地に落ちて歩かば   作:芝三十郎

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地に落ちて死なずば二次創作。ついに近づくゴール。茉莉とメアリはそれぞれの旅を終える。


⑤ 魂の中の死、そして

「大丈夫ですか!? メアリ様!」

 

 メアリは即座に思い出した。彼女は近衛監の副官。いまは演習中で、連隊の指揮を執っている。

 

 鋭剣を掲げ、隊列の先頭を進んでいた。将兵を後ろに率い、接敵前進を号令。次いで速足。やがて、敵と見立てた位置に近づき、いよいよ突貫を命じて、自らも足を速めた瞬間に。

 

 彼女の世界が転倒した。何のことはない。足下にあった小さな石につまずいたのだ。ただそれだけのこと。

 

「大丈夫です。膝を擦りむいただけ。このまま」

 

 忠実な家臣は、正しく対応した。

 

「報告! 姫様がお怪我をなされた!」

 

 それを聞き、真の連隊長である近衛軍大佐は、正しく対応した。

 

「連隊、止まれ、止まれェ!」

 

 大隊長たちが、中隊長たちが、あちこちで「止まれ」「止まれ」と繰り返す。

 

 騒音と砂埃を舞い上げて、三千の男たちは静止した。即座に列を整え始める。敵の目前のはずなのに。

 

 メアリの全身が震える。声も震えてしまう。

 

「待って。私は大丈夫。こんなことで」

 

 大佐は強く制止する。

 

「姫様、お立ちになってはいけませぬ。お身体に障ります。ええい、軍医は何をしている! 姫様が転んでしまわれたのだぞ! 従卒、さっさと担架を持ってこい!」

 

 整列を終え、一転して静まり返った三千人の只中で、彼女の周りだけが騒然としている。兵たちにすべて聞こえているに違いない。

 

 羞恥のあまり、言葉を発することもできない。

 

 間もなく担架がやってきた。

 

「姫様、ご無礼を。貴様、そちらからお支えせよ。さあ、気をつけて」

 

 慎重の上にも慎重に、壊れやすい人形でも扱うように横たえられる。彼女はなされるがままだった。他にできることはない。

 

「持ち上げますぞ。驚かれませんように。ゆっくりだ。一、二、三」

 

 身体が浮き上がる。彼女は空のみを見て、ひどくぼんやりとしている。この時を耐えるために。

 

「よおし。ゆっくり、ゆっくりとお運びするのだぞ」

 

 担架を担ぐ兵たちは、命令を完璧にこなした。近衛の精兵であるから。彼らは忠実にこなす。どんなことでも、感情をまじえずに。

 

「道を開けよ、道を!」

 

 連隊長の指示で、三千人がまた動いた。青制服の群れが二つに割れ、真ん中に道ができる。担架に乗せられたメアリは、それを真っ直ぐに進んだ。

 

 彼女は空のみを見ている。しかし、分かる。感じる。右に千五百、左にも千五百。それだけの男たちが、彼女を見ている。擦り傷ひとつで担架に乗せられ、運ばれていく女を。つい先刻まで、指揮官のように振る舞っていた姫様を。

 

「…………」

 

 メアリは空のみを見て、堪える。声を漏らしてはならない。この上、涙まで流しては、痛くて泣いているのだと、そう思われるに違いない。

 

 担架に揺られながら、ゆっくりと息を吸い、ごくゆっくりと吐く。自分の願いと共に。

 

 その日の演習は中止になったと、後で聞いた。

 

 決めたのは当然、彼女の父親だ。

 

 近衛監バロワ伯爵は、彼女の家長として、そして領民と家臣を守る領主として、バロワ家のメアリに言った。

 

「よいか、メアリ。女の身でも軍服をまとい、訓練に参加するのは、武門たる我が家の伝統。しかしお前は、いずれ王太子殿下にお仕えする身ぞ。大事の身に痣でもついて、後に残ったらなんとする。よく心得ておけ。お前がそうしてこそ、王国に忠を尽くし、我が家と家臣たちを守ることになるのだ」

