歩き始めて二日目の太陽は、雑居ビルの奥へと隠れた。
茉莉の太腿には、休憩の度に湿布が増えている。効いているのかいないのか。一歩を踏み出すごとに、筋肉が張り裂けたかと錯覚する。
それでもなお、茉莉は歩く。その速度は安定している。
痛い。苦しい。それでも、楽に歩けていると、そう感じる。
軽く握った手。ほどよい腕振り。伸びた背筋。急いでも、焦りはしない歩幅。そしてリズム。
すべてが身体に合っている。一日半の苦行は、学びの時間でもあったのだ。
自分が変わったという体感が、茉莉に確信を与える。きっと辿り着ける。どんなに苦しくとも。
「あと少し……!」
隣を歩く友、静香が、ペットボトルを差し出してきた。受け取り、口をつける。
甘露。その言葉の意味を、生まれて初めて理解した。スポーツドリンクは世界一の飲み物だと思う。全身の細胞に水分が染み渡るのを感じる。
湧き上がった活力で、歩行の律動を刻み続ける。
変わらぬリズムで歩むうち、景色は刻々と変化する。少しずつ、見慣れた街並みに近づいてくる。
「あと、ほんとに少し……!」
視覚に続き、聴覚もそう教えた。初めは錯覚、空耳かと疑った。車の音や、宣伝広告の音で、都会の道はやかましいのだ。
が、やがて確信を得た。この音は、歌だ。大学の最寄駅からキャンパスへ続く学生街を、聞き慣れた歌が制圧している。
角を曲がり、景色が開けた時、通い慣れた道の両脇を、雲霞の群衆が埋めていた。彼女と同窓に違いない学生もいる。街に暮らす人達がいる。
そして歌っている。同窓ならば、いやそうでなくとも、この街に関わる者ならば、誰もが歌える大学の応援歌を、汗まみれの彼女たちのため、常にも増して熱狂的に。
思わず笑みが溢れる。
彼女は思う。
"隊列"は延々と続いているのに、この人たち、何時間歌い続けているのだろう。無意味に価値を見出す馬鹿が、こんなにいてくれるとは。なんて素晴らしいこと!
一歩を踏み出すたび、歌と歓声が近づいてくる。
笑みが大きくなる。ますます力が湧いてくる。
「帰ってきた……!」
彼女は歩速を増した。
途端、身体が心を裏切った。
応援に湧き立ったのは心だけ。身体は疲弊の極にある。
何もないアスファルト、その僅かな湾曲につまずいたのだ。視界が傾いた。
受け身をとることもできぬまま、真っ黒な路面が迫り来る。目を瞑る。
視界が黒色に染まり、打撃の感覚が襲った。
世界が転倒した。
◆
目を開けた時、そこは学生街ではなかった。
擦りむいたはずの手を見る。傷一つない。
驚いて、身体を見る。
汗まみれのスポーツウェアではない。風通しの悪い、厚手の青い布地。黒の側帯、金色の肩章。
見覚えがある。否、忘れもしない。彼女の憧れの服。
サンテネリ近衛軍の軍服である。
「姫様!」
瞬時に駆け寄ってきた側仕えの従士が、彼女を助け起こそうとする。
「大丈夫ですか!? メアリ様!」
その手に掴まり、彼女――伯爵令嬢メアリ・エン・バロワは、唖然としつつ立ち上がった。
(最終話「魂の中の死、そして」へ続く。
最終話は、webオンリーイベント『サンテネリ建国記念祭』にて先行公開予定)