地に落ちて歩かば   作:芝三十郎

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② 隊列

「ならばおまえを示す名は? 聞こう」

 

 戦士に問われて、少女は即答した。

 

「マルガリティア」

 

 極めて率直に。端的に。彼女は、ほかの物を何も持たぬ身であるから。

 

 そして彼女は、彼女の戦士――リュクリスなる男の”隊列”に加わった。

 

 隊列。極めて小規模な。そして無秩序な。

 

 隊列を成す者の第一は、都市ラケディア戦士。それは所属であり、地位であり、保証でもある。一人もて万人に敵するほどに強い、という。

 

 第二の者は、羊。犠牲獣たるべきもの。名はない。

 

 その二者だけであれば、それは隊列ではなかった。戦士と、彼が携える供物。それだけであった。

 

 そこへ加わった彼女は、戦士には神の命を伝え、羊には名を与えた。二つの言葉に軽重はない。いずれも彼女、名もなき神に仕えるマルガリティアにとっては、なすべきことをなしただけであるから。彼らが、あるべきように、あるようにと。

 

 それから、執政官(アルカン)と呼ばれるようになった羊は、主に彼女が曳いている。

 

 リュクリスは、ほぼ常に、彼女と羊の前を歩く。

 

 だから彼女は、日がな一日、男の背ばかりを見ている。巨躯といっていい、巌のような背を。そして歩く。

 

 彼女の神の告げるところに従い、男が仕える偽りの神に従い、また時には、羊の導きに従って。彼女ら”隊列”は歩き続ける。

 

 その旅が、一つの節目――”緑壁”に達しようとした頃。

 

 隊列は、あらたに二名を加えた。行き倒れていた戦士と、その妹を。

 

 妹は隊列を先導し、行き倒れの戦士は、リュクリスが背負った。軽々と。そしてリュクリスは黙々と、男一人を担いでいるのに、従前と何も変わらぬように歩く。

 

 彼女に背を見せながら。彼女よりも幼く見える、ゲルダという娘の背を負いながら。

 

 実に、その時のことである。

 

 彼女は、名もなき神が記した物語に従って、世界のすべてを受け入れてきた娘は、初めての疑問に遭遇した。

 

 この戦士。

 

 恐怖を知らず、敗北を知らず、たとえ死するとしても、死にすら心からの屈服はしないように思わせるリュクリスは。何を思っているのか。

 

 神の物語は、それも記している。当然のことだ。男の生きざまも、思いも、やがて死ぬまでの道筋も、すべてを記したのは神。

 

 が、彼女には知るすべがない。彼女は神の巫女ではなく、ただ仕えるのみであるから。

 

 また彼女は、リュクリスの隊列の女であって、リュクリスの女ではないから。

 

 だから、例えば――ゲルダという、新たに加わった娘が、隊列の中で、どの位置を占めるかも分からない。

 

 だから、また――この逞しい戦士が、ゲルダという娘を、また彼女マルガリティアをどのように思っているのか、あるいは思っていないのかが分からない。

 

 何よりも、なぜ自分がそのようなことを思うのかが、全くもって分からない。我知らず、彼女は動転していた。ゆえに戦士に問う。

 

「リュクルス?」

 

「なんだ」

 

「重たいですか? その方は」

 

 戦士は答えない。愚問であると知りながら、彼女はなおも問いただす。

 

「ねぇ、重たいですか?」

 

 聞きたいのは。言いたいのは。言葉とは別の事柄であるから。

 

 「重くはない」

 

 平板に答えた戦士に、彼女は食い下がる。

 

「さすがですね。——それでこそラケディアの戦士様」

 

「何を言いたい?」

 

「何も。ただ、わたしはあなたの身を案じているんです」

 

 嘘ではない。戦士が身に纏っている虚勢と同じ程度には。

 

 彼女は矢継ぎ早に、怜悧な言葉の短剣で、男の背を突き刺さねばならない。

 

 やがて問答が終わり、いつものように翻弄され、愚弄された戦士は、会話の終わりを知って、また前を向いて歩きだした。

 

 彼女は再び、その背を見続ける。飽きもせず。そして思う。

 

 この男が、何を思い、何を考え、どこまで行こうというのか。そしてどこで果てるのか。

 

 神の物語が明かされるよりも早く、彼女はそれを知りたいと思った。

 

 ◆

 

「――そういう、お話なんでしょう。マル……何とかいう女の子が、ギリシャの戦士を追っかけるっていう。RPG? ファンタジー、的な?」

 

 そう大山静香が総括したのは、朝食をとり、二日目の旅路を歩き始めて、日が高くなった頃だった。

 

 この頃には、参加者たちは、それぞれの体力に応じて距離が開き、ずいぶんまばらになっている。

 

 とはいえ、経路は一つ。遠望すれば、道路のはるか先まで、ゼッケンを背負った背が並んでいる。さながら、これも一種の。

 

(”隊列”か)

 

 そんなことを思い、茉莉は上の空になっていたようである。

 

「おーい、大丈夫?」

 

 本気で心配されて、ようやくハッと気づいた。慌てて返事をする。

 

「ごめん、大丈夫。ええと、何だっけ」

 

 記憶の糸をたどり、静香の質問を思い出す。

 

 リュクリスのことである。

 

 無論、実在の人物ではない。名や風貌はギリシャの戦士を思わせるが、彼の国はラゲディア。その地名も、人物も、まったく架空の存在だ。

 

 リュクリスは、彼女が兄と呼ぶ、親戚の男が書いた物語に棲んでいる。

 

 彼が執筆し、小さな出版社から販売された小説。彼が明らかに期待していた、何の賞も取らず、評論の対象にもならず、すぐに書店から返本されて、消えていった物語。

 

