ざらざらって、雨粒が傘に当たる。傘の輪郭がはっきりしたみたいに感じた。
雨の日は日差しが隠れて、気分もちょっと落ち込む、のが普通の人間かも。でも、私はこの音を聞くと、不思議と落ち着く。
立ち止まって水たまりを見ると、ぼんやりとした曇り空と、私の顔が映る。雨粒が水面を揺らすと、空と私の境目をぐるぐる混ぜ合わせて、私の顔じゃないみたい。
目をそらして、また歩き出した。
「あめあめふれふれかあさんが~」
足をつく度に水たまりが跳ねて足元を濡らす。そのへんの軟弱ものならきっと恐る恐る歩くんだ。でも私は違う。
「じゃのめでおむかえうれしいな~」
私は傘の妖怪。雨の日こそ楽しまなきゃ。
「ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん……あれ」
木の下に人影が見える。こんな雨の日なのに、空を見上げてじっと動かない。傘もささずに。
どんな顔をしてるかは見えない。
あの子も雨を楽しんでいるのか、それとも雨に降られて途方にくれてるのか。
傘の柄を握り直す。
ただ駆け寄って傘を差し出す、っていうのは、なんていうか、味気ない。せっかくの雨で、せっかくの出番なんだもん。もっとこう、ぱあって、相手の顔が変わる瞬間が見たい。
木の死角に入って、そのまま浮きあがって、空から枝の上にそっと着地する。女の子はピクリとも動かない。
大丈夫、いつもどおりやればいいだけ。
相手はまだ上を見上げて気づいてない。このまま飛び出て、驚かせてやるんだ。どんな顔をしてくれるかな。
「ばあ! って、あれ」
さっきまで真下に居たはずの女の子はどこにも居ない。
「どこに……ひゃん!」
背後からがさりという音がしたと思ったら、首筋に冷たいものを感じた。びっくりして、飛び退いて振り返ったら、そこにさっきの女の子が居た。にやにや笑ってる。
「なんだ、どこのどいつかと思ったら。同類かよー」
同類、そう聞いて一瞬気持ちが舞い上がりそうになったけど、そんなわけない。よく見たら、背中から赤と青の3対の羽が生えてる。きっと妖怪って意味だ。
女の子は、品定めするみたいに、私の足元から目線を上に走らせる。
「で、なんの用?」
そのまま目が合った。
わちきは……って名乗ろうと思ったのに、でてきたのは息だけ。
目に、食べられそう。彼女は私を見ている。傘じゃなくて、私の方を。
ちゃんと傘を握れているかわからない。心臓の鼓動だけが感じられる。
「えっと、えっと……か、傘はいりませんか」
風が、顔から背中まで通り抜ける。さっきより、ずっと寒い。
いつの間にか、汗をかいていたみたい。
手元に目を落としたら、傘の柄を握る手が白くなってた。
彼女の目が、私の顔から傘へ、それから空へ動いた。
怪訝そうな顔をして、もう一度私の顔をじっと見た。
反射でつい、ごめんなさいって言いそうになったとき、彼女が口を開いた。
「いやいらないけど」
「あうぅ……」
悲しいけれど、当たり前だって思った。私だってそう返すもん。
でも、彼女は私が声をかけるまで、じっと曇り空を見ていた。だからもしかしたらって。もう一度声をかける。
「ど、どうしても? ほら、あなた濡れてるよ?それに、だんだん雨も強くなってきたし……」
「えー、べつに空を飛べばすぐだし。それにちょっと濡れたくらい私は……」
彼女の声は雨音でかき消された。大丈夫、慣れてるもん。
水たまりが笑ってる。
今回もたまたま、傘を必要としてなかっただけ。
「……わかりました。急にごめんなさい」
「あー、ちょっと待て」
まだなにかあるんだろうか。恐る恐る振り返ると、頬をぽりぽりと掻いて、困ったような面倒くさいような顔で、私の手元の方を見ていた。
「さっきの嘘。本当は困ってたのよ。人里まで頼もうかな」
「ほんと!? あっ」
ひょい、と手から抜け落ちた傘の柄を女の子が掴む。だけど、返すわけじゃなくて、傘と私を見比べて、そのまま広げて傘をさした。私は困ってしまって、どうすればいいか迷っていると、彼女は手招きをしてくれた。
「あんたはちょっと小さいからさ。私がささないと一緒に入れないでしょ?」
「あ、はい!」
隣に入ると、そのまま歩きだす。雨粒が傘に当たる音と、水たまりを踏んで水滴が跳ねる音だけがしばらく続いた。私は意を決して、顔を上げて少し見上げた。彼女はまっすぐ道の先だけを見ていた。それから、傘を握る彼女の手を見た。手を思いっきり開くと、じんわり血が通う感覚がする。久しぶりに、両手が軽い。
「あんた、名前は?」
もう一度目が合った。
「えっと、私の名前は多々良小傘って言います」
「私は封獣ぬえ」
