「大丈夫ですか!? メアリ様!」
メアリは即座に思い出した。彼女は近衛監の副官。いまは演習中で、連隊の指揮を執っている。
鋭剣を掲げ、隊列の先頭を進んでいた。将兵を後ろに率い、接敵前進を号令。次いで速足。やがて、敵と見立てた位置に近づき、いよいよ突貫を命じて、自らも足を速めた瞬間に。
彼女の世界が転倒した。何のことはない。足下にあった小さな石につまずいたのだ。ただそれだけのこと。
「大丈夫です。膝を擦りむいただけ。このまま」
忠実な家臣は、正しく対応した。
「報告! 姫様がお怪我をなされた!」
それを聞き、真の連隊長である近衛軍大佐は、正しく対応した。
「連隊、止まれ、止まれェ!」
大隊長たちが、中隊長たちが、あちこちで「止まれ」「止まれ」と繰り返す。
騒音と砂埃を舞い上げて、三千の男たちは静止した。即座に列を整え始める。敵の目前のはずなのに。
メアリの全身が震える。声も震えてしまう。
「待って。私は大丈夫。こんなことで」
大佐は強く制止する。
「姫様、お立ちになってはいけませぬ。お身体に障ります。ええい、軍医は何をしている! 姫様が転んでしまわれたのだぞ! 従卒、さっさと担架を持ってこい!」
整列を終え、一転して静まり返った三千人の只中で、彼女の周りだけが騒然としている。兵たちにすべて聞こえているに違いない。
羞恥のあまり、言葉を発することもできない。
間もなく担架がやってきた。
「姫様、ご無礼を。貴様、そちらからお支えせよ。さあ、気をつけて」
慎重の上にも慎重に、壊れやすい人形でも扱うように横たえられる。彼女はなされるがままだった。他にできることはない。
「持ち上げますぞ。驚かれませんように。ゆっくりだ。一、二、三」
身体が浮き上がる。彼女は空のみを見て、ひどくぼんやりとしている。この時を耐えるために。
「よおし。ゆっくり、ゆっくりとお運びするのだぞ」
担架を担ぐ兵たちは、命令を完璧にこなした。近衛の精兵であるから。彼らは忠実にこなす。どんなことでも、感情をまじえずに。
「道を開けよ、道を!」
連隊長の指示で、三千人がまた動いた。青制服の群れが二つに割れ、真ん中に道ができる。担架に乗せられたメアリは、それを真っ直ぐに進んだ。
彼女は空のみを見ている。しかし、分かる。感じる。右に千五百、左にも千五百。それだけの男たちが、彼女を見ている。擦り傷ひとつで担架に乗せられ、運ばれていく女を。つい先刻まで、指揮官のように振る舞っていた姫様を。
「…………」
メアリは空のみを見て、堪える。声を漏らしてはならない。この上、涙まで流しては、痛くて泣いているのだと、そう思われるに違いない。
担架に揺られながら、ゆっくりと息を吸い、ごくゆっくりと吐く。自分の願いと共に。
その日の演習は中止になったと、後で聞いた。
決めたのは当然、彼女の父親だ。
近衛監バロワ伯爵は、彼女の家長として、そして領民と家臣を守る領主として、バロワ家のメアリに言った。
「よいか、メアリ。女の身でも軍服をまとい、訓練に参加するのは、武門たる我が家の伝統。しかしお前は、いずれ王太子殿下にお仕えする身ぞ。大事の身に痣でもついて、後に残ったらなんとする。よく心得ておけ。お前がそうしてこそ、王国に忠を尽くし、我が家と家臣たちを守ることになるのだ」
メアリは聡明な娘である。殊更に冷たく言う父の瞳に、家長のしがらみを察せずにはいられない。ただちに理解し、己の浅慮を恥じて、心から詫びた。
彼女の身体は、やがて王たる方に献ずべきもの。それを傷つける権利は、家臣にも、彼女自身にも、もちろん父親にもない。
貴顕とは、ままならぬものだ。身を飾る綺羅が増えるほど、己の意思は通せない。それが高貴な義務である。多くの人達への。
義務感に不足なく、また領地、臣下、家族を愛してやまぬ娘は、その夜、静かに決意した。
もう身勝手はしない。良き人形であろう。誰にとっても。
そう決めて、濡れた瞳を閉じたのが、彼女の第一の死だった。
◆
地に落ちた身体は、しかし、力ずくで引き上げられた。
揺すられる。転び倒れた者に対して、明らかに不適切な扱いだ。
だが、真情の声が、彼女の名を呼んでいる。
「茉莉、しっかり!」
彼女は目を開けた。光が、音が戻ってくる。見慣れた学生街。歌と歓声に満ちている。
友は、乱暴に腕をひく。そして叱咤する。
「あとちょっとだ! 頑張るよ。行けるでしょ!?」
「……あは、はは」
笑い出した茉莉を、静香はようやく心配し始めた。錯乱したかと思ったのだ。
茉莉はすぐに打ち消す。
「平気。そう言って欲しかった。ずっと」
友の手を取って立ち上がる。擦りむいた傷が痛い。しかし。
「こんなの、何でもなかったの」
そう言える。まだ歩いていける。この自分の意志で。
そしてまた、一歩を踏み出す。足首も痛めた気がする。しかし、それが何だという。もとから死ぬほど痛いのだ。
前へと続く学生街。その道にそって並ぶ人々が、応援歌をがなり、手を叩き、声を張って、彼女たちを寿いでいる。
「がんばれ、がんばれ!」
「よく帰ってきた!」
「あとちょっとだぞ!」
歓声を浴びながら、彼女は歩く。
右にも左にも、大勢の人の目がある。彼女の無意味な努力を、讃え励ます人、人、人。
あたかも勝利を得た軍の帰還を、喜び迎える故郷の民のように。
凱旋の隊列。その中に、今の彼女はいる。ともに歩いている。
(ああ、これが)
そして気づいた。自分の胸を見る。汗まみれのスポーツウェア。
これまで考えもしなかったが、その色は青い。
理解とともに、笑いの衝動が湧き起こる。
(ぜんぶ、そういうことだったんだ)
こうしたかった。こうなりたかった。
はるかな昔に自ら圧殺した若きメアリは、ようやく解き放たれた。そして下川茉莉の中に溶けた。
心が躍る。痛む足が軽くなる。
彼女は命じる。歩け。歩け。熱さのままに、最後まで。私には理由がある!
