二日目の昼を迎えても、茉莉たちの前途は長い。
日陰に座り込んで休みたいと思うが、そうもいかない。隊列は進んでいるのだ。時間内に大学まで到着するには、女性の身なら速足と言えるテンポで、足を運び続けねばならない。
足は動く。筋骨の痛みは、もはや当たり前のものとなっている。痛みを深刻に受け取る感覚は消えて失せた。痛くて当たり前。足は、機械のように動きつづける。
問題は頭脳の方だ。五月とはいえ、頭上から照る陽光にあぶられている。汗が湧く。喉の奥が渇く。
我知らず、ぼんやりとし始める意識。燦々と照る陽光のなかで、彼女の心内にのみ霧が張る。
霧に包まれて歩くうち、スポーツウェアの女子大生は消え、ドレス姿の妃へと変じた。肌が、心が、瑞々しさを失っていく。
◆
年老いたメアリ・エン・ルロワは、疑念の霧に囚われている。彼女の夫への。
彼女の夫、グロワス十三世に寄り添い、心から愛し続けて、二十年が経ったというのに。
ついに、彼女は尋ねることを決意した。今が、おそらくは最後の機会になろうから。
極めて率直に――とは、いかない。彼女はメアリ。マルガリティアではない。多くのものをもっている。
記憶も、しがらみも、良きものも、そうでないものも。ゆえに、その時ですら、彼女は迂遠に始めた。
「今日はとてもよい天気です。——暑くはございませんか?」
「…確かに、少し暑いね。少し」
そう答えた彼女の男は、寝台の囚われ人である。もう解放されることのない。
彼女――メアリは、男のはだけた胸をあおいでやった。そうしつつ、数え切れぬほど己を掻き抱いた男の腕を、無言のうちに眺めた。その萎れ切った皮と骨を、まだ腕と呼んでいいなら。
食い散らかされた鶏肉。残った骨だ。
そして、骨の先に大きな皮膜をまとわせた手のひらがしぶとく繋ぎ止められている。間も無く死ぬと、誰にでも分かる。
それを哀れに思う。この夫を失って、どうすればいいのかと、我が身も消え去りそうなほどの心細さだ。
それと同時に。彼女の心内、その最も奥の扉から、封じた思いが溢れ出す。恨みとともに。
押し殺して数十年を経ても、なお消えなかった激情が、メアリの背を押した。
ゆえに彼女は、死を前にした夫を、最愛の人間を試した。歴史に冠たる英雄であっても、死を前にしたならば、命惜しさに、王の仮面を取り落とすかもしれぬから。
「グロワス様…もう、もうよいのです——どうか治療を」
王を慕う妃の哀訴。そう聞こえたであろう。この場にいる者以外には。医学的に正しい治療を拒否する男を、女が救おうとしていると。そう騙せたであろう。
「——どうか治療を」
正しい治療を。すなわち瀉血を。
彼女の息子が、得られなかった治療を。いくら訴えても、夫は与えようとしなかった。間違った治療だと、逆効果だと言って。心からそう信じているようだった。
しかし、本当か。彼女は疑う。
王としての夫は、極めて冷厳だ。家臣も、妃も、自分自身ですら、道具として使う。子供が例外だと、なぜ言える。
真実は、夫は王として、あの子を殺したかったのではないか。
側室の産んだ、発育不良の子だから。
私が世継ぎを、健康に産んでやれなかったから。
母として、何か肉体的に問題があったに違いない私への、あれは罰ではなかったか。
確かめずにはいられない。試さないで、このまま死なれてなるものか。
ただ――彼女の夫は、騙せない。賢王グロワス13世は。メアリ・エン・ルロワの知恵などで、欺けるはずがない。
そうと知りながら、彼女は試した。愛する夫を永久に疑い続けることに、耐える強さを持たなかったから。つまり、それは愛するゆえの裏切りだった。
試された者、数日のうちに死ぬであろう身体は、弱々しい声で応じた。
きわめて率直に。
「治療は受けている。酒も飲んでいないし、しっかりと水を…」
瀉血など、思いもよらないと。それが求めた答えだった。
瞼の堤防が決壊した。安堵の思いが滝となって溢れ、彼女の頬を伝う。彼女がすがる夫の手が濡れた。
老女の胸が、激情ではち切れそうになる。人生で最大かもしれぬ歓喜と、それ以上の罪の意識が、叫び声となった。
「私はもう疑いません! もう、決して! 陛下………ですから、すぐに瀉血を!」
夫は、やはり拒否した。それによって、完全に潔白を証明し、数日を経ずして死んだ。
メアリは疑念への答えと、無限の後悔を得た。
(グロワス様。あなたの側妃メアリは、遂にあなたを信じることがなかった。
最期に、そう思わせてしまった。あなたが一生をかけて守ってくださったのに。
そうと分かっていたのに、私は……!)