 

 メアリは聡明な娘である。殊更に冷たく言う父の瞳に、家長のしがらみを察せずにはいられない。ただちに理解し、己の浅慮を恥じて、心から詫びた。

 

 彼女の身体は、やがて王たる方に献ずべきもの。それを傷つける権利は、家臣にも、彼女自身にも、もちろん父親にもない。

 

 貴顕とは、ままならぬものだ。身を飾る綺羅が増えるほど、己の意思は通せない。それが高貴な義務である。多くの人達への。

 

 義務感に不足なく、また領地、臣下、家族を愛してやまぬ娘は、その夜、静かに決意した。

 

 もう身勝手はしない。良き人形であろう。誰にとっても。

 

 そう決めて、濡れた瞳を閉じたのが、彼女の第一の死だった。

 

 ◆

 

 地に落ちた身体は、しかし、力ずくで引き上げられた。

 

 揺すられる。転び倒れた者に対して、明らかに不適切な扱いだ。

 

 だが、真情の声が、彼女の名を呼んでいる。

 

「茉莉、しっかり!」

 

 彼女は目を開けた。光が、音が戻ってくる。見慣れた学生街。歌と歓声に満ちている。

 

 友は、乱暴に腕をひく。そして叱咤する。

 

「あとちょっとだ! 頑張るよ。行けるでしょ!?」

 

「……あは、はは」

 

 笑い出した茉莉を、静香はようやく心配し始めた。錯乱したかと思ったのだ。

 

 茉莉はすぐに打ち消す。

 

「平気。そう言って欲しかった。ずっと」

 

 友の手を取って立ち上がる。擦りむいた傷が痛い。しかし。

 

「こんなの、何でもなかったの」

 

 そう言える。まだ歩いていける。この自分の意志で。

 

 そしてまた、一歩を踏み出す。足首も痛めた気がする。しかし、それが何だという。もとから死ぬほど痛いのだ。

 

 ()()()()()を叱りつけ、茉莉は再び歩き始めた。

 

 前へと続く学生街。その道にそって並ぶ人々が、応援歌をがなり、手を叩き、声を張って、彼女たちを寿いでいる。

 

「がんばれ、がんばれ!」

「よく帰ってきた!」

「あとちょっとだぞ!」

 

 歓声を浴びながら、彼女は歩く。

 

 右にも左にも、大勢の人の目がある。彼女の無意味な努力を、讃え励ます人、人、人。

 

 あたかも勝利を得た軍の帰還を、喜び迎える故郷の民のように。

 

 凱旋の隊列。その中に、今の彼女はいる。ともに歩いている。

 

(ああ、これが)

 

 そして気づいた。自分の胸を見る。汗まみれのスポーツウェア。

 

 これまで考えもしなかったが、その色は青い。

 

 理解とともに、笑いの衝動が湧き起こる。

 

(ぜんぶ、そういうことだったんだ)

 

 こうしたかった。こうなりたかった。

 

 はるかな昔に自ら圧殺した若きメアリは、ようやく解き放たれた。そして下川茉莉の中に溶けた。

 

 心が躍る。痛む足が軽くなる。

 

 彼女は命じる。歩け。歩け。熱さのままに、最後まで。私には理由がある!

