「やっと、ここに戻ってこれた……中央トレセン学園……」
私は、手のひらの上に載せたトレーナーバッジを見つめた。
朝の光を受けたそれは、嘘みたいにきらきらして見えた。
本当なら、もっと早くここへ来られるはずだった。
中央トレーナー試験には、三年前に合格している。あの日、何もかも狂わなければ、私はとっくにこの門をくぐっていた。
けれど現実には、とある事件をきっかけに地方トレセンへの勤務を命じられ、中央トレーナーの資格も剥奪された。
こうしてようやく戻ってきた今も、嫌でもあの日のことを思い出してしまう。
「なんであの日……私のスマホが……」
トレセンでの業務には、情報漏洩対策としてスマホ持ち込み厳禁の区域がある。
持ち込みが発覚しただけでも処分。録音や録画など、論外中の論外だ。
私は、そこへ入る前に職員へ自分のスマホを預けた。
ちゃんと、確かに、預けたはずだった。
なのに、そのあと私の鞄からスマホが見つかった。
しかも通話状態のまま、録音までされていた。
言い訳の余地など、なかった。
新人でありながら地方送り。中央トレーナーバッジも、今日まで取り上げられたままだった。
「でも……今日からは私も中央トレーナー。夢の凱旋門に向けて頑張るんだ!!」
そう自分を奮い立たせて拳を握った、その瞬間だった。
「あっ」
指のあいだから、トレーナーバッジがすっぽ抜けた。
「あっー! 待って、私のトレーナーバッジ!!」
今度こそ失くすわけにはいかない。
けれど無情にも、バッジは重力に導かれるまま坂道をころころと転がり落ちていく。
私がウマ娘だったら、こんなの一瞬で追いつけるのに!
人間の脚を恨みながら必死に追いかけた先で、バッジは花壇の茂みに吸い込まれるように消えた。
「どうしよう……草をかき分けて探したら絶対不審者だと思われる……」
うら若いウマ娘は、花を好きな子が多い。
トレーナーバッジのためとはいえ、花壇を荒らすようなトレーナーなど信用されるはずもない。
私はなるべく慎重に、草花の繁る花壇を覗き込んだ。
――その時だった。
一人の道化と、目が合った。
「はぁーい、トレーナァ♪」
「ウワッー!?」
花壇の茂みの中に、ウマ娘がいた。
まるでそこが当然の隠れ場所であるかのように、花のあいだからぬるりと顔を出している。
紅白に塗り分けられた顔。
頭についたウマ耳まで黒く塗られ、ジェスターハットのようにも見える不穏な意匠。
明らかにまともではないのに、奇妙なほどよく似合っていた。
「トレーナーバッジ、落としたろ?」
「あ、ありがとう……」
彼女は、私のバッジをつまんで見せた。
ありがたい。ありがたいのだけれど、それ以上に気になることがありすぎて、私はそのウマ娘から目を離せなかった。
「なんで、あなたはこんなところにいたの?」
「それはもちろん……ピエロだからさ!!」
答えになっていない。
なのに彼女は、それを完全な説明だとでも言いたげに胸を張る。
そして私にバッジを渡しながら、ひょいと別の方向を指さした。
そこには大勢のウマ娘たちがいた。
まだデビュー前の幼い子から、すでに伝説に片足を突っ込んでいるような名ウマ娘まで。
「ピエロちゃんどこ行きはったんやろ……せっかくオルフェさん来てくれたのに」
『オルフェさん、私、探してきましょうか?』
「よい。あやつは好きにさせておけ」
G1ウマ娘のラッキーライラックとマルシュロレーヌが、一人のウマ娘を挟んで話している。
その中心にいるのはもちろん。金色の暴君、オルフェーヴルだ。
どうやらこの道化ウマ娘は、花壇の中からこっそりオルフェーヴルを観察していたらしい。
「オルフェさんたちを見てたの?」
「オルフェさんだけじゃない。ここにはなんでもあるぞ。王政に英雄譚、溢れんばかりのネームバリューだって!」
芝居がかった口調で、彼女は高らかに言い放つ。
なるほど、と思った。
アグネスデジタルやクロノジェネシスのように、他のウマ娘を観察したり、調べたりするのが好きなタイプなのだろう。
トレセン学園の伝説は、オルフェーヴルのような王者だけが作るわけじゃない。
ゼンノロブロイのように、一見すれば書物と伝説にばかり目を輝かせている子が、やがてその身で伝説を刻むことだってある。