 その一冊が、茉莉の本棚にはある。また別の一冊が、男の本棚にもある。男は就職を機に捨てようとした。本の実態と、彼の若い時代の何事かを、ともに。それを止めたのは茉莉である。

 

 茉莉があの物語に取り組み始めたのは、むしろその後だった。時を置き、繰り返し読んで取り組んだ。格闘した。

 

 そして彼女は、物語の主人公、苦悩しつつ歩き続ける戦士リュクリスとは違う視線で、自分がその世界にいることに気づいた。

 

「ううん。私が勝手に、そんな風に読んでるだけ。もともとは、戦士と羊のお話なんだと思う」

 

 戦士を追う少女の話ではない。少女と羊を従えて、人生に立ち向かう男の話だ。

 

「じゃあヒロインの方なんだ。マル、マリ……」

 

「マルガリティア。ヒロインじゃないと思うな。ファムファタールっていうか、主人公を惑わす魔女っぽいとこはあるけど」

 

 本来の物語、作者が「かくあれ」と構想した世界において、その少女は、重要ではあっても、主体や視点ではない。主人公の視点に見られる客体であり、その内心は不明。物語に主人公に幻惑を呼ぶ、謎めいた存在である。

 

「ヒロインは、私、羊の方じゃないかと思ったよ。オスなんだけど」

 

「なにそれ」

 

 静香はケラケラと笑った。茉莉も笑った。そのような些細な会話が、ずいぶん疲労を和らげてくれる。

 

「私の勝手な読み方なの。謎の少女に惑わされる戦士の話じゃなくて、謎の戦士を追いかける少女の話だっていうのは。

 

 主人公の戦士は、どんなに辛くても歩き続けて.....その気持ちが分かるかなって思ったけど」

 

 一日を歩き通して得たものは、筋骨の壮絶な痛みと、一人の友人だった。

 

 その友人は、何気なく確信を突いてきた。

 

「それじゃあ、その作者さんのことは? 何か分かった?」

 

 答える茉莉に、もう恥じらいはない。

 

 無限に思えるほどの徒歩旅という、彼女が現在も過去も、さらに前にも知らなかった異常な体験が、彼女から色々なものを取り除いていた。

 

「ぜんぜん」

 

「歩くのが好きな人?」

 

「めっちゃ、インドア派」

 

「うちのOB?」

 

 茉莉は、迷うそぶりをしてから、告げた。禁令に背く信仰の告白のように。

 

「実は、K大」

 

「うわ」

 

 静香は大げさに気色ばんだ。

 

 彼女らが通うW大学は、伝統的にK大学とライバル関係で、校風も対照的だとされている。

 

 建学の昔と違い、現在は、学生の出自にも校風にもあまり差はないはずだ。しかし学生たちは、自大学とライバル関係のステレオタイプを好んで演じたがる。

 

 ゆえに、静香は決然として言った。あたかも偉大な将軍が、陣頭で兵に指示するように。

 

「K大を見たら、目を狙え! 必ず仕留めろ!」

 

 そしてまた、歩きながら二人してクスクスと笑った。極度の疲労で、情動が不安定になっているのかもしれないと、そう思うほどおかしかった。

 

 目じりの涙を拭きながら、その男のことを思う。

 

 自ら書いた物語の主人公、偉大な戦士リュクリスとは似ても似つかない、細い線の男。

 

 地元企業の社長の跡取り息子で、K大学に進んだ。商学や経済学ではなく、文学部だ。そして小説を書いた。将来の決まりきった若者が選んだ、わずかなモラトリアム。お話のような夢。よくある話ではある。

 

 一流大学に通う親戚の男は、彼女の人生に、まずは家庭教師として現れた。

 

 そして彼女の人生は一変した。記憶を取り戻したのだ。今の世界とは別の世界で、男は王。彼女は妃の一人であったという。

 

 ただし、そうと気づいたのは、彼女だけであった。

 

 彼女が無事に大学に合格すると、男は役目を終えた。十分な報酬をもらい、彼女との交流は減った。

 

 彼女は茫然としたが、やがて甘んじて受け入れた。

 

 それでいい。やむを得ないことだ。

 

 なぜならば、何度も何度も、彼女は彼に言った。彼女が知る『彼』ならば、あのグロワス王ならば、知っているべき事柄を。

 

 まずは仄めかし。時に思わせぶりに。徐々に直接的に。幾度も幾度も、短剣で刺すように、『彼』の記憶を刺激しようとした。

 

 そして六年。彼女はついに悟った。

 

「意味ない……」

 

「え?」

 

「意味ないのよ。兄さ――その人は。何を言っても」

 

「鈍いんだね。女子から動かないと、何にも始まらないやつだ」

 

 一刀両断にして、静香は苦笑しているようだった。

 

 まんざら他人事でもないと、そう思っているのかもしれない。

 

「で、どうにかしたいわけ?」

 

「ううん。そういうんじゃなくて……ただ分からなくて」

 

「そいつが?」

 

「ううん」

 

 茉莉は言葉を探す。果てなく続く”隊列”を見て、自分の位置を確かめる。

 

 やがて彼女が答えるまで、静香は、もう友だと思っていいだろう女は、待っていてくれた。

 

 わずか一昼夜を共に歩いただけで、十年知己のようになっている。

 

 数十年を姉妹のように生きた、あの妃たちに比するほど、茉莉は静香を信じている自分に気づいた。この無意味な隊列は、そのようなイベントであるらしい。

 

 あるいは自分が再び手にした、この若さのせいもあるだろう。ならば、遠慮なく若くあれ。茉莉は偉大な妃の思慮分別を放り出し、己の心に従った。

 

「本当に気づいてないのか、それが分からないの。今でも疑っている。あの人を」

 

 前世において、そうであったように。

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