目覚めの時は来た――と、鍋の音が告げた。高らかに。
鍋。料理に使われるべきものが、いまは力の限りに乱打されている。
時告げの若人は、自ら打ち鳴らす鍋の大騒音に劣らぬ声でもて、叫んだ。
「起床ぉぉぉぉぉぉおおおおおッ!!!!」
反応は鈍い。ゆえに鍋は、声は、繰り返す。
「起床ぉぉぉぉぉぉおおおおおッ!!!! 二日目の朝だぁぁぁあああ!」
幾名かが唸り声をあげる。
うう。うう。
やがて二人、三人、そして数十人が上体をあげる。まだ寝入っている者を揺さぶり、起こし合う。が、全員が起き切るまでには、随分かかるであろう。なにせ数百名が雑魚寝して、体育館を埋めている。
その群像の中に、彼女はいる。
「うう……」
覚醒するや否や、彼女の全身は悲鳴をあげた。信じがたいほどの痛みが襲う。背が、腰が、そして何より両足が。無数の針で刺されたように痛む。
周囲も、同様である。男女を問わない若者たちが、目覚めるや否や、苦悶の声をあげている。
「あー……しんどぉ。何なの、これは」
いったい何をやっているのか。彼女自身にも分からない。
否、目的の場所は知っている。分かりきったことだ。
「大学まで……」
辿るべき道も分かる。その所要時間すら。
「あと一日……」
首都に隣接するS県を出発したのが、昨日の早朝。
彼女らが所属する大学に向けて、丸一日、歩き続けた。
夜も更けてから、この体育館にたどり着き、皆で死んだように眠った。
そして迎えた朝。体育館内の者、その半数近くは、既にして半死半生といっていい。ホラー映画でいう、死んでなお徘徊する怪物のような有り様で、歩くどころか、立つことも思うに任せない。
それでも、なお。
「歩く……んだ」
決まっている。選択肢は他にない。
そういう行事なのである。彼女が属する大学で、学生有志が毎年企画している、伝統の行事。
電車でも車でもなく、徒歩で大学まで歩くという。延々、丸二日をかけて、実に百キロ。
ただ歩く。単純無類の行事だ。
始まるまでは、持ち物だの、ウェア(あるいは、彼女はしていないが、コスプレ)だのと、考えることもある。
が、始まってしまえば、通いなれた大学まで歩くだけだ。
指定の経路には、延々と参加者の背が並び、列を作っているから、極度に遅れない限り、迷う気遣いはない。
彼女は、その参加者である。無論、自らの意志で選んだことだ。
だから、目的も、経路も自明。分かりきっている。唯一、分からないことと言えば。
「わたし、何でこんなことしてるんだ……」
それは、解を持ちえない謎。かつまた、彼女の動機そのものであった。
ともあれ、進むしかない。まずは起きることだ。激痛を訴える大腿部をさすりつつ、彼女は立ち上がろうとした。
瞬間、世界が揺らいだ。
生誕以来、初めての苦行に見舞われた膝は、彼女の命令を裏切った。
床が顔に接近する。
ぶつかると思ったところで、止まった。
伸びていた誰かの手が、彼女を支えたのだ。女の手である。たくましい力が伝わってくる。
「大丈夫?」
そう尋ねる声には、疲労感など寸毫もない。快活そのものである。
彼女は、まだ睡眠を求める脳を叱咤し、思い出す。昨日、初めて会った女の名を。
「うん……ありがと。大山さん」
相手はニコリと笑った。よく日焼けした顔に、歯の白さが眩しい。
「静香でいいよ。下川さんだっけ」
その相手。大山静香のたくましい腕に体を、涼やかさに心を支えられて、彼女はやっと立ち上がった。
「私も、茉莉でいい」
「がんばれそう?」
そう気づかう静香に、彼女、下川茉莉は、即答した。
「分かんない。でも頑張る」
静香は、彼女への好感を深めたようだった。
「それで、どうだった、昨日歩いて。あの人のこと、何か分かった?」
下川茉莉は、寝ぼけ顔を赤らめた。
昨日の夜、疲労のあまり、初対面の相手に対して、そんな話までしたのだと、今さら思い出したのだ。
羞恥のあまり何も言えないでいる茉莉に、静香は言う。
「ええと、何ていったっけ、昨日教えてくれた、あの人――そう」
茉莉の動機。恐らくは、その一つであろう者の名が、静香の声に乗った。
「リュクリス」