けれど、この道化はそれだけで終わらなかった。
「貴女のことも知ってるよ。今をときめく、聖なるトレーナーさん」
「えっ……?」
嫌な予感がした。
まさか、あの事件のことまで中央で知られているのだろうか。もしそうなら、担当ウマ娘がつくかどうかすら怪しい。
私の警戒を楽しむように、道化のウマ娘は花壇から這い出して立ち上がる。
「じゃあ面白い話をしましょう。あなたは三年前、スマホ持ち込み禁止区域でスマホが見つかり、トレーナー失格となった」
「……」
やはり。
どれだけ反省しても、過去の汚点は消えないのだろうか。
私が息を詰めるのをよそに、彼女は吟遊詩人のように朗々と続けた。
「しかもそのスマホは通話状態、録音までされていた。だが――もしもそれが、第三者によって意図的に仕組まれたものだったとしたら?」
「ッ……な、なんでそれを!?」
そうだ。
私は持ち込んでなんかいない。ちゃんと預けた。そこだけは、何度でも断言できる。
なのに、誰も信じなかった。
「私が何度訴えても、誰も聞き入れてくれなかったのに……どうして……」
焦りのにじんだ声を漏らした私に構わず、彼女はますます愉快そうに言葉を重ねる。
「そもそも、新人トレーナーの貴女がその仕事を任されたこと自体、偶然ではなかったとしたら?」
「あなたは……何を知っているの?」
私は目の前の道化を見つめた。
見たところ、まだデビュー前。体つきにも幼さが残っている。そんな子が、どうしてこんなことを口にできる?
問いに返ってきた答えは、あまりにもふざけていた。
「無論! 戯れ言にて! 道化は道化にて、すべて一夜の狂言なれば!」
「て……適当であんなこと言ったの!?」
怒りと困惑が一気にこみ上げる。
自分のトラウマそのものみたいな話を、こんなふうに弄ばれてたまるか――そう思った、次の瞬間。
「でもわかるよ。貴女が、自分の意思で不正なんてしてないってことだけは」
「えっ……」
それまでとはまるで違う、真っ直ぐな声だった。
道化じみた笑みを消した彼女は、そっと私の手のひらにトレーナーバッジを握らせる。
「私たちの世界は、どこか別の世界と運命で繋がってるの。重力みたいに、自分の意思じゃ絶対に逃れられない」
「何の話……?」
話は飛ぶし、見た目は派手だし、言っていることもわかるようでわからない。
それなのに――ただの奇人だと切り捨てられない何かが、確かにあった。
「貴女がスマホの件で中央から遠ざけられたのも運命。デビュー前の私とここで出会ったのも、きっと運命。私がオルフェさんの王政と、ロブロイさんの英雄譚に憧れてトレセンに来たのと同じように」
「あなたの……名前は?」
花壇の茂みに隠れて、道化のように飄々と振る舞うそのウマ娘。
けれど彼女の中には、確かに何かを信じる芯がある。
その名前を、私は思わず訊いていた。
「私の名前はジュウリョクピエロ。運命を嗤う道化。そして私が吟遊する物語は、金色の王政と善の英雄譚のネームバリューのみにあらず」
彼女は、そこで大きく瞳を見開いた。
濃いメイクの下でも、その瞳に宿る六つの王冠がはっきり見えた。
「私は、貴女という特別なトレーナーの物語を語る道化になりましょう」
そして、彼女は一歩だけ私との距離を詰めた。
まるで舞台の幕が上がる瞬間を告げるように、唇を吊り上げる。
「さあ、契約してくれますか?」
重力に導かれて落ちたトレーナーバッジ。
その先で出会ったのが、この道化だったのなら。
あの三年前の失墜さえ、ここへ至るための前振りだったのかもしれない。
――そんなふうに思ってしまった時点で、もう負けだったのだろう。
こうして、一度中央トレーナー資格を剥奪された私と、ジュウリョクピエロの道化物語は幕を開けた。
その先で何が語られるのかは、まだ誰も知らない。
けれど、少なくともひとつだけ確かなことがある。
この物語は、きっとただでは終わらない。
重力に導かれた先で、私は運命を嗤うピエロと出会ってしまったのだから。
ジュウリョクピエロのオークスで血統表見たり、重力ピエロの内容思い出したり、騎手さんの逸話聞いたりしてもし彼女がウマ娘だったらトレーナーとこんな感じの出会いをするのかな~と妄想して書きました。
ジュウリョクピエロの凱旋門賞への挑戦や今後の活躍を応援してます。