いつもと変わらないはずの作業室。
静かな空間に漂うのは、淹れたてのコーヒーと煙草の匂い――本来なら、それだけのはずだった。
だが今、その静けさは見る影もない。
少女の慌ただしい足音と、騒がしい声が部屋中に響いていた。
「先生! なんでこんなに暇なんですか!」
頬を膨らませながら、不満げに声を上げる少女――万津夢。
昨日、半ば強引に助手として居座ったと思えば、今日は朝からこの調子だ。
どうやら彼女の中では、比企谷精神科医院というものはもっと患者がひっきりなしに訪れる忙しい仕事だったらしい。
だが、悲しいことに現実は違う。
そもそもここを訪れるのは、よほどの物好きか、本当に悪夢に悩まされている人間だけだ。
俺は冷めた目で万津を一瞥し、コーヒーを一口飲んでから煙草を咥えた。
「万津、うるさい。……そもそも俺のところはいつもこんなもんだ。勝手に期待するな」
「えぇ……」
露骨に肩を落とす万津を横目に、俺は机に置かれたカルテへ視線を落とす。
そこにあるのは、万津夢――彼女自身の診療記録。
昨夜の一件以来、体調に大きな問題はない。悪夢も見ていないらしい。
経過としては順調だ。
だが、ひとつだけ引っかかっていた。
――ショゴスが、なぜ夢の中に現れたのか。
万津は、あの異形を現実で見たことがないと言っていた。
ならば、なぜ夢に現れた?
単なる深層心理で片づけるには、あまりにも出来すぎている。
(ナイトメア……)
脳裏に浮かぶのは、あの自称“混沌神”が語っていた言葉。
かつて存在した怪物。
一瞬、それが蘇った可能性を考える。
だが、すぐに頭を振った。
あり得ない。
ショゴスとナイトメアを同一視するには、共通点が少なすぎる。
……考えたところで答えは出ないか。
経過観察。
それしかない。
そう結論づけた、その時だった。
――チリン。
入口の扉についた鈴が、小さく鳴った。
「あっ、患者さんですか!?」
万津の顔がぱっと明るくなる。
そして次の瞬間には、ぱたぱたと足音を響かせながら作業室を飛び出していった。
……本当に落ち着きがない。
俺は煙草を灰皿に押しつけて火を消すと、白衣を羽織り、ゆっくりと診察室へ向かった。
診察室には、万津に案内された一人の青年が椅子に腰掛けていた。
年齢は二十代前半ほど。
どこか疲れたような顔をしている。
「先生、遅いですよ」
万津が頬を膨らませて抗議してくる。
「お前が慌ただしすぎるだけだ」
軽く返しながら席につき、カルテを開く。
ペンを手に取り、青年へ視線を向けた。
「さて……診察といこうか」
青年は小さく頷く。
俺は事務的に質問を始めた。
「名前は?」
「……藤崎礼司です」
「症状は?」
青年――藤崎礼司は少しだけ目を伏せ、それから静かに口を開いた。
「最近、変な夢を見るんですとてもリアルな記憶に残る」
「どんな夢だ?」
「……人が賑わってるデパートで怪物を見るんです」
「怪物?スライム見たいな?」
万津は、自身の夢に出てきたショゴスを思い出したのだろう。
何処か顔をこわばらせて狂いそうに震えている。
だが藤崎は頭を振り否定する、そんな怪物では無いと。
「何と言うか、悪魔の様な見た目で翼が生えてて顔がない怪物なんです」
「悪魔ね……それで、そいつがどうした?」
「見てるだけなんです、僕をずっと……そして時より、天窓を破ろうとしながら」
「場合によっては、マネキンに化けたりもしてました」
俺は、カルテにペン先を走らせながら、藤崎の話を頭の中で整理していた。
少なくとも、俺が直接対峙したことのある存在ではない。
ショゴスを含めても、これまで遭遇した怪異は数えるほどしかない。
それぞれ姿も性質も違う。
だからこそ、夢の中に現れる異形の正体を見極めるのは慎重にならざるを得なかった。
そんなことを考えていると、藤崎が少し言いづらそうに視線を落とした。