彼女はそれ以上会話を続けることなく、ただ歩き続ける。何か言わなきゃ、って思っても、何を聞いたら良いかわからない。あなたはなんの妖怪?とか、好きな食べ物は?とか。でも、どれも口からは出てこない。
「小傘はさ、いつもこんなことしてるの?」
「えっと、こんなって?」
「いや、傘配ったりさ」
「あー、まあ……うん」
「へえー」
彼女は、それ以上聞いたりはしてこない。変だねとかなんでとか言われると思ったのに。
「あ、あの。今日はお昼まであんなに晴れてたのに、急に雨が降っちゃって、私も慌てちゃった。えっと、ぬえちゃんは、あそこで何してたの?」
「木の上でお昼寝してた。あ、でもほんとはお昼寝したくて木の上にいたわけじゃないんだよね。誰かを驚かそうとしてさー。待ってたんだけど、いつの間にか寝ちゃってた」
雨が降らなきゃもう少し寝られたのになーって、ぬえちゃんは笑ってる。
「しっかりしてそうなのに。ふふ、意外」
「あったかい日は特にねー」
ぬえちゃんは、あっけらかんと言ってみせた。自分の失敗をなんとも思ってないみたい。
「ねえ、小傘、それ歩きづらいからやめてほしいんだけど」
「え?」
私はその声で、水たまりの上で片足立ちで止まった。
「水たまり、わざと踏んでるでしょ」
「あっ……つい」
「ふっ」
鼻で笑われた。仕方ないじゃない。雨の日は、こうしないともったいないんだもん。
言われてやめるのも何か癪だったから、あんまり逸れないようにして、続けた。
「ぬえちゃんこそ、せっかくの雨なのにもったいないよ。意外と楽しいんだよ?」
両手を伸ばして、片足立ちでそう主張したら、また笑われた。私は真面目に言ってるのに。
「ごめんごめん、そう膨れないでよ。傘の妖怪が雨が大好きって、見た目通りだね」
ぬえちゃんに怒るフリをして、ほんとはほっとしていた。
傘の柄を握ろうとして、いまは自分の手にないことに気づいた。
手をグーパーしていたら、ぬえちゃんに見られていて、慌てて後ろに隠した。
「ぬえちゃんは、なんの妖怪なの」
彼女は目線を私から外して、頬に手を当ててうーんと悩んでる。
「なんの妖怪だと思う?」
にやりと笑って問いかけてきた。きっと当てられないからって、私をからかってるのだ。
なんだか無性にこの顔を崩してやりたくなってきた。さっきは負けたけれど、こんどはそうはいかない。
「……チュパカブラ」
にやり笑いを準備してたぬえちゃんの顔が、その形のまま固まった。
「あー違うんだ。じゃあモスマン」
「ちょっと、それ妖怪じゃないでしょ」
「妖怪みたいなもんじゃん」
「いやUMAだろ……」
ぬえちゃんはわざとらしくため息をついた。でも口の端は上がってる。
「ヒントちょうだい」
「ヒントねえ……じゃあ動物ではない」
「それだいぶ絞れちゃうけど」
「あれ、そうかな」
頬をぽりぽり掻いた。
あ、と思った。
「困ったときに頬をかく妖怪」
「は?」
「さっきも傘渡したとき、頬かいてたもん。ぬえちゃんって困ったら頬をかく癖あるでしょ」
「……あー、なるほどね」
そう言ってまた頬をかいてる。
「ほらまた」
「……あー、はいはい。お前当てる気ないだろ。もういいや」
そのままぷいっと正面を向き直した。無性に達成感が湧き出てきた。勝った。してやられてばかりじゃない。
「ふふ」
つい笑いが漏れちゃった。それを聞いてぬえちゃんは、居心地が悪そうに舌打ちしてる。
その正体もいつか当ててやるんだから。いつか。
「ほら、もう門の近くだよ」
「……ほんとだ」
そんなに離れてない場所だったけど、それでもあっという間だった。
「ここまででいいよ」
「あっ」
そう言うと、傘を私に渡して、歩いて行ってしまう。
手を伸ばして一歩踏み出すけど、なにも出てこない。
せめて、別れの言葉だけでもって思ったのに、たった三文字が言えない。
だってぬえちゃんはあっさり行ってしまった。本当に「また」があるのか、わからなかった。
傘の柄をぎゅっと握ってた。さっきまでぬえちゃんが握っていた場所。
ざらざら。ずっと聞こえてなかった雨音が、また聞こえる。
ただ、歩く彼女の背中を眺めることしかできない。
でも、やっぱり、お友だちになりたい。
「わぷっ」
走って追おうとしたら、いつの間にかまたぬえちゃんが目の前に居た。
「私、だいたいあそこで昼寝してるから」
じゃあ、ってそれだけ言って今度は飛び去ってしまった。
「あっ、またね」
ぬえちゃんは振り向かなかった。でも、片手だけ上げてくれていた。
いっぱい言いたいことはあった。言えなかった。
ぎゅって傘を握り直した。
ざらざら。
片足で水たまりを踏んだ。