老いたメアリは、自らの死に至るまで悔やみ続けた。やがて訪れた自らの死をもって、彼女はやっと罪の重みから解かれた。
しかし。
再度の生という奇跡を得て、記憶を取り戻した時、悔恨もまた、戻った。
それゆえに。
◆
再生したメアリ・エン・ルロワ、下川茉莉は、疑わざるをえない。
歩きつつ、流れ落ちる汗の暑さを忘れるほどに、彼女の心は冷えている。
隣を歩く大山静香に、うわごとのように語る。
「本当は、私の……こと、気づかないはずないって思う。知らないふりをしているだけなの。それは、つまり」
その深刻な告白は、静香には響かないようだった。
「知らないふりをしていたんじゃない? 家庭教師なんだし、親戚の高校生に手を出しちゃいけないって。まともな人じゃん」
友人は好意的な、常識的な解釈を示した。
茉莉は歩きながら、頷くこともしない。それしきの理屈は、彼女が幾十度も立てたことだ。
友人は、茉莉のような特殊な悩みの持ち主がいるなど、夢にも思わないであろう大山静香は、まっとうなことを言った。
「わかるといいね、いつか。でも」
そして前に目を転じた。つられて、茉莉も前を見た。
景色は変わりつつある。明らかに都心とわかる、あのビル群が近づいてきている。
「茉莉ちゃん、その人に近づけてるって思う?」
「……思わない。いくら歩いても」
「いつでもやめられる。いまここでも」
静香はそう事実を告げた。
茉莉の足が止まった。
静香も立ち止まる。
歩道で停止した二人の女から、ガードレールを挟んで、大型バスが彼女たちを追い越し、走り去って行った。排気ガスの臭いが鼻をつく。
あのバスは、都内に辿り着くだろう。三十分もかからずに。
茉莉は、今さらなことを呟いた。
「なにやってんだろう、わたし。私たち」
この百キロを歩くことで。それが何になるという。彼女の望みと、何の関りがあるという。
この無意味な苦しみの中で得た友人は、常にそうであるように、明快に端的に告げた。
「わざわざ歩くの、意味ないって思う? それはそう。このイベント、意味はなんもないよ。完全に無意味」
茉莉は目を見開いた。
「ごめん、もっかい言って」
静香は眉をぴくりとあげたが、素直に応じた。
「完全に無意味だって……」
「それ!」
その言葉が天啓だった。
「そう、そうね。こんなこと、ほんとに意味ない。意味ないけど」
そう言葉に出した、茉莉の口元に、会心の笑みがある。
歩くことには意味がない。都内には電車がいくらでも走っている。
あの、四方からの圧力と、稀とは言えない頻度で伸びてくる暴力の手を警戒する時間。
自宅を出た時は瑞々しい人間であったものから、人間性の顔を剥ぎ、学生なり労働者なりに加工するための工程だ。
その儀式に感性を麻痺できるなら、ほんの一時間ばかりで辿り着くだろう行程。それをいま、二日かけて歩いている。
感受性の代わりに、骨と筋を痛めつつ。生々しい人間として。
その意味のない苦しみで、彼女は確かに、求めたものに近づいていた。彼を理解するという。
「熱いよね。こういうことだったんだ。意味ないことを一生懸命やるのって」
あの王が。いまは彼女が兄と呼ぶ彼が、そう口にしたのは、いつのことだったろう。
完全に無意味なこと。
そのために全力を尽くし、取り組む人間、その意志にこそ価値がある。
男の熱弁からはちっとも掴めなかった意味を、彼女は全身で理解した。
その疲労の重みが、彼女をして、全くの徒労に向かわせる。萎えかけた足が動く。理屈を超えた意志の力が湧いてくる。
痛みを増した腿が言う。汗まみれの背が告げる。
前世でも着込んだことない、鋼鉄の鎧をまとったように重い、この全身が。熱とともに叫んでいる。
「私、なんか、楽しくなってきた……!」
友は、涼やかに笑った。
「いいね。いい感じ。あと半日! 楽しんでいこう」
茉莉は、今度は力強く頷き、行くべき先を遠望する。
幹線道路の歩道に、いくつもの背中が連なっている。ただのシャツや、色とりどりのウェアが、どれも白いゼッケンをつけて。はるか先まで続く、背中、背中、背中。
その中に、ふと、羊を連れた戦士の背が見えたような気がした。頼りなく歩く、彼の細い背中も。
その後を追う、それだけでは終わらない。彼女は、男の背を追うマルガリティアではない。終生を夫の背に守られ、それでも疑い試す、メアリ・エン・ルロワではない。
下川茉莉は、あの背中に追いつかねばならないのだ。
猛然と速足を進めるうちに、都心と隣県を隔てる橋が見えてきた。