「……それで、その夢を見るようになってから、デパートで妙なことが起きてるんです」
「妙なこと?」
問い返すと、藤崎は小さく頷く。
「誰もいないのに、突然商品棚の物が倒れたり……」
「近くに人がいないはずなのに、扉が蹴り飛ばされたみたいに壊れたり、窓ガラスが割れたり……」
俺の手が、そこで止まった。
「……何?」
思わず漏れた声に、隣で話を聞いていた万津も反応する。
「えっ?」
万津が目を丸くして藤崎を見る。
藤崎は続けた。
「他にも、閉店後の服売り場でマネキンが一斉に倒れたこともありました。防犯カメラにも、人は映ってなかったらしいです」
部屋の空気が、わずかに冷えた気がした。
――ブラックケース。
以前、顔見知りの刑事がそう呼んでいた案件だ。
原因不明。
説明不能。
物理法則だけでは片づけられない現象。
そして決まって、その裏側には“向こう側”の気配がある。
「それって……最近テレビでやってる不思議な事件みたいですね」
万津が不安そうに呟く。
「ああ……似てるな」
俺が短く返すと、藤崎は少し躊躇いながら、それでもはっきりと言った。
「……それで、気づいたんです」
「何に?」
藤崎は唾を飲み込み、ゆっくりと言葉を続ける。
「事件が起きた場所……全部、夢の中であの怪物が立っていた場所と同じなんです」
その瞬間。
診察室の空気が、凍りついた気がした。
--------------
翌日、俺は藤崎の話にあったデパートへ足を運んでいた。
平日の昼間だというのに館内には思った以上に人が多い。
買い物袋を提げた客、談笑しながら歩く学生、ベビーカーを押す親子連れ――視界に入る人影の多さに、歩いているだけで気が滅入る。
相変わらず、人混みというのは苦手だ。
肩がぶつからないよう人の流れを避けながら、俺は目的の場所へ向かう。
藤崎が話していた現場。
服飾売り場の一角。
そのすぐ脇にある非常口。
さらに、吹き抜けに面した大きなガラス窓。
どこもすでに立入禁止になっていた。
黄色いキープアウトテープが張られ、その前には警備員が数人立って周囲を警戒している。
割れたガラスの破片こそ片付けられていたが、窓枠や扉にはまだ生々しい破損の跡が残っていた。
「……まあ、そりゃそうか」
小さく呟き、ため息をつく。
ここまで大々的に封鎖されていては、さすがに近づけない。
警備員を押しのけて調べるわけにもいかないし、仮にできたとしても余計に目立つだけだ。
俺はひとまず視線を外し、その場を離れるように踵を返す。
人通りの少ない柱の陰まで歩き――そこで足を止めた。
そして、柱の脇に身を潜めている“小さな影”へ、無言のまま視線を向ける。
こちらの視線に気づいた少女が、ぴくりと肩を震わせた。
柱の陰から半分だけ顔を覗かせているのは、見慣れた顔。
万津夢だった。
俺は、冷ややかな目をそのまま向ける。
「……何してる」
すると万津は気まずそうに笑って、柱の陰からひょこっと姿を現した。
「い、いや~……き、奇遇ですね~」
万津は額に冷や汗を浮かべながら、視線を泳がせて引きつった笑みを浮かべた。
……どう見ても偶然じゃない。
バレバレの嘘に、俺は無言のまま万津の頭を片手で掴む。
「へ?」
そのまま、ゆっくりと力を込める。
「いだだだだだっ!?」
万津が慌てて両手で俺の手首を掴むが、もちろん逃がさない。
まったく、この馬鹿バイトは。
昨日雇ったばかりだというのに、もう勝手についてくるとは何を考えているんだか。
俺は小さくため息をついて手を離した。
解放された万津は、慌てて自分の頭を両手で撫で回しながら確認する。
「いったぁ~……! 先生! 暴行ですよ、暴行!」
涙目で抗議してくる。
俺は呆れながら言い返した。
「教育だろ、これは」
「暴力先生!」
「だ・れ・が暴力先生だ」