そこからは早かった。あれは大学の創設者の像。その向こう、通い慣れた正門が見える。
出迎えの学生たちが大勢いる。
行事には必ず出張る、詰め襟の応援部もいる。掠れた声を張り上げ、全身でエールを示している。
彼女はまた笑い出す。なんてこと。なるほどね。格好つけた精鋭は、どこでも服が黒いってこと。
何もかもが
この時間が永遠に続けと願ったとき、彼女は正門を越えた。
周囲の歓声が降り注ぐ。
「ゴォォォォル!」
「おめでとう、おめでとう!」
「おかえり、おかえり!」
——ああ、帰ってきたぞ。自由って、こういうことだったんだ。
疲れているのに身体が軽い。
全身の痛みが心地よい。
自分で選び、手に入れたものだから。
「へへ、やったなあ。お疲れ、お疲れ!」
一緒にゴールした静香が、彼女に手のひらを掲げた。迷わず応じ、手を打ち合わせる。
お疲れ、お疲れ、ありがとう、ありがとう。
会話ともいえぬ言葉を掛け合いながら、二人は奥へ奥へと進み、後続の邪魔にならないあたりに座り込んだ。
しばらく息を落ち着けて、やっとまともな会話が始まる。
「そういや茉莉ちゃん、どうだった?」
無限の意味を込めた問いに、彼女はもう答えることができた。
「最高。あと、私ね、なんか分かった。分かっちゃった」
「あの彼のこと?」
「ううん」
自分のことが。その気持ちが。
好きだ。あのひとが。
他のことは、もうどうでもいい。汗と一緒に流れ落ちてしまった。
この不思議な記憶も。彼が思い出さないままでも。
いつか時がくれば、彼女は彼に言うだろう。
『あなたはグロワス十三世ではありません』
私が、もうメアリではないように。
それなら彼だって、グロワスでなくていいはずだ。義務も、罪も、名前も王冠もいらない。意味があるのは、ただ。
『——あなたは、私の兄さん』
迷うことは何もない。
「だからね。裏切り者なんだけど……」
そう言った茉莉に、静香は大袈裟に身をすくめてみせた。
「しゃーないなぁ……K大を見たら、目を狙え!」
茉莉は笑顔で頷く。
「了解。絶対、仕留める」
しゃがみ込んだまま、ポーチからスマホを取り出し、モバイルバッテリーを差し込む。尽きかけたエネルギーが回復しだす。
メッセージアプリを立ち上げ、連絡帳のずっと下の方へ。長らく連絡していなかった。
だから急げ。彼が、他の誰かに目を留める前に。
流れるように文章を打ち込み、送信ボタンをタップする。
軽やかな音が鳴り、彼女の意志、その槍先が飛んでいく。目を狙え。惹きつけて、二度と逸らせぬように。今度は一人占めにする。
『兄さん、ご無沙汰してます。久々に会いたいです。就活の相談とかしたいし。次の土日なんてどうですか? (^^)』
すぐに既読がついた。彼女の心臓が跳ね上がる。相手は、いそいそと返事を書き始めたようだった。
それを待つ間に、思いが像を結びだす。
青い血管の浮いた、あの手。長い指。袖をまくった腕の、意外なたくましさ。
年に似合わぬ声の落ち着き。時には熱に浮かされて、訳のわからぬことを語り、我に返った時の含羞。
衝動のままに書き下ろした物語が、世界に受け入れられないと知って、膨大な蔵書ごと捨てようとする哀れさ。
それを止められて、救われた顔をしていた。物語の羊よりも愛おしい。
強い戦士ではない。賢い王様でもない。私の可愛いひと。
間もなく返信がきた。なんとも迂闊な返事。まるで無防備だ。相変わらず。何も考えていないんだから。
彼女は微笑する。もう確信している。
いま、一つの愛が死に、新しい恋が始まった。
「ロックオン、だぜ。兄さん」
下川茉莉は立ち上がり、新たな恋路を歩み始めた。
『地に落ちて歩かば』 <了>