂しい。

 

また会おうとは言ったけど、人間の姿の私が会いに行って、クリームは私のことを覚えているだろうか。匂いでわかるかもしれないけど、それでも、昨日のように言葉を交わせるかはわからない。

 

『わかった。クリームには、お前が無事に帰ったと伝えておく』

 

「ありがとう、ブラック。リーフィアにも、みんなにも、よろしく伝えて」

 

私は立ち上がった。人間の二本足で立つのは、なんだか久しぶりな気がする。四つ足の方が安定してたんじゃないかって、一瞬思ってしまった。

 

「ブラック、最後にひとつ質問していい?」

 

『なんだ』

 

「どうして、私がイーブイになったんだと思う? メタモンのせいだけじゃなくて、何か理由があったのかな……」

 

ブラッキーはしばらく考えていたけど、やがて金色の輪っかをゆっくりと輝かせて言った。

 

『わからない。でも、意味はあったと思う。クリームを助ける意味も、お前が私たちと話す意味も』

 

「意味……」

 

『物事には、いつも意味がある。すぐにわかることもあれば、ずっと後になってわかることもある。今はわからなくても、それでいいんじゃないか』

 

ブラッキーの言葉は、昨夜のリーフィアの言葉と重なる。

 

物事の意味は、すぐにわかるとは限らない。将来の夢も、今の自分の変化も、いつか時間が経ってからわかることもある。

 

「そっか。そうだよね」

 

私は微笑んだ。

 

「じゃあ、行くね。本当にありがとう、ブラック」

 

『ああ。元気でな、みなも』

 

私は巣穴を出て、朝の山道を歩き始めた。

 

森は、昨日よりもずっと明るくて、緑の香りに包まれている。時々、野生のポケモンの気配がするけど、みんな遠くから私を見ているだけで、近づいてはこない。

 

もう、ポケモンの言葉は聞こえなかった。

 

耳を澄ませても、鳴き声はただの鳴き声で、意味は理解できない。

 

少しだけ、寂しい。

 

でも、あの感覚は、確かに私の心に残っている。ポケモンと心が通じる不思議な感覚。言葉じゃなくても、確かにお互いを理解できるという確信。

 

それは、きっとこれからの私の宝物になる。

 

山を下りて、街並みが見えてきた頃、私は少し走った。早く家に帰って、お母さんに謝らなきゃ。一晩帰らなかったこと、きっとすごく心配してるはずだ。

 

どんな言い訳をしようか考えながら走っていると、ふと、空き地の隅にポケモンがいるのが見えた。

 

小さな、黄色いポケモン。

 

ピカチュウだ。

 

電柱の陰で、なにか困ったようにうろうろしている。たぶん、木の上にひっかかったボールを取ろうとしているんだと思う。見上げている視線の先には、たしかに赤いゴムボールが枝に引っかかっていた。

 

「どうしたの、それ——」

 

声をかけようとした、その時だった。

 

 

尾てい骨が、むずっとした。

 

 

「え」

 

立ち止まる。

 

心臓が跳ねる。

 

お尻の奥——尾てい骨のあたりが、かすかに、でも確かに、熱を帯びている。

 

あの感覚だ。

 

昨日、イーブイになった時の、最初の兆候。

 

私は慌てて自分のお尻を触った。スカートの上からだけど、まだ膨らんではいない。でも、ムズムズは収まらない。むしろ、少しずつ強くなっている気がする。

 

「うそ……また……?」

 

ピカチュウを見る。

 

黄色い体に、稲妻の形をした尻尾。大きな耳に、赤いほっぺ。

 

もしかして——今度は——。

 

「や、やばい……!」

 

私はくるりと方向転換して、自宅に向かって全力で走り出した。

 

だって、スカートの下のスパッツ、昨日破れたままだし。

 

今度こそ、ちゃんと着替えてからじゃないと——!

 

 

走りながら、私は思わず笑っていた。

 

怖いけど、楽しみな自分がいる。あの不思議な感覚を、もう一度味わえるかもしれない。今度はどんなポケモンになって、どんな言葉を交わせるんだろう。

 

未来はわからない。

 

わからないけど——きっと、悪いことばかりじゃない。

 

私は走る。風を切って、家に向かって。

 

お尻のムズムズが、どんどん強くなっていくのを感じながら。


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