「先生です!」
「違う」
「今やりました!」
「指導だ」
「絶対違いますって!」
万津は頭を押さえたまま、じとっとした目でこちらを睨んでくる。
俺はそれを無視して、封鎖された現場へ視線を戻した。
「で、なんでついてきた」
その一言に、万津はぴたりと動きを止めた。
万津は気まずそうに視線を左右へ泳がせている。
……図星らしい。
おそらく理由は単純だ。
好奇心。
昨日、自分が悪夢から救われたばかりだ。
その延長で、今回の件も気になってついてきた――そんなところだろう。
気持ちは分からなくもない。
だが、これは遊びじゃない。
一歩間違えれば、取り返しのつかないことになる。
さて、どう説教したものか――そう口を開きかけた、その時だった。
「よう、先生」
背後から、聞き覚えのある低い声が飛んできた。
俺は眉をひそめながら振り返る。
そこに立っていたのは、くたびれたトレンチコートを羽織った男。
公安所属――そして“ブラックケース”を執拗に追い続けている刑事、
富士見だった。
「……富士見さん」
「久しぶりだな、先生」
富士見は俺の姿を認めるなり、どこか嬉しそうな、同志でも見つけたかのような目を向けながら歩み寄ってくる。
相変わらず癖の強い男だ。
ブラックケース。
夢の中で起きた現象が、現実へ侵食するように反映される不可解な事件。
常識では説明できない、超常そのものの案件。
そして富士見は、それを警察という立場から追い続けている。
「今回もブラックケースだ」
富士見は興奮気味に言葉を続ける。
「突然倒れるマネキン。破壊された非常口。そして、前触れもなく割れた窓ガラス――」
「……だろうな」
俺は短く返す。
富士見は俺の反応を見て、さらに口元を吊り上げた。
「先生、あんたがここにいるってことは……知ってるんだろ?」
「……何を」
「このブラックケースの原因をだよ」
問いかけというより、ほとんど確信だった。
俺は小さく息を吐く。
「富士見さん」
そして、真正面から彼を見る。
「何度も言うが……俺は精神科医だ」
富士見の目が細まる。
「医者の端くれとして、守秘義務ってものがある」
言葉を切り、さらに続ける。
「患者から聞いたことを、そう簡単に外へ漏らすわけにはいかない」
俺は静かに、だがはっきりと富士見を見据えた。
鋭く。
牽制するように。
富士見のことが嫌いなわけじゃない。
むしろ、この手の異常事態を頭ごなしに否定せず向き合う珍しい人間だと思っている。
だが、それとこれとは別だ。
俺には守るべきものがある。
患者の秘密も、心も、そして――夢の向こう側で戦う理由も。
それだけの話だった。
「……悪かった」
富士見は、観念したように肩をすくめた。
「分かりゃいいんだよ」
俺は短く返す。
……とはいえ、こちらも借りを作ったままというのは気持ちが悪い。
守秘義務に触れない範囲で、後で何か情報を流すくらいはしてやってもいいか――そんなことを考える。
隣では万津が、会話についていけていない様子で、俺と富士見の顔を交互に見比べていた。
「そういや」
富士見が、ふと思い出したように万津へ視線を向ける。
「その嬢ちゃん、先生の助手か?」
すると万津は待ってましたと言わんばかりに一歩前へ出た。
「はい! 私、万津夢って言います! 先生の助手してます!」
「嘘をつくな」
間髪入れず、俺は懐からハリセンを取り出して万津の頭へ叩き込む。
パシン、と乾いた音が響いた。
「いたっ!?」
「富士見さん、こいつはただのバイトだ。助手なんかじゃない」
「ひどいです先生!」
頭を押さえながら抗議する万津。
そんな俺たちのやり取りを見て、富士見は腹を抱えて笑っていた。
「はははっ……いや、悪い悪い。先生にもこんな賑やかなのが付くんだな」
(……富士見さん、後で覚えてろ)
