地に落ちて歩かば   作:芝三十郎

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① 起

 目覚めの時は来た――と、鍋の音が告げた。高らかに。

 

 鍋。料理に使われるべきものが、いまは力の限りに乱打されている。

 

 時告げの若人は、自ら打ち鳴らす鍋の大騒音に劣らぬ声でもて、叫んだ。

 

「起床ぉぉぉぉぉぉおおおおおッ!!!!」

 

 反応は鈍い。ゆえに鍋は、声は、繰り返す。

 

「起床ぉぉぉぉぉぉおおおおおッ!!!! 二日目の朝だぁぁぁあああ!」

 

 幾名かが唸り声をあげる。

 

 うう。うう。

 

 やがて二人、三人、そして数十人が上体をあげる。まだ寝入っている者を揺さぶり、起こし合う。が、全員が起き切るまでには、随分かかるであろう。なにせ数百名が雑魚寝して、体育館を埋めている。

 

 その群像の中に、彼女はいる。

 

「うう……」

 

 覚醒するや否や、彼女の全身は悲鳴をあげた。信じがたいほどの痛みが襲う。背が、腰が、そして何より両足が。無数の針で刺されたように痛む。

 

 周囲も、同様である。男女を問わない若者たちが、目覚めるや否や、苦悶の声をあげている。

 

「あー……しんどぉ。何なの、これは」

 

 いったい何をやっているのか。彼女自身にも分からない。

 

 否、目的の場所は知っている。分かりきったことだ。

 

「大学まで……」

 

 辿るべき道も分かる。その所要時間すら。

 

「あと一日……」

 

 首都に隣接するS県を出発したのが、昨日の早朝。

 

 彼女らが所属する大学に向けて、丸一日、歩き続けた。

 

 夜も更けてから、この体育館にたどり着き、皆で死んだように眠った。

 

 そして迎えた朝。体育館内の者、その半数近くは、既にして半死半生といっていい。ホラー映画でいう、死んでなお徘徊する怪物のような有り様で、歩くどころか、立つことも思うに任せない。

 

 それでも、なお。

 

「歩く……んだ」

 

 決まっている。選択肢は他にない。

 

 そういう行事なのである。彼女が属する大学で、学生有志が毎年企画している、伝統の行事。

 

 電車でも車でもなく、徒歩で大学まで歩くという。延々、丸二日をかけて、実に百キロ。

 

 ただ歩く。単純無類の行事だ。

 

 始まるまでは、持ち物だの、ウェア(あるいは、彼女はしていないが、コスプレ)だのと、考えることもある。

 

 が、始まってしまえば、通いなれた大学まで歩くだけだ。

 

 指定の経路には、延々と参加者の背が並び、列を作っているから、極度に遅れない限り、迷う気遣いはない。

 

 彼女は、その参加者である。無論、自らの意志で選んだことだ。

 

 だから、目的も、経路も自明。分かりきっている。唯一、分からないことと言えば。

 

「わたし、何でこんなことしてるんだ……」

 

 それは、解を持ちえない謎。かつまた、彼女の動機そのものであった。

 

 ともあれ、進むしかない。まずは起きることだ。激痛を訴える大腿部をさすりつつ、彼女は立ち上がろうとした。

 

 瞬間、世界が揺らいだ。

 

 生誕以来、初めての苦行に見舞われた膝は、彼女の命令を裏切った。

 

 床が顔に接近する。

 

 ぶつかると思ったところで、止まった。

 

 伸びていた誰かの手が、彼女を支えたのだ。女の手である。たくましい力が伝わってくる。

 

「大丈夫?」

 

 そう尋ねる声には、疲労感など寸毫もない。快活そのものである。

 

 彼女は、まだ睡眠を求める脳を叱咤し、思い出す。昨日、初めて会った女の名を。

 

「うん……ありがと。大山さん」

 

 相手はニコリと笑った。よく日焼けした顔に、歯の白さが眩しい。

 

「静香でいいよ。下川さんだっけ」

 

 その相手。大山静香のたくましい腕に体を、涼やかさに心を支えられて、彼女はやっと立ち上がった。

 

「私も、茉莉でいい」

 

「がんばれそう?」

 

 そう気づかう静香に、彼女、下川茉莉は、即答した。

 

「分かんない。でも頑張る」

 

 静香は、彼女への好感を深めたようだった。

 

「それで、どうだった、昨日歩いて。あの人のこと、何か分かった?」

 

 下川茉莉は、寝ぼけ顔を赤らめた。

 

 昨日の夜、疲労のあまり、初対面の相手に対して、そんな話までしたのだと、今さら思い出したのだ。

 

 羞恥のあまり何も言えないでいる茉莉に、静香は言う。

 

「ええと、何ていったっけ、昨日教えてくれた、あの人――そう」

 

 茉莉の動機。恐らくは、その一つであろう者の名が、静香の声に乗った。

 

「リュクリス」

 

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