 

 そこからは早かった。あれは大学の創設者の像。その向こう、通い慣れた正門が見える。

 

 出迎えの学生たちが大勢いる。

 

 行事には必ず出張る、詰め襟の応援部もいる。掠れた声を張り上げ、全身でエールを示している。

 

 彼女はまた笑い出す。なんてこと。なるほどね。格好つけた精鋭は、どこでも服が黒いってこと。

 

 何もかもが可笑(おか)しい。何もかもが楽しい。

 

 この時間が永遠に続けと願ったとき、彼女は正門を越えた。

 

 周囲の歓声が降り注ぐ。

 

「ゴォォォォル!」

「おめでとう、おめでとう!」

「おかえり、おかえり!」

 

——ああ、帰ってきたぞ。自由って、こういうことだったんだ。

 

 疲れているのに身体が軽い。

 

 全身の痛みが心地よい。

 

 自分で選び、手に入れたものだから。

 

「へへ、やったなあ。お疲れ、お疲れ!」

 

 一緒にゴールした静香が、彼女に手のひらを掲げた。迷わず応じ、手を打ち合わせる。

 

 お疲れ、お疲れ、ありがとう、ありがとう。

 

 会話ともいえぬ言葉を掛け合いながら、二人は奥へ奥へと進み、後続の邪魔にならないあたりに座り込んだ。

 

 しばらく息を落ち着けて、やっとまともな会話が始まる。

 

「そういや茉莉ちゃん、どうだった?」

 

 無限の意味を込めた問いに、彼女はもう答えることができた。

 

「最高。あと、私ね、なんか分かった。分かっちゃった」

 

「あの彼のこと?」

 

「ううん」

 

 自分のことが。その気持ちが。

 

 好きだ。あのひとが。

 

 他のことは、もうどうでもいい。汗と一緒に流れ落ちてしまった。

 

 この不思議な記憶も。彼が思い出さないままでも。

 

 いつか時がくれば、彼女は彼に言うだろう。

 

『あなたはグロワス十三世ではありません』

 

 私が、もうメアリではないように。

 

 それなら彼だって、グロワスでなくていいはずだ。義務も、罪も、名前も王冠もいらない。意味があるのは、ただ。

 

『——あなたは、私の兄さん』

 

 迷うことは何もない。

 

「だからね。裏切り者なんだけど……」

 

 そう言った茉莉に、静香は大袈裟に身をすくめてみせた。

 

「しゃーないなぁ……K大を見たら、目を狙え!」

 

 茉莉は笑顔で頷く。

 

「了解。絶対、仕留める」

 

 しゃがみ込んだまま、ポーチからスマホを取り出し、モバイルバッテリーを差し込む。尽きかけたエネルギーが回復しだす。

 

 メッセージアプリを立ち上げ、連絡帳のずっと下の方へ。長らく連絡していなかった。

 

 だから急げ。彼が、他の誰かに目を留める前に。

 

 流れるように文章を打ち込み、送信ボタンをタップする。

 

 軽やかな音が鳴り、彼女の意志、その槍先が飛んでいく。目を狙え。惹きつけて、二度と逸らせぬように。今度は一人占めにする。

 

『兄さん、ご無沙汰してます。久々に会いたいです。就活の相談とかしたいし。次の土日なんてどうですか? (^^)』

 

 すぐに既読がついた。彼女の心臓が跳ね上がる。相手は、いそいそと返事を書き始めたようだった。

 

 それを待つ間に、思いが像を結びだす。

 

 青い血管の浮いた、あの手。長い指。袖をまくった腕の、意外なたくましさ。

 

 年に似合わぬ声の落ち着き。時には熱に浮かされて、訳のわからぬことを語り、我に返った時の含羞。

 

 衝動のままに書き下ろした物語が、世界に受け入れられないと知って、膨大な蔵書ごと捨てようとする哀れさ。

 

 それを止められて、救われた顔をしていた。物語の羊よりも愛おしい。

 

 強い戦士ではない。賢い王様でもない。私の可愛いひと。

 

 間もなく返信がきた。なんとも迂闊な返事。まるで無防備だ。相変わらず。何も考えていないんだから。

 

 彼女は微笑する。もう確信している。

 

 いま、一つの愛が死に、新しい恋が始まった。

 

「ロックオン、だぜ。兄さん」

 

 下川茉莉は立ち上がり、新たな恋路を歩み始めた。

 

 

  

  

『地に落ちて歩かば』   <了>

 

 

 

 

 

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