俺は心の中だけで呟き、ため息をつく。
そこで、ふと思い出した。
聞いておくべきことがあった。
「そういえば富士見さん」
「ん?」
「ここ数日で起きたブラックケース……その現場で何か変わったことはなかったか?」
「変わったこと?」
「トラブルでもいい。目撃証言でもいい。何か引っかかるものだ」
富士見の表情が少し真面目になる。
「ああ……」
そう言って、トレンチコートの内ポケットから使い込まれたメモ帳を取り出した。
ページをめくる。
聞き込みの記録。
被害報告。
現場検証メモ。
いくつか視線を走らせたあと、富士見の指がぴたりと止まった。
「……あったな」
そのページをこちらへ向けて差し出してくる。
「つい数週間前だ。現場付近で、お前と同じくらいの年齢の女が学生を逆ナンしてたって証言がある」
「逆ナン?」
「しかも妙な話でな」
富士見は眉を寄せながら続ける。
「その女が――」
一拍置く。
「今、国民的政治家として名前の知れてる雪ノ下家の娘に似てたらしい」
その名前を聞いた瞬間。
俺の思考が、一瞬だけ止まった。
「……雪ノ下家の娘」
口の中で、その名を反芻する。
聞き覚えのある名前だった。
……いや、聞き覚えどころじゃない。
忘れるはずもない。
脳裏に、学生時代の記憶が不意によみがえる。
放課後の教室。
雪のように静かな横顔。
冷たい声。
そして、ときおり見せた――あの、わずかな笑み。
「先生?」
万津の声で、意識が現実へ引き戻される。
俺はすぐに表情を戻し、小さく息を吐いた。
……まさか。
そんなわけがない。
あり得ない。
そう自分に言い聞かせるように、記憶を頭の隅へ押しやった。
「藤崎が、雪ノ下姉か部長様か分からんが逆ナンされてから始まった?」
記憶の隅に推しやろうとも思考は回ったら止まらない。
俺は、1人思考を重ねる。
どんな矛盾点でもいい探せと言わんばかりに。
だが、雪ノ下家の人間が関わったとは言え悪夢を見せる方法なんて無いはず。
「分からないか……まあ、夢に潜れば何かわかるだろ」
俺は、誰にも聞こえない様にそう呟くのだった。
---------------------
深夜。
俺は夢の世界にいた。
目の前に広がるのは、見慣れた作業室。
壁の色も、古びた机も、棚に並んだカルテも、現実にある俺の作業室と寸分違わない。
……ただ一つ。
この部屋の中央に、現実には存在しないものが置かれていることを除けば。
そこにあるのは、一台のガシャポンマシーンだった。
場違いなほどチープな見た目なのに、この夢の世界では妙に馴染んで見える。
俺はその前に立ち、透明なカバーの奥で揺れるカプセルを見つめた。
「……なんで先代は、ガシャポンマシーンなんかにしたんだか」
思わず独り言が漏れる。
結局、その理由を聞けないままだった。
俺は小さくため息をつき、ハンドルを回す。
ガコン。
重たい音と共に、カプセルが一つ転がり落ちる。
もう一度回す。
ガコン。
排出口に転がってきた二つのカプセルを拾い上げた。
片方はオレンジ色。
もう片方は淡いピンク色。
俺はそれを手のひらの上で転がしながら確認する。
続いて、白衣の内ポケットから一台のスマートフォンを取り出した。
普通のスマホではない。
角ばったフレームに、機械的なロック機構がついた特殊な端末。
俺が夢へ潜るために使う装置の一つだ。
上部をスライドさせて展開し、カプセルを装填する。
直後、青白い光が走った。
空中に半透明のディスプレイが浮かび上がる。
そこには、装填されたカプセルの情報が映し出されていた。
⸻
TRANS
変形の力
WING
飛行の力
⸻
「変形の力《トランス》……飛行の力《ウィング》か」
ディスプレイを見ながら、小さく呟く。
「……今回の件じゃ、使うのはこっちだな」
俺はピンクの《WING》カプセムを指先で軽く弾き、懐へしまう。
残る《TRANS》、そしてメインとなる《IMPACT》カプセムも同じようにポケットへ収めた。
それから、胸元へ手を伸ばす。
「――mission start」
低く呟きながら、ベルトを胸へ巻く。
金属音とともに固定される感覚が伝わる。
準備は整った。
俺は部屋の奥へ歩き、仕切られていたカーテンへ手をかける。
そして、一気に開いた。
そこにあったのは、一台のバイク。
白い装甲に走る赤いライン。
コードゼロイダー。
夢界を駆け抜けるための、俺の相棒だった。
俺は跨がり、グリップを握る。
エンジンに火を入れた瞬間、低い駆動音が静かな部屋へ響いた。
ブォン――と唸るような音。
視線の先には、開かれた扉。
その向こうにあるのは、壁ではない。
まるで水面のように揺らめく、夢と夢の境界。
俺はアクセルを捻った。
コードゼロイダーが一気に加速する。
風が白衣をはためかせる。
そしてそのまま――
揺れる水面のような壁を突き抜け、俺は夜の夢の世界へ飛び込んだ。
--------------
デパートの正面入口に到着すると、俺はコードゼロイダーから降りた。
エンジン音が止んだ瞬間、辺りは不気味な静寂に包まれる。
自動ドアは音もなく開いた。
俺はそのまま館内へ足を踏み入れる。
そこに広がっていたのは――無人のデパートだった。
昼間なら買い物客で賑わっているはずの館内。
だが今は、人の気配が一切ない。
流れているはずの館内BGMもなく、聞こえるのは自分の靴音だけ。
照明だけが妙に明るくフロアを照らしているせいで、その無人さが余計に際立っていた。
「……人気のデパートも、無人だと雰囲気変わるな」
誰に言うでもなく呟く。
吹き抜けを抜ける冷たい空気の中、俺は足を止めて天窓を見上げた。
そこにいた。
藤崎が話していた“怪物”。
巨大な影が、ガラス張りの天窓に張りつくようにしてこちらを見下ろしている。
だが確かにそこにいた。
……にもかかわらず、動かない。
襲ってくるでもなく。
こちらへ降りてくるでもなく。
ただ、じっと見下ろしているだけ。
「……なんだ」
あまりに不自然だった。
まるで監視しているようにも見える。
不気味さに眉をひそめながら、俺はブラックケースの現場へ向かおうと歩き出す。
その途中だった。
視界の端に、人影が映った。
「……は?」
思わず足が止まる。
売り場の一角。
催事スペースの前で、一人の少女が看板を持って立っていた。
満面の笑みで通路へ身体を向け、誰かを呼び込むように手を振っている。
見覚えがある。
というより、見間違えるはずがない。
万津夢だった。
「……あり得ない」
思わず口から漏れる。
他人の夢へ入り込むには条件がある。
限られた施設で、特殊な明晰夢の技術を習得した人間でなければ不可能。
だからこそ、俺はここにいる。
だが万津は違う。
ただの一般人だ。
そんな彼女が、なぜ藤崎の夢の中にいる?
分からない。
それ以上に――様子がおかしかった。
万津は誰もいない空間へ笑顔を向け、看板を掲げ、声をかけている。
まるで、そこに大勢の客がいるかのように。
だが現実には。
このフロアにいるのは、俺と万津だけだ。
「万津!」
俺は大声で呼ぶ。
万津が、はっと顔を上げた。
そして俺の姿を見つけると、何かを避けるように身体を左右へ動かしながら駆け寄ってきた。
誰もいないはずの通路を、人混みを縫うように。
「先生! ようやく見つけました!」
息を切らせながら、万津が叫ぶ。
「全くもう、人が多いんですから見失うかと思いましたよ!」
……やはり。
万津には見えている。
この無人のデパートが、“客で溢れている場所”として。
俺は口を閉ざす。
ここで「誰もいない」と言っても、おそらく信じない。
そう判断した、その瞬間だった。
――バコン!!
フロアの奥から、激しい破砕音が響いた。
続いて、悲鳴。
俺の表情が変わる。
「っ!」
床を蹴ると同時に、懐から《インパクトカプセム》を取り出した。
ゼッツドライバーへ装填。
起動。
ベルトが唸る。
『インパクト!』
俺は走りながら叫ぶ。
「変身!」
仮面ライダーゼッツへ変身した俺は、そのまま脚力だけで高く跳躍した。
吹き抜けを一気に飛び越える。
悲鳴の聞こえたフロアへ着地する。
そして、視界に飛び込んできたのは――
10体の怪物に囲まれ、逃げ場を失った藤崎礼司の姿だった。
俺は、怪物を一体殴り飛ばすと藤崎を見る。
藤崎は、先ほどの衝撃で気絶しているようだった。
「数が多いな……なら、これを試すか」
俺は懐から《トランス》のカプセムを取り出した。
それをゼッツドライバーへ装填し、ボタンを押して認証させる。
『トランスフォーム!』
『メツァメロ! メツァメロ!』
音声と共に、俺は左手の親指でドライバーのカプセムをなぞるように回転させる。
『グッドモーニング! ライダー!』
『ゼ・ゼ・ゼッツ!』
『トランスフォーム!』
瞬間、装甲が再構築される。
基本のシルエットはインパクトフォームと大きく変わらない。
だが、エネルギーが手足へ集中しているのが分かる。
両腕と両脚に追加装甲が展開され、関節部から淡い光が脈打つ。
それが――トランスフォーム。
「……なるほど」
想像以上に扱いやすい。
俺はすぐさま左腕を伸ばした。
伸縮した腕が一気に届き、怪物に囲まれていた藤崎の身体を掴む。
そのままワイヤーのように腕をしならせ、一階へゆっくりと降ろした。
同時に右手の指を大きく広げる。
五本の指が細長く伸び、互いに絡み合いながら巨大な網へ変化する。
そのまま怪物たちへ投げ放つ。
網は空中で広がり、群がっていた怪物たちをまとめて拘束した。
「よし――」
そう思った次の瞬間だった。
ズキッ――と指先に鋭い痛みが走る。
「っ……!」
負荷に耐えきれず、右手の網がほどけた。
拘束を解かれた怪物たちが一斉に飛び散る。
次の瞬間には、空中を高速で旋回しながら俺へ襲いかかってきた。
一体。
二体。
三体。
四方から、正確に。
拳、爪、体当たり。
連携に迷いがない。
腕を伸ばして迎撃しようとするが、攻撃のテンポが速い。
わずかに押される。
「ちっ……!」
それでも退かない。
俺は右足へエネルギーを集中させた。
装甲の隙間から鋭い棘が突き出す。
そのまま迫ってきた怪物へ蹴りを叩き込む。
衝撃。
空中で怪物の身体が弾け飛ぶ。
続けざまに反転し、もう二体へ蹴りを叩き込む。
三体撃破。
だが、まだ多い。
それでも数が減ったことで、怪物たちの連携がわずかに崩れた。
攻撃を受ける回数は変わらない。
だが、その隙にこちらも反撃を差し込める。
ようやく流れがこちらへ傾き始める。
「全く……めんどくせぇ!」
吐き捨てるように言いながら、俺は再び腕を伸ばした。
--------------
何が起きているのか、私にはまるで分からなかった。
先生が変身した――と思った次の瞬間。
その姿が消えた。
そしてその直後、藤崎さんが四階からふわりと一階へ降りてきたのだ。
まるで、見えない誰かに支えられているみたいに。
「な、何が起きてるの!? 先生もいないし……!」
私は混乱したまま辺りを見回す。
だけど先生の姿はどこにもない。
その時だった。
ふいに、肩へ手が置かれる。
「――っ」
振り返る。
そこにいたのは、一人の女性だった。
息を呑むほど綺麗な人だった。
整った顔立ち。
静かな微笑み。
なのに――その瞳を見た瞬間、ぞっとした。
まるで底の見えない深淵を覗き込んだような感覚。
背筋が凍る。
女性は私を見つめながら、静かに口を開いた。
「夢とは、夢主の深層心理」
その声は、優しくて。
なのに妙に耳へ残る。
「夢とは、現実世界で叶わぬ願いの隠れ家」
まるで独り言のように。
それでいて、わざと聞かせるように。
「心の扉が開いた時――悪夢は始まる」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「……かつて、そう言った人がいたらしいよ」
揶揄うようでもあり。
何か大切な真実を告げるようでもある声音。
次の瞬間。
彼女の足元から、紫色の蝶が舞い上がった。
無数の蝶がフロアへ広がっていく。
そして――景色が変わった。
さっきまで賑わっていたはずのデパート。
人で溢れていた空間。
それが一瞬で塗り替わる。
人の姿は消えた。
照明は明滅し。
壁は、怪物の暴れた跡が残っている。
四階の方から怪物の悲鳴が聞こえる。
何かが壁へ叩きつけられる音。
扉が砕ける音。
戦っている。
誰かが、上で。
でも――もう人の声はしない。
響くのは怪物の鳴き声と破壊音だけ。
「え……なんで……?」
状況が理解できない。
頭が追いつかない。
「え……?」
その時だった。
どこからか――カラコロ、と。
何かが転がるような音が聞こえた。
小さな音。
だけど妙に耳へ残る。
それを聞いているうちに、不思議と呼吸が落ち着いていく。
混乱していた思考が、少しずつ静まっていく。
私は恐る恐る辺りを見渡した。
さっきまでそこにいたはずの女性の姿は、もうない。
代わりに。
視線の先にいたのは――
ボロボロになったベンチの上へ横たわる、藤崎さんだけだった。
--------------
俺はなんとか怪物の半数を撃破していた。
だが、残った連中は一筋縄ではいかない。
怪物たちは一斉に高度を下げたかと思うと、崩れた床や瓦礫の山から岩塊を拾い上げる。
そして再び急上昇。
次の瞬間、俺目掛けて投げつけてきた。
「ちっ!」
俺は飛来する岩を避ける。
避けきれないものは拳で砕く。
砕けた破片が周囲へ飛び散る。
だが数が多い。
腕を伸ばして捕まえようとしても、その前に怪物たちが進路を変えて回避してしまう。
このフォームでは速度が足りない。
俺は一度、物陰へ飛び込んだ。
息を整える。
下には藤崎と万津がいる。
逃がすわけにはいかない。
なら――ここで片付けるしかない。
俺は懐へ手を伸ばした。
取り出したのは、もう一つのカプセム。
《ウィングカプセム》。
「これを使うか」
俺はゼッツドライバーへ装填する。
認証。
起動。
『ウィング!』
『メツァメロ! メツァメロ!』
俺は左手の親指でドライバーのカプセムをなぞるように回転させた。
直後。
『グッドモーニング! ライダー!』
『ゼッツ! ゼッツ! ゼッツ!』
『ウィング!』
全身の装甲が再構築される。
シルエット自体はフィジカムインパクトと大差ない。
だが背中から莫大なエネルギーが噴き出した。
真紅の光が収束し、巨大な翼へ変貌する。
翼竜を思わせる鋭いフォルム。
飛行特化装備――《レムウイング》。
仮面ライダーゼッツ・ウィングフォーム。
「なるほどな」
レムウィングを握り軽く動かす。
空気の流れが手に取るように分かる。
俺は両翼を大きく広げた。
次の瞬間。
轟音と共に空へ飛び出す。
視界が流れる。
怪物たちと並走できるほどの速度。
いや、それ以上だ。
俺は翼を巧みに操作しながら怪物の群れへ飛び込む。
一体。
二体。
三体。
空中で次々と翼で攻撃を叩き込む。
怪物たちも負けじと岩を投げつけてくる。
「おっと、危ねぇ!」
俺は身体を捻って回避する。
避けきれない岩は蹴り返す。
だが下には藤崎と万津がいる。
地上へ落とすわけにはいかない。
俺は角度を計算しながら空中で岩を弾き飛ばした。
ふと下を見る。
一階フロア。
そこには万津の姿があった。
彼女は何かを探すように空を見上げている。
その隣には、ベンチへ横たわる藤崎。
「……」
見えているのか。
俺の姿が。
あるいは戦闘そのものが。
普通ならあり得ない。
だが今は考えている場合じゃない。
俺はさらに高度を上げる。
怪物たちを地上から引き離す。
そして大声で叫んだ。
「万津! そこから離れてろ!」
声が届いたのだろう。
万津ははっとしたように顔を上げる。
そのまま藤崎の腕を引っ張り、一階の階段下へ避難していった。
それを確認して、俺は小さく息を吐く。
「やっぱり見えてるか……」
あり得ない。
なぜ見える。
なぜ夢の中にいる。
疑問は増える一方だった。
だが今は後回しだ。
俺は翼を広げ、一気に上昇する。
そして――天窓へ向かって加速した。
ガシャァァン!!
巨大なガラスが砕け散る。
俺はそのまま天窓を突き破り、外へ飛び出した。
ついでに、そこへ張り付いていた怪物へ拳を叩き込む。
鈍い衝撃音。
怪物の巨体が吹き飛び、屋上へ転がった。
俺も続いて着地する。
夜風が吹き抜ける。
だが休む暇はない。
追ってきた怪物たちが次々と屋上へ現れる。
包囲。
完全な数の暴力。
怪物たちは空中を旋回しながら俺を見下ろしていた。
――だが。
俺はそこで違和感に気づく。
「……?」
怪物たちの動きがおかしい。
彼らは俺を囲んでいる。
なのに。
どの個体も、先ほど天窓に張り付いていた怪物へ近づこうとしない。
避けている。
まるでそこだけ見えない壁があるかのように。
いや――もっと単純だ。
恐れている。
怪物たちは、明らかにその一体を避けるように飛行していた。
(どう言う事だ?)
俺は、てっきり仲間と同じと思っていたが何か違うようだ。
そんな事を考えながらも、警戒の姿勢を崩すことは無い。
そして、空を飛ぶ怪物の一体が俺に攻撃を仕掛けてくるが俺が天窓に張り付いてた怪物の方に避けるとその怪物は急上昇し始める。
怪物に近づきたく無いのか。
「やっぱり別種か……?」
俺は逃げていく怪物たちと、天窓からこちらを見下ろしていた怪物を交互に見比べる。
見た目は酷似している。
だが、行動が違う。
明らかに違う。
「なら、なんで同じ姿をしてやがる……」
小さく吐き捨てながら、俺は翼を構えた。
次の瞬間。
俺は空中へ飛び出した。
怪物が一体、こちらへ突っ込んでくる。
俺は身体を半回転させ、その勢いのまま翼を横薙ぎに振るった。
ズバァッ――!!
鋭い斬撃音が夜空へ響く。
怪物の翼が切り裂かれた。
悲鳴。
バランスを失った怪物が屋上へ墜落する。
黒い体液が飛び散り、装甲へ降りかかる。
だが気にする必要はない。
夢の中で付着した程度の汚れだ。
問題は別にある。
俺は周囲を見渡した。
「残り三体――」
そう思った瞬間だった。
怪物たちが一斉に進路を変える。
こちらへ向かうのではなく。
空の彼方へ。
まるで何かから逃げるように。
「は?」
思わず声が漏れる。
俺を倒すために群れていたはずの怪物たちが、突然戦意を失ったように逃走を始めたのだ。
俺は翼を広げる。
追撃しようとした、その瞬間――ゾクリ。
全身を悪寒が貫いた。
本能が警鐘を鳴らす。
今までの怪物たちとは比較にならない。
圧倒的な何か。
言葉にできないプレッシャーが空気そのものを重くする。
「――っ!」
考えるより先に身体が動いた。
俺は反射的に飛び退く。
プレッシャーが飛んできた方向とは逆側へ。
その判断は正しかった。
俺がいた場所を、目に見えない何かが通り過ぎる。
空気が歪む。
屋上の床が音もなくひび割れた。
「なんだ今の……」
俺はゆっくりと顔を上げる。
そして――見た。
そこにいた。
ずっと天窓から見下ろしていた怪物。
いつの間に移動したのか。
屋上の給水塔の上に立ち、じっとこちらを見つめている。
動かない。
威嚇もしない。
叫びもしない。
ただ見ている。
それだけなのに。
今まで倒してきた怪物とは比べものにならない存在感があった。
夜風が吹く。
怪物の身体を撫でるように風が流れる。
それでも奴は微動だにしない。
まるで最初からそこにいたかのように。
「……なるほどな」
俺はゆっくりと拳を握った。
背中を汗が伝う。
「お前が本命か」
怪物は答えない。
だが、その沈黙こそが何よりの答えだった。